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05:序曲の終1053

 加羅都度市は、上空から見ると全体が歪な十字の形をしており、そのてっぺんを北区と分類。

 以下、時計回りに東区、南区、西区、そして加羅都度の丁度真ん中に位置する場所を中央区と、大きく5つの区に分けている。


 中央区は、加羅都度で最も大きな建物である加羅都度駅があり、高層マンションや企業ビル、大学病院が立ち並ぶ、文字通り加羅都度の中心となっている地区。逆に北区は、加羅都度の中でもひとけの少ない閑散とした場所にある、自然が多く残る緑豊かな地区。

 東区は、そのほとんどを民家が占める賑やかな住宅街であり、南区は、中央を囲う4つの地区の中で最も離れた場所に広がる、茅葺き屋根の古びた建築物が目を引く歴史情緒漂う地区である。


 そして、残る最後の加羅都度市西区は、飲食街とよばれるだけあり。

 伝統ある老舗の和風小料理屋から、気軽に入れる喫茶店やファミレス、和洋中様々な種類が並ぶスイーツ専門店など、その名に相応しく多種多様な飲食店がいくつも軒を並べ、日々異種格闘技戦を繰り広げていた。


 それはここ、"杉原ラーメン店"も、もちろん例外ではなく――、

 築20年以上になる年季の入った店の表には、同じく年季の入った"営業中"の木製看板が店全体を囲うように何枚も立てかけられており。その少々オーバーな宣伝効果あってか、夕方6時を過ぎた今、全20座席しかない狭い店内は、すでに8割が客で埋まっていた。


 ……そして、そのこじんまりと狭い空間の中を、今日も黄色いおしぼりが勢いよく飛んでいく。



 「よっしゃー! もういっちょ行くぞ直! 俺のこの黄金魔球ゴールデンボールを受け取れぇえええい!!」

 「オッケーおじさーん!! ……おしぼり、キャーッチ!!」


 「…………はぁ」


 天井隅に取り付けられた小さなテレビに映る野球中継の音と、それを観戦する客の熱気でワイワイガヤガヤと賑う店の奥。厨房の隅でたった1人、中華鍋を振るう店の主から剛速球のごとく勢いで投げられた、ほかほかと湯気立つおしぼりを頭の上で見事キャッチし、直は実に誇らしげにそれを掲げて見せるが、毎度のことながら亮太はため息しか出てこない。


 いましがた直が受け取った黄金魔球――もとい、ただの黄色いおしぼりを丸めたものは、客が帰った後テーブルを磨くために使われるものであり、それ自体は何も問題ないのだが。先ほども、カウンター上に置かれたメニューをギリギリかすめたように、いくらなんでも、その受け渡し方法はない。


 確かに、おしぼりを置いてある厨房へ行くには、その都度カウンターをぐるっと迂回しなければならず。料理長兼店長と亮太と直、従業員がたった3名しかいないこの店においては、その少しの手間も省ければそれに越したことはないのだが。しかし、それが危険な行為であることに間違いはなく。


 せめて投げるのではなく普通に手渡しすればいいのでは? と、亮太は一度本気で提案したことがあるのだが。その時は、『安心しろ、俺のコントロールはラーメン界一だ』と、おたま片手に胸を張る元高校球児のピッチャーだった店主と、『大丈夫だって、絶対落とさないから』と、何の根拠があるのか、えらく自信たっぷりに言い張る直の2人に、今思えば実に理不尽な多数決に負け、以来何も口を挟めなくなってしまっていた。


 ……せめて客からの苦情でもあれば、こんなふざけたもの、すぐに止めさせられるのに。



 「いいぞー、この店名物おしぼり投げ!」

 「受け損ねたり、客に当てたらラーメンタダだからなバイト君!」


 残念ながら、このおしぼり投げというのが客の間では好評というかすっかり店の恒例行事となっており。すでにほろ酔い状態の客からは、おしぼりの変わりにヤジが飛び、いつの間にか【おしぼりを客に当てたら+受け損ねたらラーメンタダ!】という妙なルールまで出来上がっている始末。亮太のため息も毎度、盛大な拍手にかき消されていた。


 もともと、杉原ラーメン店に来る客は昔からの常連客が多く、店を覆う空気は、なんと言うか"正月に親戚一同が久しぶりに集まって大はしゃぎ"のようであり。そんな店の雰囲気が好きで、こうして常連になって通ってくれる人が決して少なくないことは、もちろん亮太も分かっているのだが。


 それにしても、こんな状態の店では新規の客足は遠のくのでは、と亮太は心配していたのだが、意外なことに、毎月少しずつだが序々に新規の顔ぶれが増えているから不思議だった。

 店主が長年の試作を経て完成させた自信作だけあって、店の味には亮太も自信を持っているが、……なんだろう。類は友を呼ぶ、ということだろうか。ひょっとしたらこの店を覆う独特の空気が、ある種の客を呼び集めているのかもしれない。


 ……ああ、そうか。だから客の9割が店主と同年代の50代前後のむさ苦しい男たちばかりなのか。



 「…………はぁ」


 客が勘定を済ます度に飛ぶおしぼりと、鳴り響く拍手歓声。

 直がテーブルの片付けを担当すれば確実におしぼりが飛ぶため、せめて亮太はそれを阻止しようと、店を手伝っている間は、こうして両眼をがっと見開き、客が席を立った時には素早く移動出来るよう心がけているのだが。……やはり全ては対応できない。


 日に何度も繰り返されるそれを聞きながら、今日は特にため息が多いような気がするなぁと亮太は再びため息。

 その主な原因が、友人である直と、ここ杉原ラーメン店の主――杉原善治すぎはらよしはること、亮太の実の父親だというのだから泣けてくる。



 「おじさーん、ついでにこっちのテーブルも掃除しとくから、おしぼりもう1個投げて~!」

 「おうよ! そりゃあああ、黄金のおしぼり受け取れぇえええええ――――あっ」


 そんな暗雲立ち込める亮太の様子に欠片も気付かず、ラーメン鉢を下げた後の木製テーブルをごしごしと丁寧に拭きながら、直はカウンターの向こう側にいる義治に、ぶんぶんと大きく手を振り再びおしぼりを要求するが。


 あろうことかその黄金魔球は、義治の手から真っ直ぐ1人の客へと放たれた。



 ――だっ、だからあれほど言ったのに、親父のやつ手元くるわせやがった!!


 運がいいのか悪いのか、幸いなことに、今までこの"おしぼり投げ"が客に命中した例はない。

 だが、もし今ここで、それが客に当たったら……普段は笑って済まされそうな空気が漂っているものの、実際は、きっと笑いごとでは済まされないだろう。


 何の因果か、ズレた黄金魔球の軌道上すぐ近くに待機していた亮太は、それが客に当たる前に受けとめようと呆れ顔で半歩に踏み出そうとして――、ふと考える。


 ……待てよ。もし、ここで一度痛い目を見れば、それを機に、このふざけたパフォーマンスを止めさせられるんじゃないか?


 いくらお気楽能天気の義治と直といえど、実際、客に被害が出れば、今後一切おしぼり投げなんてふざけた事はしないだろう。

 それに正直、おしぼりが飛ぶたび、それが間違って客に当たりはしないかと、亮太は毎日不安で心配で仕方がないのだ。こんなことがこれからずっと繰り返されると思うとそれだけに胃に穴が開く。


 ……つまりこれは、ラーメンの神様(?)が与えてくれた絶好の機会チャンス


 しかし、亮太がそんなことを考えている間にも、しっかりと固く丸められた黄色いおしぼりは、何も知らずズルズルとラーメンを啜る客の後頭部めがけ突き進み、このままでは確実に当たってしまうだろう。それも相当な勢いで。

 慌てた様子の直が、こちらへ向かっているのが見えるが、この距離とスピードでは間に合わない。


 ……間に合うとすれば、やはり自分だけ。

 …………そして亮太には、やはり、そのまま見過ごすなんてことは出来なかった。



 「……ああああ、もう、なんでこうなるんだよ!!」


 叫びながら、自らの不運と元来の生真面目性を呪いながら、亮太は、凄まじいスピードで進む黄金の軌道上に自らの体をギリギリ滑り込ませると、テレビに映る野球中継のキャッチャーと同じように、姿勢を構える。


 ……直後、受け損ねた熱々の黄金魔球が、亮太の顔面に激しくぶつかる音が響き。亮太は床へ本日二度目の転倒。

 その後、身を挺して客を守った亮太を称える歓声と拍手が店中を満たした。







 「……亮太、お前デコが赤いけど熱でもあるのか?」

 「……なっ。あのなぁ親父、さっきの一件、忘れたとは言わせねぇぞ!!」


 時刻は深夜の10時をゆうに過ぎ、閉店した杉原ラーメン店の2階にある自宅兼居間にて。


 珍しく真面目な顔で、無言で、じーっとこちらを見ていたかと思えば、先ほどの件などすっかり頭から抜けてしまったかのな呑気な発言に、亮太は思わず畳に倒れそうになるが、すぐに立ちなおり。テーブルの向かいでどっかりとあぐらをかく義治に向かい右手に持った箸をビシっと指す。


 想像以上に固く熱々に蒸されていたおしぼりのせいで、亮太の額は今も赤く染まっているというのに。一体誰のへっぽこコントロールのせいでこんな目にあったと思ってるのか。



 「ほいほい、晩御飯できましたよ~い」


 するとそこへ大皿を持った直が姿をあわらし、まるでテーブルに架けられた橋のように伸ばされている亮太の右腕に気付くことなく、勢いよくそれをテーブルへ置こうとするものだから、亮太は伸ばした腕を慌てて戻す。



 「危ないだろお前は! ……っと、今日は肉じゃがか。う~ん、見た目からして相変わらず料理の腕だけはプロ級だな」

 「いやいや、それほどでも~! あ、あと、味噌汁とおひたしもあるからね~」


 文句を言ってやるつもりが、目にした料理の完成度の高さに、思わずほぉと感嘆の声をあげてしまう亮太に、本日の食事当番だった直は、可愛らしいピンクの花柄エプロンに真っ赤なバンダナといったいでたちで、えへんと胸を張り。ふんふん~♪と口笛を吹きながら残りのおかずを取りに台所へと戻って行った。


 その間、亮太と善治は漂ってくる美味しそうな匂いに誘われて、そろそろと箸を伸ばすと本日のメインを一足先に味わう。……うん、見た目もさることながら味も完璧。


 意外といえば意外だが、学校の勉強はさっぱりな成績の直だが、実は料理は大の得意であり、家庭科のテストだけは、実技筆記を含めいつも満点に近い高得点を取っている。職業柄か、基本的にラーメンとチャーハンと餃子しか作れない義治や、料理というものがどうあっても苦手な亮太にとっては、それは実にありがたいことだった。


 ……思えば、直が杉原家に来る前。義治が食事当番の時は、決まって"ラーメンと餃子セット"か"チャーハンと餃子セット"が。

 亮太が食事当番の時は、スーパーで安売りされているインスタント食品が並んでいたことを思うと、亮太だけでなく、テーブル横の小さな本棚の上、この居間全体を見渡せる位置に飾られた優しそうに微笑む女性の写真――今は亡き義治の妻――亮太の母親でもある彼女も、きっとあの世でほっとしていることだろう。


 おぼんを手に戻ってきた直は、古びた木製の丸テーブルの上に、色とりどりの野菜がたっぷり入ったみそ汁と、色鮮やかなホウレン草のおひたしを並べていく。今日は少々野菜が多いが、栄養バランスもバッチリだ。



 (……ん? そういや直って何でうちに……加羅都度に来たんだっけ)


 そんな直を眺めながら。一口、また一口と、よく味の染み込んだじゃがいもを口に運びながら。ふと亮太はそんな疑問を頭に浮かべる。


 直は、4年前の丁度今頃。まだ小学校を卒業したばかりという年齢で、単身ここ加羅都度にやってきた。

 そして身よりもなく、空腹でふらふらと彷徨っていたところを偶然亮太と出会い、それから色々あって、杉原ラーメン店でバイトをしながら住み込むことになったのだ。


 つまり直は、ここでは珍しい"加羅都度の外からわざわざ自主的にやってきた変わり者"ということになるのだが――。


 こんな世間から切り離されたような、陸の孤島のような場所に自ら進んで来るなんて、一体どんな理由があるのやらと、当時も同じことを疑問に思った亮太は直に尋ねてみたのだが、……その時は確かこんな答えが返ってきたはずだ。



 『オレ幽霊が見えるからさ。幽霊に会いに、幽霊がたくさんいるっていう加羅都度に来たんだよ!』


 確かに、直と加羅都度を繋ぐ共通点といえば、"幽霊"という単語がまず浮かぶ。


 しかしだからといって、12歳の少年がたった1人、何時間もかけてこんな辺鄙な場所へ来る理由には少々苦しいのではないだろうか。それも、遊び気分の旅行などではない、本格的な移住だ。(といっても当時、直が所持していたものは、リュックサックに財布と食パンとミカンと加羅都度の地図と、かなりの軽装備だったが)


 そういえば、常に明るく振舞ってはいたものの、知り合った頃の直は、決して内面の、核心部分には触れさせない雰囲気を纏わせていたように亮太は思う。

 ……最も、今日のような突拍子もない行動や、当時『こんなところに1人で来て、親にはちゃんと言ってあるのか』という義治の問いに、『天丼孤独だから両親はいない』と真剣に答えていたあたり、その天性の性格というか、根の部分は昔から変わっていないように思えるが。


 ……今聞けば、あの時とは違った答えが返ってくるのだろうか。


ちなみにその時、『それをいうなら天涯孤独だろ!』と思わず叫んだのが記念すべき初ツッコミで。……我ながらあのシリアスな空気の中よくぞ言ったものだと亮太は思う。



 「そういや亮太、お前はいい加減、彼女はできたのか?」

 「……ぶほっ!?」


 悶々とそんな過去を回想していた時に突然そんなことを振られ、亮太は思わずむせ込むんだ。

 その勢いで箸からじゃがいもが大ジャンプしてしまい、「ああっ、じゃがいもがー!」と、慌てて直は、テーブルの上に転がったじゃがいもを素早く亮太の小皿に移動させる。


 どうやら亮太が考え事にふけっている間、直は今日の出来事――駅での告白の件を義治に話していたらしく、善治からその流れ弾が当てられたらしいが……。



 「そ、そんなのいるわけないだろ。大体なんだよ突然」


 「いやいや、実は最近、近所にまた新しい中華料理店ができてなぁ。しかも結構本格派の。……だから、お前に彼女がいるんなら是非とも、我が杉原ラーメン店の看板娘になってもらえないかと」


 深刻そうな雰囲気で大げさにため息を吐き出しながら、続けてもみ手で訴えるような目で、義治は亮太を見る。



 「そこ杏仁豆腐が超~美味しくてさぁ。……もぐもぐ。オレもついうっかり3回も行っちゃったし。……もぐもぐ。このままだと杉原ラーメン店の営業危機なんだよ、亮太」


 続けて直までもが、うんうんと唸りながら、しっかりと肉じゃがも味わいながら、善治に同意するが。

 ……というか、その中華料理店はオープンしてまだ3日のはずなのに、どうやら直は、すでに取り込まれているようだ。


 杉原ラーメン店の危機だと言いながら、お前早くも常連になってるじゃねぇか!! ……って違う違う。



 「っていうか、看板娘ってつまり店手伝わせる上、客寄せに使うってことだろ!? そんなこと彼女にさせられるか!! ……大体無理だって、喫茶店のバイトもあるんだから――」


 「「えっ、喫茶店のバイト?」」


 げっ、し、しまった、つい特定の人物を指し示すような言葉を……!

 義治はともかく、しょっちゅうヴェルデ・マーレに通っている直には何か感付かれるかもしれないと、亮太は慌てて何か言おうとするも、口からは 「え、あ、いや、その」しか出て来ない。


 ……しかし幸い、元来そういった話に関心がない上、話の軸をすぐ自分に置き換えてしまう2人は、そんな亮太の発言にも全く食いつく素振りを見せず。



 「喫茶店のバイトかぁ~、ウエイトレスさんの格好とか李央ちゃん似合いそうだな~♪」


 「はっはっはっ、亮太、お前喫茶店でバイトしてる子がタイプなのか。実は母さんも昔、喫茶店でバイトしてて、何を隠そう俺と知り合ったのもそこで――」


 直と善治は、両手を組みうっとりとした表情で、すっかり自分世界に浸っており。亮太は、それにほっとしながらも、しかし複雑な顔で眺める。話が逸れたことは正直助かったが、ここまで無関心なのも少々寂しい。

 ……いや、男3人テーブルを囲み恋愛話に花を咲かせるなんて、想像するだけで気持ちが悪いけど。


 各々で盛り上がる2人を横目に静かにため息を吐き出すと、亮太はテーブルの下に手を伸ばし、そこに転がっているであろうテレビリモコンを探り手に取った。

 電源を入れ、そこにテレビの音が加わっても、元々賑やかだった食卓にあまり変化はなく。13V型の古い小型テレビには、明日の天気予報が画面いっぱいに映し出されている。


 左上に表示された時刻は丁度、深夜10時53分。……明日は朝から一日中、曇り空のようだった。







□  □  □  □  □  □  □  □  □  □  □






 「――――駄目!!」


 薄闇の室内に悲鳴にも似た少女の声が響き、すでにベッドで眠りについていたはずのこの部屋の主は、弾かれるように身を起こした。


 まだ春先の肌寒い時期だというのに、横面を冷たい汗が伝い、背中もぐっしょりと濡れている。

 真っ黒な闇夜をゆっくりとぶ厚い雲が流れ、部屋の壁をぽっかりと四角く切り取ったような大きな窓の向こうから、白く不気味に光る月が顔を覗かせた。


 その鈍光に横顔を照らされながら、ドクドクと脈打つ胸を両手で抱きしめるように押さえながら。部屋の主――山本詩織は、今、聞こえた声が自分自身の悲鳴であったことにようやく気付く。



 「……………………夢、だよね」


 乱れた呼吸を整えるよう、深く呼吸を繰り返しながら。

 小さく顔を左右に動かし、今いる場所が自分の部屋に間違いないことを確認すると、詩織は先ほどの一件が全て夢に違いないと、自らに言い聞かせるため改めてそれを口にする。


 ……だが両腕に残る感触は、まだぼんやりと夢見心地な詩織の意識へ、あれが決して夢などではないことを強く主張しているように。指先はカタカタと小刻みに震えていた。



 「あ、あの、どうかされましたか?」


 すると、コンコンと短く少し強めのノックの後ドアが開き、山本家に住み込みで働いている使用人の女性が顔を覗かせた。

 年齢は詩織よりも一回りほど上だが、その顔は落ち着きがなくひどく不安そうで、どうやら先ほどの悲鳴が部屋の外にまで聞こえていたらしい。

 それを察した詩織は、慌てて表情に笑顔を貼り付けると、ドアのほうへと上半身を傾ける。



 「ご、ごめんなさい、湯咲ゆさきさん。ちょっと怖い夢を見てしまって……もう大丈夫ですから」

 「そうですか……。悲鳴が聞こえたもので心配しました。何かあったらいつでも、呼んで下さいね」


 湯咲は雇われたばかりの新規の使用人で、詩織とはまだ1週間程度の付き合いしかないが、その柔らかな微笑みと言葉からは、気遣いの心が十分に感じさせられる。

 詩織は、そんな湯咲に感謝しながら、「ありがとうございます」と笑顔で告げると、湯咲もそれに笑顔で小さく頷いてみせた。


 そして湯咲は、そのやり取りで先の悲鳴が特に何事でもなかったのだと判断すると、これ以上就寝の邪魔をしてはならないと、詩織に向かい静かにお辞儀をし、背を向けドアのほうへと向かった。


 ……ところが、その背中に必死にしがみつくように、詩織の声がかけられる。



 「あ、あの、ちょっといいですか!? 1つだけ、聞きたいことがあるんですけど」

 「……はい、なんでしょうか?」


 普段は、小さく落ち着きのある詩織の声に、珍しく焦りのようなものが混じっているように感じた湯咲は、少しだけ驚いた顔で振り返る。だが丁度、雲が再び月を覆い隠し、月を背負う形でベッドの上に体を起こす詩織の表情は伺い知れなかった。



 「……私、ずっとここにいましたよね」

 「…………は、い。……えぇ、先ほどまでずっと、そのベッドでお休みになられていたと思いますが」


 一瞬、質問の意図が読み取れず言葉を詰まらせた湯咲だが、深く意味を考えることはせず、そのままの事実を詩織に答えた。逆光により、相変わらず詩織の表情は見えないが、その顔に先ほどまでの笑顔がないことは、僅かに震える声から容易に想像できた。


 ……それから、しばらく沈黙が続き。普段とは違う様子を見せる詩織に何か不穏なものを感じ取った湯咲は、眉を顰めながら、改めて質問の意図を尋ねようと詩織のベッドへと近付くと……。



 「ご、ごめんなさい、変なこと聞いちゃって! ずっとここにいたか、なんて当たり前ですよね。夢のせいで少しぼんやりしてたみたいです。……私、もう寝ますね」


 途端、詩織の声が元の明るいものに戻り、湯咲の歩みを1歩で制した。


 再び月明かりが照らし出した詩織の顔も先ほど見せた笑顔で、もう寝るという言葉を発したということは、これでこの話は打ち切りということだろう。湯咲は一瞬だけ、何か言いたそうに口元を動かすが、結局何も口にせず。静かにぺこりと一礼をすると、そのまま部屋を後にした。


 静かにドアが閉じられると、1人残された詩織は、湯咲が来てからずっとシーツの中に押し込めていた両手をゆっくりと引きずりだし、掌を見つめる。

 それはいまだ小刻みに震え続けており、まだ、あの感触が……親友の首を絞める感触が消えることはなかった。



 (湯咲さんは、私はここでずっと眠ってたって言ってたけど。……確かに私は、さっきまで学校の音楽室でピアノを弾いていて……そこに、あずさが来て……)


 詩織は、強く目を閉じると、俯きながら拳をきつく握りしめる。

 そしてゆっくりと瞳を開くと、先ほど勢いよく身を起こした時、胸の上から滑り落ちた青い札に視線をやると、それにそっと触れた。



 (あの女の人は、これを使えば夜眠った後でも、夢の中でピアノの練習が出来るとか言ってたけど)




 確かに言われたとおり、自分は先ほどまで学校でピアノを弾く夢を見ていたが。

 ……あれは、本当に夢だったのだろうか。


 もちろん、演奏会が近く特に不調続きの自分にとっては、いくら練習しても時間が全然足りない今、現実の時間だけでなく夢の中でもピアノの練習が出来るなんて、本当に夢のような話で、とても有り難いことなのだけれど。


 ピアノを弾いていた時の感覚や音、触感は、夢とは思えないぐらい臨場感に溢れていて、まるで現実にピアノを弾いているようで。

 ……なによりも、あずさの首に手をかけ締め上げたあの感覚は、……ぞっとするぐらい本当にリアルだった。どうして自分は、あんなことをしてしまったのだろう?


 不安と疑心に満ちた心でそれを眺めていたせいか、1週間前、見知らぬ謎の女に渡された青い札に綴られた黒い文字のようなものが、まるで生きているかのように一瞬蠢いて見えて、詩織は咄嗟にそれを裏返す。


 ……やはり、こんなもの受け取らなければよかったのだろうか……。でも、どうしても自分は、次の演奏会で失敗するわけにはいかないのだ。……あずさのためにも。



 詩織は、静かに息を落とし、青い札をベッド脇の白いキャビネットに置くと、開いてたカーテンを全て締め切り、窓からの月明かりを全て遮断する。……今夜はもう、夢の力は使わない。そのままベッドへ倒れ込むとすぐに瞳を閉じた。

 元々、体が弱いほうだが、最近は特に調子が悪いのだ。


 再び眠りにつく詩織の隣では、青い札がどこか不気味な光を放ち、ベッド横に置かれた白い彫刻時計は、丁度、深夜10時53分を指し示していた。

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