01:前奏曲-導火線-
――聞こえるのは、1つの足音と、緩やかに奏でられるピアノの音だけ。
ここは、加羅都度市にある高校の1つ、私立加羅都度高等学校。正確に言えば、その旧校舎にあたる3階の廊下だ。
一部例外はあるものの、この校舎は数年前に大掛かりな工事が入り、その外観・内装は、実は本校舎よりも真新しい。そのため旧校舎とはいえ、いくつかの教室・専門教室が並ぶこの建物に訪れる生徒は、普段からそれなりに多かった。
だが現在、時計は夜の10時を回り照明もすでになく。
校舎全体は暗闇と静寂に包まれ、休み時間になれば生徒たちの賑やかな声が溢れる教室や廊下も、今はただただ沈黙を貫いている。
さすがにこの時間、この旧校舎を訪れる生徒は誰一人いないだろう。
……ただ一人、足音の主である女子生徒をのぞいて。
真っ黒にのびる廊下を、女子生徒は窓から差し込むわずかな月明かりと、右手に持つ懐中電灯の光を頼りに1人歩く。目指す場所はこの最奥にあった。
1歩進む度に、より鮮明なメロディーが鼓膜を震わす。……やはり噂通り、ピアノの音はあの場所から聞こえてくるようだった。
女子生徒はふいに足を止めると、俯き小さくため息を吐き出す。
制服の上にコートを羽織っているものの、3月初旬の夜はまだ凍えるほどに寒い。
それは薄闇の廊下にぼんやりとした白さを残すと、まるで尽き果てる魂のように、ゆっくりとやがて消えていった。
その光景は、少しだけ不気味に見える。
加羅都度高校には、いくつか怪談が存在している。
たとえばそれは、深夜の美術室で毎夜生首がゆらゆらと宙を漂うという話。
たとえばそれは、2階女子トイレの奥から3番目の個室に入ると、どこからか女のすすり泣く声が聞こえるという話。
たとえばそれは、毎月3日と4日のちょうど境の時刻になると、普段は開かずの元2-F教室の扉が開いており、うっかり中に踏み入れば二度とそこから出られなくなるのだという、
詮ずるところ 、幽霊や都市伝説といった類を好む、一部の生徒たちの間でのみ囁かれる流言飛語に過ぎない。
だが彼らによると、それらの中でもっとも多くの噂を持ち、もっとも多くの舞台となるのが……この旧校舎なのだという。
実際、先ほど挙げた3つの怪談も全てこの旧校舎が舞台となっており、
今、女子生徒が目指す先――加羅都度高校旧校舎3階の最奥に位置する音楽室にも、そんな怪談の1つが囁かれていた。
……その噂が囁かれ始めたのは、つい1週間ほど前のこと。
それは誰もいないはずの音楽室から深夜ピアノの音が聞こえてくるという、音楽室を題材にした怪談には実によくありがちな話だった。
女子生徒は、幽霊や怪談などといった非科学的な存在や噂は全く信じていない。
だから今日、昼休みに友人がその音楽室の話をしていた時も、正直バカバカしくて聞く気になれず、聞き耳半分で曖昧に返事をしながら、ずっとお弁当を食べることに集中していたのだ。
……友人の口から、その名前が出てくるまでは。
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「ちょっと、今何て言った!?」
思わず席を立ち、つい声を荒げると、ちょうど口に入れたばかりのタコ型ウインナーが勢いよく飛び出す。
それは昼食のパンを片手に、驚きの表情でこちらを見上げる友人のひたいに見事にぶつかった。
「…………何って、何がよ」
少しの無言の後、きっちりと揃えた前髪を指で丁寧に直しながら答える彼女の顔は当然しかめっ面に変わり。当のタコウインナーは我関せずといった様子でコロコロと机の上を転がっていく。
そんな様子を横目に眺めながら、私は突然叫んだことでクラス中の注目を浴びていることにようやく気付き、こほんと軽く咳払いをした後、なんでもないという風を装いながらあわてて腰を下ろす。そして再び友人に向かい直すと、身を乗り出し声をひそめた。
「だから、さっき言ってた音楽室の話よ。……そこで、詩織の幽霊を見たとか言わなかった?」
「……あぁ、その話ね。……確かに、詩織を見たって言ってたわよ。
……まぁ、深夜で教室は真っ暗だったっていうし、……その子も、ひょっとしたら見間違いかもしれない、とも言ってたけど」
もごもごと購買で2番人気の焼きそばパンにかじりつきながら、目の前の友人――日野友香は実に気だるそうに答える。恐らくは、つい先ほどのタコウインナーの一件と、彼女の話にこれまでずっと聞き耳半分だった私が突如掌を返し、真剣に耳を傾け始めたことが面白くないのだろうが……。とにかく今は早急に詳細を聞かせてほしい。
私は友香の前で両手をパンと合わせると、頭を垂れ謝罪の言葉を伝え、「もう一度詳しい話を聞かせてください!!」と力一杯・精一杯の姿勢で訴える。すると友香はやれやれといった様子でため息をつき、ゆっくりとした動作でペットポトルのお茶を一口含んだ後、再び話を一番最初に巻き戻し。そして聞かせてくれた。
2日前の深夜、友香と同じ生徒会に所属する女子生徒の1人が実際に体験したという、その音楽室の怪談を。
……聞くところによると、その日その女子生徒は生徒会の仕事で深夜までずっと旧校舎にある資料室で作業をしており、夜の10時を過ぎた頃、突然ピアノが鳴り響くの聞いたのだという。資料室のすぐ隣には音楽室があり、普段ならば、ピアノの音が聞こえてもさして不思議なことではないのだが、時刻が夜の10時をすでに回っていたこともあり、さすがにおかしいと思ったその女子生徒は作業の手を止め隣の音楽室まで様子を見に行ったらしいのだ。そしてそこで、ピアノを弾く詩織の幽霊を見たのだという……。
「でも、そんなの絶対におかしいじゃない! 何で詩織がそんな夜中に! わざわざ学校の音楽室でピアノを弾かなきゃならないのよ!?」
「うーん、時間はともかく、詩織がピアノを弾いてるってこと自体は何の不思議もないんだけどねぇ。
……っていうか、あのさ。さっきも言ったけど、これは本人も見間違いかも知れないって言ってる程度の曖昧な話なんだからね」
再び声を荒げる私に、そんなに怒らなくったっていいのに、と呑気な様子で友香も再び焼きそばパンにかじりつくが、これが怒らずにいられることだろうか。
確かに詩織は病弱だし、特に最近は体調がよくないみたいで、今日も昼前には早引きしてしまったけれど。
だからと言って人の親友を幽霊だなんて、まるでもう死んでしまった人みたいに……!!
「大体、詩織の幽霊って何よ、幽霊って!? 詩織はまだ生きてんのよ! それじゃあまるで詩織がもう死んじゃってるみたいじゃない!!」
心に浮かんだままをそのまま言葉に吐き出し、怒気のこもった両手で机を激しく叩くと、再びクラス中の視線がこちらに集まる。
だが友香はそんな周囲と私を特に気にする様子はなく、特に慌てる様子もなく、私に小さく落ちつけと言った後、右手の人差し指でトントンと机を叩き着席を促した。
もちろん落ち着けと言われたぐらいで落ち着けるはずもないのだが、友香のその相変わらずの冷静沈着ぶりに、私は半ば感心、半ば呆れながらもとりあえず腰を下ろす。
それを確認すると、友香は再び口を開いた。
「……何でも、そのピアノを弾いてたっていう詩織……その子いわく多分詩織がだけど、突然目の前で煙にみたいにすーっと消えちゃったらしいのよね。……まるで幽霊にみたいに」
「だからその子もびっくりして咄嗟に幽霊だと思っちゃっただけで別に悪気はないわよ」とすっかり頭に血が上りきった私に、まるで幼稚園の先生が園児を窘めるように、ゆっくりと諭すような口調で友香は続ける。
同年齢の友人にそんな風に接されると、何だか小馬鹿にされているような、情けないような、そんな複雑な気持ちになってしまうのだが……。
(確かに、人間がそんな風に消えれば誰だって驚くだろうし……。その子が突然消えた詩織を見てつい幽霊だと例えてしまう気持ちも、分かるような……気はするかも知れないけど)
友香の諭しに、いくら親友のこととはいえ少しばかり熱くなり過ぎたかなと、私はしばらくの間無言で思案し、落ち着きと冷静さを取り戻しかける。
だが。
「そういや、最近噂になってないー? ほら夜、音楽室からピアノの音が聞こえるって話」
「あぁ、私も聞いたことあるある! しかもうちのクラスの山本詩織の幽霊が出るんでしょ!? 怖~!」
……クスクスと笑いながら実に楽しそうに語り合う。私の背後約3メートル15センチ7ミリメートルの距離から聞こえてきた、いわゆるその手の話が大好きなクラスメイトたちの(本人たちにとっては)こそこそ話に、消えかけていた怒りの炎は再び発火した。
無意識のうちにお弁当用のフォークを右手にがしりと掴むと、首だけをぐるりと180度回転し、ぶつぶつと怨嗟の言葉を呟きながらそのクラスメイトたちをじっと食い入るように睨みつける。自分では見えないが、多分今、私の目からはギラギラとしたどす黒い狂気のオーラが出ているに違いない。私と奴らの間に挟まれ、偶然にもちょうど私と向かい合うかたちで座る男子生徒の顔が、心なしか涙目になっている気がする。
「ちょっと、怖いからやめなさいってば。っていうか、早く食べないと昼休みあと10分で終わるわよ」
そんな可哀想な彼の様子に気付いたのか、友香はぽこぽこと私の後頭部をお茶のペットボトル?で叩き、とりあえずこちらを向かそうとする。だが、それでも尚ぶつぶつと彼女らを睨み続ける私に、さすがの友香にも危機意識が芽生えたのだろうか。……少しの時間の後、何か名案を思いついたかのようにポンと手を叩き、彼女にしては珍しい少しだけ慌てた口調で私に1つの提案を示した。
「あ、あー、それならさぁ? あんた今晩、直接音楽室に行って確かめてきたら?
もしくは……幽霊関連だし、大宝寺さんか、そこでパン握ったまま机に突っ伏してる芳田君に聞くって手もあるけど」
――音楽室に、私が直接、行って確かめてきたら?
その言葉――正確には前半部分だけだが、を聞いた瞬間、私の脳天に一筋の電光が落ち、少々オーバーではあるが、友香の言葉を通してまるで天啓を得たように感じた。これまではただ話を否定することしか頭になかったわけだが、なるほど直接自分の目で確かめるのが一番早いし何より納得がいく。
私はピタリと動きを止め。再び首だけをぐるりと戻すと、友香が呆れながらも安堵のため息をつき、軽く笑みを浮かべるのが見えた。だが次の瞬間、私の両目が爛々と輝いていることに気付くと、友香は長年の付き合いから早々とそれが意味することを察し、その笑いを自嘲的なものに変える。
「……いや、今のはちょっとした冗談であって。本気に取られても、あたしとっても困るんだけどさぁ?」
友香にとっては、私をとりあえずこちら側に戻すためのちょっとした提案だったのだろうが、私にとってはまさに天啓・妙案だった。
余計なことを言った、といわんばかりに表情を歪める友香に、満面の笑顔でありがとうと呟くと、私は決意を拳に握り締め、ゆっくりと席を立ち、……それをクラス中に高々と宣言する。
「よし決めた! その音楽室の怪談、本当かどうか私が今晩確かめて来てやろうじゃないの!! それで、詩織の無実を証明してやる!!」
そんな私の突然の大宣言は、クラスの全員に、こそこそと怪談話を囁きあっていたあのクラスメイトたちの耳にも当然入り、一体何事かと訝しげな視線を向けるが、むしろ私は口元をつり上げニヤリとした笑み返してやる。
そもそも幽霊なんて非科学的なものがこの世に存在するわけがないのだから、確かめに行くといっても何の心配もないし。
…………仮に百歩譲って本当に幽霊が出たとしても、それが詩織じゃないってことが証明できれば、私はそれで十分なわけだし。
もちろん、一生徒である私がセキュリティのばっちりかかった深夜の旧校舎に赴くなんて、そう簡単にはいかないだろうが。その辺りの細かい作戦は友香にも一緒に考えてもらうとして、まぁ何とかなるだろう。
基本が楽観思考な私は、あまり深く考えるのことはやめ、満足げな笑みを浮かべながら鼻歌交じりに腰をおろすと、早速今晩の計画を立てようと適当なノートを机の中から引っ張り出し、パラパラと空いたページを探す。
かれこれ約10年間。幼少の頃から、私が一度決めたことは何をどう説得しても徹底して断固貫く性分を知っている友香は、そんな私にもはや制止の言葉などかけず……。ただ静かに深いため息を吐き出すと、顎に手をのせ机の端でギリギリ止まるそれをじっとりとした視線で見つめながら、一言だけ呟いた。
「とりあえずさぁ、あずさ。もうすぐ昼休み終わるし、その吹き出したタコウインナーだけ先にどうにかしてくれない」