13:コケイロノチオレンジ
「えーっと。……も、もう1回お願いします」
「………………」
誰がどう見ても苛立ちの込められたため息を肩から大きく吐いた後、摩利夜が無言で睨むのも無理はない。
何故なら、同じ話を二度させられるというのは少なからず労力を費やすし、時間も手間もかかる。……そして、これが昼休みに続き本日二度目ならば尚更のことだった。
今日は終業式。3学期最後の登校日。掃除の時間を終えると、ある者は友人と一緒に、ある者は1年を共に過ごしたクラスメイトと語らいながら、そしてある者は渡された通知表の数字の羅列を1人で眺めながら。それぞれの1年をそれぞれの形で振り返り次々と帰路についていた。
加羅都度高等学校は、明日から春休みを迎える。次に学校を訪れるのは4月になってからだ。夏休みや冬休みとは違い、春休みが終わるとクラスは解散、学年が変わり新しいクラスで新しい1年が始まる。
もう同じメンバーで1つの教室に揃うこともないのだと思うと、何だか寂しい気持ちになって、新学期のことを思うとやはり不安な気持ちを拭えない。
けれど4月になれば、少しずつ蕾が膨らみ始めている校庭の桜もきっと満開に咲き誇り、鮮やかな桃色の景色を見せてくれていて。生徒たちの新たな始まりに、ささやかな応援と彩りを添えてくれるのだろう。
……もっとも、それは一般の生徒だけであって。補習のあるものは、喜ばしきことか、その祝福を他の生徒よりも少し早く受けることになりそうだが。
そして直はというと、彼もまた彼自身の形で1年を振り返りながら、最後のホームルームの後、担任に1年の感謝と諸々の謝罪を告げると帰宅の準備を整えクラスメイト全員に大声で挨拶を済まし素早く校門の外へ……とはいかず。
『……後で、旧校舎の、裏庭』。掃除の時間、摩利夜に言われた通り旧校舎の裏庭へと来ていた。
真新しくなった旧校舎と違い、予算の都合で改装の手が回らなかったらしいこの裏庭は、その日の天候に関係なく常に薄暗く足元は苔の山で。つるつるとした岩肌にうっかり足を滑らす生徒も多いここは、ただでさえ人が寄り付かないのに、特に受験を控えた3年生は絶対立ち寄らないことで有名な場所だった。
しかし裏を返すと、ここは誰にも聞かれたくない話をするには最適の穴場、ということにもなるのだが。
……そんな場所に何かしらの用事で呼び出されたらしい直は、あずさと友香の助言(?)により、その内容が”決闘”か”告白”か、というある意味究極の二択であると予測し。
ここに来るまでの間ドキドキしたりハラハラしたり回ってみたり深呼吸を繰り返したりと、心の準備をしっかり整えていたわけなのだが――、摩利夜の口から出た言葉がそのどちらでもなかったことで、ポカンと口を開けたまま、ついうっかり話の内容を右から左に聞き流してしまった次第である。
「ごめんなさい! 大宝寺様! もう1回お願いします! もう1回だけっ! 今度は絶対ちゃんと聞きますからー!!」
それでもしかめ面のまま、しばらく黙り込んでいた摩利夜だが。諦めたように小さくため息をつくと、今にも顔が埋もれそうなほどの大量の荷物を抱えたまま幾度となく器用に腰を折り謝罪を繰り返す直に……漸く口を開いた。
「……だから昨日の夜、西山第三病院に行った時。……そこから何か持ってかえらなかったかって訊いたんだけど」
「昨日? 西山第三病院?」
普段、滅多なことでは風邪もひかない直は、病院なんて行ったっけ……? と頭を捻るが。ふと昨夜の出前のことを思い出す。そういえば昨日、善治の代わりに行った出前先が確か西山何とか病院だった気がする。
昨日の放課後、駅で一目ぼれした李央を偶然見かけた際こっそり後を付けた先にたどり着いたのがその西山第三病院だったのだが、まさかその日のうちに再び出前に行くとは思わなかった。しかも出前に行ったというのに受付には誰もおらず、あれには本当、困り果てた。……それから、確かそのまま人を探しに地下に降りていって、たまたま開いてた部屋に入ったらそこに奇妙な赤い光が浮いていて――。
「あ」
昨晩のことを思い返していた直は、咄嗟にズボンの左ポケットを探ろうとした。しかし刹那チクリとした痛みでバランスを崩し、結果、両手に抱えていた荷物――教科書とノートの山、美術で使う絵筆やパレット、コンビニで買ったパンに付いていた応募シールに消しカス弾、暇潰しにプリントで作った折りヅルなどなど、この1年でたまりにたまったあらゆる私物が湿った暗緑色の絨毯に散乱してしまう。
普段、教科書を学校に置きっぱなしにする。片付けの時は、手当たりしだい机やロッカーに何でも詰め込む。という悪癖が1年積み重なれば当然そうなるわけだが。
終業式、つまり今日が学年の最終日だということで。当然、直は教室に置いてあった全ての私物を持ち帰らなければならず、ギリギリ顔が見えるほど積み上げられた大量の荷物を腕に抱えた状態で摩利夜の呼び出しに応じていたのだ。
それがバランスを崩しこの大惨事である。
直は苔の上にしゃがみ込むと撒き散らしたものを慌てて拾い集めた。摩利夜も、はじめは呆れ顔で突っ立っていたのだが、やがて腰を落とすと散らばった小物を次々と手のひらに乗せいく。うっかり見落としそうな小さな消しカス弾まできっちり拾ってくれるあたり、さすが優等生の大宝寺摩利夜様というかなんというか。本当にありがとう!
ひょっとすると初めてかもしれない摩利夜の親切な行為に感動の涙を流しながらも満面の笑みで直がお礼を言えば。摩利夜は驚いたように一瞬目を見張った後、いつも通りの冷やかな目で「……別に、大したことはしてない」と言いつつ、俯き加減の顔には少し赤みが差しているように見えて。ひょっとして照れてる?
何をしても不機嫌そうな顔で睨みつけられることが多いから、何だかとても珍しいものを見た気がする。1年の最後に摩利夜の新しい一面を見ることができた気がして、それだけでこの裏庭に来たかいはあった。未確認生物の1つであるツチノコを見つけた時も、きっとこんな感じの感動が胸に広がるんだろう……。そう思ったままを口に出した次の瞬間、直の顔面めがけ教科書が飛んできた。
「……それで話を戻すけど。昨日の夜、病院から何か持ち出さなかった?」
最後のノートを渡すと再び両腕に荷物を抱える状態となった直に向かい、すっかり疲れ切った様子で摩利夜は改めて問いなおす。ギクリと直の顔と体が同時に強張った。……しばらくの間、直は波のようにゆらゆらを視線を彷徨わせた後。
「さ、さぁ~? な、な、何のことだか。オレには全く心当たりがありません。……で、ですよ?」
……駄目だ、どう見ても口からデマカセだ。
直は自分でも嘘が付けないと自覚しているし、すっかり雨は止んだというのに、頭から冷や水を流す今の自分はあからさまに挙動不審だと思う。
だから、今の言葉が明らかな嘘であると摩利夜が気付かないはずもないのだが。
摩利夜はしばらく直の顔を見つめた後「……そう」とだけ呟き、そのまま背を向け裏庭から立ち去ろうとするものだから、直は咄嗟に呼びとめてしまった。てっきり追い討ちをかけられると思っていたのに。それに嘘を付いたことに対して怒りもしないのだろうか。
足を止め振り返った摩利夜の顔に、怒気のようなものは感じられない。
「あ、えーっと。は、話はそれだけ? というか、それで終わりでいいの?」
「……何も持ちだしてないし、知らないんでしょ。なら、いいわ。……大体、今はそれどころじゃないし」
突風に邪魔をされ、最後のほうは上手く聞き取れなかったが、そう答える摩利夜はいつも通り冷淡白な空気を纏ったまま。けれど青い瞳の陰りから明らかな落胆の意が感じられる気がして、今更ながら強い罪悪感と、さっきまでとは違った焦りが直を襲う。
だけどそのあからさまな嘘は、摩利夜も確実に気付いているだろうに。ここで何事もなく引くというのも、何だからしくない。わざわざ放課後こんなところに呼び出しまでかけたというのに、その西山病院から持ち出された何か、については本当にもういいのだろうか。
……ん? そういえば……。
「あ、あのー。1つ質問が」
「何」
「そのー、大宝寺は何でオレが昨日、その西山何とか病院に行ったこと知ってるの?」
今まで全く疑問に思わなかったのも不思議だが、考えてみたらどうして摩利夜が昨日の出前のことを知っているのか。摩利夜と西山第三病院、その繋がりが全く見えない。そもそもあの病院は、病院の最後に(仮)と付いているなど正式な病院ではなかったはずだ。それなのに、どうして摩利夜はその病院を知っているのだろう。
直の質問に、摩利夜はしばし押し黙ったまま。やがて再び背を向け――。
「……その左手。軽い火傷みたいだけど一応、病院で診てもらったほうがいいんじゃない。じゃないとまたその荷物落とすだろうから」
そう言うと、一瞬何を言われたのか理解できず瞳をパチクリ固まる直を残し、そのまま裏庭を去っていった。
……うーん。結局、この呼び出しは一体なんだったんだろう。最後の質問にも結局答えてもらえなかったし、まさか用件を聞かされて更に疑問が増えるとは。
直は、荷物を抱えたまま左手の甲を見る。痛みは大分引いたもののまだそこは赤く腫れていた。確かに、さっきもコレが痛んだせいでバランスを崩してしまった。摩利夜の言うとおり、確かに一度病院で診てもらったほうがいいのかもしれないけれど。
「ここからだと……糸瀬木病院のほうが近いかなぁ」
誰もいなくなった裏庭で、直は雨上がりの空を仰ぎながらそう呟く。そこには、地面に敷き詰められた苔のように、ごわごわとすっきりしない空が一面に広がっていた。
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気付けば、亮太は喫茶ヴェルデ・マーレの前にいた。
全く習慣とは恐ろしいもので、どうやら半分意識がない状態でここまで歩いて来たらしい。今朝から……正確には昨日の放課後から、ずっと意識をふわふわと宙に浮かべ走馬灯のように周囲の出来事を流していた亮太だが、ふいにカメラのピントが合ったように、辺りの景色がはっきりと視界に映る。久しぶりに、しっかりと地面に足が着いた気がした。
(……もう、昼過ぎか。……っていうか、いつの間に学校終わったんだっけ。やばい、全く覚えてない)
午後2時過ぎ。腕時計で時刻を確認しながら、亮太はきょろきょろと辺りを見回す。
今日は終業式。つまり高校1年の最後の登校日だったというのに。何も覚えていないなんて、なんて寂しい締めくくりだろう。所々薄っすらと記憶はあるが、掃除の時間、ジャンケンに勝ったはずなのに何故か自分のモップがなくて仕方なく窓ふきをしていたとか……そんなどうでもいいことしか思い出せない。
もっとも、直と違い亮太は日頃から教科書やその他授業で必要なものはその都度持ち帰るようにしている。だから荷物の置き忘れ、なんてつまらないミスはないのだが。出来るなら最後の1日、せめて普段通り過ごしていたかったと心から思う。
……全く、それもこれも昨日の仲介屋を名乗る妙な女のせいで。
意識の目覚めとともにふつふつとわき上がる黒い苛々は、亮太の頭の中に、全身を黒で纏う女の姿を少しずつ鮮明に浮き上がらせていく。まだ一度しか会っていないのに、こんなにもはっきり思い出せるのは、色々な意味で強く印象に残る人物だったからだろう。
(確か、古林黒枯とか言ったっけ。母さんが成仏してないとかアイツが戻ってきたとか、適当なこと言いやがって)
考えてみれば、彩乃のこともあの男のことも全ては黒枯が勝手に言っているだけだ。何の根拠もなければ、そもそも事実である保障など何もないのに。なのに、それにこんなにも無様に踊らされている自分が、情けなくて仕方ない。
特に彩乃のことなんて、亮太を含め普通の人間には彼女が成仏しているかいないか、なんて分かるはずがない。黒枯もまた加羅都度が生み出した特有の人種”自称、幽霊の視える人”なのだろうか。何にせよ、身内の死を弄ばれているようで腹が立つことこの上ない。
……パキ。あの後、いつの間にか制服のポケットに入れられていた黒い名刺を持つ手に力が入る――。
――――帰ろう。
駄目だ。ゆっくりと、小さく息を吐いて。これ以上深みに嵌っては、またあの時の繰り返しではないか。心を静めて。もう、ごちゃごちゃ考えるのはやめにしよう。
結局、昨日はあれから夜までずっと墓地で座りこんでしまったのだ。あまり覚えてはいないが、義治や直にもきっと迷惑をかけたに違いない。早く帰ってそのことを謝罪し、店の手伝いに専念して。もう、忘れてしまおう。
亮太はヴェルデ・マーレの看板に背を向ける。大体、こんな状態では綾香にあわす顔もない。
「……あら、亮太君? いらっしゃ~い!」
普段なら、両手を上げて舞い踊りたいほど喜ぶべき素晴らしい偶然であるが。
カランと小気味よい鐘を鳴らせて扉から出てきたのは、店前の掃除をするつもりだったのか、いつものエプロン姿に箒を手にした綾香だった。亮太の姿を見つけると笑顔で駆け寄り来客を歓迎する。
「確か今日、終業式だったよね。1年間、お疲れさまでした」
「……あ、ど、どうも」
「…………?」
しかし、いつもの調子で声をかけたもののどこか様子のおかしい亮太に気付いたのか、綾香はじっと亮太の顔を見つめると、やがて、その表情を気遣わしげなものに変え……。
「……亮太君。もしかしてまた何か悩んでる? ひょっとして、その、亡くなったお母さんのこととか」
――え、な、何で分かるんだ。
何も言わずとも、そう思ったのが顔に出ていたのだろうか。綾香は眉尻を下げながら「やっぱり」と小さく笑って見せた。
綾香は、普段はおっとりしていて少々天然も入っているが、たまに妙に鋭いことがある。それ故、亮太は時々こんな風に驚かされているのだが。けれど今回に限っては、あまりにあっさりと見破られたおかげで、逆に気持ちが吹っ切れた気がした。
苦笑とはいえ、思わず自然と笑みがこぼれる。
「……オレって、そんなに分かりやすいですか?」
「んー。普段は、どっちかというと感情を上手く隠してるような気もするけど。でも、今は初めて会った時と同じ顔してたから」
初めて会った時というのは、4年前、亮太の母親である彩乃が死んで少し経った頃のことだ。あの時も今みたいに怒りや悲しみや悔しさやるせなさ、色々な感情が今以上に入り混じっていて。どうすればいいのか分からず、数日、いや1週間以上をかなり自暴自棄に過ごしていた。
それを考えると、こうしてわずか1日ほどで気持ちを回復させた今の自分は、あの頃より少しは成長しているようにも思えるが。
しかし、亮太の片想い歴もその時から始まっているのだから、今思えば本当に最悪の状態で知り合ったものだと思う。
……いや、最悪の状態から始まったのだから、それ以上下がることがないと思えばかえって良かったのだろうか?
「いや、なんか、ちょっと今ごちゃごちゃしてまして。……それにしても、時々思うんですけど、綾香さんって結構鋭いですよね」
その鋭さを、もうちょっと自分へ向けられる好意に発揮にしてくれると嬉しいんだけど。
「あはは。あんた、たまに鋭いよね~って友達にもよく言われるの。ま、それでも、友香には全然敵わないけどね」
そう笑顔を見せる綾香からは、妹に対する素直な尊敬の意が見て取れる。
友香の鋭敏さを十分熟知していた亮太も、思わず頷いてみせた。確かに友香は鋭いというか、異常に鋭い。
例えば、クラスで本当に些細ないざこざがあった時それに気付くのはまず友香だし、本人が感知するよりもずっと前に体調不良に気付く時もある。周囲の本当に細かいところまでよく見ているというか何と言うか。そして、それをすぐさま指摘し迅速に事態を収拾させる手腕はさすが小学1年の頃から毎年、委員長を務めているだけのことはある。
ただ直にとっては、彼女のその見通し能力が恐ろしく感じるらしく、それを利用し積み重ねられた友香の悪ふざけ効果もあり、今では彼女のことをエスパーだとすっかり信じ込み恐れ慄いてしまっているのだが。(元々、超能力の類が苦手だったらしいが)
ちなみに、亮太の恋心にいち早く気付いたのも友香なのであるが。こっちはからかうのがメインでちっともサポートに回ってくれないのが現状である。
「……でも、それなら大丈夫ね。あの時と同じなら、またあの時みたいに相談すればいいわ。せっかく傍に信頼できる友達がいるんだから」
「え?」
言葉を交わしつつもずっと俯いていた亮太だが、思わず顔を上げた先に、涼やかな微笑みの綾香と目が合った。
それからすぐ、『コラ、君! 何悩んでるか知らないけど、一人で悩んでちゃ駄目よ! ちゃんとそこの友達に相談しなさいっ!!』なんて、初めて会った時、彼女に一撃とともに一喝された情景が浮かんできて……。綾香の言わんとしていることを理解すると、亮太はやんわりと笑みを返す。
「……あの時は、あいつ、まだ友達じゃなかったんですどね。知り合ったばっかだったし」
「そうなの? 仲良さそうだったから、もう友達なのかと思ってたのに」
なぜだろう……自分でも不思議なくらい、今度こそ、すうっと、体から力が抜けるのを亮太は感じた。ずっと背負っていた荷物がふいに取り除かれて、反動で思わず地面から1センチぐらい浮き上がってしまいそうな、ちょっと驚きの混じる楽しい開放感。
綾香もそれに気付いたのだろう。驚いて見せながらも、その笑顔は先程までの気遣いの混じる遠慮がちなものではない、彼女らしい自然なものに見えた。ヴェルデ・マーレの名に相応しく、喫茶店の前には花壇が並び、緑の海の中に赤や黄色、紫、沢山の色が咲き誇っているが。それにだって少しも負けないくらいの。
それから、亮太は綾香の掃除を手伝いつつ、店先で色々なことを話した。綾香は、主に大学でのことや店の新メニューについて。亮太は、あまり覚えてはいないがつい先ほど学校でのこと。最近、近くに出来た中華料理店のこと。さりげなく、綾香に”杉原ラーメン店の看板娘”の話を振ってみたが、いつも通り見事な空振りで終わった。
「……えっと、じゃあオレ相談がてらそろそろ帰ります」
「うん。今度はまた2人でお店に来てねー! ちょうど試食してもらいたい新メニューもあるし――っと、あ、ちょっとごめんね、電話みたい」
言葉を遮ったのは、綾香の携帯が告げる電話の着信音だった。綾香は携帯を取り出すと慌てて画面を確認する。「出なくていいんですか?」と亮太が尋ねたのは、彼女が電話に出ることをせず、電源ボタンを押すと携帯を再び仕舞い込んだからだ。
今は接客中というわけでもないし、メールならともかく綾香の性格ならせめて相手に一言断ってから電話を切りそうなものだが。
普段気配りの出来る彼女しては珍しく礼を欠いた行動に、亮太は内心驚きを隠せない。
「ごめんね~。えっと、大学の……友達からだったんだけど。別に急ぎの用じゃないから大丈夫!」
だけど、綾香は普段通り明るく振る舞って見せるから。気にはなったものの、亮太はそれ以上の詮索を止めた。ひょっとしたら、あまり触れられたくないことなのかもしれないし。……はっ、まさか彼氏とかからだったりして!? いやいや、そんなのはいないハズだ。友香による情報なのだから間違いない。絶対。
亮太は綾香に「それじゃ、また来ます」と告げるとそのままヴェルデ・マーレを後にした。好きな人と少しをしたぐらいで元気になるなんて自分でも何だか単純に思うが、それでも綾香のおかげで随分、気持ちが楽になった気がする。アスファルトの上なのに、まるでスポンジケーキの上を歩いているように、足取りも軽やかだった。
(……さてと、じゃあまた相談するために直を探しますか。つっても、あいつ今どこにいるか分かんないけど)
綾香に会って確かに心は晴れたが、まだ完全にモヤが消えたわけではない。ここは彼女の言う通り4年前に倣うことにしよう。
沢山の車が行き交う中央交差点で、亮太は、ふと空を見上げた。クラクションの音が喧しいほどに鳴り続ける交差点。なのに、さっきはそれすら気付かなかったことを思うと不思議と少し嬉しくなった。
空は、相変わらず灰色の雲が広がっている。けれど、厚い雨雲の隙間から、少しだけ差し込むオレンジ色が見えた。