婚約を捨てたら、胡散臭い大商人に一生分の愛を買い占められました
「――ヴァルグレイ・ローデン。わたくしは本日をもって、あなたとの婚約を破棄いたします」
王都でも指折りの格式を誇るローデン侯爵邸、その晩餐室に響いた自分の声が、驚くほど澄んでいたことをイェルネ・フィオレントは覚えている。
磨き抜かれた銀食器も、百年以上前に描かれたという歴代侯爵の肖像画も、天井を飾る水晶灯も、今夜だけは妙に遠く見えた。
向かい側に座っていたヴァルグレイは、しばらく意味が理解できなかったらしい。
端整な顔に浮かんでいた退屈そうな表情が崩れ、灰色の瞳が大きく見開かれる。その隣では、招待客でも親族でもない若い令嬢――ヴァルグレイが近頃ことあるごとに連れ歩いているミュゼラ・オルディ嬢が、手にしていた葡萄酒の杯を取り落としかけていた。
イェルネは静かに指輪を外した。
十三歳のとき、両家の父親によって決められた婚約だった。
あれから九年。
フィオレント伯爵家はローデン侯爵家へ大量の穀物を融通し、領地の水害が起きれば復興資金を貸し、ヴァルグレイが王立学院へ進学した際には寄宿舎に必要な費用まで負担した。
それらをイェルネは、未来の夫となる人のためなら当然なのだと思っていた。
だから、彼が自分との約束を忘れても我慢した。
誕生日に顔を見せなくても、仕事があるのだろうと思った。
学院を卒業してから領地経営を学ぼうともせず夜会を渡り歩くようになっても、若いうちだけだと自分を納得させた。
そして三か月前、彼がミュゼラを伴って現れたときにも、最初は友人なのだという説明を信じようとした。
けれど。
「待て、イェルネ。突然何を言い出す」
ようやく声を取り戻したヴァルグレイへ、イェルネは指輪をテーブルの中央へ滑らせた。
金属が大理石に触れ、小さな音を立てる。
「突然ではございません。先月二十三日に書面をお送りしております。婚約契約第十二条に従い、一方が婚姻に著しく不適当な行動を継続した場合、三十日の猶予期間を置いて契約を解消できる旨も記載いたしました」
「そんな手紙は知らない」
「でしょうね。封も開けず執事へ渡されたそうですから」
ヴァルグレイの口が閉じた。
その沈黙を見て、胸のどこかが痛むのではないかとイェルネは思っていた。
九年間も婚約者だった男なのだ。
初恋だったのかもしれない。
かつては、いつか彼の妻になる未来を思い描いていた。
ところが不思議なことに、何も痛まなかった。
残っていたのは、長い仕事をようやく終えた日のような疲労と安堵だけだった。
イェルネは椅子から立ち上がった。
「それでは、ごきげんよう。ローデン侯爵令息」
婚約者ではなくなった男へ、正式な呼称で最後の礼をする。
すると、それまで青ざめていたミュゼラが、なぜか慌てて立ち上がった。
「お、お待ちになって。イェルネ様、わたくしとヴァルグレイ様は、その……あなたが想像しているような関係ではありませんの」
イェルネは彼女を見た。
美しい娘だった。
淡い菫色の髪を複雑に結い上げ、白い首には大粒の翠玉が輝いている。
見覚えのある宝石だった。
三年前、イェルネがヴァルグレイへ贈ったものだ。
将来侯爵家を継いだとき、正装に使えるようにと選んだ。
それが今、別の女性の首にある。
ここまで分かりやすい証拠を見せられてなお怒りが湧かない自分に、イェルネはむしろ感心した。
「想像する必要はありませんわ。お二人が何をなさっているか、調査報告書がありますので」
ミュゼラの顔から血の気が引いた。
イェルネはそれ以上追及しなかった。
浮気を糾弾するために来たのではない。
終わらせるために来たのだ。
九年間という時間を惜しんで、さらに十年を無駄にするほど愚かではない。
踵を返したところで、背後から椅子の倒れる激しい音がした。
「勝手に終わらせるな!」
ヴァルグレイだった。
その声に、イェルネは足を止める。
振り返れば、彼は信じられないものを見るような目でこちらを睨んでいた。
「婚約は家同士で決めたものだ。お前一人の意思で破棄できるわけがないだろう。第一、お前は二十二だぞ。今さら俺との婚約を捨てて、次があると思っているのか?」
ああ。
そういうことか。
九年間、彼が自分を雑に扱い続けた理由を、イェルネはようやく理解した。
逃げないと思われていたのだ。
何をしても。
どれだけ蔑ろにしても。
自分は最後には彼の妻になるしかないのだから、謝る必要さえないと思っていた。
「ご心配なく」
だからイェルネは微笑んだ。
「次を探すために、あなたを捨てるわけではございませんもの」
結婚できなくても構わない。
フィオレント家には兄がいる。
自分には母から相続した小さな領地と財産もある。
誰かの妻になることだけが人生ではない。
そう思った瞬間だった。
晩餐室の外から、場違いなほど陽気な拍手が聞こえてきた。
一度。
二度。
三度。
全員の視線が扉へ集まる。
そこに一人の男が立っていた。
「いやあ、お見事」
黒に近い深緑色の長衣をまとった長身の男が、いかにも楽しそうに笑っている。
年齢は三十歳前後だろう。
褐色がかった髪を後ろへ流し、細められた琥珀色の目には、人を食ったような光が宿っていた。
貴族の正装ではない。
けれど胸元を飾る黄金の鎖も、袖口に留められた黒真珠も、下手な侯爵の一年分の収入ほどの価値がある。
何より、その顔を王都で知らない者は少なかった。
セヴラン・キシュカ。
王国最大の商会《渡り鴉》を一代で築き上げた男。
香辛料から魔石、船舶、薬草、宝飾品、果ては国境沿いの街道整備まで手掛け、王家にさえ金を貸していると噂される大商人だった。
もっとも、彼について語られる噂の半分は、あまり上品ではない。
砂漠の盗賊王と義兄弟になった。
海賊を買収して自分の船団へ組み込んだ。
竜から宝石を仕入れている。
敵対した商会が三日で潰れた。
王妃の秘密を七つ知っている。
どこまで本当なのか誰にも分からない。
本人に尋ねても、にこにこと笑うだけだ。
胡散臭い。
イェルネが彼に抱いている印象を一言で表すなら、それだった。
「キシュカ……なぜここにいる」
ヴァルグレイが険しい声を出すと、セヴランは胸元から一枚の紙を取り出した。
「お仕事ですよ。ローデン侯爵閣下と、北部街道の輸送契約についてお話をする予定でしてね。ところが到着してみれば、ずいぶん面白……失礼、重大な場面に遭遇してしまいました」
面白いと言いかけた。
間違いなく。
イェルネが半眼になると、セヴランは悪びれもせず笑みを深くした。
そして彼はヴァルグレイではなく、まっすぐイェルネの前まで歩いてくる。
「フィオレント伯爵令嬢」
「何でしょう」
「本当に、婚約を破棄なさった?」
妙な質問だった。
たった今聞いていたではないか。
イェルネが警戒しながら頷くと、セヴランは片手で口元を覆った。
肩がわずかに震えている。
「……キシュカ様?」
「申し訳ない。少々、感極まりまして」
何に。
そう尋ねるより早く、男は深く息を吐いた。
それから今まで以上に晴れやかな笑顔を浮かべる。
「ではイェルネ嬢。私と結婚しませんか?」
晩餐室が完全に静まり返った。
今度こそ、イェルネの思考まで停止した。
◇
「お断りいたします」
翌日。
王都中央区にある《渡り鴉商会》本店、その最上階の応接室で、イェルネはきっぱり告げた。
「早いなあ」
向かい側の長椅子へ優雅に腰掛けていたセヴランが、残念そうに眉を下げる。
昨夜、突然求婚されたイェルネは、当然その場で返答などしなかった。
ところが今朝になってフィオレント伯爵邸へ使者がやって来た。
婚約解消に伴う契約整理について、重要な話がある。
そう言われれば無視できない。
訪ねてみれば、出された紅茶は最高級品、菓子は王都で半年先まで予約が埋まっている店のもの。座っている長椅子に至っては、南方の職人が一年かけて作る品だった。
これだけでも、この男がどれほどの富を持っているか嫌でも分かる。
しかし、だからといって昨日婚約を破棄したばかりの女が、翌日に別の男との結婚を承諾するはずがない。
「わたくしは、結婚そのものに疲れましたの。しばらく自由に暮らしたいと思っています」
イェルネが紅茶へ口をつけながら説明すると、セヴランは頬杖をついた。
「では、自由に暮らしながら私と結婚するというのはいかがでしょう」
「矛盾しています」
「そうでしょうか。私は妻の行動を制限する気はありませんよ。好きな場所へ行って、好きな仕事をして、好きなものを買ってくださって結構です。お金なら腐るほどあります」
「腐らせないでください」
「だから奥様に使っていただきたい」
話が通じているようで通じていない。
イェルネは額を押さえたくなった。
セヴランという男については以前から知っている。
フィオレント家も商売をしている以上、《渡り鴉》と関わる機会は少なくなかったからだ。
交渉では笑顔を絶やさず、無理難題を押しつけることもない。
相手にも利益を与える。
けれど気づいたときには、最も大きな利益を彼自身が持っていく。
商人として恐ろしく有能な男だった。
そんな人物が、なぜ自分へ求婚するのか。
「理由を伺っても?」
「惚れているからです」
あまりにも簡単に返され、イェルネは眉を寄せた。
セヴランは冗談を言っているようには見えない。
むしろ普段より笑みが薄かった。
「いつからですの?」
「六年前ですね」
「……六年?」
思わず聞き返した。
六年前なら、自分は十六歳。
セヴランとはほとんど面識がなかったはずだ。
記憶を探っていると、彼が静かに説明した。
「フィオレント領が大凶作になった年を覚えていらっしゃいますか」
もちろん覚えている。
冷夏と長雨が重なり、麦の収穫量が例年の半分以下になった。
父も兄も対応に追われていた。
当時十六歳だったイェルネは、自分にも何かできないかと帳簿を調べ、領内にある染料植物を南部へ売却することを提案した。
結果として、その利益で不足した穀物を買うことができた。
「南部へ染料を運んだ商人が、私です」
言われて、イェルネはようやく思い出す。
あの頃のセヴランは、まだ現在ほど有名ではなかった。
若い行商人が破格の条件で商品を運んでくれた、と父から聞いた記憶がある。
「でも、それだけでしょう?」
「ええ。それだけでした。最初は」
セヴランは笑った。
その笑顔はいつもの軽薄そうなものとは違っていた。
「面白い令嬢がいると思いました。十六歳で領内の在庫と南部の市場価格を比較して、輸送費まで計算していた。しかも自分の宝石を売ればいいという父親の案を却下して、『宝石は一度売ればなくなるけれど商路は残る』と言ったそうですね」
「父から聞いたのですか」
「ええ。それから、あなたのことを少し調べました」
少し。
胡散臭い商人の言う「少し」ほど信用ならない言葉はない。
イェルネの視線から何かを察したのか、セヴランは楽しげに両手を上げた。
「怖い顔をなさらないでください。最初は商売相手としてですよ」
「最初は?」
「その後は男としてです」
悪びれもしない。
イェルネはため息をついた。
「わたくしには婚約者がおりました」
「知っています。だから六年待った」
軽い調子だった。
けれど、その一言だけが妙に重かった。
イェルネは無意識に彼を見る。
琥珀色の瞳が、こちらを見つめていた。
笑っていない。
「あなたが幸せなら、それで構わないと思っていました」
セヴランは指先で自分のカップをなぞった。
「他人の婚約者を奪うほど無粋ではありませんからね。ヴァルグレイ殿があなたを大事にしているうちは、私が入り込む場所はない。だから仕事をして、金を稼いで、ときどき遠くからあなたを見て、それで諦めるつもりでした」
そこで彼は、ほんの少し目を細めた。
「ところが、あの男があなたを泣かせ始めた」
イェルネは息を止める。
「泣いてなど」
「三年前、王宮の冬至祭。西庭園の噴水の裏」
忘れていた。
いや。
忘れようとしていた。
ヴァルグレイが自分との約束を破り、別の女性と舞踏会へ行った夜だ。
誰にも見られない場所へ逃げて、少しだけ泣いた。
「見ていたのですか」
「偶然です。あの日ほど、人の婚約者であることを残念に思った日はありませんでしたね」
穏やかな口調だった。
それなのに、イェルネの背筋を奇妙な感覚が走った。
この男は本当に六年間、待っていたのだ。
「だから昨日、あなたが婚約破棄を宣言したときは、天の神々すべてに寄付してもいいくらい嬉しかった」
「……拍手していましたものね」
「あれでも我慢したんですよ」
何を我慢したのだ。
問いただすのが怖くなってきた。
セヴランは再びいつもの笑顔を取り戻すと、机の上へ一冊の書類を置いた。
「まあ、結婚は急ぎません。ただし、こちらは確認していただきたい」
イェルネが開く。
そこには、ローデン侯爵家とフィオレント伯爵家との金銭関係が一覧になっていた。
穀物代。
復興資金。
学院在学中の費用。
馬車の購入費。
屋敷の改修費。
さらに、ヴァルグレイ個人へ貸した金。
総額を見たイェルネは目を疑った。
「こんなに……?」
「ええ。婚約を前提としていたため、フィオレント家はかなりの額を無利息で融通しています。そして婚約が正式に解消された場合、その大部分について返済を請求できる」
「でもローデン家に、これだけの現金はありません」
「でしょうね」
セヴランがにっこりした。
その瞬間。
イェルネは嫌な予感がした。
「まさか」
「はい」
彼は実に楽しそうだった。
「ローデン侯爵家が現在利用している金融組合、その最大出資者は私です」
胡散臭い。
やはり、この男は途方もなく胡散臭い。
「さらに申し上げますと、ローデン領の主力産業は羊毛です。その羊毛を王都へ運んでいる輸送会社も私の傘下。加工を請け負っている工房の三割にも出資しています」
「……偶然ですの?」
「まさか」
あっさり否定された。
イェルネは言葉を失った。
セヴランは菓子を一つ摘まみながら、まるで天気の話でもするように続ける。
「六年もあれば、好きな女性が嫁ぐ予定の家について調べる時間は十分ありますからね。経営状態がよろしくなかったので、万が一あなたが苦労した場合、すぐ助けられるよう準備していました」
準備。
その言葉で片づけていい規模ではない。
「あなた……怖いと言われません?」
「よく言われます」
「でしょうね」
「でも、あなたを怖がらせるつもりはないんですよ」
セヴランは笑っていた。
ただ、その目だけはひどく真剣だった。
「あなたを傷つけるものを、いつでも排除できるようにしているだけです」
イェルネは返事ができなかった。
それを愛情と呼んでいいのか分からない。
ただ、九年間ずっと自分が相手を支えることばかり考えてきたイェルネにとって、「あなたを支える準備をしていた」と言われることは、想像していた以上に心へ染みた。
◇
婚約解消は、その三日後に正式に成立した。
フィオレント伯爵とローデン侯爵の話し合いは、予想以上に荒れたらしい。
ローデン侯爵は当初、若者同士の些細な喧嘩として処理しようとした。
しかし、イェルネが提出した調査報告書には、ヴァルグレイとミュゼラが半年以上にわたって密会していた記録だけでなく、フィオレント家から提供された資金の一部を彼女への贈答品へ流用した証拠まで添付されていた。
婚約継続など不可能だった。
そして婚約が解消された瞬間、今まで「未来の親族」という理由で保留されていた問題が、一斉に現実となった。
借金である。
ローデン侯爵家から、最初の返済延期の申し入れが届いたのは翌朝だった。
父は断った。
これまで散々譲歩してきたのだ。
もう義理はない。
さらに悪いことに、ヴァルグレイは事態の深刻さを理解していなかった。
「イェルネが意地になっているだけだ」
そう吹聴しているという話を聞いたのは、婚約解消から一週間後だった。
共通の知人によれば、彼は夜会で笑いながら、どうせ一か月もすればイェルネのほうから謝罪してくる、と語っていたらしい。
二十二歳の女が侯爵家との縁談を失ったのだ。
焦らないはずがない。
そう信じ切っているらしい。
イェルネは怒るより呆れた。
そして、その話を聞いたセヴランは笑った。
「では、一か月後が楽しみですね」
そのときの笑顔があまりにも美しかったので、イェルネは逆に不安になった。
「何かするつもりではありませんわよね?」
「人聞きが悪いなあ。私は善良な商人ですよ」
「善良な商人は、自分で善良とは言いません」
「おや。これは一本取られた」
最近、セヴランは三日に一度の割合でフィオレント邸へ現れる。
理由は毎回違った。
南部から珍しい茶葉が届いた。
新しい菓子店を見つけた。
フィオレント領で採れる染料の販売について相談したい。
王都で面白い芝居が始まった。
新しい馬車を買ったから乗り心地を試してほしい。
最初の二、三回は本当に偶然なのかと思った。
十回を超えた頃には諦めた。
「暇なのですか、あなた」
ある午後、イェルネが尋ねると、セヴランは真顔で答えた。
「いいえ。ものすごく忙しいですよ」
「では仕事をなさってください」
「しています。あなたを口説くという、人生で最も重要な仕事を」
イェルネは読んでいた本で顔を隠した。
この男は恥ずかしくないのだろうか。
そう思う。
けれど不思議なことに、嫌ではなかった。
セヴランは求婚こそ繰り返すものの、イェルネが嫌がることは決してしなかった。
触れることさえない。
出かけるときには必ず予定を聞き、断れば素直に帰る。
贈り物も、最初に高価な宝石を持ってきてイェルネに叱られて以来、花や菓子、本といった受け取りやすいものへ変わった。
陽気で、よく喋る。
怪しげな噂が山ほどある。
商談では油断ならない。
なのにイェルネに対してだけは、驚くほど誠実だった。
ある日、二人で王都の市場を歩いていたときだった。
人混みの中、幼い子供が勢いよく走ってくる。
ぶつかりそうになったイェルネの腰を、セヴランが引き寄せた。
ほんの一瞬。
身体が密着した。
「危ないですよ」
耳元で低い声がした。
いつもの軽い調子ではない。
腕の力は強いのに、痛くない。
守るためだけの力だった。
子供が去ると、セヴランはすぐ彼女を解放した。
「失礼しました」
それだけだった。
いつものように冗談を言わない。
イェルネは彼の横顔を見る。
少しだけ耳が赤い。
「セヴラン様」
「はい?」
「もしかして、緊張しています?」
彼は黙った。
珍しい。
イェルネが覗き込むと、セヴランは観念したように笑った。
「しますよ。好きな女性に触れたんですから」
「六年も好きなのに?」
「六年好きだからですよ」
その答えに、胸の奥が小さく鳴った。
「あなたは私を、女性慣れした遊び人か何かだと思っているでしょう」
「違いますの?」
「ひどいなあ」
苦笑しながらも、彼は否定した。
「商売では嘘も方便ですし、必要なら王族相手でも笑顔で値段を吊り上げます。でも恋愛は、あなたが初めてですよ」
「信じられません」
「でしょうね。ですから時間をかけて証明します」
そして彼は、少し困ったように笑った。
「六年待ったんです。あと一年や二年くらい、どうということはありません」
胸が、また鳴った。
その日の帰り道。
イェルネは初めて、自分から彼の袖を掴んだ。
手を繋ぐ勇気まではなかった。
ただ、人の多い場所ではぐれないためという言い訳をしながら、上着の端を少しだけ摘まむ。
セヴランは何も言わなかった。
けれど市場を出るまでずっと、ひどく嬉しそうに笑っていた。
◇
婚約解消から一か月が経った。
そしてヴァルグレイは、ようやく自分が置かれた状況を理解した。
最初に彼を襲ったのは金の問題だった。
フィオレント家から返済請求を受けたローデン侯爵は、息子が所有していた馬車と競走馬を売却した。
続いて別邸を手放した。
それでも足りない。
借り換えを申し込もうとした金融組合からは、追加融資を断られた。
理由は単純。
ローデン家の信用評価が下がったからだ。
次に羊毛の価格が下落した。
正確には、ローデン領の羊毛だけが高く売れなくなった。
これまでフィオレント家の紹介で優先的に買い付けていた工房が、婚約解消を機に通常価格へ戻したのである。
そこへ輸送費の改定まで重なった。
今までどれほど優遇されていたのか。
失って初めて分かった。
「何をした!」
《渡り鴉商会》へ乗り込んできたヴァルグレイは、開口一番そう怒鳴ったという。
その場にイェルネはいなかった。
後からセヴラン本人に聞いた。
「何もしていませんよ、と答えました」
フィオレント邸の庭で茶を飲みながら、彼は楽しそうに語った。
「本当に?」
イェルネが疑うと、セヴランは心外そうに胸へ手を当てる。
「本当ですとも。私は契約通りの料金を請求しただけです。今まで安かったんですよ。あなたの婚家になる予定だったから」
それなら確かに、嫌がらせではない。
優遇をやめただけだ。
「金融組合は?」
「信用の低い相手に大金を貸すほど、商人は慈善家ではありません」
「工房は?」
「市場価格で買っているだけです」
「では、本当に何も?」
「していません」
そこでセヴランは爽やかに微笑んだ。
「まだ」
イェルネはカップを置いた。
「まだ?」
「ええ。私が本気で潰すなら、あんなものでは済みませんから」
恐ろしいことを笑顔で言わないでほしい。
けれど彼はすぐ表情を和らげた。
「もっとも、あなたが望まないことはしませんよ」
その一言で、イェルネは少し安心する。
セヴランには力がある。
金も、人脈も、情報もある。
ローデン家を本気で破滅させようと思えば、できるのだろう。
だからこそ、使わないという選択に意味があった。
「わたくしは、ヴァルグレイに不幸になってほしいわけではありません」
「ええ」
「ただ、自分のしたことの責任は取ってほしいと思っています」
「それで十分ですよ」
セヴランは柔らかく笑った。
「あなたはそういう人だから、好きになったんです」
まただ。
この男は油断すると、すぐそういうことを言う。
以前なら困っていた。
今は少しだけ嬉しい。
そんな自分の変化を、イェルネはまだ認めないことにしていた。
◇
事態が大きく動いたのは、それから半月後に開かれた王宮舞踏会だった。
婚約解消後、イェルネが大規模な夜会へ出席するのは初めてだった。
当然、注目される。
ローデン侯爵家との婚約を自ら破棄した令嬢。
しかも最近では、《渡り鴉》のセヴラン・キシュカが熱心に求婚しているという噂まで流れている。
会場へ入った瞬間から、視線が集まった。
だが、イェルネは平然としていた。
隣にはセヴランがいる。
今夜の彼は珍しく商人の衣装ではなく、王宮用の礼装をまとっていた。
濃紺の上着に金糸の刺繍。
長身の彼によく似合っている。
「緊張しています?」
尋ねられ、イェルネは首を振った。
「少しだけ」
「では帰りますか?」
冗談ではない。
彼なら本当に帰る。
そう分かるから、イェルネは笑った。
「大丈夫です」
「そうですか。では、何かあったら私の後ろへ。国王陛下以外なら大体なんとかします」
「王太子殿下は?」
「借金があります」
「宰相閣下」
「奥様がうちの商会のお得意様です」
「騎士団長」
「娘さんの留学先を手配しました」
「……あなた、本当に何者なのです?」
「あなたの未来の夫候補です」
そこへ戻るのか。
呆れながらも、イェルネは笑ってしまった。
そのとき、会場の空気がわずかに変わった。
ヴァルグレイが現れたのだ。
以前より痩せていた。
豪華だった衣装も、今夜はどこか地味に見える。
隣にはミュゼラがいる。
ただし、彼女の首元に翠玉はなかった。
売却されたのだろう。
ヴァルグレイはこちらを見つけると、一直線に歩いてきた。
嫌な予感がした。
「イェルネ」
呼び捨てだった。
イェルネは眉を寄せる。
「何か御用でしょうか、ローデン侯爵令息」
他人行儀な呼び方に、彼の顔が歪んだ。
「いつまでこんな茶番を続けるつもりだ」
周囲が静かになる。
貴族というものは、他人の揉め事が好きだ。
誰も見ていないふりをしながら、全員が聞き耳を立てている。
「茶番とは?」
「婚約破棄のことだ!」
ヴァルグレイの声が響いた。
ミュゼラが止めようと袖を引いたが、彼は振り払った。
「お前が父上を焚きつけたせいで、我が家がどれだけ迷惑していると思っている! 俺も悪かった。ミュゼラと親しくしすぎたことは認める。だからもう許してやる。戻ってこい」
イェルネはしばらく彼を見つめた。
許してやる。
何を。
誰が。
誰を。
あまりにも理解できなくて、怒りさえ湧かなかった。
隣でセヴランが笑った。
低い笑いだった。
普段の陽気な笑い方とは違う。
イェルネは反射的に彼の腕を掴んだ。
「セヴラン様」
名前を呼ぶと、彼はすぐ静かになった。
「はい」
それだけで、前へ出ようとしていた身体が止まる。
イェルネは胸の奥が温かくなるのを感じた。
この人は、本当に自分の意思を尊重してくれる。
だから。
自分で終わらせよう。
「ヴァルグレイ様」
九年間、呼び続けた名前を口にする。
「わたくしはあなたを許すつもりも、罰するつもりもありません」
「だったら――」
「もう、興味がないのです」
彼の顔が固まった。
イェルネは静かに続ける。
「あなたがミュゼラ様と結婚なさろうと、別の方を選ぼうと、独身でいようと、わたくしには関係ありません。ローデン家への返済請求は、契約に基づいたもの。婚約していたからこそ免除されていた負担を、元へ戻しただけです」
「だが、お前は俺の妻になるはずだった!」
「なりません」
「イェルネ!」
「九年間、わたくしはあなたの婚約者でした」
自分でも驚くほど、声は穏やかだった。
「あなたが学院へ進むとき、必要な本を揃えました。領地経営を学ぶというから資料を集めました。夜会へ出席するなら衣装を手配し、領地で災害があれば父に援助を頼みました。いつか夫婦になるのだから、あなたを支えることが自分の役目だと思っていたのです」
思い返せば、本当に多くのことをした。
「けれどあなたは、それを一度でも当然ではないと思ったことがありますか?」
ヴァルグレイが黙る。
答えは、それで十分だった。
「わたくしがあなたを捨てたのは、ミュゼラ様のせいだけではありません」
イェルネは彼を見つめた。
「あなたと一緒にいる自分を、好きでいられなくなったからです」
それが本当の理由だった。
我慢して。
尽くして。
傷ついて。
それでも笑う。
そんな自分になりたかったわけではない。
「ですから、もう終わりです」
ヴァルグレイは何も言えなかった。
その隣で、ミュゼラが俯いている。
イェルネは彼女を責める気もなかった。
ヴァルグレイを選ぶなら、これから苦労するだろう。
それも彼女自身の選択だ。
ところが。
「終わりではない!」
ヴァルグレイが突然イェルネの腕を掴もうとした。
その瞬間だった。
セヴランが動いた。
イェルネの身体を自分の後ろへ庇いながら、伸びてきた腕を掴む。
「そこまで」
笑っていた。
いつもと同じように。
なのに、琥珀色の目から笑みだけが完全に消えている。
「女性が嫌がっている。触らないでいただけますか」
「商人風情が、俺に命令するな」
ヴァルグレイが吐き捨てる。
セヴランは怒らなかった。
むしろ、にっこり笑った。
「もちろん。では商人らしくお話しましょう」
彼はヴァルグレイの腕を離し、袖を整えた。
「ローデン侯爵家が当商会に負っている債務は、現在金貨一万八千四百枚。来月までに最初の返済期日が参ります。またローデン領から王都までの北部街道について、来春から通行税制度が変更される予定です」
ヴァルグレイの顔色が変わった。
「なぜ、お前がそれを」
「整備費用の七割を私が出していますので」
セヴランは微笑んでいる。
「さらに今年の羊毛価格ですが、南方から安価な綿織物が大量に入荷するため、おそらく二割ほど下落するでしょう。ちなみに輸入元も私です」
周囲から小さなどよめきが起こる。
「ですからローデン侯爵令息。今のあなたは、夜会で元婚約者へ絡んでいる場合ではない」
口調は穏やかだった。
侮辱する言葉など一つも使っていない。
それなのに、ヴァルグレイの顔は真っ赤になっていた。
「明日の朝から帳簿を読み、領地へ戻って羊毛以外の産業を育て、十年ほど真面目に働くことをお勧めします。幸い領民は勤勉です。あなたまで勤勉になれば、家を立て直すことは可能でしょう」
それが一番残酷なのかもしれない、とイェルネは思った。
破滅させない。
逃げ道も与えない。
ただ、自分が今まで怠けた分を、自分で働いて取り戻させる。
ヴァルグレイは反論できなかった。
セヴランの話した数字がすべて事実だからだ。
やがて彼は踵を返した。
ミュゼラも慌てて後を追う。
人々が道を開ける。
以前なら誰もが羨んだ侯爵家の跡取りへ、今は同情と嘲笑の入り混じった視線が向けられていた。
イェルネはその背中を見送った。
不思議なほど、何も感じなかった。
本当に終わったのだ。
「イェルネ嬢」
隣から呼ばれる。
振り向くと、セヴランが心配そうにこちらを見ていた。
「大丈夫ですか」
イェルネは頷いた。
「ええ」
「帰ります?」
少し考えて、首を振る。
「いいえ」
そして彼へ手を差し出した。
「踊ってくださる?」
セヴランが固まった。
今度はイェルネが笑う番だった。
「どうしました?」
「……すみません。想定外で」
「天下の《渡り鴉》にも、想定外がありますのね」
「あなたに関しては、毎日ありますよ」
彼はそう言って、差し出された手を取った。
宝物に触れるように。
驚くほど優しく。
◇
その夜から、二人の関係は少しずつ変わった。
劇場へ行った。
市場を歩いた。
フィオレント領へも一緒に出かけた。
セヴランは領民ともすぐ仲良くなった。
子供に菓子を配り、農夫とは麦の値段について話し、酒場では老人たちと賭け事までしていた。
胡散臭い男なのに、不思議と人に好かれる。
「あなた、どこへ行っても馴染みますのね」
宿へ戻る馬車の中で言うと、セヴランは笑った。
「商人ですから」
「それで説明できるものかしら」
「人間が好きなんですよ。人間がいなければ商売はできませんし」
「お金が好きなのではなくて?」
「大好きですよ」
即答だった。
イェルネは笑う。
「でも、お金より好きなものが一つあります」
何か。
聞かなくても分かる気がした。
だから窓の外へ顔を向けた。
「聞いてくださらない?」
「聞きません」
「冷たいなあ」
「どうせ、わたくしでしょう」
沈黙。
不審に思って振り返る。
セヴランが目を見開いていた。
それから突然、両手で顔を覆った。
「……どうしました?」
「嬉しくて死にそうです」
「なぜですの」
「私があなたを好きだと、あなたが当然のように認識してくださっている」
そんなことで。
そう思った。
けれど胸が温かくなる。
「六年も好きだと言われれば覚えます」
「もっと言いましょうか」
「結構です」
「今日も好きですよ」
「言わなくていいと」
「昨日より好きです」
イェルネは彼の口を手で塞いだ。
セヴランが黙る。
掌に唇が触れていることへ気づいたのは、その直後だった。
慌てて離そうとした。
けれど今度は、セヴランがその手を掴んだ。
強くはない。
逃げようと思えば逃げられる。
彼は何も言わず、イェルネを見ていた。
琥珀色の瞳。
いつも笑っている男が、今は少し苦しそうな顔をしている。
「……触れても?」
イェルネは頷いた。
すると彼は、掴んだ手を自分の頬へ当てた。
それだけだった。
口づけもしない。
抱き締めもしない。
ただ目を閉じて、頬を寄せる。
その仕草があまりにも大切そうで、イェルネのほうが泣きたくなった。
「セヴラン様」
「はい」
「六年間、本当に待っていたのですね」
彼は目を開けた。
「ええ」
「どうして、そこまで」
「分かりません」
意外な答えだった。
「商売なら説明できます。利益率、需要、供給、将来性。数字を並べれば、大抵の判断には理由をつけられる。でもあなたについてだけは無理でした」
彼はイェルネの手を包み込む。
「気づいたら、あなたが笑っていると嬉しかった。泣いていると腹が立った。何か欲しいと言えば世界中から探したくなったし、困っていると聞けば全部解決したくなった」
声が低くなる。
「六年経っても治らなかったので、もう病気みたいなものですよ」
「治す気は?」
「ありません」
迷いのない返答だった。
「一生患う予定です」
イェルネは笑った。
そして今度は、自分から彼の手を握った。
◇
季節が巡り、春になった。
ヴァルグレイは領地へ戻ったらしい。
父である侯爵から、社交界への出入りを禁じられたという。
ミュゼラとの関係も終わった。
彼女の家が、借金を抱えたローデン家との結婚に反対したためだ。
一時は駆け落ちすると騒いだらしいが、財産を捨てる覚悟まではなかったらしい。
イェルネはその話を聞いても、もう何も思わなかった。
一方、ローデン家そのものは存続している。
ヴァルグレイは毎朝領地の工房へ出向き、羊毛の加工法を学んでいるという。
以前の彼なら考えられないことだ。
十年後には、案外まともな領主になっているかもしれない。
それでいい。
自分の人生とは、もう関係がない。
イェルネには、もっと大きな問題があった。
「……これは何ですの?」
フィオレント邸の応接室。
机の上に置かれた書類を見て、イェルネは尋ねた。
向かい側のセヴランが満面の笑みを浮かべる。
「婚姻契約書です」
「それは見れば分かります」
問題は内容だった。
結婚後もイェルネの個人資産はすべて本人が管理する。
《渡り鴉商会》の利益の二割を毎年妻の個人口座へ入れる。
離婚する場合、商会の資産の半分をイェルネへ譲渡する。
夫側の不貞が原因の場合、さらに残りの半分まで譲渡する。
「最後の項目に至っては、あなたが無一文になりますわよ」
「浮気しなければいいだけですから」
「普通はもう少し自分を守る契約をします」
「必要ありません」
セヴランは平然としている。
「私から離婚を申し出る可能性はありませんので」
「人生に絶対はありません」
「ありますよ」
琥珀色の瞳が細められる。
「あなたに関してだけは」
また重い。
この男の愛情は、ときどき砂糖ではなく鉛でできているのではないかと思う。
「それから、この屋敷というのは?」
契約書の付属資料を見る。
王都西部にある邸宅。
庭園つき。
敷地面積はフィオレント伯爵邸の三倍。
「新居です」
「いりません」
「即答」
「あなたのお屋敷がありますでしょう」
「ありますが、あなたには少し狭いかと」
「侯爵邸より大きい家のどこが狭いのです」
「衣装部屋が三つしかない」
「一つで十分です!」
「では残りは宝石部屋に」
「そういう問題ではありません!」
セヴランが楽しそうに笑う。
イェルネは額を押さえた。
「まだ結婚すると申し上げてもいないのに」
笑い声が止まった。
顔を上げる。
セヴランがこちらを見ていた。
「……そうでしたね」
目に見えて落ち込んだ。
大型犬の耳が垂れたように見える。
天下の大商人を相手にそんな感想を抱く日が来るとは思わなかった。
イェルネは小さく息を吐いた。
それから立ち上がり、彼の隣へ移動した。
「セヴラン様」
「はい」
「最初に求婚された日のことを覚えています?」
「一言一句」
怖い。
そこまで覚えなくてもいい。
「わたくしは、しばらく自由に暮らしたいと言いました」
「ええ」
「この半年、とても自由でした」
行きたいところへ行った。
したい仕事をした。
笑った。
自分で決めた。
そして、その隣にはいつも彼がいた。
何かを強制することなく。
けれど困ったときには、手を伸ばせば必ず届くところに。
「自由でいることと、誰かを愛することは、反対ではないのですね」
セヴランの表情が消えた。
イェルネは少し恥ずかしくなった。
それでも続ける。
「あなたと一緒にいるようになって、初めて分かりました」
以前の婚約では、愛するとは我慢することだと思っていた。
相手のために自分を削ること。
耐えること。
許すこと。
けれど違った。
本当に大切にされると、人は自由になれる。
失敗してもいい。
弱くてもいい。
嫌なことには嫌だと言っていい。
それでも隣にいると言ってくれる人がいるから、自分の足で遠くまで歩いていける。
「ですから」
イェルネは彼の前へ立った。
「もう一度、言ってくださる?」
セヴランは動かなかった。
「何を?」
いつもの彼らしくない、掠れた声だった。
分かっているくせに。
イェルネは笑う。
「最初に会った夜、あなたが言ったことです」
彼はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくり立ち上がる。
「イェルネ・フィオレント嬢」
いつもの冗談めいた笑みはなかった。
「私と結婚してください」
イェルネは頷いた。
「はい」
次の瞬間。
抱き締められると思った。
ところが、何も起こらない。
不思議に思って顔を上げる。
セヴランは完全に固まっていた。
「セヴラン様?」
「少々お待ちを」
「何を?」
「今、人生最大の利益を得たところなので、処理が追いついていません」
イェルネは吹き出した。
「商人らしい言い方」
「本当に……?」
「何がです?」
「結婚してくださる?」
「今、はいと申し上げました」
確認した途端、彼は顔を覆った。
「六年……」
呻くような声だった。
「長かった……」
その姿を見て、イェルネの胸がいっぱいになる。
六年間。
この人は待った。
奪おうとせず。
壊そうとせず。
自分が自分の意思で前の婚約を終わらせるまで。
「セヴラン様」
イェルネは彼の手を取った。
「抱き締めてくださらないの?」
男が顔を上げる。
琥珀色の瞳が大きく見開かれた。
「いいんですか」
「婚約者になるのでしょう?」
「なります。絶対になります。今から王宮へ行って書類を出しましょう」
「今日はもう役所が閉まっています」
「開けさせます」
「やめてください」
「では明日の朝一番で」
相変わらずだ。
イェルネが笑っていると、ようやくセヴランの腕が背中へ回った。
抱擁は思っていたよりずっと慎重だった。
壊れ物を扱うように。
イェルネは自分から身体を寄せる。
すると腕に少しだけ力が加わった。
「……好きです」
耳元で囁かれる。
知っている。
「愛しています」
それも知っている。
「六年前からずっと。たぶん明日は、今日よりもっと」
声が震えていた。
イェルネは彼の胸へ頬を寄せた。
心臓が驚くほど速い。
余裕たっぷりに見える男でも、こんなふうになるのだ。
それが嬉しかった。
「イェルネ」
初めて敬称なしで名前を呼ばれる。
「何です?」
「口づけても?」
イェルネは少しだけ身体を離した。
彼を見上げる。
「毎回、許可を取りますの?」
「嫌ですか?」
「いいえ」
むしろ、この人らしい。
「今日は、どうぞ」
セヴランが微笑んだ。
唇が重なる。
驚くほど優しい口づけだった。
ほんの短いもの。
離れたあとも、彼は額を寄せたまま動かなかった。
「……足りない」
低い声だった。
「セヴラン様?」
「六年待ったので、全然足りません」
嫌な予感がする。
「だからといって六年分まとめては――」
最後まで言えなかった。
二度目の口づけが落ちてくる。
先ほどより少し長い。
それでも強引ではない。
離れる。
また触れる。
何度も。
大切なものを確かめるように。
イェルネは途中から数えるのをやめた。
ようやく解放された頃には、セヴランの肩へ額を預けるしかなかった。
「……重いですわ」
思わず呟く。
愛情が。
セヴランは嬉しそうに笑った。
「知っています」
「少しは否定してください」
「六年分ですからね。これでもかなり小分けにしています」
「これで?」
「はい。残りは結婚後、五十年ほどかけてお渡しする予定です」
「五十年で足ります?」
イェルネが冗談で尋ねる。
セヴランは少し考えた。
「難しいですね」
真顔だった。
「では六十年」
「それでも足りないかもしれません」
「七十年」
「頑張ります」
「何をですの」
「長生きを」
イェルネは笑った。
「それなら、わたくしも付き合います」
セヴランの表情が変わった。
また。
たった一言で、途方もなく嬉しそうな顔をする。
「今の言葉、契約書へ入れていいですか?」
「絶対に駄目です」
「残念」
そう言いながら、彼はイェルネの左手を取った。
まだ何も嵌まっていない薬指へ、そっと口づける。
「指輪を作らせています」
「もう?」
「六年前から」
イェルネは絶句した。
「……婚約中の女性の指輪を?」
「いつか使えればいいな、と」
「使えなかったら?」
「棺へ入れてもらう予定でした」
さらりと言われ、背筋が寒くなる。
「怖いですわ!」
「よく言われます」
「重すぎます!」
「それもよく言われます」
「誰にですの!」
「あなたのお兄様に」
いつの間に。
問い詰めれば、兄とは二年前から酒を飲む仲なのだという。
父とも商談をしている。
母には南方の香水を贈っている。
「外堀を埋めていましたのね?」
「六年ありましたので」
悪びれない。
「でも安心してください。最後に決めるのは、あなただと思っていましたから」
その言葉に、怒る気が失せる。
ずるい男だ。
胡散臭くて。
計算高くて。
恐ろしいほど用意周到で。
けれど一番大事なところだけは、絶対に踏み越えない。
「では、一つ条件があります」
「百個でも」
「一つで十分です」
イェルネは彼の胸へ指を当てた。
「わたくしを幸せにすることだけを考えないでください」
セヴランが瞬く。
「あなたも幸せになること」
今までの自分と同じになってほしくない。
どちらか一人が与え続ける関係にはしたくない。
「わたくしだけではなく、二人で幸せになるのです。それが結婚の条件」
セヴランは長いこと黙っていた。
そして。
ひどく優しく笑った。
「それは、難しい条件ですね」
「なぜ?」
「あなたがいるだけで、私はだいぶ幸せなので」
「でしたら簡単でしょう」
「なるほど」
彼はイェルネの手を取り、指を絡める。
「では、その条件で契約成立ということで」
「結婚を商談のように言わないでください」
「私にとっては人生最大の取引ですから」
「利益は?」
尋ねてみる。
セヴランは迷わなかった。
「あなた」
「では、わたくしの利益は?」
少し意地悪な質問だった。
彼なら何と答えるのだろう。
宝石。
財産。
自由。
あるいは愛情。
けれどセヴランは、しばらく考えてから答えた。
「これから一生かけて、私が増やします」
その言葉を聞いて。
イェルネは、この男を選んでよかったと思った。
◇
二人の結婚式は、その年の秋に行われた。
王都では長く語り草になったという。
国王夫妻から祝いの品が届き、王太子が参列し、国内外から商人が集まった。
砂漠の族長。
海洋都市の船主。
北方の鉱山王。
本当に竜まで来るのではないかと噂されたが、さすがにそれはなかった。
もっともセヴランに尋ねると、「招待状は出したんですけどね」と笑ったので、イェルネはいまだに真偽を知らない。
結婚後も、彼女の生活はほとんど変わらなかった。
仕事を続けた。
フィオレント領の染料を扱う工房を立ち上げ、自分の商標を作った。
セヴランは口を出さなかった。
相談すれば助言する。
頼めば人を紹介する。
けれど最終判断は必ずイェルネへ任せた。
そして夜になると、昼間の余裕が嘘のように甘える。
「イェルネ」
結婚から三か月ほど経った夜。
寝台で本を読んでいると、隣から呼ばれた。
「何です?」
「こちらを向いてください」
「今いいところなのです」
「本と夫、どちらが大切ですか」
「今は本」
「ひどい」
肩へ額を押しつけられる。
大商会を率い、各国の王侯と交渉する男とは思えない。
イェルネはページをもう一枚だけ読み、栞を挟んだ。
「これでいい?」
「はい」
途端に抱き込まれる。
「重いです」
「愛の重さです」
「物理的な意味ですわ」
「では痩せます」
「そういう意味でもありません」
笑いながら身体を預ける。
セヴランの腕は温かい。
「幸せですか?」
彼は時々、それを聞く。
結婚した直後は毎日のように。
最近は三日に一度くらいになった。
「幸せです」
答えると、腕が強くなる。
「あなたは?」
イェルネも必ず聞き返す。
これが二人の約束だからだ。
「ものすごく」
セヴランが髪へ口づける。
「予定より幸せなので困っています」
「困ることではないでしょう」
「失うのが怖くなる」
声が少しだけ低くなる。
これも彼の愛情の一部だった。
明るく笑っているくせに。
根っこのところでは、ひどく臆病だ。
六年間も手を伸ばさず待った男なのだから、当然なのかもしれない。
「失いません」
イェルネは彼の頬へ触れる。
「少なくとも、わたくしから勝手にいなくなるつもりはありません」
「本当に?」
「ええ」
「では契約書に」
「書きません」
「残念」
何度目か分からないやり取り。
二人で笑う。
窓の外では、雪が降り始めていた。
かつて庭園で一人泣いた冬とは違う。
今は暖かい部屋がある。
帰る場所がある。
隣に、自分を大切にしてくれる人がいる。
そして何より。
自分自身で選んだ人生がある。
「ねえ、セヴラン」
「はい」
「昔のわたくしに会えたら、何と言います?」
彼は少し考えた。
「早く婚約破棄しろ、と」
イェルネは吹き出した。
「六年間待たされた恨みが入っていますわね」
「もちろん」
「では、わたくしは何と言おうかしら」
昔の自分。
婚約者に愛されるため、もっと頑張らなければと思っていた少女。
嫌われないように。
捨てられないように。
役に立つ女でいようとした。
あの頃の自分へ。
「あなたから捨ててもいいのよ、と言います」
イェルネは静かに笑った。
「大切にしてくれない人を、自分から選ばなくなってもいい。誰かに選んでもらうまで待たなくても、自分で人生を選んでいいのだと」
セヴランは何も言わなかった。
ただ、抱き締める腕へ力を込める。
しばらくして。
「では私は、その少し後ろで待っています」
「六年も?」
「必要なら十年でも」
「待たせませんわ」
イェルネは彼を見上げた。
「今度は、わたくしから行きます」
そして自分から口づけた。
驚いた琥珀色の瞳が、ゆっくり閉じていく。
腰を抱く腕が強くなる。
長い口づけのあと、額を合わせたセヴランは、ひどく幸せそうに笑った。
「愛しています、イェルネ」
「知っています」
「明日はもっと」
「それも知っています」
「明後日はさらに」
「はいはい」
「十年後は、おそらく今の三倍ほど」
「それは少し困りますわ」
「返品は受け付けておりません」
「商人なのに?」
「ええ。この商品だけは永久契約です」
胡散臭い笑顔だった。
初めて会った頃なら警戒しただろう。
今では、その顔を見るだけで笑ってしまう。
「仕方ありませんわね」
イェルネは彼の胸へ頬を寄せた。
「では、一生買い取ります」
セヴランが息を呑んだ。
しまった。
そう思ったときには遅かった。
「今の言葉、もう一度お願いします」
「嫌です」
「イェルネ」
「言いません」
「お願いですから」
「絶対に嫌」
逃げようとした身体を抱き込まれる。
笑い声が重なる。
窓の向こうでは白い雪が静かに王都を覆い、その遥か向こうでは、新しい商路を進む馬車の灯りが夜の中を連なっていた。
彼女が捨てたものは、一つの婚約だった。
けれど、それによって取り戻したものは数え切れない。
自由。
誇り。
仕事。
笑顔。
自分で選ぶ権利。
そして。
六年という長い時間、自分が振り向く日を待ちながら、世界中の富よりも自分一人を欲しがった、どうしようもなく胡散臭く、陽気で、途方もなく愛の重い商人。
後年。
《渡り鴉商会》は大陸最大の商会へ成長する。
その主人セヴラン・キシュカについては、数え切れないほどの逸話が残された。
国王との商談で一歩も退かなかった。
戦争寸前だった二国を交易によって和解させた。
砂漠を横断する新しい商路を開いた。
伝説の竜と本当に取引した。
どこまで真実なのかは分からない。
けれど、彼を知る者が必ず口を揃える話が一つだけある。
天下の大商人には、唯一、絶対に値段をつけなかった宝物があった。
妻である。
金貨を山ほど積まれても。
王冠と交換すると言われても。
国を一つ差し出されても。
「駄目です。私の命より高いので」
そう言って笑ったという。
もっとも。
その話を本人から聞かされたイェルネは、呆れながらこう返した。
「命より高いなら、あなたも一緒に長生きなさい」
すると大商人は、世界で一番難しい契約を任されたかのように真剣な顔をしたあと、妻の手へ口づけた。
「承知しました、奥様。では百年ほど、お付き合いください」
契約期間は、一生。
更新については。
二人とも、異議なしだった。




