第105話 夏のはじまり 7歳 夏
フィヨルドの春が終わり、夏が来る。
鋭い岸壁の上の方に積もっていた白い雪は溶けて冷たい水となり川となって海へ流れ込み、代わりに緑の絨毯がフィヨルドを彩り始める。
白樺の白い木肌は陽光に輝き、新緑の葉が森を彩っていく。
冬の間は去っていた海鳥や多くの鳥たちが短い夏の間に伴侶を見つけようと歌声を囀り、草は花を咲かせて次代へ命を繋ごうとする。
北国の夏は、北の厳しい大地に生きる者達全てにとって短い恵みの季節である。
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「うーん。おもーい」
「エリン、ほら頑張りなさい!」
「うう…」
「トールも、ほら毛皮を引きずらないの!」
フィヨルドの民にとり、夏は引っ越しの季節でもある。
このあたりでは、冬は海岸沿いの冬の家で魚を獲り、夏は高地に移り畑を耕したり家畜を放牧して暮らすのが一般的な生活スタイルなのである。
僕達の家も例に漏れず、防寒と防腐機能が最優先で家畜と一緒に詰め込まれるように暮らす冬の家から、より暮らしやすい夏の家へと引っ越しをする。
毎年の引っ越しは時折り面倒くさく感じられることもあるけれど、夏の家は明るくて清潔なだし、なにより気分が変わるので僕は好きだ。
ただねえ、今年は父ちゃんが民会に出かけてしまっているので、引越しと夏の家の整備に手が足りなくて大変なんだ。
去年と違って、家財道具が増えてきたこともあるし、何より屋根葺きがね…。
夏の家は数カ月持てばそれでいい、という作りをしているので屋根は木枠を残して雪で完全に落ちてしまっていたりするし、その上に鳥や獣が巣を作っていたりもして。
なので、まずは床掃除からしないといけないのだ。
大きな枝などを運び出したら、棒に柔らかい枝を結びつけた箒で床を掃いていく。
「足場には気をつけなさいよ!」
「はーい!トール、はいこれ」
「うー…よいしょ、っと」
去年は父ちゃんがやってくれた屋根葺きも、僕とエリン姉でやらないといけない。
木枠は残っているので、最初に木の枝を粗く渡して隙間を埋めていく。
僕のほうが身が軽いので、屋根の上で作業するのは僕の役割。
エリン姉は運動神経が良くて力も強いので、下から必要な材料を抱えてはしごで持ってくる係。
「はい、どんどん持ってくからね。白樺の皮はこれね」
「えー、ちょっと待ってよ。まだ敷き終わってないんだから」
枝で粗くスペースを埋めたら、防水シート代わりの白樺の皮を敷いていく。
家の屋根全部に敷くわけだから、けっこうな量も必要だし時間もかかる。
下から上に順番に敷いていかないと雨漏りしちゃうからね。
「ちょっと遅い!トール貸しなさいよ!」
「わっ、危ないから!」
丁寧に敷いていたら、焦れったくなったのか屋根に登ってきたエリン姉に白樺の皮を半分ぐらい奪い取られた。
2人で協力、というより少し競争しながら白樺の皮を敷いていたら、お昼前には作業が終わった。
「そろそろお昼にしましょう!2人とも降りてきなさーい」
「はーい」
母ちゃんが三脚炉をつくって、お昼のスープを作ってくれていた。
牛乳と大麦とカブとイラクサの、春のホワイトスープだ。
「おー美味そう」
「夏は牛の乳の出が良いものね。美味しいわよ」
季節とか食べている草によって、牛の乳の味は結構変わる。
冬は干し草だけを食べているので、わりと濃厚な感じに。
夏は放牧で野原の良い草を食べているので、少し薄いけど爽やかな味がして好き。
「そういや、家畜たちはフリンの恵みを好き放題食べてるものなあ」
僕が去年、土地を肥やすために地面ごと移植したシロツメクサを、片端からモリモリと食べてくれたものなあ。
今年は去年収穫した種も撒いたから、より広範囲で繁殖しているはずなので食べ尽くされたりはしないはず。
ぼんやりと放牧されている家畜を眺めながら、木皿に盛られたホワイトスープを木匙で啜る。夏の風が爽やかで気持ち良い。
夏の家は高地にあるので、フィヨルドが一望できて浜で船を整備している人も見えるのだけれど、例年に比べると船も人も少ない。
「やっぱり、人が少ないなあ」
「仕方ないわよ。民会が終わって帰ってきたから男衆には頑張ってもらわないと」
大民会のために、村からは村長をはじめ熟練の戦士達、そして父ちゃんをはじめとする若手の選手たちがまとめて遠征に行ってしまったからなあ。
300人ちょっとしか人口のいない村で、上から50人ぐらいの働き盛りの男達がごっそりといなくなってしまっているんだもの。
彼らが返ってくるまでは、男手が必要な仕事は進めようがない。
「さて!あとは屋根に苔土を被せたら雨の心配はなくなるね!」
「そうね。それとベッドだけでも仕上げちゃいたいわね」
屋根には森から持ってきたフカフカの苔土を白樺の皮の上に被せる。
ちょっとファンタジーっぽい見た目になるのだけれど、この苔土は実によく水を吸収してくれて腐ったりもしないから、実に優秀な生きた屋根材になるんだ。
白樺の皮と違って順番とかは気にしなくていいから、大きな苔土野シートをばさりと被せていたら、すぐに終わった。
「あとはベッドだけど…一つでいいわね」
「そうね」
「…うん」
母ちゃんと父ちゃんが寝るサイズの大きめのベッドも木枠だけが残っていたから、掃除して、枝をスプリング代わりに敷きつめて、清潔なわらを敷いて、リネンの布を被せれば夏のベッドが完成する。
父ちゃんが返ってくるまでは、僕も一緒のベッドに寝ることになるらしい。
初夏の夜は少しだけ寒いからね。
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いろいろと片付けていたら、夕食の時間になった。
だけど外はまだ日が高くて明るいので時間間隔がちょっと狂う。
北方の夏はずっとこんな感じ。
夜になっても完全に暗くはならず、夕方のような青い時間がずっと続くんだ。
「父ちゃんは、ちゃんとご飯食べてるかなあ」
「大きな海を渡るわけじゃないもの。ちゃんと夜には上陸して、暖かいスープを作ってるわよ」
西の大洋を越えて交易に行くのと違って、今回の民会は沿岸沿いに南下していくわけだから、夜には適当な陸に上がって休むことができる。
沿岸の有効な村に寄って対価を支払えば歓待を受けることも出来るだろう。
母ちゃんが言うように、自然相手という意味では心配はしなくても良いかも知れない。
「それに、ちょっとクナトルレイクの試合をしてくるだけなのでしょう?男衆ときたら、本当に大げさなんだから!」
「…そうだね」
父ちゃんは母ちゃんに細かいことは告げていないみたいだ。
だから僕も余計なことを言って心配させたりしないつもりだ。
「父ちゃんは、クナトルレイクなら北方一の男だものね」
「そうよ!父さんがすごいんだから!」
エリン姉が力強く保証すると、ムニのやつが「ふぎん!ふぎん!」と鳴いた。
「夏の家にムニの止まり木をつくってやらないとなあ。エリン姉、そういえばベーグルは夏の家に来てくれそう?」
僕が干した樹の実をムニにやりながら尋ねると、エリン姉はちょっと困った顔をしていた。
「引っ越すから来なさい!と読んだんだけど、ベーグルは冬の家を守りたいみたいで動いてくれないの…」
「あー。確かに冬の家に食料が貯蔵されてるからね」
ベーグルは自分の仕事をよく心得ていて、冬の家の食料を狙うネズミたちを撃退し続けてくれている。
それなのに夏の家に来い、とは強要しづらい。
「たぶん、ご飯が欲しくなったら夏の家に来るよ」
「そうだといいんだけど…」
ムニはベーグルがいなくて上機嫌なのか「ふぎん!ふぎん!むに!むに!」とリラックスした様子で僕の肩で騒ぐ。
嘴は相変わらずやや丸みを帯びているけれど、だんだんと大きくなってきたなあ。
図体だけみれば、立派な成鳥だ。
ベーグルはそれ以上に大きくなっているから、力関係は全然変わらないのだけれど。
「夏の家もベーグルが守ってくれたら安心なんだけどなあ」
僕は少し気落ちして見えるエリン姉を見ながら呟く。
その夜、珍しく雨が降った。
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「ぐえっ!」
ドスン!
腹への衝撃で目が覚めた。
「うにゃん」
なんか知らんけどベーグルが夏の家に来ていた。
屋根ができるの待ってたのかね。
「ベーグル!」
エリン姉が、さっそく猫を捕まえてスリスリしてる。
猫が逃げるのは、たぶんそういうところだぞ。
「母さん、トール、外を見て!」
エリン姉が大きな声を上げた。
「おお、すごい」
「ほんと、綺麗ねえ」
窓から見える外の草原には、一面の白い花。
去年植えたシロツメクサが、一斉に開花していたんだ。
風が微かな花の香りを運んでくる。
僕にはそれが北国の夏の始まりを告げる息吹のように思えた。




