11:続・西山第三病院-2-
扉の向こうは、地下へと続く階段だった。
まるで、とぐろを巻く大蛇が奈落の底へと落ちていくように、長い螺旋状の階段が下へ下へと伸びている。弱々しい暗緑色の灯りが気休め程度に足元を照らす中、直は出前のラーメンが納められた岡持ちを水平に保ちながら一段一段、慎重に下っていった。
降り立った先には建物の外壁と同じく白が基調のホールのような空間が広がっていた。階段部分の仄暗い照明から一転、眩いばかりの光が高い天井から降り注ぎ、壁を、床に敷かれた白いタイルを眩く照らし出している。
恐らくこの地下空間こそが、ここ西山第三病院の中枢部なのだろう。照明の件もそうだが、冷蔵庫状態だった1階とは違い、ここは地下だというのに上着の必要がないぐらい温かい。
そして防音設備も十分すぎるほど整っているのだろうか。直はホールの中心に立つと「誰かいませんかー!」と再び声を上げるが、しかしやはり誰の応答もなく、ただ自らの声が壁を伝いこだまのように響くだけだった。
……これは困った。基本、楽天家の直ですら、心の隅にもやもやと焦燥の色が広がり始める。まさか出前に来てここまで人に会えないとは思ってもみなかった。うーん、どうしよう。
ホールの中をうろうろ歩き回り視線をあちこち彷徨わせ……ふと、先程下りてきた階段の丁度ま反対の場所に、ここから更に奥へと続く廊下があるのが目に留まる。規模はこちらのほうがはるかに大きいが、どうやら受付のあった1階と同じような似た構造になっているらしい。
さて、その1階にはここへと続く地下階段があったわけだが。だとすれば、あの先にも何かあるのだろうか――?
――沢山の扉があった。廊下は想像以上に長くのびていて、両端の壁には壁の色と同じ白い長方形の扉が等感覚に埋まっている。それぞれ扉横の壁には小さな長方形のくぼみがあり、白いプレートがはめられていた。
この、感じ……。
無個性な扉に無個性なプレート。同じものが延々と並ぶ光景を眺めながら、直はいつだったか昔、誰かのお見舞いに病院の一般病棟を訪れた時を思い出していた。お見舞いの品にと捕まえたダンゴ虫を掌で転がしながら、長い廊下を行ったり来たり。もっともあの時は、プレートにきちんと入院患者の名前が記されていたわけだが、当時は背が低くてプレートの名前が全然見えなくて……。
(……あれ? でもあの時、オレ誰のお見舞いに行ったんだっけ?)
困り果てながらあっちへこっちへ廊下を歩き回った光景はぼんやりと覚えているのに。……まぁいっか。と、そういえば、仮とはいえここは病院だったっけ。なるほど、建物全体が清潔感のある白で統一されているのは、ここが病院だからかもしれない。建物に足を踏み入れてから地下に到るまでずっと漂っている、薬品のような匂いも合わせて。
コンコン、……ガチャガチャ。
そのまま廊下の終点まで行くことも考えたが。中に誰かいないかと、直はまず扉を手前から順にノックしていくことにした。1つ目の扉は応答なし。ここまできたらやはりというべきか無人のようだった。
だが、今現在これだけの照明と暖房器具が働いている。これで誰もいません、なんて電力の無駄遣いも甚だしい。家だって学校だって、誰もいない時はテレビも電気も消すし、何よりも施錠を怠らないだろう。つまり裏を返すと、今ここに誰かいるからこそ入り口のカギが開いていたのだ。
直は念の為ノックの後しばらく反応を待った後ノブに手をかける。しかし施錠の音と固い手応えが不在証明の確認を改めてさせてくれるだけだった。……仕方ない、次の扉だ。
コンコン、ガチャガチャ。コンコン、ガチャガチャ。コンコンコン……。
いつ当たりがくるか分からない。そもそも当たりはないのかもしれない。鬱々とした単調作業の繰り返しだが、こういった事に関して特に意味もなく直は妙に根気強いところがあった。やや声の張りはなくなったものの「誰かいますかー?」と、これで丁度15枚目の扉になる。
――ガチャ。
その時、レバー式のドアノブが大きく傾き真っ黒な空間を一筋の白い光が切り裂いた。いくら根気があるといってもさすがに15もハズレが続くともう諦め半分。まさか今、開くと思っていなかったから、直の体も扉と一緒に前に大きく傾く。……危うく転倒しそうになったところをギリギリ踏みとどまった。
危い危ない、ほっと一息。自分だけならまだしも今はスープがなみなみと盛られた杉原ラーメン店の定番メニュー、とんこつラーメンと一緒なのだ。この状態でこけていたら大惨事になっていただろう。さっき傾いたせいでメンマとか飛び出してなければいいけど。
直はそーっと岡持ちを床に置いてから、真っ暗な室内に目を凝らしてみる。
(……なんだろう、あれ?)
すると、部屋の奥に何やら赤い光が浮いているのが見えた。赤と一言にいっても、夕焼けのような自然の赤ではない、どちらかといえば信号機のような人工的に作られた色に見える。けれども色合い深く、惹き付けられる赤。
気付いたら、直はふらふらと部屋の中に足を踏み入れていた。誘い込まれるように、真っ直ぐに赤い光の元へ。
部屋は物置や倉庫として使われているのだろうか。暗闇を進む途中、何度か躓きかけ腕や肩もぶつけた。今思えば壁を探りまず灯りを得るべきだったが、とりあえず岡持ちを扉の前に置いてきた自分、万歳。
徐々に目が慣れてくると、ぶつけた原因が床に無造作に置かれた段ボール、そして部屋をぐるっと囲うように立てられた高さ2メートルを超えるスチールラックであると理解できた。
それらには大量の書籍や紙類、大ビン小ビン、何に使うかよく分からない部品や備品のようなもの(一応病院らしいから医療道具かもしれない)が乱雑に詰められていた。部屋の大掃除をする時、とりあえず段ボールに必要なものと処分するものを分けて入れておく時のような、そんな適当な感じで。
パクリと、うっかり段ボールの大口に片足を食べられて、ようやく直は赤い光にたどり着く。遠目で見て不思議に見えたそれは、近くで見るともっと不思議で、そして不可解だった。
……部屋の中に浮いているように見えた光、それが本当に宙に浮いている……?
赤い光は部屋の一番奥の壁に立てられたスチールラックの3段目、大量の小ビンと一緒に置かれていた。科学の実験で使いそうな丸いシャーレの上、約15センチのところに。ゆらゆらと、まるで波間に浮かぶメッセージボトルのように上下にゆっくりと揺れている。そしてトクントクンと脈打つ鼓動のように、赤い光が強まったり弱まったりを繰り返している。
無意識に手が伸びていた。ゆっくりと、人差し指と親指で挟み込むように。
ひょっとしたら静電気のようなもので弾かれるのではないか――、そんな考えが赤い光に触れた後に浮かんでくるが、どうやら杞憂だったようだ。
直は、指先で光る赤い色をまじまじと見つめる。よく見るとそれは単なる赤い光ではなく、市販の風邪薬で見るような小さなカプセルだった。そこから赤い光が漏れだしているのだ。
……だけど、あれ、気のせいだろうか。なんだかこれ、温かい、ような……?
「――誰か、いる?」
その時、声が響き、突然ドンと後ろから誰かに背中を押されたような衝撃。
反射的に、直はカプセルを持った手をズボンのポケットに突っ込んでいた。集中していたのだろうか、開けっ放しだった扉の向こうに誰かの影が映り込んだことに全く気付かなかったらしい。
扉の前に立つ影は、逆光で顔も体も全て黒で塗りつぶされている。けれど、じっとこちらを伺う視線を感じる。今、自分はあの影に姿を捉えられているのだろうか。どうしよう。どうすれば……!?
――西暦20XX年、日本。黒い噂が絶えない悪の組織、その本部に侵入した正義団体ジャスティス・オーガニゼーション(Justice Organization 略してJO)の一員、直はついにその元凶、赤い光を放つ謎のカプセルを発見する。しかし、それを持ち帰ろうとしていた矢先、偶然通りかかった組織のメンバーに見つかってしまい訪れる絶体絶命の危機。このピンチをいかに切り抜けるのか、どうする新人正義団員、直――。
いつの間にか手には大量の汗。自分は出前というある意味、大義名分がありここにいるはずなのに、どうしてこんな緊迫した情景が頭の中のスクリーンで上映されているのだろう。
…………ん? 出前?
酸欠状態の金魚のようにパクパクと口を動かし青い顔でしばらく固まっていた直だが、はたとある事に気付く。そう、あの影は悪の組織のメンバーなんかじゃない。ここに来てからずっとずっと探していた”人”ではないか。これでやっと出前のラーメンを届けられる。
我に返った直は足もとの段ボールを飛び越え大急ぎで影にかけよる。暗い室内から廊下に出ると、黒い影は白衣を纏った青年へと姿を変えた。
「あ、あの、すいません! オレ、杉原ラーメン店の者ですけど、上に誰もいなかったのでー、ええとー」
「あぁ、もしかして出前の人? ……ということは、なーさんか。あの人も毎日毎日、飽きないなぁ」
理由はともあれ無断で地下や部屋の中にまで入り込んでいたのだ。きっと咎められるに違いないと身を固くしていた直だが、青年はそのことには特に触れず、呆れたように肩をすくめてみせた後、直に向かい合う。
「じゃあ、それは俺が渡しておくから。確か代金は払ってるんだったよね。わざわざこんなところまでどうも……って、あれ?」
「あ、じゃあよろしくお願いしま……って、は、はい!?」
言われた通り、出前の料金は事前に受け取り済みだった。だから青年の申し出に、直は岡持ちから出前のラーメンを取り出すと真っ直ぐ青年の前に差し出したのに。青年はそれを受け取ろうとした手をすんでで止めて、そのまま人差し指で黒縁眼鏡をかけなおしながら、じーっと直の顔を眺める。
な、な、なんだろう。何か顔に付いているのだろうか。それとも何か自分に怪しいところでも……。
あ。そういえば、さっき声をかけられた時、ついポケットにあの謎のカプセルを突っ込んでしまったんだった。もしかして、それを、見られていて……。
「――あぁ、思い出した。君、確か、芦田直君だよね」
「えぇ!?」
正真正銘、初対面であるはずの青年に突然、自分のフルネームを呼ばれ、直が目を丸くしながら垂直に小さく飛ぶと、器の中でもメンマが小さく跳ねた。
ドクドクと直の心臓が脈打つ。……デジャヴ。そう、前にもこんなことがあった。自分は名乗っていないのに、どういうわけかあの人は名前を知っていて……というか名乗らずとも相手の名前が解るということは、つまりこの人も同じなわけで……ま、まさか!?
「あ、あ、あ、あの……。も、もしかして、あなたも委員長と同じエスパーですか……?」
「……えすぱー? ……いや、俺はこういうものだけど」
何故だか突然ガタガタと全身を震わす直。揺れが伝導し差し出されたラーメンのスープも器ギリギリのところで波打っている。
(……あ。そういえば、俺が一方的に知ってるだけで芳田君とは初対面だったっけ)
一方、青年の方はというと。そんな直の様子からようやく認識のズレに気付き改めて昨日の記憶を呼び起こしていたが。それでも表には特に何の変化も見せることはなく。よく分からないが、とりあえず”えすぱー”の否定をすると、一番最初から変わらぬ淡々とした口調で「はじめまして」と首に下げていたネームプレートを直に差し出した。
名刺サイズの白いネームプレートには青年の名前とロゴのようなマーク。
ラーメンを持ったままずっと震え続けていた直だが、青年の「はじめまして」で、やはり初対面であったことに安堵したのか、あるいはエスパーへの否定で心が落ちつきを取り戻したのか。先程までの動揺ぶりはどこへやら、ぴたりと震いを止めるとほっと一息。ネームプレートをまじまじと覗き込んだ後、改めてラーメン鉢差し出しながら――。
「どうも、はじめまして! 杉原ラーメン店のバイト1号、芳田直です! ……えーっと、チバ、ダーさん!!」
「…………チバじゃなくてセンバで、ダーじゃなくてダイチって読むんだけどね」
「ええええ!? あ~、すいません、すいません!!」
どうやら名字も名前も思いっきり読み間違えていたらしい。直はラーメン鉢を無事手渡すとほぼ同時に、先ほど声を掛けられた時同様、再び顔を青色に染め腰を90度折り曲げながらペコペコと頭を下げる。
「……いや、別にいいよ。基本的にどう呼んでもらっても構わないし」
名前なんて所詮、個人を見分けるだけの記号みたいなものなのだ。
青年――千場堕一は、しかしラーメン鉢を受け取りながら、そんな直のみょうちきりんな間違いにもやはり表情を変化させることなく。それにしてもセンバをチバはともかくダイチをダーと読むなんて、ひょっとしてあの人と同じく漢字の”一”を横棒の”―”として考えたのだろうか、などとぼんやり思いながら。いつまで経ってもペコペコが止まらない直に一応のフォローを入れる。
というのも実際、これまで”千場”を”チバ”と読まれたことは少なくなく。……それに正直、自分の名前、漢字で考えると実に4分の3は、嫌いだった。忌み嫌っていると言ってもいい。
だから堕一は、名前を言い間違えられようが読み間違えられようが、別にどうでもいいのだ。むしろ直みたく妙な?呼ばれ方も有りかもしれない。
すると堕一の言葉に、直はピタリと動きを止め……上げた顔は、花が咲いたような満面の笑みだった。
「そうですか、よかった! ……うーん、じゃあ、これからはイチさんで!!」
「……ッ」
一瞬だけ、思いがけず普段はほぼ無表情といっていい堕一の両目が見開かれる。まさか残りの4分の1だけをずばり言われるなんて思いもしなかったから。もちろん偶然だろうが。
堕一は静かに平静を取り戻すと、やや不安そうに瞳を揺らしじっとこちらの様子を伺う直に、その呼び方でいいと了承の意を伝えると、直は「わーい」と、大きく両手を広げその場でくるくると回りだした。
……右の足は折り曲げて、だったから。3周しないうちにそれが床の上の岡持ちに直撃しガシャンと激しい音がして。直は右足首を押さえ口から声にならない叫びをうねり出しながら、今度は床の上を跳ね回る。これはかなり痛そうだが……。
「それより、直君。随分、長い間ここを彷徨ってたらしいけど、出前の途中なら早く戻ったほうがいいんじゃない」
「……えっ!? あ、そ、そうだった!」
直が回転し足を岡持ちに激突させ飛び回っている間、先程、受け取ったラーメン鉢をずっと両手に持っていた堕一だったが、その器がすっかり冷え切っていることに気付いていた。どうやら直は本当に長い時間ここにいたらしい。
全く、1階の受付嬢がサボらずきちんと仕事をこなしてくれていれば、こんなことにはならなかったろうにと、堕一は直が気付かないような小さなため息。
直は、ぶつけたせいで床に転がった岡持ちを「ぶつけてすいません」と軽く撫でてから手に取ると、堕一に向かってビシっと敬礼の姿勢を取った。
「それでは、イチさん。出前の業務を無事終えましたのでオレはこれにて! しっつれいしま~す!!」
「直君、走ると危ないよ」
やはり相当に痛かったのか、にっこり笑顔な直の両目にはうっすらと涙がたまっていたが。言い終わるや否や踵を返し猛スピードで廊下をかけていった。多分、堕一の忠告は届いていなかったのだろう。
……しばらくして、天井のはるか上のほうから「わー」という声と、床に大量の食器がぶちまけられたような盛大な金属音。だから走ると危ないと言ったのに。どうやら転んだらしい。地下まで聞こえてくるなんて、一体どんな派手な転倒の仕方をしたのやら。
様子を見に行くべきか。しかし1階に上がるのは地味に時間が掛かるし、……正直、面倒い。恐らく無事だろうと自己判断した堕一は、ささっと思考を切り替える。と、ここへ来た本来の目的が頭の中に蘇ってきた。休憩がてら自販機に行こうとした自分に『お~い、千場~。すまん、あそこのカギうっかり閉め忘れた、ついでに閉めてきてくれ~』と椅子に逆ブリッジの姿勢で腰掛けながら、悪気もなしに言い放つ名々尾駿平の姿と一緒に。
名々尾のそんな飄々とした振る舞いは別にいつものことだし、責めるつもりもないが。本来この部屋は厳重に管理されなければならないというのに、少々危機管理に欠けているのではないだろうか。……まぁ、これも別にわざわざ自分が言う必要はないか。誰もかれも、他人のことには関わらないのが一番なのだから。
それでもせめて今度コーヒーの1本でも奢ってもらおうと思いながら、開けっ放しだった扉に向かい、堕一は首からネームプレートを外す。これは身分証明と同時にカード式のカギでもあるのだ。
(…………あれ)
しかし、いざ扉を閉めようとした時、ある違和感。ここが厳重に管理されなくてはならないそもそもの原因であるそれが……ない?
その瞬間、直に声をかけた時の光景が頭に浮かんだ。ひどく慌てた様子で、何かを仕舞い込んだ。あの時は気にも留めていなかったが、……ひょっとして。
堕一は直の走り去った廊下を見やり。少しの間、何かしら考えた後、白衣のポケットから携帯電話を取り出し通話ボタンを押す。3回目のコール音の後、相手がそれに応じた。
「あ、もしもし、摩利夜ちゃん。実は昨日の直君のことで、また頼みたいことがあるんだけど――」