08:黒の仲介屋-ファースト・コンタクト-
「――は? 何で、大宝寺がお前のテスト持ってんだよ」
午後のからの授業はなく、昼休みの後、掃除を済ませた加羅都度高校の生徒たちは、最後のホームルームを終えるとすぐ、次々と帰路に着いていた。
直と亮太もまた、紺色制服を着た蟻の子たちがわらわらと群がる校門をひと足早く抜けだすと、半日とはいえ窮屈な学校生活を終えた開放感からか、まるで憑き物が落ちたような軽やかな表情で表の通りを歩いている。
遅刻というものが存在しない放課後は、登校時よりも更に2人の歩行スピードを緩やかにさせていた。
昨晩話題にのぼった近所の新しいライバル中華店のことや、今晩のテレビ番組、今日、学校であった出来ごとを話しながら。そして話題は、昼休みに摩利夜から渡された直の答案用紙へと移っていた。
「う~ん。昨日どっかでテストをなくしたのは確かなんだけど、学校を出た時はまだ持ってたはずなんだけどなぁ」
「そうだよなぁ。昨日……それも丁度この辺りか。帰りながらテストの話してたしな」
亮太からの問いに呻りながら灰色の空を見上げては、次いで鮮やかな柿色のタイルで舗装された歩道を見下ろす。歩きながらその動作を繰り返す直は、懸命に引き伸ばしたグシャグシャの答案用紙を、まるで卒業証書受用の時のように真っ直ぐ両腕を伸ばしたまま、仕舞にはくるくると器用に回転歩行を始める。
そんな直に「通行人の邪魔だから回るなよ」と一言だけ注意し、亮太もまた頭を悩ませていた。
『なぜ摩利夜が直のテストを持っていたのか?』に始まったこの議題は、数々の推測を経て『2人の接点が学校しかないため、きっと学校で落としたテストを偶然、摩利夜が拾ってくれたのだ』と結論付いたのだが……やはり違うのだろうか。自分も言った通り、昨日、学校を出た時は間違いなく直はまだテストを手に持っていたはずなのだ。
昨日の今頃、時刻は午後の2時を少し回った頃だったと思う。学校のある中央区から西区へと渡る大通りの交差点まであと少しのこの通りを、返却された直のほぼ赤点テストを片手に歩いていたことを亮太はよく覚えていた。
そしてその後、定期の更新のため西区へは渡らず、中央交差点を直角に折れると真っ直ぐ加羅都度駅に向かい。用事を済ませ駅ビル内で抹茶アイスを頬張りながら例の音楽室の怪談について話していた時……何か水のようなものに足を滑らせた直が突然すっ転んだんだっけ。――あ。
「そういやお前、あの時、何かプリントみたいなもの撒き散らしてなかったっけ?」
「? あの時って?」
その後のビックリ展開のせいですっかり失念してたが。あの時……確か、手に持った抹茶アイスが飛び、同時に何枚かのプリント用紙もカバンの外へ放りだされていたはずだ。ひょっとしたらあれが答案用紙だったのかもしれない。
……いや待てよ? でも、それを拾ってくれたのは、確か――。
「あぁあああああ、李央ちゃん!!」
「そうそう、確かその李央ちゃんって子が拾ってくれて…………って、あれ?」
ピンポーン♪ と、思わず正解チャイムを鳴らしたくなるほどベストなタイミングで答えを叫ぶ直に、亮太はポンと手を打ち隣を見るも、いつの間にかそこに直の姿はなく。慌てて周囲を探せば意外とすぐ近くでその姿を発見した。
後姿だが、亮太の右やや前方にのっそりと立つ古びた電信柱。そこにまるでクワガタのようにへばり付いているアレは直に間違いないだろう。直に注がれる下校中の生徒や周囲を歩く人のヒソヒソと訝しげな視線がイタくて何故か自分が泣きたくなる。
「…………おーい、直」
「静かにーっ!! 今オレは、電信柱と一体化しているのだ」
……どうしよう、いつにも増して意味が分からない。
何かから身を隠すように柱にひっついたまま首だけを回し小声で叫ぶと、直はちょいちょいと手招きで亮太を呼ぶ。……仕方なく亮太が近寄ると、直は電信柱から顔だけを覗かせ「ほら、あそこ」と、ある一点へ人差し指を向けた。
言われた方向へ視線を動かすと、50メートルほど先にある中央交差点の横断歩道の前に1人の学生らしき人物が立っているのが見えた。
先程の発言から察するに、恐らく李央?なのだろうが……しかし、距離があり過ぎて亮太にはその人物の顔は見えない。かろうじて学生、スカートの制服が見えることから女子生徒だろうということは分かった。
「まさかこんなところで再び李央ちゃんに出会えようとは! 昨日は亮太のせいで返事も聞けなかったし……あ、そうだ。ついでにこっそり後を付けて家の場所も確かめてこよう。それじゃー亮太、オレちょっと行ってくるからー!!」
「え、ちょ……」
ぐっと拳を握り爛々と瞳を輝かせながら。言うなり直は飛び出し、忍者のように素早い動きで等間隔に並ぶ電信柱の後ろに身を隠しながら、あっという間に李央との距離を縮めてゆく。早っ。
なるほど、ああやって電信柱に隠れながらバレないようにこっそり後を付けて彼女の実家を調べるつもりなんだな。……って、お前それ小学生なら可愛いイタズラですんでも高校生なら挙動不審で下手すりゃ捕まるぞ!?
直は頭はパーだが、料理や裁縫といった生活能力と運動能力は平均よりもグっと高い。それと視力も。そして霊が視えることが関係しているのだろうか、人の発する気配や微妙な空気の流れに敏感で妙に鋭いのだ。だから心配せずとも多分、気付かれることはないだろうが。
「……それにしても直のやつ、あの李央って子のこと本気で好きだったんだな」
残された亮太は、電信柱の後ろに身を隠し交差点に立つ李央の様子をコソコソと伺う直を視界の端にぼんやりとうつしながら、ポツリと呟く。確かに一目ぼれには違いなかったのだろうが、あれはほんの一時的な衝動的なものであって。きっと本命は摩利夜に違いないと思っていたからだ。
……だからこそ、決して返されることのない朝の挨拶にもめげず、ほぼ徹底して無視されてしまっている一方通行な会話にも負けず、頑張ってアタックしているのだと。そう思っていたのだけど。
まぁ相手が誰であれ、高校生になっても食い気ばかりでそういうことに丸っきり無頓着だった直が、恋愛事に目覚めるのは悪いことではないだろう。友人として応援したいと思う。……思う、けど。
直が行き過ぎた行動をしないよう目だけは光らせておかねばな、と亮太は1つため息を付く。この勢いだと無事家発見の後、そうだ、こっそり進入して驚かせちゃおう♪ なんて、うっかり李央の家に無断侵入もしかねない。……ひょっとしたら、もう手遅れかもしれないけれど。
(まぁいいや、それよりこれからどうするかな)
思わぬ形で1人になった亮太は、腕時計を見ながら今後の予定を思案する。このまま真っ直ぐ家に戻りラーメン屋の手伝いをしてもいいが、『学校の後すぐ家の手伝いじゃ1日がそれで終わるだろうが。少しは学生らしく遊んで来い』との義治のはからいで、直も含めバイトの時間はいつも夕方5時から、日曜は基本休日と決まっている。
綾香に会いにいきがてら喫茶ヴェルデ・マーレに行くという手もあるが、あの店は男1人ではどうにも行き難い。直は平気なようだが、その9割が女性客な上、童話に出てくるようなメルヘンチックな外装と、緑色の壁に描かれた可愛らしい花や動物たちのつぶらな瞳が、単独の男にはなぜか店への進入を許さない屈強な門番の如く思えてしまうのだ。
「……あ、そうだ」
ふと、”1人では行けない場所”から逆に”1人のほうが行きやすい場所”を思い浮かべ。亮太はそこへ行くことを決めると、丁度青に変わった交差点の横断歩道を渡ろうと慌てて駆け出す。
しかし、何か思い出したようにピタリと足を止めると、周囲をきょろきょろと見回し中央交差点の隅にある白いレンガで囲われた個人営業の小さな花屋を捉えると、そこへ足を向けた。
(……危ない危ない。やっぱり、墓参りに花は欠かせないよな)
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加羅都度市、西区――。
飲食街とよばれ1日の大半が各店の主や訪れる人々の活気で賑わうこの地区だが、中央区に繋がる本通りから1つ道を外れれば、そこは閑静な住宅街となっていた。
日中といえど今日のような曇り空の下を好んで出歩く人はなく、本通りの賑わい効果もあり余計静かに感じるそこは、まるで色のない1枚の絵画のようにも見える。
そんな住宅地を更に奥へ外れた一角、白い柵を越えた先にある小高い丘を登ると、そこに1つの墓地があった。
名を、”加羅都度西フォレスト・ガーデン”
丘全体が木や草に埋もれる緑豊かな森のような墓地で、敷地に球場が丸々1つ入るほどの広さを有している。横文字の名に相応しく並ぶ墓は日本のそれではなく映画で見るような西洋風のものが目立ち、その下には、かつて西区で日々を過ごしたものたちが目覚めることのない永遠の眠りについている。
原因は不明だが、雨の日も晴れの日も1年を通し常に霧に覆われているこの場所は、その視界の悪さから足を踏み入れるとまるで壁のない迷路に突然放り込まれたような錯覚に陥らせる。その深い霧は、訪れたものを帰らせまいとする誰かの意思のようにも感じられた。
……そんな加羅都度西フォレスト・ガーデン内にある集団墓地の1つ、エリア8の看板が立てられた、足元を薄緑の短い草が覆い数十の墓標が並ぶ開けた場所に、白い花束を手に佇む1人の少年の姿があった。
(……ここに来るの、結構久しぶりだな)
去年の命日以来だから……ざっと1年ぶりになるだろうか。昔はそれこそ毎日、この墓地を訪れない日は1日もなかったというのに、4年も経つと結構白状になるものだなと、少年――杉原亮太は自嘲気味に笑う。
そして自分以外誰の姿もないことを確認すると、目の前の十字架が彫られた白い石墓の前に静かにひざを付き、いつの間にか霧の滴で濡れた花束を墓前にそっと置いた。
”Ayano Sugihara”
杉原彩乃。墓の表面に刻まれるローマ字は、今から4年前に亡くなった亮太の母親の名前だった。
車に撥ねられたことによりほぼ即死。犯人はまだ捕まっていない。……いや、きっとこの先もずっとあの男が捕まることはないのだろう。
たとえ、そいつの名前も、顔も。卑怯にも加羅都度から逃げた後、今どこで何をしているのかも。全て全て分かっていたとしても。
……全てはもう、終わりにさせられてしまったことなのだから。
当時まだ小学6年生だった亮太だが、あの日、あの男の関係者と義治との間で何か”取引”が行われ。結果、自分が知りえないところで、彩乃の死は単なる事故として処理されてしまったのだ。それも事実とは違った形で。
あの男が何の罪にも問われないのだと知らされた時の、これまで感じたことのないほど強いあの怒りの感情は、4年経った今も忘れることはない。その時の事をほんの僅かでも頭に思い浮かべようものなら、それは腹の奥底から一瞬にして湧き上がり、感情を麻痺させる。
どうして、1人の人間を殺した奴が何の罪にも問われないのか。どうして、彩乃の人生を奪ったあいつが、のうのうと生きているのだろう。それが、悔しくて悲しくて苦しくて。
――――許せない。
……っとと、いけない、いけない。
右手に強い痛みを感じて、ようやく亮太は4年前から現在に戻る。
頭では理解していても、やはり今もあの感情からは抜け出せずにいるらしい。無意識のうちに、右拳を地面に強く叩きつけていた亮太は、しかしここが母親の墓前であることを思い出すと、両頬を叩き、憎しみに満ち始めていた自分の表情を意図して緩めた。
ここに来るとつい当時のことを思い出してしまうが、気持ちはもう4年前にすでに納得しているし受け入れてもいるのだ。毎日ここに来ては彩乃の墓前で悔し涙を流していたあの頃と違い、今は滅多なことではここへは来ない。それがその証拠だろう。
……まぁそれも、その時、偶然出会った直のおかげなんだけど。
それは、たった一言。それも初対面の相手からの、今思えば本当に信憑性のない一言だったけれど。
(……大丈夫。あの時の気持ちを、思い出せば)
耳を傾ければ、サラサラと流れる草花たちの演奏が聴こえた。亮太は静かに呼吸を繰り返し、やがて心に落ち着きが戻るのを感じる。そして、それまで見えなかった足元の小さな薄紫の野花に気付くと、それを撫でる様に摘み取ると自分が置いた白い花の傍らにそっと添えた。
白と紫のコントラストがやわらかに風に揺れる。
「でも、あなたのお母様は、何の未練もなく成仏していらっしゃるのでしょうか?」
――え?
自分1人だと思っていた場所に突然女の声が響き、一瞬の間の後、亮太が驚き振り返ると、一体いつからそこに立っていたのか1人の女の姿があった。腰まで届く真っ黒な長い髪に、同じく黒のロングコート。黒い帽子の影になっていて顔は見えないが、声や口元から察するに年齢は20代を想像させた。
……自分同様、誰かの墓参りに来た人だろうか。ここは共同墓地。杉原彩乃以外にも多くの人が眠っている。
「……ふふ。もし私が、あんな風に車に轢かれてグシャグシャボロボロの肉塊にされた上、事実を隠蔽されたなら。きっと自分を殺した人間を同じように殺してやるだけでは飽き足らないでしょうから、1日1本どこかの骨を折るとか、1日1本どこかにナイフを刺していくとか、それとも1日1本髪の毛を抜いていくとか? ふふふっ、何にせよゆっくりじっくり時間かけてじわじわと決して簡単には死なせず何度も何度も執拗に精神的にも肉体的にも殺してからでないと、死んでも死にきれないでしょうし」
ところが、探るような目つきのまま動きを止める亮太に、黒い女は口元に半月形の笑みを作り人差し指を立てると、まるで子供がイタズラの相談をしている時のような無邪気な声色で、それとは対照的な言葉を並べていく。
そしてそのまま真っ直ぐ彩乃の墓まで歩き、先程かけられた日常でまず耳にしないであろう物騒な言葉に、今、自分は一体何を言われたのだろうと、ただ瞬きを繰り返す亮太の隣に静かに腰を下ろすと「あらコレ、ずいぶんと地味で粗末な花ですね」と呟き彩乃の墓に向かい両手を合わせた。
……どうやら最低限、死者への礼儀はあるようだが。亮太は固まっていた表情をむっと歪めると女を睨みつける。彩乃の墓に手を合わせてはいるが、こんな風に全身を黒で纏う怪しげな女かつ失礼な女には全く心当たりがない。
「……そういえば、今年は命日には来られなかったみたいですね。何か理由でも?」
「な、なんでそんなこと、……っ!?」
女の動作を横目に流しながら、亮太は答える義理はないと素早くその場に立ち上がったが。それを追うように亮太を見上げた女の瞳が帽子の影から顕わになった瞬間、ギクリと肩を強張らせる。
一言で言うならば、血の色。
全身を黒で統一した女の瞳は黒ではなく、まるでべっとりとした血溜りの中に眼球を埋め込み、そこから滲み出た血が瞳を赤く染めあげているかのようだった。
「……あら、驚かせてしまいました? うふふふ、カラーコンタクトなんですよこれ」
「綺麗な色でしょう」と、亮太の隣へ立ち上がり右目の下へ人差し指を這わせながら笑う女の顔は、一見すると聖母のような微笑みの表情。だが亮太には暗闇の奥底で不気味に嗤う死神のように見えて、無意識のうちに女から1歩、後ろへ距離をとる。一体何者だ、こいつ……!?
すると、まるで亮太の心内を読み取ったかのように、女は懐から名詞を1枚取り出すとそれを亮太に差し出した。
瞳をのぞき、衣装が黒で統一されているのならば、やはりコレも黒だ。
「申し遅れました。私、仲介屋をやっております小林黒枯と申します」
「……仲介屋?」
聞きなれない単語に亮太は少しだけ緊張感を解かれ、小首を傾げながら差し出された名刺を見ると、白で印字された名前と、その上に一回り小さなフォントで”Black mediator”と印刷されてある。
……訳すと黒の仲介屋、だろうか。なるほどその外見を見る限り確かにベストな通り名だとは思うが。それにしても名前まで”黒”だとは。
「依頼人の方からご相談された内容に応じ最も相応しい相手へ仕事の仲介をさせて頂く。それが仲介屋の仕事になります。……うふふふ、ちなみに私は”表”はもちろん”裏”にも顔が利きますから依頼内容に関しては一切の制限は付きませんよ。たとえば殺人の依頼なんかでも遠慮なくどうぞ」
”殺人”などと再び不穏な言葉を口にしながら、黒の仲介屋こと小林黒枯は、またも楽しげに笑う。
……はぁ、最初の印象から妙だと思っていたが、どうやら間違いなく危険な人らしい。ここは関わることなくさっさと撤退するのが正解だろう。
いまだクスクスと笑い続ける黒枯に一度だけ視線をやると亮太は小さくため息を吐き、差し出された名刺を受け取ることなく、共同墓地と彩乃の墓に背を向け、歩き出す。
「あら、どちらへ行かれるのですか杉原亮太さん? まだお話の途中なのですけど」
うう、最悪だ。何なんだよこの女。オレに一体何の用があるっていうんだよ。……もう知るか、たとえ呼び止められたとしてもこのまま無視して――って、ちょっと待て!?
「な、何でオレの名前を知って……って、うわっ!?」
自分は名乗ってなどいないはずなのに。疑問に振り返るとすぐ目の前に黒枯の顔があり、亮太は思わず声を上げ後ろへこけそうになる。僅か数歩の距離とはいえ、いつの間に背後まで近付いたのやら。最初、声を掛けてきた時もそうだが、どうもこの女は足音はおろか気配というのもを感じさせない。
そして恐らく人の驚いた表情が好きで、更にそれが面白くて堪らないのだろう。亮太の慌てぶりをすぐ目の前で観賞した黒枯は、隠すことなくクスクスと笑いを零す。今更だがどうにも癪に触る人だ。
「……話の途中って、オレはあんたと話すことなんて何もないですけど。というか、何でオレの名前を知ってるんだよ」
「ふふふ、話すことは色々ありますよ。それから、お名前の件ですけど、私が依頼人であるあなたの名前を知っているのは、人間の皮膚をペンチで引き千切った時そこから流れる血が紛うことなき真っ赤であることと同じくらい当たり前のことですよ」
気持ちを落ち着かせ出来る限り冷静に務めようとしたのだが、駄目だ話がまるで噛み合わないし、それに何という例えだろう。
昼間あずさに、たこウインナーと消しゴムをぶつけられ、友香にも綾香のことで何だか精神的に酷い目に遭わされたと思ったら今度はコレだ。もしかして今日は厄日なのだろうか。主に女性関連の。
「……依頼人って、オレは、あんたの客になった覚えはありませんけど」
「……あら? そう言われれば、そうでしたね。……まぁでも近いうちに必ず、あなたが私の依頼人になる日が来ますから」
はじめての肯定に、やっと話が通じた、と思ったのに。後に続いた言葉と黒枯の満面の笑みに亮太はガックリと肩を落とす。
……もう、どうして名前を知っているのかとか、どうでもいいや。そういえば、最初に彩乃の事故のことも何か言っていたような気がするし、多分、それを調べる過程で知ったのだろう。理由は知らないが。
というか、そもそも仲介の依頼って、たかだか高校生の自分に一体どんな依頼があるというのか。……まぁ百歩譲ってうちのラーメン屋の宣伝なら考えてみてもいいが、間違ってもこの女にだけは頼みたくない。というか、もうこれ以上関わりたくもないし二度と会いたくもない。……だから、亮太は再び背を向ける。
最後に何かしら文句でも言ってやろうと少しだけ口元を動かしたが、結局無言のまま。次こそ決して足を止めない決意をして踵を返した。呼び止められても、もう振り返らない。もう絶対、返事もするものか。
「あ、そうそう杉原さん。最後に一つだけ、是非とも教えて差し上げたいことがあるのですけど」
しかし、黒枯は三度亮太に声をかける。
ああぁあああ、もう、本当に何てしつこい人だ、この人!!
一歩も引かないこの執拗さはある意味、仕事には役立つスキルなのかもしれないが、絶対、友達いないぞこの人!!
思わず喉から噴火しそうになる声を必死に塞き止めながら、それでも足だけは止めまいと亮太は体を震わせながらザクザクと薄緑の草を踏みしめ進む――。
「――糸瀬木充さん。先日、戻ってこられたみたいですよ、加羅都度に」
…………え。
しかし、その名前を聞いた瞬間、まるで時間が止まったかのように亮太の思考は凍り付き、全ての音が消え、足は地面に繋がれた。
……糸瀬木、充。その名前は、亮太にとってどんなに忘れようとしても決して忘れることなど出来ない、特別な名前だからだ。
「……ふふふ。あまりしつこくして嫌われても困りますし、今日のところはこれで失礼しますね。…………それでは杉原さん、また」
一体どのくらい、時間が過ぎていたのだろう。一瞬、あるいは1時間かもしれない。ふいに投げられた小石のように、黒枯の言葉が止まっていた時間を鏡のように大きく割ると、瞬間、ざあ……っと、冷たく、だけども強い熱を帯びた風が生まれ、強風に舞い上がった枯葉が亮太の右頬に一筋の赤い印を刻んだ。
「…………そうか。あいつ戻ってきたのか」
……4年ぶりに。再びこの加羅都度の地へと。
凍った世界でも、不思議と心臓の音だけが五月蝿いほどに聞こえていた。渦巻く感情で痛みのマヒした赤い傷跡に触れながら、亮太が後ろを振り返った時にはすでに黒枯の姿はなかった。
おぼつかない足取りで亮太は再び彩乃の墓に膝を付くと自分が備えた花に手を触れる。
……そこだけ、白い花弁が自らの血の色に赤く染まった。