第9話 : 呼吸する壁と、存在しない名前
『それはお前に話しかけているのではない。お前の骨に語りかけているのだ。もし壁の中から囁きが聞こえても、答えるな。答えた瞬間、お前は自分が「それ」の一部であることを認めたことになる』
——『灰の塔構造学概論:反響に関するタブー』
静寂は質量を伴い、鉛のように鼓膜を圧迫していた。
自分の肺が壊れた鞴のような喘鳴を上げていなければ、ここは建設されたばかりの、バクテリアさえ湧いていない鋼鉄の墳墓だと錯覚しただろう。
李翰文は冷たい床に横たわっていた。背中が触れている金属の床板が、緩慢に、そして律動的に起伏しているのを感じる。
そう、起伏だ。この塔は生きている。
まるで冬眠中の太古の巨獣が、一世紀を単位とするような気の長い呼吸をしているかのように。
金属板の下の脈動は皮膚を通して骨格へと伝導し、歯の根が浮くような不快な共振を引き起こす。
「科学的じゃねえ……デタラメだろ……」
翰文の脳裏にツッコミが流れる。建築物に心拍数があっていいわけがない。
これは超大型油圧システムの振動か? それとも低周波音による錯覚か?
一回の起伏ごとに、壁面を流れる青い光の回路が明滅し、変電所が稼働する時のような重低音が空気を震わせ、傷口を疼かせる。
「……私たち……入れたの?」
傍らから女の声がした。
彼女は壁際に座り込み、膝を抱えている。琥珀色の瞳は周囲に浮遊する石塊を警戒し、その声は今にも闇に飲まれそうなほど希薄だった。
「入れたさ。ハエトリグサの消化袋の中に、自ら飛び込んだハエみたいな気分だがな」
翰文は軋む骨を宥めながら、無理やり上半身を起こした。
閉ざされた入り口を見る。
青い光の膜は依然としてそこにあり、嘆きの壁となって、外の狂った「灰律狩人」どもを隔絶していた。
風はない。だが、空気の匂いが変わっていた。
外の世界に充満していた鉄錆や腐敗臭は消え失せている。代わりに鼻をつくのは、極度に乾燥した、静電気を帯びた高純度のオゾン臭。そして古い紙の匂い――何百年も封鎖され、時間に見放された禁忌の図書館に踏み入ったかのようだ。
「……ここは……盲腸……」
女は低い声でその単語を繰り返した。瞳には複雑な色が宿っている。
畏敬か、それとも帰郷の悲しみか。
彼女は手を伸ばし、指先でそっと黒い壁に触れた。
接触の瞬間。
空気が唸りを上げ、広大なホールが一斉に輝いた。
予期していた刺すような照明ではない。水面を透過したような柔らかな青い光が天井から降り注ぐ。空中に停止していた瓦礫や金属部品が回転を速め、美しい風鈴のような音色を奏で始めた。
直後、翰文の脳内で沈黙していた「寄生虫」が、回路がショートしたような爆裂音と共に覚醒した。
「ぐあッ!」
翰文は頭を抱え、苦悶に身をよじった。
今回の痛みは異質だった。
針で刺される痛みでも、焼かれる熱さでもない。これは……「抱擁」だ。
巨大で、古く、悲しみに満ちた意識が、津波となって脳内に強引に注ぎ込まれてくる。
生き別れた旧友が再会し、感極まって肋骨をへし折るほどの力で抱きしめてきたような圧迫感。
鼻腔の奥で、古い焦げ臭さが極限まで濃くなる。誰かが脳味噌の中で焚き火をしたようだ。
翰文は自分が巨大な焼却炉の前に立っている錯覚に陥った。剥がれ落ちた無数の黒い煤が、意識の周囲を汚れた黒い雪のように舞っている。
燎原の火のごとき激痛の中で、老いた、ひび割れた声が浮かび上がった。壁の隙間から滲み出し、あるいは骨の中で直接響いているかのような声。
『……ついに……』
『……器よ……汝は……残り火を齎した……』
翰文は痙攣したが、金縛りにあったように動けなかった。
見えない力が彼を床に縫い付けている。
彼は視た――あるいは脳が見せた――黒い塔の内部構造が、眼前に展開されるのを。無数の複雑な歯車、パイプ、ルーンの回路。それは巨人の内臓そのものだった。
そして、声の主は女へと向き直った。
『……そして汝も……』
『……失名者……』
隅にいた女が弾かれたように顔を上げた。顔色は蒼白だ。彼女にも聞こえているのだ。
彼女は虚空を睨み、両手で耳を塞いだ。その侵入を拒絶するように。
「……やめて……見ないで……呼ばないで……」
『……汝の名は……風にさらわれた……』
『……汝は律法の中に存在しない……汝は空洞なり……』
『……彼が……ただの器であるのと同様に……』
声に悪意はない。ただ事実を陳列しているだけだ。
冷徹で、絶対的に客観的なデータ分析。
それは厳格な検査官が、回収されたばかりの二つの「不良品」を検品しているかのようだった。
翰文は、頭蓋骨が海嘯のような轟音で内側から破裂しそうだと感じた。
脳内の「寄生虫」はもはや叫んでいない。狂ったように痙攣している――それは同類に出会った時の貪欲な興奮であり、同時に故郷に帰った放蕩息子の凄絶な哀鳴でもあった。
こいつの周波数が、塔と同期している。
寄生虫は、理性を崩壊させるほど荒唐無稽な直感を、翰文の脳に無理やりねじ込んだ。
『この塔は……数千年も眠り続けていたこの怪物は……攻撃しているのではない』
『これは……血縁の確認?』
『こいつは、俺の脳に巣食うこの焼き焦げた残滓を、生き別れの子供だと誤認しているのか?』
冗談じゃない。
俺の神経を歯固めのおもちゃにして、昼夜問わず齧り続けているこの寄生虫を?
『……運命は……結ばれた……』
老いた声は続く。その語調には、金属が擦れるような嘆息が混じっていた。
『……灰が再び燃える時……名は回帰せん……』
『……行け……上へ……』
『……すべてが……完全に冷却してしまう前に……』
地殻が変動するような軋みと共に、巨大な振動が走った。
足元の金属床から伝わる衝撃が脳天を突き抜ける。翰文の骨格がガクガクと共鳴し、脱水中の洗濯機に放り込まれたような気分になる。
ホールの中心で、巨大な円形の石板が、ウインチと歯車の重苦しい呻き声を伴ってせり上がり始めた。
その轟音は、眠れる巨獣が硬直した喉を無理やり抉じ開けたかのようだ。
露わになったのは螺旋階段だった。それは地下へではなく、常識に反して上へと伸びている。巨人の食道へと続く回廊のように、頭上の窒息しそうな闇の彼方へと蜿蜒と続いていた。
上方の闇からは、古い機械油とオゾンが混ざり合った熱波が吹き下ろし、巨大な心臓が頻脈を起こしたような低周波の鼓動が響いてくる。
仕掛けが固定されると、ホールを満たしていた柔らかな青い光は急速に衰え、血液供給を断たれた四肢のように白く、灰色へと褪せていった。
脳内の老いた声も潮が引くように消え去り、脳漿を沸騰させるような高周波の耳鳴りだけが、頭蓋の中で残響している。
「ハァ……ハァ……ッ」
翰文は陸に打ち上げられた魚のように喘ぎ、全身から冷や汗を噴き出していた。
顔を拭う手は震え、指の関節同士がカチカチと音を立てる。
論理的ではない。生物学も物理学も冒涜している。
建築物は死物だ。鋼鉄と岩石に声帯はなく、神経はなく、「意識」などあるはずがない。
だが今、この数百万トンの無機ポリマーの塊は、確実に彼を「視て」、その意志を脳の一部に暴力的に刻み込んだ。
これは幻聴でも統合失調症でもない。
巨大で、生きていて、魂を持つ神の御業が、彼の貧弱な現代常識を嘲笑っているのだ。
彼は女を振り返った。
彼女はまだ壁際で小さくなり、激しく震えていた。視線は定まらず、唇は懺悔の祈りを捧げるように微かに動いている。
「失名者」という言葉が、彼女の深層心理にある恐怖の蓋を開けてしまったようだ。
「おい……無・ミス?」
翰文は恐る恐る声をかけた。
彼女は弾かれたように顔を上げた。瞳には涙が溢れていたが、それは流れ落ちることなく眼窩の中で揺れ、ひび割れて崩壊寸前の水晶のように見えた。
彼女は翰文を直視した。その眼差しは、以前とは違っていた。
警戒でも、無関心でもない。
それは絶境の中で同類を見つけた時の目――同じように欠落し、同じように遺棄された二つの魂が、深淵の底で交わす視線だった。
「……アレが……言った……」
胸が痛くなるほど掠れた声。
「……あなたは……器……」
「……私たちは……同じ……」
翰文は苦笑し、床に手をついて立ち上がった。膝が笑っている。
「ああ、器だそうだ。医療廃棄物バケツよりは、多少聞こえがいい肩書きだな」
服の埃を払い、頭上の闇へと続く螺旋階段を仰ぎ見る。喉仏が上下に動く。
「上へ行けと言ってる」
翰文は手を伸ばした。まだ座り込んでいる女に向けて。
「上に何があるかは知らないが、ここで壁の怪談話に付き合うよりはマシだろう」
女の視線が、空中に差し出された掌に釘付けになった。
泥にまみれ、掌紋は乾いた血の痂で埋まり、爪の間に黒い土が詰まった手。
それは凡人の手だ。脆弱で、恐怖に震えが止まらない情けない手だ。
だが、それでも彼女に差し出されている。
すべての神が彼女に背を向けたこの場所で、その手だけが頑固に闇を越えて、目の前にあった。
彼女は下唇を噛み、長い間ためらった。拒絶されるかと翰文が不安になるほどに。
やがて意を決し、彼女は氷のように冷たい華奢な手を伸ばし、彼の手を強く握り返した。
引っ張り上げられる瞬間、彼女は蚊の鳴くような声で囁いた。
「……ありがとう……」
それが、彼女が彼に向けた初めての感謝だった。
世界から遺棄された暗黒の塔の底で、未来を持たない二人の人間が、亡霊の声によって、初めて互いの存在を真の意味で確認した瞬間。
「行こう」
翰文は刃こぼれしたナイフを握り直し、彼女を連れて螺旋階段へと足を踏み入れた。
脳内の「寄生虫」はまだ微熱を発している。急かしているようでもあり、興奮しているようでもあった。
彼らの背後で。
かつて語りかけてきた壁は、再び沈黙を取り戻していた。
だが翰文が背を向けたその刹那、脳内の異物が激しく痙攣した。それは記録のようであり、嘲笑のようでもあった。
岩石が高温で粉砕された後のような乾燥した粉塵の臭いと、古い鉄錆の気配が嗅覚神経を満たす。
突如、戦慄すべき残像が彼の**眼裏**にフラッシュバックした。爪か鋭利な刃物で、無理やり刻み込まれたような傷跡。
『俺は見た……一つの墓を』
『墓標には無数のカウント用マークが刻まれている。囚人が独房の壁に爪で刻む、絶望的な記録のように』
『七百四十一本の傷……その一本一本が、失敗した輪廻。一本一本が、死体だ』
『そして今、見えざる鑿が、そこに七百四十二本目を刻み込んだ』
その横に添えられた名前は――異郷人。




