第92話 春の味のスープ 7歳 春
年が明け、暦の上では春が訪れた。
とはいえ、まだ冬の霜の巨人は完全に去ったわけではない。
灰色の空の下、フィヨルドの切り立った崖の上の方は未だに冠雪しているし、冷たい雪解け水が流れ込む海は、黒く冷たい青色のままだ。
ようやく雪が積もらなくなった地面からは、去年の枯れた草の間から鮮やかな緑の新芽が顔を出し始めたばかり。
空気は冷たく澄み切って、息を吐けば白くなる。
春は来た。けれど本当の春はまだ遠い。
僕は、7歳になった。
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僕は、家族を前に宣言をした。
「7歳になりました!もう大人のお仕事を、お手伝いできる年齢です!」
「そうだな、トール、当てにしているぞ」
「へへへ」
この村では、7歳あたりから子供ではなく労働力として計算されるようになり社会参加が認められる。
多くの子供は家業を継ぐため父の後をついて周り、雑用をしながら仕事を憶えていくのだ。
「あたしの仕事も手伝わせて上げる!縫い物とか!」
「エリン!」
「だってえ、トールの方がずっと上手いじゃない。母さんより上手いわよ」
「それはそうだけど…」
エリン姉も手先が不器用な方じゃないのだけれど、じっと座って何時間も手元を見ながら縫い物をする、というのは苦手みたい。
屋外で鳥罠を仕掛けたりするのは上手いんだけどね。
どうも才能と性格を生かせる道がまだ見つかっていない感じがするし、本人も活力を持て余しているみたいだ。
僕も父ちゃんの仕事を継ぐために…。
あれ?
父ちゃんの今の仕事ってなんだろう?
いちばん銀貨を稼げている仕事…クナトルレイクのヘッドコーチ?
…あまり突っ込んで考えるのはやめよう。
家族に相談せずに脱サラ宣言した家庭の如き家内争議が起きる気がする。
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「そろそろ塩作りの時期も終わりかなあ」
だんだんと桶に汲んだ海水が凍らなくなってきた。
表面が少し凍る程度では、ほとんど凍結濃縮効果が期待できない。
そうなれば雪解け水で希釈されたフィヨルドの海水を沸かすのは、薪の熱の無駄だから製塩は来年の冬まで中止だ。
北方の厳しい自然で生きるためには、熱効率が悪い行為は悪なのである。
一方で、春になっても鱈の漁は続いている。沿海を中心に、早朝に出て昼前には帰れる程度の近海で鱈が完全に捕れなくなるまで続けるらしい。
サバや鰊の小さな群れがフィヨルドに迷い込んでくることもある。
人間の漁業技術が未熟なこの時代、豊穣な北の海は気分次第で無尽蔵の幸を恵んでくれるようにすら見える。
「魚を下ろすぞ―!」
「四枚の櫂」という呼び名を持つ中型の漁船が、樽に詰め込まれた魚を浜に幾つも水揚げをする。
今日の漁獲はサバが中心のようだ。サバは脂が多いので足が早い。素早い処理が求められる。
木工職人が昨年から交易のために製造を始めた規格化された樽は《《どういうわけか》》村に行き渡り、漁業にも使われ始めているようだ。管理の面から見ても良いことだと思う。樽のサイズが同じなら漁獲量を樽の数で数えられるからね。
税をとるかはともかくとして、漁獲量が推定できることは政務に役立つはず…役立てて欲しいね。
「じゃあナイフを持っている人は頭を落とすのに回って!尾を縛る縄を持ってきて!」
御婦人の1人が音頭を取り、女衆が集まってくる。
交易に出される鱈よりも小さいけれど、サバだって十分に大きな魚だ。
乱獲されていないため、身は1エル(約50cm)近くもある。
脂も乗っていて、焼くとすごく美味しいんだ。
冬の間に連携で鍛えられたご婦人達にかかれば、たった一隻の漁獲の処理など軽いもの。
ご婦人たちの処理ラインが稼働すると、あっという間に何樽分もの大きなサバは、頭を落とされワタは掻き出され、開きになって2匹の尾が結び合わされて干しやすいように加工された。
加工済サバの一部は社交場に併設された螺旋式の冷燻施設に。残りのほとんどは村営の大きな冷燻施設へと送られるのだ。
「おっきいねえ…」
そのうち一尾は、切り身として社交場の昼食のスープ鍋へ入れられる。
塩作りをやめても燻製の煙は必要だからね。
社交場の暖房は続けるし、塩作りのための鍋は大きなスープ鍋に代わる。
しかし今日の鍋の主役は、サバではない。
「はいはい。春のスープができましたよ」
春のスープ。七草粥のように、このあたりでは定番のイラクサのスープである。
色は完全な緑。一見すると、ただ草を煮ただけに見えるのだけれど、冬に不足したビタミンを補ってくれる大事なスープなのだ。
多くの家では、春の間はずっとと言って良いぐらいイラクサのスープを飲んでいる。
家庭によって作り方に差はあるけれど、イラクサの処理は共通してる。
イラクサは棘があって刺されると蕁麻疹などもできることがある。
若芽だけを手袋をつけて摘んでから、流水でよく洗い熱湯で少し煮てアクをとりつつ明るい緑色になったら浅い籠にあける。
これでトゲも柔らかくなり蕁麻疹の成分も熱で壊れているので、あとは刻むだけ。
普通の作り方は、鍋に水と塩と大麦をとろみ出しのために入れて柔らかくなるまで煮てから、玉葱を刻んで入れる。そこへ刻んだイラクサを投入する。コクが欲しければ脂を加える。
今年は、鯨の干した脂身を入れることが多い。薄い切り身にした鯨の脂身は山程在庫があるのでね…。おかげで、今年の村の皆は肌や髪がつやつやしている。
「うーん美味しい…!」
「あら、トールちゃんは春のスープが好きなの?珍しいわね」
「うちの子なんて肉が欲しいしか言わないのに、渋いわねえ!」
「はい!体にいい気がします!」
緑のスープを美味い美味いと飲んでいたら、社交場のご婦人方に声をかけられた。
そうか…子供にはこの美味さがわからんか。
冬の間に不足したビタミンが体中に行き渡る滋味深いこの味がわからんとは、お子様舌とは難儀なことよ…。
女性には肌の調子が良くなるとかお通じが良くなるとかで、イラクサのスープは人気がある。それで毎日出しているせいで子供は飽きているのかもしれないけど…。
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「ねえ母ちゃん、牛乳足してみようよ」
「牛乳?春のスープに?」
夕食には、母ちゃんにおねだりをしてみた。
昔、どこかで見た北欧風のスープってクリーム系だったと思うんだよね。
大麦粥に牛乳を足すこともあるし、うまく行くはず。
「まあそういうならやってみるけど…」
我が家には家畜もいるし料理に加える程度の牛乳ならすぐに手に入る。
母ちゃんは怪訝な顔をしつつも、上手いことクリーム系春のイラクサのスープを仕上げてくれた。
「…あら!」
「美味しい!」
牛乳を煮詰めたおかげか、イラクサの滋味溢れる感じが、さらに深みが増している。
イラクサのクリームスープは父ちゃんとエリン姉にも好評で、翌日に社交場で新メニューを披露した母ちゃんは、村における料理系インフルエンサーとしての地位を、ますます盤石なものとするのであった。




