第71話 : 優しい機油の香と、届かぬ手紙
『汚れが冒険の勲章だって? 寝ぼけたこと言うんじゃないよ。そいつは単なる「減価償却」の証明さ。けれどね、この廃土じゃあ、物の償却率ってのは持ち主の生存率に正比例するもんなのさ』
——『針夫人の鑑定手札』未公開章節より抜粋
翌朝。
「鏽骨修道院」の整備区内には、重機油と防腐薬草の焚香、そして冷却液が混ざり合った独特の芳香が立ち込めていた。
ここには風砂はなく、高所のステンドグラスから差し込む斑な光影だけが、金属の床を幻惑的な彩色で染め上げていた。
「……少し、くすぐったいかもしれない。我慢しろよ」
翰文は手にした巨大な硬毛ブラシを温かい洗浄フォームに浸すと、精を出して小花の身軀を洗い始めた。
この三日間、ゴビで泥にまみれた結果、潔白だったはずの芸術品は見る影もなく汚れ果てていた。黒油、青い血、砂礫、そして乾ききったトカゲの体液。それらが全身にこびりつき、神聖な白磁の輝きを完全に覆い隠していた。
小花は整備区の金属床に静かに伏していた。以前のように悪戯っぽく尾を振って水を跳ね飛ばすことも、甘えるような喉鳴らし(パリング)をすることもない。
彼女はさながら定期メンテナンスを受ける戦闘機のように、翰文が手の届きにくい関節の隙間を掃除しやすいよう、正確な角度で肢体を調整していた。喉の奥から漏れる深く緩慢な低周波の震動は、巨大なネコ科動物のゴロゴロという音に似ていたが、翰文にはそれが晶体脈絡の稼働ノイズであることを理解していた。
翰文は丁寧にブラシを動かした。
特に、側腹部のあの「トカゲ皮のパッチ」を洗う時、その手つきは格段に優しくなった。
白磁の羽の中に張り付いた、灰黒色の粗野な死獣の硬皮。それはあまりに醜く、不釣り合いだった。だが翰文の眼には、それがいかなる華麗な金継ぎよりも尊いものに映っていた。
それは彼らが生き延びた勲章であり、小花が彼を守るために刻んだ「刻印」なのだ。
「食べな。お前の取り分だ」
翰文は、甘ったるい香りを放つ黄金色の液体を一缶、小花の喉へと注ぎ込んだ。
針夫人から支給された「精練古龍蜜蝋油」。稀少な昆蟲の抽出物と高純度燃料を混合したものだというが、生体機械にとっては、これこそが最高級の蜂蜜酒だった。
蜜蝋油を飲み込んだ小花の面甲が、一瞬だけ幽かに輝いた。尾の先端にある数枚の飾り羽が、充填されたエネルギーによって極めて微細な震動を見せる。
それが、彼女が現在示しうる最高位の「悦び」の表現なのかもしれない。
傍らの休憩用ベンチでは、無小姐が銀色の流動食の缶を手に、一口ずつ啜っていた。
その食感は正直に言えば歯磨き粉を飲み込むのと大差なかったが、熱量は極めて高い。酷使された風律によって蒼白だった彼女の顔色に、ようやく一筋の赤みが戻っていた。
「……美味しい?」ブラシを動かしながら翰文が訊ねる。
「甘いわ」無小姐は口角を舐め、瞳を輝かせた。「トカゲの肉や軍用食より、ずっといい」
翰文は笑みを浮かべ、手に付いた泡を地面に払った。
「少しの辛抱だ。次の街に着いたら、本物の温かい飯を奢ってやるよ。肉もスープもある、まともなやつをな」
「……絶望の味が満ちているね」
優雅で冷徹な声が、その静寂を切り裂いた。
針夫人が、いつの間にか整備区に姿を現していた。彼女は歩くのではなく、真鍮と水晶で構成された浮遊台座に乗り、巨大なドレスの裾を黒いマンダラの花弁のように広げて滞空していた。
赤黒い義眼は小花へは向けられず、ワークテーブルの上に置かれたあの「頻率校準棒」を射抜くように見つめていた。
彼女はいかなるスキャン機器も使わなかった。数千年の時を生きる**妖精工匠**にとって、機器など不要なのだ。――機械は「臭い」を希釈してしまうからだ。
彼女は透き通るほど蒼白な指を伸ばし、錆びついた金属棒をなぞった。さながら、恋人の肌を愛撫するように。
そして瞳を閉じ、深く息を吸い込む。金属の内部に封じられた「記憶」を味わっているかのようだった。
「聴いてごらんよ、この素晴らしい絶望の叫びを……」
針夫人の口角が病的な弧を描いた。その声は絹糸のように滑らかで、それでいて氷のように冷たい。
「ここには、第四軍團の指揮官が死の間際に放った『拒絶』の律令が封じられている。必死を悟りながら、自らに自裁を下す絶望……。なんと芳醇な香りだろう。これはもはや無機質な律令の刻痕じゃない。金属に焼き付けられた、魂の拓本だよ」
翰文はブラシを置き、手を拭うと、テーブルの前まで歩み寄った。
「借りのカタになるか?」
針夫人の笑みが消え、眼の赤光が明滅した。
「この『怨念』の純度は高い。解体の手口は野蛮人そのものだが、禁制核心は無傷だね」
彼女が指先を弾くと、金属棒がキィィンという澄んだ共鳴を上げた。
「あんたたちの宿泊費、修復費、龍の燃料代……それと、この不潔な連中があたしの庭を汚した罰金。それらを相殺するには十分だよ」
翰文は心の中で白目を剥いた。この老いぼれ妖精は、一分の損も許さないらしい。
「残りはどうだ?」翰文が問う。「旅に必要な物資が欲しい」
針夫人は冷笑し、身を翻した。ドレスの下で機械節足がカチャカチャと密集した音を立てる。
「借金が完済されたわけじゃないよ。あんたたちが負っているのは、十回生まれ変わっても返しきれない額なんだからね」
「けれど……この『魂の拓本』に免じて、生き延びるための資本を少しばかり前貸ししてあげよう。道中でくたばられて、残りの債権を紙屑にされても困るからね」
彼女が手を振ると、天井の輸送管から数個の金属箱が滑り落ちてきた。
翰文が箱を開け、中身を確認する。
一箱目は濃縮栄養剤と浄水タブレット。密封された缶詰を目にし、翰文の張り詰めていた緊張がようやく僅かに弛緩した。少なくともこれからのひと月、無小姐に濾過した泥水を飲ませる必要もなく、小花が毒性のある鉱石を齧る心配もない。それは「生存」を意味していた。
二箱目を開ける。
そこには重火器などなく、ただ一丁の、グリップに黒脂皮を巻いたオレンジ色の「単発式信号銃」が入っていた。
銃身は短く太く、構造は簡素を通り越して稚拙にすら見える。手に持てば玩具のように軽かった。だが、銃身の側面には針夫人のあの優美な署名が刻まれており、それが暴力的な改造を施された逸品であることを示していた。
銃の傍らには、色違いの太口径信号弾が三箱並べられている。
「赤は高爆燃焼、緑は強酸煙霧……」
針夫人は、午後の茶菓を紹介するかのような冷淡さで告げた。
「そしてそのルーンが刻まれた白い弾薬は、**『浄化閃光』**だ。霊体生物に遭遇した時は、殺そうなんて考えるんじゃないよ。そいつの面に一発ぶち込みな。感官核心を焼き潰すには十分な輝きだ。あんたたちのような不具共が逃げ出す時間くらいは稼げるだろうよ」
「いいかい、これは英雄になるための道具じゃない」
「食われる前に、『失せろ』と言うためのチャンスだよ」
翰文は信号銃を手に取り、老兵の真似事のように不器用にバレルを跳ね上げ、白いルーン弾を装填した。そしてそれを腰のベルトへと無理やりねじ込んだ。
確かに、重い鉄砲よりも今の彼には相応しい。彼が求めているのは殺戮ではなく、活路なのだから。
「それからあんた……風を弄ぶ小娘」
針夫人の視線が、静かに佇む無小姐へと向けられた。
無小姐は肩を強張らせ、無意識に服の裾を握りしめた。
「あんたの風律の扱いは、見ていて反吐が出るほど粗末だね。蛮力で押し、吹くだけ……。それは送風機の仕事だよ」
嘲弄を投げかけると同時に、針夫人は指を弾いた。
長さ十五センチほどの、極めて細い三本の銀針が、チリンという音を立ててテーブルの上で踊った。
それらは中空構造の晶体骨格から削り出されており、尾端には精緻な螺旋状の気孔が刻まれていた。
「**『風哨骨針』**だ」
針夫人が淡々と解説する。
「あんたの貧弱な腕力など不要だ。気孔に一筋の風律を注ぎ込めば、内部で加圧された気流が噴射される。弾丸よりも速く、そして静かにね」
「狙うのは敵の眼、あるいは機械の放熱孔だ。骨を断とうなんて考えるんじゃないよ、それは屠殺人の仕事だ」
「足手まといになりたくないのなら、裁縫のように戦う術を学びな。正確に。そして、死なないことだね」
無小姐が一本の骨針を手に取った。重さを感じさせないほど軽かったが、指先から微風を注いだ瞬間、針身は血を渇望するような微かな「シュゥゥ……」という音を奏でた。
彼女の瞳に光が宿る。これこそが、彼女に相応しい武器だった。
「……ありがとう」無小姐は小声で礼を言い、慎重に骨針を袖の隠しポケットへと収めた。
三つ目の品は、巻かれた一枚の皮革だった。翰文がそれを広げた瞬間、脳内の「残り火」が突如として沈黙した。
それは単なる紙ではなく、「記憶獸皮」。墨は生きて動いているかのようで、翰文の指の動きに合わせて、地図上のラインが緩慢に流動していた。
「東方へと至る、安全な経路だよ」
針夫人の声が響く。
「北の『放射能雷雲』と、南の『鐵蜈幫』の縄張りを避けてある。この道沿いに千五百キロ行けば、巨大な屑鉄の山の上に築かれた街が見えてくるはずだ」
翰文は地図の果てで明滅する標識を見つめた。
――錆錨鎮。
東方荒原最大の交易拠点であり、「嘆息迴廊」へと至る前の、最後の補給地点。
整備は完了した。
無小姐が物資を小花の隠しストレージへと詰め込み、翰文は自らのバックパックを整理し始めた。
底のポケットを探っていた時、指先が硬い小さな包みに触れた。
翰文は怪訝に思い、それを引き出した。包んでいた油紙を剥がすと。
そこには走り書きのメモと、一枚の奇妙な硬貨が入っていた。
硬貨は滑らかに磨かれた獣骨製。表面には「太い糸で両目と口を縫い合わされた髑髏」が刻まれている。
顔はなく、視線はなく、言葉もない。
――「盲眼骨幣」。
翰文はメモを読んだ。そこには数行の短い言葉。殴り飛ばしたくなるほど見覚えのある口調。
『途中でくたばるんじゃないよ、新人。』
『運良く「錆錨鎮」まで辿り着けたなら、そのコインが、あんたがカモにされるのを防いでくれるだろうよ。』
『いいかい、見ない、聞かない、喋らない。それがルールだ。』
そしてメモの最下段。書き終えた後、しばらく迷ってから付け加えられたような、乱雑な小文字があった。
『あの娘に、これ以上血を流させるんじゃないよ。……あの馬鹿龍もだ。』
—— 薇
翰文は冷たい骨幣を握りしめ、思わず口角を上げた。
あの口の悪い女狩人は、彼らを散々愚か者扱いしながらも、去り際に密かにこの「保険」を残していってくれたのだ。
この硬貨は地下の**暗影市場**への通行証。この弱肉強食の世界における、唯一の「命のチップ」だった。
「……ありがとな、薇」
翰文は硬貨を内ポケットへと大切に仕舞うと、誰もいない整備区に向かって低く呟いた。
正午。
修道院の重厚な防爆ゲートが、油圧機の轟音と共にゆっくりとせり上がった。
幽暗な長廊に刺すような陽光が射し込み、光の筋の中で塵が舞う。外に広がるのは、見渡す限りの砂土と屑鉄の荒野。地平線は陽炎に歪み、風は遠き放射能塵の呼び声を運んでいた。
「準備はいいか?」
翰文は鞍座に跨り、小花の冷たい頸部を叩いた。
小花は以前のように顔を向けて擦り寄ることも、甘えた声を上げることもなかった。
彼女はただ微かに姿勢を正し、喉の奥の三つの核心を同調させた。ターボチャージャーが起動したかのような低いブゥゥン……という唸りが響く。それは安全装置を解除した待機信号。
無小姐は後部座席で翰文の服を掴み、その背に顔を預けた。
「ええ。……行きましょう」
翰文が神経触手を握り、意念を送る。
プシュゥ……という微かな音と共に、小花の背の羽が開き、半透明の生体膜が無音でせり上がって二人を包み込んだ。風砂と放射線を遮断し、一定の温度を保つ。その外側を、金継ぎの入った数枚の大きな白瓷羽鱗が強固にガードした。
外界の風鳴りは一瞬で遠のいた。世界が静まり返ると、かえって耳が詰まるような閉塞感が訪れる。聞こえるのは小花の体内の規則正しい駆動音と、フィルターから送られる清涼な空気の音だけ。
風はなく、塵もない。そこには微かな冷却液の臭いと、人を安らぎへと誘う静寂があった。
「出発だ」
意念を受けた小花は、受像機の野獣のように爆発的な加速をしたりはしなかった。
彼女が見せたのは、驚嘆すべき精密な制御。
重心を移し、後脚の筋肉をリズミカルに収縮させる。そして、足を踏み出した。
最初は緩やかに。磁気浮上軌道の上を滑るかのように平穏に。やがて速度は線形に上昇し、一歩ごとに金継ぎの関節が震動をすべて吸収した。背後には、等間隔に並ぶ深く正確な足跡だけが残されていった。
翰文は一度だけ振り返った。
半透明の生体膜越しに、あの巨大な墓標のような「鏽骨修道院」が急速に小さくなっていくのが見えた。やがて、それは地平線の一点へと消えた。
針夫人の領地、薇との告別、そしてあの凄まじいテスト。それらすべてを背後へと置き去りにする。
彼は前を向き、果てしなく広がる東方荒原を見据えた。
風は感じなくとも、飛ぶように流れる景色を見ていると、腰回りに力がこもった。
無小姐の手だ。
彼女の細い腕が翰文の腰に回され、きつく抱きしめていた。だが今回は、以前のような怯えた小動物のような震えは感じられなかった。
翰文が僅かに横を向くと、無小姐はあの冷たい修道院を振り返ることなく、俯いて右手を袖口に添えていた。そこには「風哨骨針」が隠されている。
彼女はもう、守られるだけの荷物ではなかった。彼女もまた、牙を研いでいたのだ。
「無小姐」
翰文の声が、身内だけが理解できる優しさを帯びて響いた。
「しっかり捕まってろよ。錆錨鎮は、まだ遠いぞ」
無小姐が顔を上げた。その清らかな瞳には、前方の砂土と屑鉄の景色が映り込んでいた。
「遠くたって、怖くないわ」
彼女の声はか細かったが、かつてないほど確かなものだった。彼女は再び背中に顔を伏せると、小さく付け加えた。
「忘れないでね。……あんた、私に肉入りの熱いスープ、貸しなんだから」
翰文は一瞬呆れ、それから風霜に刻まれたその顔に、心からの笑みを浮かべた。
「ああ。忘れるもんか」
「あの街のメニュー、好きなもん全部頼ませてやるよ」
無小姐が小さく「うん」と頷くのが伝わった。
神経繭の中には再び静寂が戻った。だがそれは死の沈黙ではない。
外界のノイズが遮断されたことで、別の「音」が鮮明に浮かび上がっていた。
小花の体内の晶体脈絡が奏でる、重低音のブゥゥン……という唸り。それは鞍座を伝い、翰文の脊椎を通り、頭蓋骨へと直接響いていた。
その絶え間ない震動は、翰文に突きつけていた。この安らぎは精密な機械と、燃え盛るエネルギーによって辛うじて維持されている虚構であることを。そして生体膜のすぐ外側には、いまだ人間を喰らう廃土が牙を剥いていることを。
「そうだ。居候」
翰文は不意に脳内で口を開いた。
「お前、覚えてるか。……あの黒い塔の通気管の中にいた時のことだよ」
黒い塔を這い出した時の光景。あの黒い晶体に触れ、脳が焼き切られそうになったあの瞬間。
「あの時、お前は狂ったみたいに俺の脳内で叫んでたよな……。『第三〇四号節点の断裂』だの、『修復が不可避』だのってさ」
翰文は地平線の果てを見据えた。
「お前がそこまで執着している場所は……どこなんだ?」
脳内の深淵が、一時の沈黙を守った。
直後、見覚えのある劇痛――真っ赤に焼けた鉄の棒を脳の溝にねじ込まれたかのような感覚が、濃厚な焦げ臭さと共に爆発した。
(……うぐっ……!!)
翰文は痛みに奥歯を噛み締め、目尻に生理的な涙を滲ませた。
吐き気を催す眩暈の中、**「残り火」**はもはや嘲弄の態度を取らなかった。届いたのは、古き宿命のノイズに塗れた思念。
(……東へ行け、器よ。……)
(……貴様の進む道の先だ。あの『錆錨鎮』のさらに奥……あの「傷口」は、いまだに血を流し続けておるのだ。……)
脳内の声は唐突に途絶え、ただ鼻腔に残る焦げた臭いだけが不気味に漂っていた。
翰文は深く息を吸い、脳の残痛に耐えながら後頭部を掻いた。その口角には、無力感の滲む苦笑が浮かんでいた。
「分かってたさ。運び屋だけじゃなく、兼業で水道修理工までやらされるってわけか」
彼は小花をポンと叩いた。
「聴いたか、お前ら。……まだ仕事は残ってるみたいだぞ」
瞳に、もはや迷いはなかった。
彼はもう、転生してきたばかりの、ただの生存者ではない。
借金を背負い、秘密を抱え、そして朽ちゆく世界の宿命をも背負った、正式な**「異邦の旅人」**。
彼らは一丸となって、東へと突き進んでいった。




