第107話 ズボンのポケット 7歳 夏
北欧の夏の夜は、柔らかな光に包まれるようだ。
太陽は地平線低くまで沈もうとして沈まず、空は淡いピンク色に染まり続ける。
真夜中になっても薄明るく、爽やかな風が窓から入り肌を優しく撫でる。
長い冬を耐え抜いてきた人々への恵みのような季節なのである。
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エリン姉に載せられて、馬で村の見回りをするようになり数日後の夜。
僕は久しぶりに、チート能力を発動させていた。
ちくちくちく、っとね。
「母ちゃん、大きい布をちょうだい!」
「まあいいけど…何をするんだい?」
「乗馬用にズボンを改良するの!」
このあたりの村の男性のズボンは、股下の辺りの作りが独特だ。
伸縮性がない布を使って可動域を確保するためか、股間のあたりは複雑な三角形の布を組み合わせた感じになっている。
つまり乗馬用に出来てない。長時間、鞍に揺られながら座っていると股間と尻が痛いし擦れる。
そこで厚めの当て布をして痛くないように改良する。
「それと…前にとっておいたクジラの髭もちょっともらうよー!」
「クジラの髭?そういえば、そんなものもあったねえ…」
去年の秋に、村の海岸に座礁させた2頭の鯨。
彼らは冬の間、大いに村の食糧事情に貢献してくれた上に、骨までが村の道具の材料として活用されている。
僕は、その際に鯨の髭を数枚、何かに使えそう、と貰っておいたのだ。
「それで?何にするんだい?」
「トグルにするの!エリン姉、手伝ってー!」
トグルというのは、短い棒に紐の輪っかをひっかけるタイプの原始的なボタンだね。
頑丈で簡単に作れるのが特徴で、ダッフルコートなんかに使われている。
鯨の髭は柔らかいプラスチックのような素材感で、面白い。
このあたりでは骨のトグルの方が一般的なのだけれど、鯨の髭の方が加工しやすいから使ってみることにした。
そして小物の加工ならエリン姉の方が得意なので遠慮なく頼る。
「えー?ズボンーにトグル使うのー?」
「まあまあ。エリン姉の乗馬ズボンも作ってあげるから」
女性用の衣服は、男性よりもさらにに乗馬を想定していない。
なのでエリン姉はスカートを腰までたくし上げて厚い下衣を脚に巻き付けるような格好で馬を乗り回しているのだけれど、さすがに弟としては何とかしてあげたい。
「はい!まずトグル1つね!それで、幾つ必要なの?」
「とりあえず2つあったら有り難いかなあ」
「変なことしてるのねえ。ポーチを足につけるの?」
僕が乗馬ズボンに縫い付けているのは、ももの部分の外ポケット。
カーゴパンツなんかについている作業用の道具とかいれるやつ。
乗馬しているときに便利そうだからつけることにしたんだ。
なんとですね、この村の人達が履くズボンにはポケットがついてないんですよ。
男衆も女衆も荷物は小さい肩掛けのポーチに入れてるんだよね。
僕のように小さい体でポーチから物を出し入れしているのは、なんか子供っぽいからなんとかしたかったんだ。
「これなら馬に乗ってても直ぐに道具を取り出せるからね。ムニのおやつ入れたりとか」
いちいちポーチを探らなくても、さっと干したベリーとか出せるからね。
「ふうん…。でも乗馬用のズボンって男ものっぽくて可愛くない」
「女の人は普通は乗馬しないからね」
機能性優先でデザイン的に洗練されていないのは仕方ないよ。
そこは後世のデザイナーかセンスのある人に頑張ってもらうしかない。
夏の夜の明るさを味方につけて、僕はチート能力を十全に発揮して一晩で僕と姉の乗馬ズボンを縫い上げた。
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「あら。あなた達、変わったズボンを履いているわね」
翌日の馬での見回り中、同じように馬で見回り中で行き逢った村長婦人に、服装が変わっていることに気がつかれた。
女の人って、他人の服装を実によく見ているよね。
「トールが縫ってくれたんです!」
「トールが?」
僕が止める間もなく、エリン姉は乗馬ズボンを自慢した。
「…そうです」
「トールのズボンも変わっているわね?ポーチを縫い込んでいるの?」
カーゴズボン風のポケットにも注目された。
ほんと、よく見ているなあ。
「はい。ボタンは姉に作ってもらいました。こんな風に、馬に乗っていてもムニのおやつを出しやすいんです」
「ふぎん!ふぎん!」
僕が腿のポケットから途中で摘んだヘーゼルナッツを差し出すと、姉の肩からムニが首を伸ばして手から啄んだ。
「面白い工夫ね。とても便利そう」
「はい!思いつきました!」
「…そう。思いついたの…」
なぜか村長婦人は頭痛をこらえるような表情になった。
なんだろう?嫌な記憶でも蘇ったのかな?
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僕とエリン姉は、乗馬したまま見回りを続ける。
「狼を見たら逃げなさい、って言われたのにはビックリしたわねえ」
「見回りだからね。武器もない僕達じゃどうしようもないし」
村長婦人からは、何か危ないものを見たら逃げて大人に知らせなさい、とだけ言われている。
考えてみれば、乗馬スキル初心者の子供2人が、槍も弓も無しで家畜を襲う害獣と戦えるはずもないからね。
僕達はとにかく乗馬に慣れることだけを期待されている気がする。
フィヨルド内は高低差があって険しい地形が多いし、沼もあれば雪解け水で出来た小川もある。
そうした道なき道を、ぐいぐいと登り、ざぶざぶと浅瀬を渡る。
馬というのは、まるで生きたRVだね。
実に踏破力が高い。
「ちょっと休んで水を飲ませようか」
「そうね」
適当な川辺で一休み。
馬の体を洗うついでに水を飲ませたり、そこらの草を食べさせたり。
僕達も、森の茂みでベリーを摘んでおやつにして、ムニにもあげる。
夏の北方の森は、本当に豊かなのである。
「馬、飼いたいわねえ」
「賛成」
僕とエリン姉は、この短期間ですっかり乗馬の魅力にハマっていた。
父ちゃんが帰ってきたらお願いしよう。
「ただ、管理はすごく手間がかかりそうだね。冬の干し草も大変そうだし」
「そうねえ…」
「奴隷を買うか、他所の家から干し草を買うとか」
「奴隷は、ちょっと嫌ねえ。家族以外と暮らすのは好きじゃない」
「そうだね」
幸い、我が家には塩や蜂蜜や薬や木工などの漁業と農業以外の収入があるから、干し草を買えば冬も馬を維持できるかな。
「トール、そのズボンポーチ、すごく便利そうね」
「ズボンポーチ…」
ポケットという呼び名は普及してないみたいだし、それでいいか。
「エリン姉のズボンにつけると、ちょっとスカートで使いにくそうだね」
「…そうかもね」
たくし上げたスカートが降りてくるので、乗馬中には使いづらそう。
かといって馬から降りた後に女性が乗馬ズボンを履いているのも妙だし。
「スカートに直接縫い付けてみる?」
「そうね。後でお願いするわ」
後に、僕が気分でつけたズボンのポケットは村長婦人の手を経て村で広まり、後世の北方の服装文化に大いなる影響を与えていくことになるのだけれど、それはまた別の話。




