第72話 : 風の囁きと、鉤を噛む魚(第一部 終)
『遠くへ逃げさえすれば、過去を振り切れるなんて思うんじゃないよ。影ってのは、どこまでもついてくるもんさ。特に、世界中が、あんたを飲み込もうと手ぐすね引いて待ってる時はね』
——薇の通信記録、暗号化周波数、発信座標不明
場所:灰律荒原の東方 / 時間:修道院を去って三鐘後
廃土の風は、赤い。
地表の酸化鉄をたっぷりと含んだ砂塵を巻き上げ、さながら紅い薄衣のように、朽ちゆく世界を覆い隠していた。
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小花は、ひび割れた大地を駆けていた。
足取りは安定し、さながら正確な計時器のよう。長旅を見据えた、澱みのない律動。気流に逆立った磁器の羽が互いに触れ合い、チリン、チリンと風鈴のような涼やかな音を寂寥の中に響かせていた。
神経触手を握る翰文の手は確かだったが、胸の奥には得体の知れない不安が居座っていた。
あまりに、静かすぎる。
修道院を離れてからというもの、その静寂は影のように一行に張り付いていた。変異獣の襲撃どころか、小花のセンサーは何の動向も捉えていない。場所によっては清潔すぎるほどで、食鉄蟻の一匹さえ見当たらない。
嵐の前の凪。この不自然な状況が、逆に翰文の神経を逆撫でしていた。
小花の「真鍮尾架」には、物資を詰め込んだボロい帆布のバックパックが括り付けられている。ベルトに締め上げられた荷物が、歩みに合わせて重苦しい摩擦音を立てる。罐詰と弾薬がぶつかり合う音。だが、真の財産は羽の下のストレージに隠してある。側腹部の灰黒いトカゲ皮のパッチも相まって、今の彼らはゴミ捨て場から大戦利品を抱えて帰る拾荒者にしか見えなかった。
「……あっちよ」
後部座席の無小姐が、「記憶獸皮」の地図を翰文の背中に広げた。
「地図によれば、前方の『風蝕林』を抜ければ、安全区の境界線だわ」
翰文は無言で頷いた。
無意識に、胸ポケットの中の「盲眼骨幣」に触れる。薇が遺した保険。
――『いいかい、見ない、聞かない、喋らない』。
嘲弄するような笑みを浮かべる彼女の顔が、脳裏を掠めた。
「……あいつ、今頃どこにいやがるんだ」
場所:「生者の街」——燃える「緑の腫瘍」 / 時間:同時刻
荒野の死寂とは対照的に、ここの空気は金属たわしで喉を擦られたかのような、粗野な刺痛を伴っていた。
まともな都市ではない。見上げれば、巨大な緑の炉心の火炎が隔壁の頂で猛々しく燃え盛っている。頭上では巨大な「鉄肺公爵」の排気ファンが轟鳴を上げ、地底の熱気を吸い出していた。硫黄と排泄物、そして反吐が出るほど甘ったるい「焦げた肉」の臭いが混ざり合い、この街特有の致死的な毒気を形成している。
「鉄頭修理店」。
滴るような湿り気を帯びた路地の突き当たり、壊れたネオンサインの看板が下がる店。
店内は薄暗く、古びた機械油と金属粉末の臭いが充満していた。
「……針夫人からの届け物だよ」
薇は屑鉄の積まれたカウンターの前で鼻を覆い、油紙に包まれた金属の破片を無造作に投げ出した。
彼女の足元では、漆黒の巨大な機械猟犬――エンジンが姿勢を低くし、喉の奥から危険な低周波の唸りを漏らしていた。火の如き紅い瞳は、カウンターの奥の影で蠢く「何か」を射抜き、背中の放熱鱗をいつでも飛びかかれるよう開かせていた。
『……ひ、ひひ……。犬をそう怒らせるな。……エンジンは相変わらずだね。貧乏臭いもんを嗅ぐと、すぐ噛みつきたがる』
影の中から、佝僂の影が這い出してきた。
老鬼。汚れた百衲衣(つぎはぎの服)を纏い、巨大な金属の背負い籠を背負った姿は、さながら殻を背負った人型のヤドカリ。彼は背中の蠍の尾に似た機械腕を伸ばし、先端の赤いカメラで金属片を凝視した。ジジジ……という対焦音。
『……純正の旧律の味だ。……上玉だよ』
老鬼の嗄れ声は、砂紙が擦れ合うような不快な響きだった。
「よせ、老鬼」
カウンターの影から、地鳴りのような咆哮が響いた。
油圧サーボの駆動音と共に、一尊の巨大な巨軀がせり出してきた。――鉄頭。
彼は巨大な肉の山。下半身は重工業用の台座に強制的に溶接され、脊椎には濁った維生液を運ぶ黒い波紋管がびっしりと突き刺さっている。表情のない金属の面から、多レンズの義眼が回り、薇を冷徹に見下ろした。
『ブツは人を雇って届けてやる。……あのクソ婆あに伝えな。二度とこんな放射能まみれのゴミをあたしのところに持ち込むな、とな』
薇は頷き、エンジンの頭を叩いて宥めると、背を向けた。死臭と油の臭いが混ざるこの場所に一秒でも長く留まりたくはなかった。
『……おや、おや。……随分と急ぎだねぇ?』
背後から老鬼の嘲るような声が飛ぶ。
『……例の**無律者**の坊やがどうなったか、聞かなくてもいいのかい? 薇さんよぉ。あんたの心臓は、鉄頭の油圧シリンダーよりも硬いようだねぇ』
薇の足が、ぴたりと止まった。
深く息を吸い、振り返った時。彼女の眉間には不快さが刻まれていた。
「……老鬼。言うことがあるならさっさと言いな。無駄口はいらないよ」
『ひひひ……。鉄頭、見ろよ』
老鬼は薇の怒りを無視し、カウンターの奥の肉の山を指差した。
『……言った通りだろ? あの坊やの名前を出せば、この娘は実にいい顔をする。十歳の時に、初めて手に入れた銃を失くした時とそっくりだ』
「ガ、アァ……ガ、アァ……」
鉄頭の巨軀が震動し、ボイラーが沸騰するような笑い声を上げた。
『……全くだ。いつも死人みたいなツラしやがって。ようやく少しは色がついたか』
「このクソジジイ共……」
薇は奥歯を噛み締め、マントの下で愛銃「送葬者」に手をかけた。だが、それ以上の行動には出なかった。この老いぼれた化け物たちが、口は悪くとも情報は常に真実であることを知っていたからだ。
『まあ、そう怒るな。……からかうのはここまでだ』
老鬼が指を弾いた。
ジジッというノイズと共に、ホログラムが展開される。
そこには一枚の、盗撮されたぼやけた写真。翰文と無小姐が、トカゲ皮を貼った小花に跨り、荒野を駆けている姿。その写真の下には、鮮血のような赤文字で懸賞金が記されていた。
『針夫人のテストでくたばらなかったのが、面白くない連中が大勢いるんでね』
老鬼は薇の反応を観察するように、大袈裟な口調で続けた。
『だが、それ以上に重要なことがある。……あいつ、尻尾を出したよ』
老鬼の指がスライドすると、画面が三つのウィンドウに分裂し、ノイズを伴って薇の眼前へ迫った。
【画面一:蒸気と血肉の祭壇】
**「石界」の地底深部。「血肉齒輪會」**の狂信者たちが、小花の咆哮を録音した音声に群がっていた。
『聴け! あの美しき瑕疵を!!』
ホログラムの中、一人の祭司が煮え滾る真鍮の歯車を自らの瞼に縫い付け、狂熱の眼差しで叫ぶ。『あの龍を捕らえろ! 歯車を肉の中にねじ込め! 苦痛をもって機械の神を賛美するのだ!!』
薇は冷たく鼻を鳴らした。「……鉄屑弄りのマゾヒスト共が」
【画面二:晶体の吊り下がる幽暗な森】
**「森界」の辺境。「瓷魂教團」**の白袍の信徒たちが、浄化の火炎放射器を掲げ、写真に写った小花の「トカゲ皮のパッチ」を見て咆哮していた。
『瓷魂教團……潔癖症の狂犬共め。……』老鬼が口を開きかける。
「言わなくていいよ」
薇が遮る。瞳には嫌悪が宿っていた。「……あの死皮のパッチを見た連中なら、あの男を『生体蝋燭』にでもしなきゃ気が済まないだろうさ」
【畫面三:傾いた高塔】
この画面に、老鬼も薇も口を挟まなかった。
時間は最も長く止まっていた。**「人界」の隠密監測ステーション。 ボロい学者服を纏った一団――「灰塔新律派」**が、巨大な、ブゥゥンと唸る集音機を囲んでいた。
メーターの針が激しく跳ねている。
『……聞こえるか? あの周波数が。』首領らしき老人が震える指で、スペクトルの不規則な波形を指した。翰文が引き起こした「音外れの咆哮」。
『音は外れている。……ひどく耳障りだ。……だが、これこそが「鍵」の音だ!』老人の瞳には強欲と恐怖が混在していた。『あれは「調律」だ!! あの男を捕らえろ! 旧律の遺物を起動させる術を知るのはあやつだけだ! あいつこそが、生けるコードブック(暗号原簿)なのだから!!』
老鬼はホログラムを消すと、薇を見つめた。
『歯車狂いは龍を解体したがっている。瓷魂教團は龍を浄化したがっている。だが新律派は違う。……』
老鬼の声が低くなり、冗談めいた響きが消えた。
『……あの古狸共は「生身の人間」を狙っている。あいつらにとっちゃ、あの坊やは人間じゃない。旧世界の扉を開くための鍵なのさ』
薇は沈黙した。エンジンが主人の不安を察し、金属の鼻先を彼女の脛に擦り寄せた。
これは単なる追跡ではない。組織的な「囲い込み」による狩りだった。
『……それと、最後の悪い知らせだ』
老鬼が窓の外を指した。風の中に幽かな、ピィィィという笛の音が混じる。
『**「風哨獵者」**だ。五十キロ圏内に来ている。……あいつらの骨笛に印されたら、地の底へ逃げ込もうが引きずり出されるぞ』
老鬼は脂ぎった両手を擦り合わせ、身を乗り出すと、醜悪な顔を薇の間近まで近づけた。欠けた黒い歯を見せて、悪辣に笑う。
『どうだい? 薇さんよぉ。……心臓に蟻が這いずり回ってるような気分じゃないか?』
『あんたの成長を見てきた縁だ。……アドバイスをくれてやるよ。さっさと何か手を打ちな。例えば情報を買うとか。……あるいは……』
彼はわざと間を置いて、これ以上なく癪に障る口調で続けた。
『……あたしから「花輪」でも買っておくかい? 二割引きにしてやるよ。……弔辞の代筆もサービスだ』
その嘲弄は、薇の最後の冷静さを正確に射抜いた。
彼女は、顔中皺だらけにして笑う二人のならず者を一瞥すると、怒り混じりの冷笑を返した。
特殊なルーンが刻まれた「緊急通信用金貨」が、彼女の親指で弾き飛ばされた。金色の閃光となり、正確に老鬼の額を直撃する。
「その烏鴉の口を閉じな。死に損ない」
薇は翻って扉を押し開けた。赤いマントが気流に激しくなびく。エンジンが興奮の唸りを上げ、その横を並走した。
「あんたの所の、一番速い『信使蜂鳥』を買い占めてやる。この情報を全部、あいつに叩き込め!!」
「……いいかい。もしあいつが死んだら。……戻ってきて、あんたたちの酸素チューブを根こそぎ引き抜いてやるからね!!」
店全体を揺るがす轟音と共に大門が閉じられ、天井から塵がパラパラと降り注いだ。
静寂が戻った店内で、老鬼は赤くなった額をさすりながら金貨を拾い上げた。その猥瑣な表情は消え、代わりに年長者特有の、困ったような、しかしどこか満足げな笑みが浮かんでいた。
『……全く。……とんでもない跳ねっ返りだよ』
『……焦ったな。』
鉄頭の声が、再び響いた。そこには微かな愉悦が混じっていた。
『……生まれてこの方、針夫人以外にあそこまで他人に執着するあいつを、見たことがない』
『ああ。ようやく「人間」らしくなってきたってことさ』
老鬼は金貨を鉄頭の引き出しに放り込んだ。鉄頭が最優先の発信律を起動させる。老鬼の義眼には、危うい情勢への懸念と、身内を想う複雑な光が宿っていた。
『……あぁして焚きつけてやらなきゃ、あの不器用な性格だ。いつまで経っても迷い続けていたはずだよ』
老鬼は送信完了の緑色灯を見つめ、低く独り言ちた。
『情報は送った。……あとは、あの死人の靴を履いた坊やに、生き残るだけの「牙」があるかどうかだ』
彼は翻ると、再びガラクタの影へと消え、針夫人から届いた金属片の解析に戻っていった。
場所:灰律荒原の東方 / 時間:夕暮れ
夕陽が影を長く、長く引き伸ばしていた。
翰文一行は、目前に迫る「風蝕林」を抜けようとしていた。
突如。
高空からブンブンという微かな羽音が聞こえた。巨大な昆虫が降下してくるような響き。
小花は鋭く足を止め、音を立てずに頭を空へと向けた。
黄金の光点が一直線に降りてくる。
それは一羽の機械蜂鳥。小花の前でホバリングすると、赤い電子義眼を明滅させ、嘲弄を孕んだ擬人化された「チュンッ」という鳴き声を上げた。
蜂鳥は使命を果たすと、カチャリという音と共に自壊。中から微小なホログラム・ユニットが弾け出し、小花の巨大な嘴がそれを空中で受け止め、翰文の掌へと手渡した。
濁った空気の中に投影が展開される。血のような赤文字と、いくつかの勢力の紋章が、不安定なノイズと共に翰文の掌の上で踊った。
『齒輪會、瓷魂教、灰塔新律派、風哨獵者。全員がお前たちを狙っている。』
『英雄になるな。亡霊になれ。』
そして末尾に、乱雑な手書きの文字が一瞬だけ明滅した。
『P.S. 酒の一瓶、貸しだからね。 ——V』
翰文はその情報を見つめ、深く息を吸い込んだ。
なるほどな。
道理で静かすぎると思ったわけだ。これは平和などではなく、捕獣罠が閉じる前の、静止した殺意。
四方八方に網が張られている。前には待ち伏せ、後ろには追手。
「翰文……?」無小姐が不安げに彼を見た。「……戦うの?」
彼女は無意識に袖口の骨針に触れていた。指先が白く強張っている。
翰文は首を振り、口角に冷徹な弧を刻んだ。
「いや」
彼は暮れゆく周囲の景色を見、小花を見た。
三日前なら、強行突破を選んでいたかもしれない。
だが今の彼は、この廃土の流儀を理解していた。真正面からぶつかるのは死だ。道理を語れるのは、生き残った者だけなのだ。
「小花」
翰文は低く命じ、指先で神経触手を軽く叩いた。
「あいつらの遊びには付き合わないぞ」
「『灰の核心』を使え」
小花は即座にその意図を理解した。
咆哮はなく、晶体脈絡の駆動音さえも極限まで抑え込まれた。散漫に開いていた磁器の羽が、ぴたりと身体に密着する。
喉の奥、灰暗い「欺詐核心」がぎこちなく回転を始めた。
強烈な眩暈が襲い、二人は同時に「う、お……」と声を漏らした。翰文は平衡感覚を強引に剥ぎ取られ、胃が激しくひっくり返るのを感じた。無小姐も口を覆い、顔から血の気が引いていく。
代価だ。現実を欺くには、まず己の感官を欺かなければならない。
ブゥゥンという低い唸りが響き、周囲の景色がねじ曲がり始めた。
光、熱、そして存在感。それらすべてを巻き込んだ全方位の屈折。
小花の白い輪郭はぼやけ、陽炎のように揺らぎ始めた。白磁も、トカゲ皮のパッチも、そして翰文と無小姐の姿さえも、黄昏の紅い霧の中へと溶け込んでいく。
「『骸律・偽裝』」
翰文は吐き気を堪え、神経連結を通じて冷徹に告げた。
「俺たちは影だ。存在しない幽霊だ」
「連中には、せいぜい風でも追いかけてもらうさ」
轟音もなく、砂塵も舞わない。
夕陽の残光の中、あれほど目立っていた隊列は、忽然と姿を消した。
残されたのは、すぐに風に消されるであろう微かな足跡だけ。それは未知なる東方へと続いていた。
五分後。
灰色の偽裝マントを纏った一人の人影が、小花の消えた場所に音もなく現れた。
人影は屈み込み、骨質の手袋をはめた手で地表の砂を撫でた。
そこには、消え残った極めて微弱な熱能の残滓。
影が顔を上げた。フードの下から覗くのは、複眼のレンズを設えた義眼。彼は螺旋の気孔が刻まれた一管の骨笛を取り出し、唇に当てた。
――ピーーーーーッ。
鋭く短い哨音が、死寂の荒野に響き渡った。遠方の合図に応えるかのように。
獲物は、鉤を噛んだのだ。
(第一部:異邦人と世界の拒絶反応 完)
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【第三卷・殘頁 I:鏽蝕的墳塋與金繕的慈悲 —— 紀錄封存】
『あんたが錆びついた鳥籠から逃げ出したことで、自由を手に入れたと思ったのなら、そいつは大きな間違いだ。単に、より巨大な墓場へと踏み込んだに過ぎないのさ。
この廃土において、「慈悲」とは癒えることじゃない、継ぎ接ぎ(パッチ)を当てることなんだ。
あのひび割れた磁器を埋める黄金(金継ぎ)のように。——金の線は傷跡が消えたことを意味しない。そいつは、あと何回、壊れることに耐えられるかを記録しているだけなのさ』
—— 灰燼の書:修復と毀損について
第一部「異邦人と、世界の拒絶反応」は、ここで完結となります。
この部で描いたのは、救済ではありません。
世界がどのように人を拒み、なお生かし続けるのか、その反応の記録です。
灰の荒野の物語は、ここで一度、長い眠りにつきます。
第二部については、現時点では何も決めていません。
この記録を閉じた後、
少し趣を変えた新作『世説新鬼 —神のゴミを拾う男—』の連載を、近く始めます。
こちらは、もう少し「人」の匂いがする、奇妙な怪異たちの物語です。
もしよろしければ、新しい世界でもお会いしましょう。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
仔猫




