第34話 机上の空論 船上の実務
母ちゃんは、頑張って船上用蒸し料理のメニューを作り、生石灰と水の分量と割合を割り出してくれた。
標準のメニュー1食分は、ハードタックパン1枚、冷燻鮭一切れ、玉葱半分のスライス。蒸気で温めるための生石灰一握り。一杯の水。
ここからは、僕の仕事なのである。
まずは必要な量の生石灰と水を秤を使って、同じ重さの石を選んだ。
以降は、この石の重さが一食分の生石灰の単位になる。
単位石を無くしたら大変なので、温泉マークの模様も刻んでおく。
エリン姉からは「なあにこれ?」と聞かれたけれど「お湯が湧いている図」と誤魔化した。だいたいの意味は合ってるからね。
「ハーブも載せたいんだけど、日持ちしないからねえ…」
と母ちゃんは悔しそう。ソースやハーブがあればもっと味にバリエーションがつけられるんだろうけど、標準を決めることが大事なのだ。味に変化をつけたければ、保存の効くソースなりドライベリーなりを個人が少し足せば良いのだから。
いっそハーブを鉢植えで持っていくという手もある。強い植物が多いから10日やそこらなら潮風にさらされても枯れたりはしないでしょ。
使い切ったら上陸したときに新しいハーブを見つけて植え替えればいいしね。
「あとは、船の上でやってみないと。父ちゃん、お船貸して!」
「よし。久しぶり出してみるか」
「あたしも行く!」
我が家も、村の他の自由農民の家と同じように小さな漁船を保有してる。
オスウェルヴァルと呼ばれる、伝統的な方法で作られた漁船だ。
現代ではクリンカー工法と呼ばれる、外板を幅広のオークの薄板を重なるように連ねて接続部を鉄釘で固定する、軽量でしなやかな構造の船だ。
船体は全体として滑らかで外板が階段状に重なって見えるのが特徴だね。
今は漁期ではないので、陸に引き揚げて、ついた牡蠣殻を落としたり船食虫を煙で燻したり、とメンテナンスをしている。
「進水させるぞ。エリン、トール、ちょっと退いていなさい」
1人で大きな船を移動なんて出来るのだろうか。手伝いは要らないのかな。と見ていると、父ちゃんは丸太のコロを船体の下に幾つか敷くと、するすると小型漁船を進水させてしまった。
「すごーい。父ちゃん力持ちー」
「はえー。父ちゃんは力持ちだけじゃなくて知恵も働くんだねえ」
「なんだお前達、今さら父ちゃんのすごさに気がついたのか?」
子供達に褒められて、父ちゃんも何だか嬉しそうだ。
「ほら、乗せるぞ。」
エリンと僕は父ちゃんに持ち上げられて乗船する。
「遠くには出なくていいな?」
「うん。すぐそこでお願い」
船体が底を擦らない程度の波打ち際で、父ちゃんが縄で縛った大きな石の錨をどぶん、と海に放り込み小型漁船を停船させた。
「うーん狭い」
「あ、ちょっとトール揺らさないでよ!」
早速、母ちゃんから受け取った船上食を調理しようとしたのだけれど、小さな船体に大人1人と子供2人が乗っただけで、ほとんど身動きできる場所がない。
おまけに準備しようと体重移動するだけで揺れる。
「父ちゃん、調理って、船のどこでしたらいいんだろう?」
「中央か先頭だろうなあ。船尾は舵を握る船長の席だからな」
「そうなんだ。ちょっとエリン姉どいて」
「トール!揺れるってば!」
少し移動して席替えをするだけで大騒ぎだ。
大人達が大勢載っている長船ではどうしているんだろう?
「よいしょ。まずは鍋に水を…航海中の飲み水ってどうしてるんだっけ?」
「飲料水の樽があるな。腐らないようエールを入れることが多いが」
「無いこともあるんだ…」
いきなり壁にぶち当たる。
考えてみれば航海中の真水って、めちゃくちゃ大事だものな。
海水を使ってもらうか。
「と、届かない…」
「ちょっと貸しなさい」
舷側から海水を汲もうとしたら、カップを持った手が届かなかったので父ちゃんに汲んでもらった。
思い切り身を乗り出せば届いたのだろうけれど、エリン姉が大騒ぎしそうだし。
「長船の舷側から父ちゃんなら腕を伸ばして海水を汲めそう?」
「うーむ…船首は切り上がっているから、そこからは難しいだろうなあ。中央部の漕ぎ手に頼めば届くとは思うが」
「調理前に汲んでおいたほうが良さそうだね」
鍋に海水をカップで入れて、麻の袋から慎重に石灰を振りかけようとしたのだけれど、海からの風で生石灰が吹き飛ばされそう。
「石灰の粉が飛んだら危ないから、このまま入れちゃおうか」
生石灰の粉が風で吹き飛ばされて他の船員の目にでも入ったら大変だ。
麻の袋だし、そのまま投入しても水が染みるでしょ。
「あとは鍋にすだれを敷いて、パンと冷燻鮭と玉葱を載せて、籠を被せて待つ、と」
蒸し調理自体は、材料を載せるだけだから簡単だね。船上でも十分にやれる。
あとは白い蒸気が被せ籠から漏れ出して生石灰の反応が終わるのを見守るだけだ。
「いい匂いがしてきたわね。すっごく温かくて美味しそう!」
「…そうだね」
「そうだな…」
僕と父ちゃんは、浮かない顔を見合わせた。
この調理方法の致命的な危険に気がついたからだ。
北方の寒風に吹きさらしの船上で荒くれ男達が縮こまり不味い干し肉を齧る横で、温かく調理された美味そうな香りの料理を1人だけで独占したらどうなるか。
海上。狭い船内。争いの火種にならないわけがなく…。
「父ちゃん、どうしようか?」
「船上では船長を除き全員が平等だ。全員分を用意するか、取りやめるかだな」
「そうなるよね…」
何食分を用意するかにもよるけれど、たぶん2、3食ぐらいは全員分を用意できると思う。寒い日の特別食とか、記念日の食事とかにしてもらえばいい。
「今から全員に調理を憶えてもらうのは無理だよね」
「無理だろうな。慣れるまでにも時間がかかる」
うちの家族でも、あれだけ説明しても生石灰の反応を魔術じゃないかとビビりまくってたものなあ。
保守的な人が多そうな戦士達が受け入れるかどうか、かなり疑わしい。
「こんなことなら、漁期のときから試してもらうんだったなあ…」
「今年は無理だな」
「えー!ぜったい美味しいのに!」
と、船上調理については今年は諦めることにした。
一方で、石鍋を用いた懐炉については何の問題もなかった。
「寝袋に入れるのも良いが、足元に置いておくのもいいな。毛皮の大きめのマントをかぶれば座っていても蒸気が回って全体が温かい」
父ちゃんが膝を立てて船体によりかかるように座り、足元に蒸気を吹き出す石鍋を置いて毛皮で体を覆って見せた。
この体勢は知ってる。塹壕で股間の前にロウソクを立ててポンチョで覆うやつだ。
自衛隊の訓練とか、海外の戦争ニュースで見たことがある。
1人用簡易テントと呼ばれていて、弱い熱源でもかなり温かくなるらしい。
「航海中は、この姿勢で座っていることが多いんだ。海水がかかっても消えない熱源があるなら、すごく有り難い」
ということで、石鍋を用いた懐炉は採用。小さな麻袋に入れたまま生石灰と海水で反応させる分には、取扱も難しくない。
「本当は父ちゃんに温かいご飯を食べてもらいたかったんだけど…」
「気持ちはありがたい。本当だぞ?」
しょげる僕の頭を父ちゃんが力強く撫でてくれた。
父ちゃんが交易に出立する日が近づいている。




