第8話 : 致命的な滑り台と、黒い巨人の食道
『ある扉は人を通すために作られ、ある扉は何かを閉じ込めるために作られる。だが黒い塔の扉は……あれはむしろ「口」に近い。どうしても入りたいと言うなら、自分が消化されないほど不味いことを祈るんだな』
——『拾荒者生存ガイド:絶対禁区編』
見えざる力によって弾き飛ばされた瞬間、李翰文は自分の五臓六腑が体内で最悪の衝突事故を起こしたように感じた。
それは優しい一押しなどではない。暴走したダンプカーが時速八十キロで背中にキスをしてきたような衝撃だ。
「ぐぅッ!」
肺の空気が瞬時に搾り取られる。
彼は反射的に懐の女を抱きすくめ、二人は蹴り飛ばされたボールのように、砕石だらけの地面を無様に転がった。
ここはもう荒野ではない。
巨大な漏斗状の斜面の縁だ。
翰文は振り返らなかった。振り返る勇気がなかった。
あの赤い人影はもう消滅したと知っていたからだ。とっくに死んでいたはずの戦士が、二度目の粉骨砕身と引き換えに、この数十メートルの僅かな猶予をくれたのだ。
「……降りて……」
懐の女が襟首を掴んだ。
指先は凍りつくほど冷たく、爪が翰文の僧帽筋に深く食い込み、鋭利な痛みを伝えてくる。この距離では、彼女の匂いと自分の汗臭さが混ざり合い、鼻を突くほど生々しい。
「……塔は……すぐ下……」
翰文は斜面の下を覗き込み、心臓が凍りつくのを感じた。
斜面だと? 冗談じゃない。これは地獄へ直通する滑り台だ。
勾配は急で、剃刀のような黒い頁岩がびっしりと突き出している。そしてその最下層の闇の中に、巨大な黒い「釘」が突き刺さっている。
黒い塔。
この距離で見ると、それは建築物の範疇を逸脱していた。高空から射出され、地表に縫い付けられた黒い拷問器具そのものだ。
塔の表面には継ぎ目が一切なく、血管のように脈動する無数の暗赤色の紋様だけが、黒い金属の皮下で不吉な光を放っている。
空気を這い回る不快な電流音が、背後から迫ってきた。
あの「灰律狩人」たちが、狂ったように空間を明滅させながら追ってきている。一回の点滅ごとに、数メートルの距離が削り取られる。
爆発の余波は奴らを止められなかった。決壊した汚水のように、戦士が消えた場所を乗り越え、生者の気配に食らいつこうと雪崩れ込んでくる。
「くそっ、やるしかねえ!」
翰文は、これまでの人生でランチのメニュー決めにさえ優柔不断だった男だが、今は生存本能がすべてを支配していた。
これほど果断だったことはない。
彼は女を抱きしめた。この柔らかな肉体だけが、今の彼にとって唯一の浮き木だ。
目を閉じ、両足で地面を蹴り、斜面の縁から虚空へと身を投げ出した。
アクション映画のような華麗な滑降ではない。
これは、破滅的な転落だ。
重力が暴力的すべてを掌握する。翰文は自分がミキサーに放り込まれたジャガイモになったような気分だった。
背中、肘、膝が、硬い岩盤に絶え間なく打ち付けられる。皮衣が引き裂かれる音、皮膚が削ぎ落とされる痛みが、波状攻撃となって襲いかかる。
「うぅッ!」
懐の女が呻いた。彼女も相当なダメージを受けているはずだ。翰文は自分の体がバラバラになりそうになりながらも、必死に彼女の頭部を庇い続けた。
二人は転がり続け、斜面の底まで落下し、最後に冷たく硬い金属の壁に激突して、ようやく止まった。
「ゲホッ……ごふっ……」
全身の骨が悲鳴を上げている。一度解体された体を適当に組み直されたような違和感。
彼は苦痛に顔を歪めて上半身を起こした。彼らは今、黒い塔の基部の影にうずくまっている。
だが、そこには翰文の常識が「扉」と認識できるものは何もなかった。
目の前にあるのは、高さ数百メートルに及ぶ絶望的な黒い壁だけ。ハエさえ止まれないほど滑らかだ。壁面には不安を煽る微光が流れている。悪夢を見ている巨大な獣が、瞼を固く閉じているかのようだ。
「扉は!? 入り口があるって言っただろ!?」
翰文は泣きそうな声で壁を叩いた。
頭上から、無秩序で急な電流音が降り注ぐ。
灰律狩人たちはすでに斜面の上に到達し、急速に「点滅」しながら駆け下りてきている。
血の匂いを嗅ぎつけた機械仕掛けのピラニアの群れだ。明滅する灰色の光が斜面の底を照らし出し、狂気の影絵を描き出している。
「……手……」
女が地面に座り込んだまま、囁いた。
精巧な人形のようだった顔は紙のように白く、漆黒の長髪が乱れて頬に張り付き、人外の瞳を隠している。
彼女は最後の力を振り絞って翰文の右手首を掴み、その掌を黒い壁に押し付けようとした。
「……アレに……あなたを……味わわせて……」
味わわせる? 俺を? この塔は偏食家の怪物か何かなのか?
それが解錠コードだとでも言うのか? 生体認証にしては趣味が悪すぎるだろう。
翰文の脳内のツッコミが言語化されるより早く、彼の手のひらは絶対零度の塔の表面に触れていた。
魂を根底から揺さぶる共鳴音が響き渡り、周囲の時間感覚がエネルギーの奔流に飲み込まれて消失した。
振動は鼓膜を無視し、霊魂の深部で強制的な共振を引き起こす。
脳内の「見えない寄生虫」――無数の焼け焦げた死皮を重ね合わせたような、乾燥して熱い異物――が、大脳皮質の中で狂ったように暴れ出した。肉が焦げるような幻聴を撒き散らしながら、呼びかけに応えようとしている。
痛い。
痛覚が人類の許容限界を突破し、意識が破壊的な再構築を迎える。
針で刺されるなどという生易しいものではない。本物の、沸騰した鉄水が腕の血管を逆流し、猛スピードで駆け上がってくる感覚だ。それは神経束を焼き切り、脆弱な脳の中枢へと熱量を注ぎ込む。
翰文の視界が強引に黒く塗り潰された。
粘着質で生臭い黒い泥が意識の裂け目から溢れ出し、現実の光景を水没させる。
泥の中から、蒼白い切断肢の森が狂気的に成長していく。無数の手――腐敗した手、黒焦げの手、白骨化した手――が、この扉の「向こう側」から必死に押し合い、爪を立て、金属を引っ掻いている。その金切り声が神経を千切れさせる。
『この障壁の意味は保護にあらず、封印にあり!』
虚空で巨大な歯車が回転し、骨を砕くような軋みを上げる。
脳内の焼け跡に、ただ一つの焼き付くような「認識」が強制烙印される。
『お前は殻だ。お前は瓶だ。お前は……「それ」を入れた容器だ』
「あああああッ!」
翰文は絶叫した。
掌が塔に融解させられ、金属と同化していくような錯覚に襲われる。
吸引力が凄まじい。この塔は彼をタピオカミルクティーのように丸ごと吸い込もうとしている――あるいはもっと悪質に、脳内の「寄生虫」だけを無理やり引きずり出そうとしているのだ。
続いて、鉄錆の味を含んだ電流が全身を駆け巡った。
この塔は、本当に彼を「味見」している。
翰文の体内に潜む「ナニカ」の味――古く、焦げ臭く、遥か昔に滅び去った時代の「律」の味を検知したのだ。
塔は一瞬躊躇した。
気難しい美食家が、盛り付けの最悪な残飯を渋々受け入れる時のように。
『……味は違う……だが……成分は適合』
『……不本意ながら……通過を許可する』
金属疲労が限界に達したような重苦しい摩擦音が轟き、目の前の滑らかな黒壁に亀裂が走った。
壁は機械的なスライドではなく、爬虫類の瞳孔が開くように、中央から左右へ裂けて梭形の開口部を形成した。
裂け目からは、カビ臭い地下室の冷気と、幽玄な青い光が漏れ出してくる。
「開いた……本当に開きやがった……」
翰文は脱力して壁にもたれかかった。鼻血が手の甲に滴り、温かく粘つく。
その時、空気を切り裂く鋭い風切り音が迫った。
一匹の灰律狩人が、斜面の底まで到達していた。
躊躇はない。翰文めがけて一直線に飛びかかってくる。ノイズに満ちた口腔が空中に灰色の残像を描き、現実空間を食い千切ろうとする不快な音を立てる。
「入れッ!」
翰文は残存する最後の力を振り絞り、女を裂け目の中へ突き飛ばし、自分も転がるように中へ滑り込んだ。
彼の登山靴の踵が内側に消えた瞬間。
見えない障壁に、何かが激突する鈍い音が響いた。
開口部の周囲にあった暗赤色の紋様が、瞬時に刺すような鮮やかな青へと変色する。
高周波の共鳴音と共に、青い光の膜が入り口に展開された。
光幕に突っ込んだ灰律狩人は、悲鳴を上げる暇もなかった。消しゴムをかけられた鉛筆画のように、その存在が一瞬で抹消された。
肉片も飛び散らず、爆発もしない。ただ単純に、きれいに、「消失」した。
この塔の律によって、存在そのものを否決されたのだ。
後続の怪物たちは急停止し、光幕の前で憤怒と恐怖の混じった電流音を撒き散らした。電気柵を前にした野犬の群れのように徘徊するが、一歩も踏み込もうとはしない。
翰文は門の内側でへたり込み、激しく喘いだ。心臓が喉から飛び出しそうだ。
外の獰猛な怪物たちと、目の前の命を救った青い光を交互に見る。
「……い、生きてる……」
泥と血にまみれた顔を乱暴に拭う。全身の力が抜け、指一本動かせない。文化財の修復作業に慣れたインドア派の博士課程学生にとって、今日の運動量は致死量を超えている。
大きく息を吐き、振り返って塔の内部を見た。
照明と呼べるものはない。壁面を流れる青い光脈だけが微かな光源となり、すべてを病的な冷たい色調で染め上げている。
そこは巨大で空虚な円形ホールだった。空気中には、サーバールーム特有の乾燥したオゾン臭と、太古の塵の匂いが混在している。
ホールの中央には、砕けた石塊や金属パーツが重力を無視して浮遊し、空中で緩慢に回転しながら、誰にも解けない幾何学的な軌跡を描いていた。
「……ここは?」
翰文は呟く。声が虚空に反響する。
傍らで、女が壁に手をついて立ち上がった。
服は裂け、肌には擦り傷が走っているが、周囲を見渡す彼女の瞳には、宗教的な畏敬と、深い悲しみが宿っていた。
「……封塔……最下層……」
彼女は低く、慎重に言葉を紡いだ。声は弱々しいが、明瞭だ。
「……七界の……盲腸……」
翰文は苦笑し、冷たい床に大の字になった。背中に当たる硬い金属の感触が、生きている実感を伝えてくる。
「盲腸か。悪くない。少なくとも盲腸は人を食わない。せいぜい炎症を起こすくらいだ」
目を閉じる。脳内の「寄生虫」はようやく沈静化し、暖かい残り火となって大脳の奥底で休眠に入ったようだ。
だが、意識が泥のように沈んでいく寸前、彼は声を聞いた気がした。
脳内の寄生虫ではない。塔の深淵から、浮遊する石の隙間を縫って、幽かに届いた声。
それは千年の眠りについた巨人が、寝返りを打つ際に漏らした、微弱で嘲笑に満ちた溜息のようだった。
『……また一人……死に急ぐ者が来たか……』




