「きみを愛する気はない」と言われて三年、まだ溺愛が始まりません
1. 愛さないと言われて三年、まだ溺愛が始まりません
婚礼の夜、夫となった人は寝室の扉の前で立ち止まり、こちらを見ずにこう言った。
「先に伝えておく。私が君を愛することは、ない」
わたしは息を呑んだ。
呑んだふりをした、というほうが正確かもしれない。
――来た。
心の中で、わたしは拳を握っている。
来た。来ました。出ました。初夜の「君を愛することはない」宣言。
これを言われた妻は、半年後にはこの世の春を謳歌している。それが世の理である。
「……承知いたしました」
わたしは静かに頭を下げた。声は震わせた。震わせるべき場面なので。
アルヴィン・フォン・ノルデンフェルト辺境伯。24歳。黒髪に灰色の目。北の国境を守る武人で、口数が極端に少なく、笑ったところを見た者がいないという。
その人が、扉の前でわずかに動きを止めた。
「……ああ」
そして、出ていった。
扉が閉まる。
わたしはひとり残された寝室で、天蓋を見上げながら、満足にうなずいていた。
完璧な立ち上がりだ。
ここから溺愛が始まる。
◇
わたしはソフィア・エーレンフェルト。伯爵家の三女で、18歳。
この縁談が決まったとき、父は申し訳なさそうな顔をしていた。北の辺境伯。王都から馬車で七日。寒くて、娯楽がなく、当主は笑わぬと評判の男。三女を押しつけるには、ちょうどよい嫁ぎ先というわけである。
わたしは一度も嫌がらなかった。
嫌がるどころか、内心では小躍りしていた。
そして、前世の記憶がある。
前世のわたしは、どこにでもいる会社員だった。仕事は普通にこなし、友人も人並みにいて、特筆すべきことは何もない。
ひとつだけ挙げるなら、小説を読んでいた。
毎晩、寝る前に二時間。昼休みに一時間。通勤電車で往復一時間。土日は一日中。ジャンルは決まっていて、「愛さないと言われた妻が溺愛される話」ばかり読んでいた。
三百冊を超えたあたりで、数えるのはやめている。それ以上は、数えたくない。
だから、知っている。
この宣言のあとに何が起きるかを、わたしは誰よりも知っている。
夫は最初、妻を遠ざける。妻は期待せず、務めだけを果たす。やがて夫は妻の有能さに気づき、他の男と話す姿に動揺し、気づけば目で追っている。そして半年から一年のうちに、堰を切ったように溺愛が始まる。
そういうものなのだ。
わたしがやるべきことも、はっきりしている。
一つ、期待しないこと。
二つ、務めは完璧に果たすこと。
三つ、こちらからは絶対に求めないこと。
教科書は頭に入っている。三百冊ぶんの教科書が。
――さあ、始めましょう。
◇
一年目の春。
嫁いだのは前の年の秋の終わりで、最初の冬は屋敷の勝手を覚えるうちに過ぎている。
ノルデンフェルト家の屋敷は、王都から馬車で七日の北にある。石造りで、暖炉が多く、使用人は四十人ほど。
雪が溶けはじめたころ、わたしは女主人として、まず家計簿を開いた。
三日かけて読み、燭台の蝋の調達先が二十年変わっていないこと、北の村からの穀物買付に不自然な上乗せがあることを見つけた。
報告書にまとめ、家令のハインツに渡す。
六十近い家令は、書類を三度読み返した。
「奥様。これは、どちらで」
「帳簿に書いてございましたので」
「……二十年、誰も気づきませんでした」
「そうですか」
わたしは淡々と答えた。淡々と答えるのが作法である。ここで得意顔をすると、台無しになる。
その夜、晩餐の席で、ハインツが旦那様に報告した。
アルヴィン様はスープを飲む手を止め、わたしのほうを見た。
来る。
「そうか」
来ない。
「よくやった」
それだけ言って、彼はスープに戻った。
――いや、まだです。
まだ一年目の春。溺愛の立ち上がりは、早くて半年、遅ければ一年。むしろここで早すぎるほうが不自然。
わたしは自分に言い聞かせながら、スープを飲んだ。
◇
一年目の夏。
わたしの誕生日に、贈り物が届いた。
包みを開けると、毛皮の外套が出てきた。灰色の、上質な、どう見ても北の冬を越すための実用品である。
添え状はない。花もない。手紙の一行もない。
わたしは外套を膝に広げ、しばらく考えた。
考えた末に、こう結論した。
――これは「不器用な男の精一杯」である。
溺愛ものにおける不器用枠の夫は、最初の贈り物で必ず実用品を選ぶ。宝石ではなく外套、花ではなく薬。そして妻は後から知るのだ。その外套が、国でただ二着しかない希少な毛皮であったことを。
わたしは翌日、ハインツにそれとなく尋ねた。
「この毛皮、めずらしいものかしら」
「いえ。北では誰でも着ております」
「……そう」
「冬までに一枚お持ちでないと凍えますので、旦那様が手配なさいました」
実用品だった。
ただの実用品だった。
わたしは外套を抱えて自室に戻り、鏡の前で広げてみた。
暖かそうではある。確かに、暖かそうではあった。
◇
一年目の秋。
領地に問題が起きた。
北の村で、穀物の収穫が例年の六割に落ちた。村は税の減免を願い出て、代官はこれを拒んだ。村の長が屋敷に直訴に来て、玄関先で揉めた。
わたしは帳簿を持って出た。
「代官殿。過去二十年の収量をお持ちしました」
「奥様、これは領地の話で」
「ええ。ですから帳簿でございます」
わたしは数字を並べた。この村の収量は、十年前から緩やかに落ち続けている。今年が特別に悪いのではなく、土が痩せているのだ。減免だけでは来年も同じになる。必要なのは輪作の変更と、三年間の種籾の貸与。
「貸与の原資は、燭台の調達先を変えた差額で足ります」
代官は、口を開けたまま黙った。
村長は、わたしに三度頭を下げて帰っていく。
その話をハインツから聞いたアルヴィン様は、わたしを見て、こう言った。
「そうか」
「はい」
「助かった」
それだけだった。
わたしは自室に戻り、窓の外の暗い畑を眺めて過ごす。腹が立っているわけではない。ただ、少し疲れている。
◇
一年目の冬。
北の冬は厳しい。そして、わたしは風邪をひいた。
三日寝込んだ。熱は高くなかったが、咳が止まらなかった。
三日目の夜、扉が開いた。
アルヴィン様が立っていた。
――これだ。
これである。看病イベント。溺愛ものにおける第一関門にして最重要地点。ここで夫は初めて妻の体温に触れ、自分の感情に気づくのだ。
わたしは目を閉じた。弱々しく、しかし健気に。
足音が近づいてくる。
止まった。
「医師は呼んだか」
「……はい」
「そうか」
足音が遠ざかっていく。
扉が閉まった。
わたしは目を開けた。
天井が見えた。
――まだ、です。
まだ一年目。彼は不器用な武人。感情の表現を知らない人なのだ。むしろ扉まで来た時点で大きな前進ではないか。
翌朝、枕元に蜂蜜の壺が置いてある。
わたしはそれを見て、三十分ほど一人で盛り上がる。
後で知ったのだが、あれを運んできたのはハインツである。
◇
二年目の春、親戚が来る。
アルヴィン様の叔母にあたる方で、王都に屋敷を持ち、北を田舎と呼んではばからない人である。
晩餐の席で、その方はこう切り出した。
「ソフィアさん。お子は、まだ?」
スープの匙が、卓の上で一斉に止まる気配がした。
「……はい」
「一年半になりますわね」
「さようでございます」
「北は寒いから。女の体には障りますのよ」
わたしは黙って頭を下げる。ここで言い返すのは作法に反する。耐える妻の姿を夫が見ている。それがこのジャンルの基本である。
――さあ。
ここで夫が庇う。「私の妻に何を言う」と。溺愛ものにおける最頻出の、最も気持ちのよい場面。
わたしは目を伏せたまま、待った。
アルヴィン様は、パンを千切っていた。
叔母様が二巡目の嫌味に入り、三巡目に差しかかり、デザートが運ばれてきても、彼は何も言わなかった。
その夜、わたしは自室で枕を殴った。
――耐えていらっしゃる。
――感情を表に出さぬ修練を積んでいらっしゃるのだ。
そう思うことにした。思うことにして、三日ほど食事が喉を通らなかった。
◇
二年目に入っても、溺愛は始まらない。
いや、正確に言えば、起きてはいる。
アルヴィン様は、わたしが寒そうにしていると上着を掛ける。わたしが書類を読んでいると燭台を一本増やす。わたしが馬車に乗るとき、必ず手を貸す。
全部、やってくれている。
ただし、一言も喋らない。
上着を掛ける。何も言わない。燭台を置く。何も言わない。手を貸す。何も言わない。
――耐えている。
わたしはそう解釈した。
溺愛ものにおける「無言の献身」は、感情を自覚しかけた男がそれを認めまいとして取る典型的な行動である。むしろ理想的な進行だ。
問題は、二年目の夏が来ても、それ以上何も起きないことだった。
わたしは作戦を次の段階に進めることにした。
嫉妬である。
◇
秋の夜会で、わたしは南の男爵家の次男と三曲踊った。
顔がよく、口が軽く、既婚の夫人に取り入るのが趣味という、まことに都合のいい男だった。三曲目の途中、わたしは彼の冗談に声を上げて笑った。
広間の端に、アルヴィン様が立っている。
こちらを見ている。
――来る。
腕を掴まれて壁際に連れていかれ、低い声で「あの男は誰だ」と言われる。そこから一気に落ちる。これが黄金の型である。
曲が終わった。
わたしは礼をして、ゆっくりと夫のほうへ歩いた。
アルヴィン様は、わたしを見下ろした。
「楽しんでいたか」
「……はい」
「それはよかった」
彼はうなずいた。
「君は王都の出だ。この土地は退屈だろう。踊り相手が見つかったのなら、来年も声をかけるといい」
そして、酒を取りに行った。
わたしは広間の真ん中に立ち尽くした。
――理解した。
これは「余裕のある男」の演出である。嫉妬を押し殺し、妻の自由を尊重してみせる。器の大きさを示すことで、妻の心を揺さぶる高等戦術だ。
そういうことにした。
そうでも思わないと、立っていられなかった。
◇
二年目の冬、わたしはハインツに相談を持ちかけた。
屋敷の帳簿を一緒に見ていた午後、紅茶の湯気越しに、できるだけ軽く聞こえるよう声を作る。
「ハインツ。旦那様は、わたくしをどうお思いなのかしら」
家令の手が止まる。
「……奥様」
「いえ、深い意味はないのよ。ただ、二年経ちますでしょう」
ハインツは紅茶を置いた。それから、ひどく言いにくそうに口を開く。
「旦那様は、奥様を大切に思っていらっしゃると、わたくしは存じております」
「ええ」
「ただ」
「ただ?」
言葉を探す沈黙が、やけに長かった。探して、探して、結局この老人が選んだのは、こういう一文である。
「旦那様には、旦那様のお考えがございます」
「それは、わたくしに話せぬことかしら」
「わたくしの口からは」
「ハインツ」
「奥様」
ハインツは、深く頭を下げた。
「どうか、ご自分からお尋ねくださいませ」
わたしは、その言葉の意味を取り違えた。
――まだ機が熟していない、という意味だと受け取ってしまった。
今思えば、この老人はあのとき全部を知っていた。知っていて、どちらにも言えず、二年間ずっと胃を痛めていたのだ。
あとで謝った。謝ったら、泣かれた。
◇
三年目の春。
実家から手紙が届いた。
母の字である。内容を要約すると、こうなる。
――婚姻より三年のうちに嗣子を得ざる場合、両家の取り決めにより婚姻を解消し得る。期日は今年の秋である。あなたは何をしているのか。
わたしは手紙を三度読む。
三度目で、ようやく自分の置かれた状況を正面から見た。
二年半、わたしは「待っている」という行為を、何か立派なことのように扱ってきた。期待しない妻、求めない妻、健気に務めを果たす妻。そういう役を、丁寧に演じてきたつもりでいる。
けれど外から見れば、どうだろう。
二年半、夫と口らしい口をきかず、夜も別で、相手が何を考えているかも知らない女。それは「待っている」のではなく、ただ何もしていないだけではないか。
結婚して、二年半。
夫とは、一度も寝室を共にしていない。
理由は明快である。溺愛ものにおいて、そこは夫の側から来るものだからだ。妻から求めるのは禁じ手。待つのが作法。
わたしは三百冊ぶんの作法に従って、二年半、待った。
待ちながら、期限が近づいていることに、気づいていなかったわけではない。気づいていながら、「どうせ秋までには始まるだろう」と思っていた。
始まらなかった。
わたしは手紙を畳み、しばらく窓の外を見ていた。
北の春は遅い。雪が溶けきらない庭に、黒い枝だけが突き出している。
――もしかして。
生まれて初めて、その可能性が頭に浮かんだ。
もしかして、あの人は。
嘘を、ついていなかったのでは?
◇
その夜、わたしは夫の執務室の扉を叩いた。
「お話がございます」
アルヴィン様は書類から顔を上げた。
「どうぞ」
わたしは向かいの椅子に座った。座ってから、何をどう切り出すべきか、まるで準備していないことに気づいた。
三百冊の中に、この場面はなかった。
妻から話を切り出す展開は、どの本にも載っていない。
「……あの」
「うむ」
「実家から、手紙が参りました」
「ああ。期日の件か」
ご存じだった。
「わたくし、うかがいたいことがございます」
「なんだ」
わたしは膝の上で手を握った。
「婚礼の夜に、仰いましたでしょう。わたくしを愛することはない、と」
アルヴィン様の表情が、わずかに動いた。
「……ああ」
「あれは、本心でございましたか」
長い沈黙があった。
暖炉の薪が、小さく音を立てて崩れる。
やがて、彼は口を開いた。
「いや」
わたしは、顔を上げた。
「……は?」
「本心ではない」
「は?」
「あれは、作法だ」
わたしは、口を開けたまま固まった。
アルヴィン様は、机の引き出しから一冊の古い本を取り出した。革の装丁が擦り切れ、頁の端が茶色く変色している。
表紙には、こう書かれていた。
『妃を娶る者の心得』
◇
「ノルデンフェルト家に代々伝わるものだ」
アルヴィン様は、その本を机の上に置いた。
「十代前の当主の妻、エルナ殿が書き残した。歴代の当主が、婚姻の前に必ず読む」
わたしは、その本を見つめる。
嫌な予感がしていた。
「……拝見しても?」
「構わん」
開いた。
最初の頁に、こうあった。
――第一条。初夜において、必ずこう告げよ。「そなたを愛することはない」と。
わたしの手が、止まる。
――これにより、妻の心は強く揺さぶられる。期待を断たれた心は、かえって相手を意識するようになるものである。
次の頁。
――第二条。以後半年、妻に優しき言葉をかけてはならぬ。言葉を与えれば、妻は安心する。安心は恋を鈍らせる。
――第三条。ただし、行いは尽くせ。寒ければ上着を掛け、暗ければ灯りを足し、乗り降りには手を貸せ。言葉なき献身こそ、妻の胸を打つ。
上着。
燭台。
馬車の手。
頁をめくる手が、震えはじめている。
――第五条。妻が他の男と語らうとき、決して動じるな。動じれば格が下がる。むしろ妻の自由を認めよ。余裕こそが男の価値である。
夜会。
――第六条。贈り物は実用に徹せよ。華美なる品は心を軽んじられる。妻が真に喜ぶのは、己を案じて選ばれた一枚の外套である。
外套。
――第七条。妻が病に伏せたときも、長居は無用。医師の有無のみを確かめ、速やかに去れ。見舞いの品は人を介して届けよ。
蜂蜜。
あれは、ハインツが置いたのではない。ハインツに置かせたものだったのだ。
わたしは本を閉じ、顔を上げる。
「アルヴィン様」
「うむ」
「これを、信じていらっしゃるのですか」
「代々の当主が守ってきた」
「結果は」
「……全員、仲睦まじかったと聞いている」
「本当に?」
アルヴィン様が、初めて視線を逸らした。
「……十代前の当主夫妻については、そう伝わっている」
「それ以降は」
「それ以降のことは、記録にない」
わたしは机に突っ伏したくなるのを、全力でこらえた。
◇
わたしは秘伝書を机に置き、長い息を吐いた。
「アルヴィン様」
「うむ」
「この書を、どなたかに相談なさったことは」
「ない」
「一度も?」
「当主が妻を娶るための書だ。人に見せるものではない」
「ハインツには」
「存在は知られていると思う。中身は話していない」
道理で。
あの老人が二年間、胃を押さえていたわけである。片方には書の中身がわからず、もう片方には妻の作法がわからない。どちらにも相談されず、どちらの様子も見えている。あれは拷問に近い。
「お尋ねしてもよろしいですか」
「どうぞ」
「叔母様が参られた晩のこと、覚えていらっしゃいますか」
アルヴィン様の眉が、わずかに寄った。
「覚えている」
「あのとき、何かお考えでしたか」
「あの晩のあと、叔母上には出入りを止めてもらった」
わたしは、顔を上げた。
「……は?」
「翌日、書状を出した。二度とこの屋敷の敷居は跨がせぬ、と」
「存じませんでした」
「言う必要がないと思った」
「ございます」
思わず声が大きくなった。
「ございますとも。おおいにございます」
アルヴィン様は、少し驚いた顔をした。
「……そうか」
「そうでございます」
わたしは膝の上で手を握り直した。握らないと、何を言い出すかわからなかった。
「三年、お待ちでしたの」
「待った」
アルヴィン様は、まっすぐ言った。
「書にはこうある。妻の心が熟すれば、妻の側から必ず動く、と。私はそれを待っていた」
わたしは、額を押さえる。
「わたくしも、待っておりました」
「なに」
「わたくしの国にも、似た……似たような、作法がございまして」
嘘ではない。三百冊は確かに、わたしの国の作法である。
「妻から求めてはならぬ、と。夫の側から来るのを待つべし、と。そう記されておりました」
アルヴィン様の目が、ゆっくりと見開かれていく。
「……では」
「はい」
「我々は」
「三年、互いに、相手が動くのを待っていたことになります」
執務室が、静まり返った。
暖炉の火が、ぱちりと鳴る。
やがてアルヴィン様は、机の上の秘伝書を手に取った。そして、残りの頁を無言でめくりはじめた。
最後の頁で、手が止まった。
「……ソフィア」
「はい」
「ここを見てくれ」
わたしは覗き込む。
本文の終わり、余白に、別の筆跡で小さく書き足されていた。
――追記。
――以上はすべて、わたくしが故郷で読んでおりました物語の作法にございます。
――実在の殿方に効くかどうかは、筆者も試しておりませぬ。
――もし効かなかった場合は、ご自分の口でお伝えくださいませ。それが一番早うございます。
――エルナ
わたしは、しばらくその文字を見つめる。
「エルナ様は」
「どうした」
「エルナ様は、おそらく、わたくしと同じ国の出でございます」
「エルナ殿はこの国の生まれだが」
「ええ。それでも、同じ国の出でございます」
アルヴィン様は、よくわからないという顔をした。
わたしは、少しだけ笑った。
三百年近く前に、この屋敷に、わたしと同じものを読んで同じことを考えた女がいた。そして彼女は、ちゃんと最後に但し書きを残していた。
歴代の当主は、誰もそこまで読まなかったらしい。
――男の人って、そうですよね。
心の中で、わたしは三百年前の同郷の人にそう語りかけた。
◇
「ソフィア」
アルヴィン様が、本を閉じた。
「言う」
「はい」
「ご自分の口で、と書いてある」
「……はい」
彼が立ち上がる。机を回って、わたしの前に来た。
そこで、三十秒ほど黙った。
「……難しいな」
「ごゆっくりどうぞ」
「待ってくれ」
彼は目を閉じ、それから開けた。
「婚礼の夜のあれは、嘘だ」
「はい」
「あのとき既に、私は君を気に入っていた」
「あのとき、ですか」
「婚約の前からだ」
わたしは、目を見開いた。
「君は、王都の夜会で、泣いている侍女に自分の外套を貸していた。六年前の冬だ。私はそれを見ていた。縁談の話が来たとき、断る理由がどこにもなかった」
六年前の冬。わたしが十四の年。
覚えている。寒い夜で、名前も知らない侍女が廊下で泣いていて、あまりに寒そうだったので外套を押しつけた。
「あのときから、ですか」
「あのときからだ」
アルヴィン様は、少し早口になった。
「帳簿の件も、見事だった。あのとき褒めるべきだったが、書に『言葉を与えるな』とあったので」
「……守られたのですね」
「守った」
「律儀でいらっしゃる」
「北の人間は、書かれたことを守る」
わたしは、とうとう笑い出す。
笑いながら、少し泣いた。二年半、何を待っていたのだろうと思ったら、涙が止まらなくなった。
アルヴィン様は、おろおろしている。
書に書いていない事態だったのだと思う。
◇
以下は、後になってハインツから聞いた話である。
あの三年、旦那様の執務室では、だいたいこういうことが起きていたらしい。
◇
一年目の冬。わたしが寝込んだ夜、アルヴィン様は寝室の扉の前まで来て、一度戻り、また来て、三度目でようやく扉を開けたという。
部屋を出たあと、廊下で立ち止まってハインツに言った。
「咳をしていた」
「はい」
「医師は」
「呼んでおります」
「……蜂蜜を」
「蜂蜜、でございますか」
「北の蜂蜜は咳に効く。朝までに枕元へ置いてくれ。私からとは言うな」
「……なぜでございますか」
「書に、人を介せとある」
ハインツはその夜、厨房で蜂蜜の壺を抱えたまま、十分ほど動けなかったそうだ。
◇
二年目の春、叔母様が来た晩。
晩餐のあと、アルヴィン様は執務室の机を一度だけ拳で叩いた。旦那様がお生まれになる前から仕えているハインツが、旦那様の荒い動作を見たのは、それが二度目だったという。
「叔母上に、二度とこの屋敷の敷居を跨がせるな」
「よろしいのですか」
「よい」
「……奥様の前で、庇って差し上げればよかったのでは」
アルヴィン様は、しばらく黙っていた。
「書に、動じるなとある」
「書、でございますか」
「動じれば格が下がる。妻が離れる」
ハインツは、そこで初めて、旦那様の言う「書」の正体を知ったらしい。
知った上で、その場では何も言えなかった。当主が代々守ってきたものを、家令が否定できるはずもない。
◇
同じ年の秋。わたしが夜会で三曲踊った夜。
帰りの馬車で、アルヴィン様は一言も喋らなかった。
屋敷に着き、わたしが先に部屋へ下がったあと、彼は執務室で酒を取り出し、杯に注ぎ、口をつけずに置いたという。
「ハインツ」
「はい」
「あの男は誰だ」
「南のクラウゼン男爵家のご次男かと」
「……そうか」
「旦那様」
「なんだ」
「お尋ねになればよろしいかと存じます」
「尋ねてどうなる」
アルヴィン様は、杯を見つめたまま言った。
「私が尋ねれば、あれは謝るだろう。謝らせたいわけではない」
そして、こう続けた。
「あれは王都の出だ。この土地には、楽しみが少ない。踊るくらいは、好きにさせてやりたい」
ハインツは言った。
「わたくしは、あのとき申し上げるべきでした。――それを、そのまま奥様にお伝えくださいませ、と」
言えなかった理由も、この老人は正直に話した。
「旦那様が、あまりに真面目なお顔で、書を信じていらっしゃいましたので」
◇
秋の期日は、無事に過ぎた。
何がどうなって過ぎたのかについて、詳しい事情は申し上げない。
ひとつ言えるのは、この屋敷から『妃を娶る者の心得』が永久に撤去されたということである。
わたしは最初、燃やそうと言った。アルヴィン様が「家宝だ」と言うので、代わりに最後の頁に赤い紙を挟んでおいた。
紙には、こう書いた。
――まず、この頁から読むこと。
三百年後の誰かが、同じ二年半を過ごさずに済むように。
◇
ハインツには、二人そろって詫びた。
老人は最初「とんでもないことでございます」と言い、次に「わたくしの不徳でございます」と言い、最後に声を上げて泣いた。三年分の胃痛が、そこで一気に出たのだと思う。
今は、だいぶ顔色がよい。
叔母様は、あれきり屋敷に来ていない。
北の村の輪作は三年目に入り、収量は元の水準に戻りつつある。代官は今でもわたしの顔を見ると背筋を伸ばす。
◇
アルヴィン様は、相変わらず口数が少ない。
ただ、上着を掛けるときに「寒いだろう」と言うようになった。燭台を置くときに「目が悪くなる」と言うようになった。馬車に乗せるとき、手を貸しながら「気をつけて」と言うようになった。
たったそれだけの違いで、世界はまったく別のものになる。
三百冊の物語は、そこを教えてくれなかった。
溺愛というのは、嵐のように始まるものだと思っていた。壁に追いつめられ、腕を掴まれ、低い声で名を呼ばれるものだと。三百冊とも、だいたいそう書いてあったので。
実際に来たのは、「寒いだろう」の四文字である。
それだけで、北の冬が一気に短くなった。
書いた人たちを恨むつもりはない。あれはあれで、間違いなく面白かったのだから。ただ、どの本にも但し書きがなかったことだけは、今でも少し思う。
――実在の殿方に効くかどうかは、筆者も試しておりませぬ。
三百年前の同郷の人は、たった一行でそれを書き残した。たぶん彼女も、二年半か、三年か、同じだけ待ったのだと思う。
待った末に、自分の口で言ったのだ。
わたしと同じように。
先日、晩餐の席で彼が言った。
「ソフィア。君の国の作法だが」
「はい」
「あれにも、但し書きはあったのか」
わたしは、スープを飲む手を止めた。
三百冊。あの膨大な物語のどこかに、但し書きはあっただろうか。
「……ございませんでしたわ」
「ないのか」
「ええ。ですから、わたくしが書こうと思います」
「何と書く」
わたしは少し考えて、答えた。
「待っていても始まりませんので、お口でどうぞ、と」
アルヴィン様は、スープに視線を落とした。
それから、小さく笑った。
三年目にして、初めて見る顔だった。
2. お口でどうぞと申し上げたのは、わたくしです
朝、目を覚ますと、夫がこちらを見ていた。
「おはよう、ソフィア」
「……おはようございます」
「愛している」
わたしは天蓋を見上げる。
今日も始まった。
◇
事の起こりは、半年前にさかのぼる。
わたしの夫、アルヴィン・フォン・ノルデンフェルト辺境伯は、婚礼の夜に「君を愛することはない」と宣言した男である。
それが家に伝わる秘伝書の作法であり、彼は三年間それを律儀に守り続けた。わたしはわたしで前世の知識に従い、三年間、夫から来るのを待ち続けた。
結果、二人そろって三年を無駄にしている。
秘伝書の最後には、著者エルナ殿の但し書きがあった。実在の殿方に効くかは試していない、効かなければご自分の口でお伝えくださいませ、それが一番早うございます、と。
後日、晩餐の席で、わたしはこう言った。
「待っていても始まりませんので、お口でどうぞ」
そのつもりで言ったのではない。
本当に、そのつもりではなかったのだ。
◇
アルヴィン様は、言葉の少ない人だった。
過去形である。
今、わたしの夫は、一日におよそ十五回、愛を告げる。
内訳を申し上げる。
起床時に一回。朝食の席で一回。彼が執務に発つときに一回。昼に手紙が一通届き、そこに一回。午後、わたしが帳簿を見ていると執務室から出てきて一回。夕方の散歩で二回。晩餐の前に一回、途中で一回、後に一回。就寝前に三回。
残りは不定である。
廊下ですれ違いざまに言われることもあれば、わたしが階段を下りているところを下から見上げて言われることもある。
北の人間は、書かれたことを守る。
彼は本当に、そういう人なのだった。
◇
最初の二週間は、嬉しかった。
これは正直に申し上げておく。三年待ったのだから、当然である。一回言われるたびに顔が熱くなり、夜に一人で思い返しては枕に顔を埋めている。
三週目に、少し慣れる。
一ヶ月目には、数えはじめていた。
二ヶ月目で、数えるのをやめる。
三ヶ月目のある日、帳簿を見ながら「はい」と返事をして、三十秒後に自分が何に返事をしたのかわからなくなった。
さすがにまずい。
◇
問題は、量だけではない。
場所である。
秋の収穫祭で、屋敷に近隣の領主が十二人集まった。長い卓を囲み、北の慣例どおり、当主が最初に杯を掲げる。
アルヴィン様が立ち上がる。
「今年の実りに感謝する」
拍手。
「そして」
拍手が止まった。
「妻に感謝する。ノルデンフェルトの帳簿は、この三年で見違えた。北の村の輪作も、妻の案だ。私は妻を愛している」
十二人の領主が、一斉にこちらを見る。
わたしは、杯を持ったまま石になった。
卓の端では、家令のハインツが目を閉じている。あれは祈っている顔である。
宴のあと、隣領の老伯爵がわたしの手を取って言った。
「奥方。よろしければ、お話を聞かせていただきたい」
「何でございましょう」
「輪作の件ではない」
老伯爵は、声を落とした。
「どうやったのか」
◇
そして、これはどう書いたものか迷うのだけれど、言葉だけの話でもない。
わたしたちの婚姻には、三年のうちに嗣子を得ざる場合は解消し得る、という取り決めがあった。期日はこの秋で、つい先ごろ過ぎている。解消し得る、であって、せねばならぬ、ではない。両家とも、その権利を使わなかった。
申し上げたいのは、そこではない。
あの人は、三年ぶんを溜めていた。
それだけである。
◇
収穫祭の十日後、近隣の奥様方の茶会に招かれた。
三人。隣領の伯爵夫人、その妹君、南の男爵夫人。いずれも四十前後で、わたしより二十近く年上の、気のおけない方々である。
卓についた瞬間から、三人の目が光っている。
「ソフィア様。収穫祭でのこと、うかがいましたわ」
「……お恥ずかしい限りです」
「お恥ずかしいなんて。あのノルデンフェルト卿が、人前であのように仰るなんて」
「三年もお経ちになるのに、仲がよろしくて羨ましいこと」
伯爵夫人が、扇の陰で微笑んだ。
「うちなど、もう七年。会話といえば馬の話だけですのよ」
「うちは五年で、無言でございます」
「無言はよろしいわ。うちは小言ですもの」
笑いが起きる。
わたしも笑った。この半年、誰にも言えずにいたことを、この場なら少しは話せるかもしれない。そう思ったのが、いけない。
「羨ましいと仰いますけれど」
わたしは紅茶に口をつけた。
「わたくしも、少し困っておりますの」
「あら。何がでございましょう」
「その……多くて」
「お言葉が?」
「言葉も、でございますが」
三人が、同時に身を乗り出す。
わたしは、ついうっかり、数を言った。
卓が、静かになる。
南の男爵夫人がカップをソーサーに戻す音が、やけに大きく響く。
伯爵夫人の妹君は、扇を膝の上に落とした。
「……ソフィア様」
「はい」
「それは、ひと月の、お話ですわよね」
「いえ」
「ひと月、ですわよね」
「……ひと月では、ございません」
三人が、顔を見合わせる。
長い沈黙。
やがて伯爵夫人が、ごく静かに尋ねた。
「ご体調は、よろしいのですか」
「は?」
「お体です。お休みになれて?」
「……ええ、まあ」
「お食事は召し上がれて?」
「召し上がっております」
「それなら、よろしいのですけれど」
誰も、羨ましいとは言わない。
南の男爵夫人が、気を取り直したように口を開いた。
「まあ、その、愛されている証拠ですわね」
声の温度が、明らかに下がっている。
さっきまでの「羨ましい」と、同じ言葉のはずなのに、まるで違う。
これは、慰めるときの言い方である。
◇
帰りの馬車で、わたしは窓に額を押しつけていた。
何が起きたのか、しばらく理解できずにいる。
理解してから、顔を覆った。
――比べたことが、なかった。
三年待って、半年こうである。わたしには比較の相手がいない。十五回も、夜のあれこれも、全部ひっくるめて「溺愛とはこういうもの」だと思い込んでいた。
三百冊の物語には、回数など書いていない。
書いていないものは、わからない。
屋敷に戻ると、玄関でアルヴィン様が待っていた。
「おかえり」
「……ただいま戻りました」
「愛している」
「はい」
わたしは、そのまま自室へ上がった。
その晩、あの方々に二度と呼ばれないかもしれないと思って、少し落ち込む。
翌月、普通に招かれた。
席につくなり、伯爵夫人にこう言われた。
「ソフィア様。先月の件、主人に話しましたの」
「お、お話しになったのですか」
「ええ。そうしたら主人、三日ほど口をきいてくれませんでした」
「なぜでございますか」
「わかりませんわ」
伯爵夫人は、涼しい顔で紅茶を注いだ。
わたしは、北の冬がまだしばらく続くことを悟る。
◇
誤解のないように申し上げておくと、わたしは不満を言っているのではない。
言えないのである。
言葉がほしいと頼んだのは、わたしだ。三年待って、ようやく言ってもらえるようになったのに、今になって「少し減らしてください」とは、どの口が言うのか。
しかも、言えばあの人は必ず従う。
従って、ぴたりと止める。
書に「減らせ」と書いてあればゼロか百かで実行する人なのだ。三年の実績がそれを証明している。
「少し減らしてください」と言った翌日から、また一言も言わなくなる未来が、わたしにははっきり見える。
それは、困る。
非常に困る。
わたしは、三年前と同じ場所で詰まっていた。
言えない、という同じ場所で。
◇
ハインツに相談した。
一年前と同じ午後、同じ紅茶、同じ帳簿を広げた卓である。
「ハインツ」
「はい、奥様」
「旦那様のことなのだけれど」
家令の手が、止まる。
止まったまま、十秒ほど動かない。
「……奥様。わたくしからも、申し上げたいことがございます」
「あら。何かしら」
「先日、旦那様に馬具の発注の裁可をいただきに参りました」
「ええ」
「書類を差し出しましたところ、旦那様はこう仰いました」
ハインツは、感情を殺した声で続けた。
「――ハインツ。妻は今日、庭にいるか」
「それだけ?」
「いえ。『あれは寒がりだ。東の庭は風が通る。南へ回るよう、それとなく伝えてくれ』と」
「……まあ」
「馬具の裁可は、三日後に下りました」
わたしは紅茶を置く。
「ハインツ」
「はい」
「去年まで、あなたは胃を痛めていたわね」
「はい」
「今は」
「……今も、別の形で痛めております」
この老人には、何の罪もない。
◇
極めつけは、村の視察だった。
北の村へ馬で二日。輪作の様子を見に行く道中、アルヴィン様は実によく喋った。
道端の花の名、山の向こうの天気、子どもの頃に落ちた川。
三年分の沈黙を、全部取り返そうとしているように見えた。
それ自体は、悪くなかった。
村に着き、村長が出迎えた。六十過ぎの、日に焼けた顔の男である。二年前、わたしに三度頭を下げた人。
村長はわたしを見つけると、顔をほころばせる。
「奥様! よくぞおいでくださいました。あの輪作のおかげで、今年は——」
「ああ」
アルヴィン様が、わたしと村長の間に立った。
自然に、しかし完全に。
「話は私が聞く」
村長が、きょとんとした顔をする。
わたしは、夫の背中を見上げる。
――この人、村長に嫉妬している。
六十過ぎの、孫が四人いる村長に。
その夜、宿で、わたしはとうとう笑い出す。笑いながら「どうした」と聞かれて、なお笑った。
笑い終わったあと、思う。
――そろそろ、何とかしなければ。
◇
機会は、思いがけない形で来た。
屋敷に戻った翌週、アルヴィン様が執務室にいないのに、机の上に書き物が広げてあった。
探しものをしていたわたしは、何気なくそれを覗き込んだ。
そして、固まった。
表紙に、こうあった。
『妃を娶る者の心得 ・ 改』
著 アルヴィン・フォン・ノルデンフェルト
わたしは、周囲を見回す。誰もいない。
開いた。
◇
――序。
――十代前の当主の妻エルナ殿の書は、見事なものであった。
――ただし、誤りがあった。筆者はその誤りにより、三年を失った。
――次代の当主が同じ轍を踏まぬよう、ここに改めを記す。
わたしは、少し胸が温かくなる。
次代のために書き残そうとしている。それはとても、この人らしい。
頁をめくった。
――第一条。初夜において、「そなたを愛している」と告げよ。
いい出だしである。
――第二条。以後、日に十度を下回ってはならぬ。
わたしは頁を持つ手を止めた。
――妻の心は、言葉によってのみ満たされる。言葉を惜しめば妻は離れる。筆者は三年の沈黙によってそれを学んだ。
――第三条。人前であろうと憚るな。公の場で告げる言葉は、閨で告げる言葉の三倍の重みを持つ。
収穫祭。
――第四条。妻が他の男と語らうとき、速やかに間に入れ。相手の年齢を問うてはならぬ。油断は禍のもとである。
村長。
――第五条。妻の居場所は常に把握せよ。寒がりであれば風の通らぬ場所へ導け。家令を用いるとよい。
ハインツ。
わたしは本を閉じる。
閉じて、天井を見上げた。
――この人は、三百年後の子孫を、同じ目に遭わせる気だ。
◇
その夜、わたしは執務室の扉を叩いた。
あの春の夜と、同じ扉である。
「お話がございます」
「どうぞ」
アルヴィン様は、書類から顔を上げた。そして、こう言った。
「愛している」
「存じております」
わたしは向かいの椅子に座り、机の上に『心得・改』を置いた。
彼の眉が、わずかに動いた。
「……見たのか」
「拝見しました」
「まだ途中だ」
「存じております。ですから、今のうちに」
わたしは本を開き、第二条の頁を見せた。
「日に十度を下回ってはならぬ、とございます」
「書いた」
「なぜ十度でございますか」
アルヴィン様は、少し考えた。
「……十は、きりがよい」
根拠がなかった。
「アルヴィン様」
「うむ」
「エルナ様の書の、どこが誤りだったとお考えですか」
「言葉を惜しめと書いてあったことだ」
「違います」
わたしは、まっすぐに彼を見た。
「量を、定めていたことでございます」
彼の手が、止まる。
「エルナ様は『半年、言葉をかけるな』とお書きになりました。アルヴィン様は『日に十度を下回るな』とお書きになる。向きは逆でございますが、やっていることは同じです」
「……同じ、か」
「同じでございます。どちらも、相手を見ておりません。書を見ております」
アルヴィン様は、長く黙っている。
暖炉の薪が崩れる音が、あの夜と同じように鳴った。
「ソフィア」
「はい」
「私は、多いか」
わたしは、言葉を選んだ。選びながら、三年前の自分を思い出していた。
あのとき言えなかったことを、今度は言う番である。
「多うございます」
「……そうか」
「ですが」
わたしは急いで続けた。
「ゼロにはなさらないでください」
「なに」
「アルヴィン様は、減らせと申し上げると、たぶんゼロになさいます」
アルヴィン様が、口を開く。
開いて、閉じた。
「……そうかもしれん」
「自覚がおありですのね」
「北の人間は、書かれたことを守る」
「存じております。三年かけて、たっぷりと」
彼は、少し決まり悪そうな顔をする。
そういう顔をするようになったのも、この半年のことである。
◇
それから、わたしたちは二人で『心得・改』を直した。
第二条の「日に十度を下回ってはならぬ」には、二重線を引いた。
代わりに、こう書いた。
――第二条。回数を定めてはならぬ。
――言葉は、妻の顔を見て、必要と思うときに告げよ。多すぎれば妻は数えはじめ、少なすぎれば妻は待ちはじめる。どちらも、よろしくない。
「わかりにくいな」
アルヴィン様が、眉を寄せた。
「数が書いていないと、迷う」
「迷ってくださいませ」
「迷っていいのか」
「迷うのが、普通でございます」
「……そういうものか」
「そういうものです」
第三条は「人前では、妻の顔色を見てから」に直した。第四条の「相手の年齢を問うてはならぬ」には、「問え」と書き足した。孫の人数まで確認するようにと付記した。
第五条のハインツの件は、全文を削った。
「家令を間に立てるのは、おやめください」
「なぜだ」
「ご自分で仰ればよろしいのです。南の庭へ行こう、と」
アルヴィン様は、そこで初めて、本当に驚いた顔をした。
「……それでよいのか」
「それがよろしいのです」
三年前からずっと、答えは同じ場所にあった。
エルナ殿が最後の頁に書いたとおりに。
――ご自分の口でお伝えくださいませ。それが一番早うございます。
◇
書き直した『心得・改』は、最後の頁から始まるようにした。
一枚目に、赤い紙を挟んである。
そこには、こう書いた。
――まず、この頁から読むこと。
――この書に記されたことは、すべて筆者夫妻の失敗の記録である。
――作法として読んではならぬ。
――困ったら、妻に聞け。それが一番早い。
アルヴィン様は、その文面をしばらく眺めてから、うなずいた。
「よい」
「よろしゅうございますか」
「ただ、一つ足したい」
「どうぞ」
彼は筆を取り、赤い紙の下に一行書き足した。
――ただし、三年は待つな。長すぎる。
わたしは、それを見て笑う。
笑いながら、少しだけ泣いた。この半年で、わたしは泣く回数がずいぶん増えている。
◇
今、アルヴィン様が愛を告げるのは、日に二、三度である。
数えてはいない。数える必要がなくなったので。
翌年の収穫祭では、「妻に感謝する」で止めた。十二人の領主が揃って安堵の息を吐いたのを、わたしは見逃していない。
村長とは、普通に話せるようになった。孫が五人に増えたそうである。
ハインツの胃は、だいぶ落ち着いた。先日、礼を言ったら「お役に立てて何よりでございます」と言われた。この老人は、最後まで何も言わずに済ませるつもりらしい。
先日の晩、寝室でアルヴィン様が言った。
「ソフィア」
「はい」
「今日は、まだ一度しか言っていない」
「数えていらっしゃるのですか」
「……気づくとな」
わたしは、暗がりで笑った。
三年待った人と、半年数えた人。
ずいぶん遠回りをしたけれど、三百年後の誰かは、もう少し早く着けるかもしれない。
赤い紙を、ちゃんと読んでくれれば。
(了)
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