第7話 : 夜明け前の凶報と、律法《ロウ》を喰らう犬
『灰律は毒ガスではない。それは「拒絶」だ。物質が固体であることを拒絶し、傷口が癒えることを拒絶し、お前が生き続けることを拒絶する。灰律の中を泳ぐモノどもについては……あれは世界が消化不良を起こした吐瀉物だ』
——『|灰の塔防御工事点検日誌・404ページ』
目覚めの最初の感覚は、全身の骨を一度解体され、セメントの床で一晩中ドラムスティックとして酷使された後のような鈍痛だった。
骨の節々が軋み、筋肉は錆びた鉄棒のように強張っている。
焚き火はとうに息絶え、惨めな白い灰の山だけが残っていた。鼻を突くのは、火葬場を連想させる焦げたタールの臭いだけ。
寒気は湿ったラップフィルムのように皮膚に張り付き、体温を残さず剥ぎ取っていく。
翰文は脚を動かそうとした。膝関節が鳴らした乾いた音が、静寂の廃墟に銃声のように響き渡る。
「……クソッ」
喉の奥で呪詛を吐き捨て、ボロボロの皮衣をかき合わせる。無駄な抵抗だ。今のこの服の保温性は、濡れた新聞紙と大差ない。
隣では「無・ミス」――名前を呼べないあの女――がまだ眠っている。あるいは、昏睡に近い沈黙。
傷ついた海老のように身を丸め、眉間に深い皺を寄せ、胸元の忌々しい青いペンダントを死に物狂いで握りしめている。
顔色は蝋人形のように蒼白だが、この病的な灰色の朝霧の中で、その人外の美しさはむしろ際立っていた。ゴミ捨て場に遺棄された、精巧なエルフの石像のように。
翰文は腕時計に目を落とした。
針は2時14分で凍りついている。
ここでは、時間は腐敗した死水だ。流れることを拒否している。
氷の石壁に手をつき、顔を歪めながら立ち上がる。用を足しに外へ出ようとした、その時だ。
半壊した石塔の入り口で、彼の足が凍結した。
自らを「死人」と名乗り、彼らを救ったあの黒矛の戦士が、依然として廃墟の外の影に立っていた。
だが、その姿勢は変化していた。
先ほどまでの沈黙する墓守の石像ではない。
黒い矛を構え、切っ先を前方のたうつ濃霧へと向け、全身を極限まで引き絞った弓のように張り詰めている。
空気中の窒息しそうな「静電気」の濃度が増していた。
翰文のうなじの毛が逆立つ。胃液を逆流させるような、あの馴染み深い振動――無数の微小な虫が空気中で羽ばたいているような高周波を感じ取る。
戦士は振り返らなかった。だが、低く嗄れた声が、金属を擦り合わせたような質感で届いた。
「……起きたか?」
「う、うん。起きた」翰文は生唾を飲み込んだ。膀胱の尿意など、恐怖でどこかへ消し飛んでいた。「おっさん、どういう状況だ? 朝の運動か?」
「奴らが来た」
戦士の声に抑揚はない。死刑判決を読み上げる執行官のように平坦だ。
「誰? 誰が来たって?」
戦士は答えなかった。代わりに、手にした黒い矛の石突きを、地面に激しく叩きつけた。
低い唸り声のような共鳴音と共に、暗赤色の波紋が足元から拡散し、周囲数メートルの薄霧を強引に吹き飛ばす。
その視界の先で、翰文は「それ」をはっきりと見た。
前方の灰色の霧の中に、影が現れた。
一つや二つではない。群れを成して、押し寄せてくる。
それらは夜巡る者のように整然とはしていない。荒原の猟犬のような生物的な実体感もない。
その移動方式は、生理的な嫌悪感を催すものだった。
視覚的な「フレーム落ち(ラグ)」だ。
一瞬前には十メートル先にいたはずの影が、次の瞬間には五メートルの距離に「点滅」している。
輪郭はあやふやで、混線したテレビの砂嵐が、無理やり四足歩行の獣の形を模倣しているように見える。
脳内の「寄生虫」が、爪で黒板を力任せに引っ掻いたような不快な警報を発した。
翰文の視界が暗転し、脳内でゴミを焼却したような強烈な焦げ臭さが鼻腔を突き抜ける。
それは言葉による説明ではない。本能的な認知崩壊だ。
寄生虫は、吐き気を催す「概念」を彼の意識に直接ねじ込んだ。
『視えた……世界が崩落していく』
『壁紙が剥がれ、裏側の黒い虚無が露出する』
『あれは生物ではない。あれはエラー(錯誤)だ』
『この世界のドット欠け。規則を喰い荒らすための消しゴムだ』
『噛まれれば血は出ない。お前は削除されたファイルのように、意味のない文字化けした灰へと還元される』
「なんだよ……あのバケモノは……」
翰文は割れそうな額を押さえ、よろめきながら後退する。
「灰律の……掃除屋だ」
戦士が低く告げる。兜のスリットの奥で紅い光が灯った。戦闘状態への移行シグナルだ。「その娘を連れて、行け」
「行けってどこへ!? あそこは全部あの化け物だらけじゃないか!」
翰文は前方指差して叫ぶ。
点滅する「雑音の獣」たちは、すでに扇状に展開し、包囲網を形成していた。唸り声はない。代わりに、全身の毛穴が粟立つような、湿った電流音を発している。
「塔へ」
戦士は黒矛を持ち上げ、廃墟の背後、より深い霧の中にそびえる巨大な黒塔の影を指し示した。
「あそこなら……奴らは入れない」
「冗談だろ? 昨日はあそこがヤバいから逃げてきたのに、戻れって言うのか?」
翰文は、この世界の住人の論理回路を疑った。
「昨夜は『断律』。今は『灰潮』だ」
戦士が振り返った。影に沈んだ瞳が、一瞬だけ翰文を捉える。
そこには感情などない。あるのは死人を見るような冷徹さと、極めて希薄な……憐憫だけ。
「灰になりたくなければ、走れ」
戦士の宣告が終わるや否や、最初の灰律狩人が待ちきれずに攻撃を開始した。
跳躍ではない。「転送」だ。
動画のコマを数枚切り取ったかのように、それは突如として戦士の懐に出現した。歯のない、無数の黒い粒子が回転するだけの口腔を広げ、戦士の首元へと食らいつく。
戦士の反応は、物理法則を嘲笑うほど速かった。
静止していた黒矛が、瞬きする間に横薙ぎの一閃を描く。硬質な破砕音と共に、暗赤色の残像が空気を切り裂く。
矛先が雑音の塊を捉えた瞬間、不快な破裂音が響いた。
怪物は吹き飛ばされたが、空中でその体は煙のように霧散し、数メートル先で何事もなかったかのように再凝縮した。
物理攻撃が無効?
翰文は背筋が凍るのを感じた。
言葉にならない裂帛の気合いが、戦士の口からほとばしった。
その声に含まれる悲憤と力は、翰文の想像を絶していた。彼がこれほど大きな感情を露わにするのを初めて見た。
黒矛に刻まれたルーン文字が一斉に輝き出し、マグマのような赤熱を放つ。
彼はもはや防御しない。自ら怪物の群れへと突っ込んだ。
厳密には、これは戦闘ではない。一方的な虐殺であり、同時に敗北が約束された抵抗だ。
戦士は巨大な黒矛を両手で握りしめ、振り回すのではなく、足元の地面へと垂直に突き立てた。
矛先が大地を穿つと同時に、天地を引き裂くような轟音が鳴り響いた。
落雷か、あるいは地殻変動か。
それは単なる衝撃波ではない。「律」の具象化だ。
赤熱した光がマグマのように矛先から噴出し、地割れに沿って狂ったように拡散する。その光はエネルギーを超越し、「固定された規則」となって世界を書き換える。
半径二十メートル以内。点滅し、崩壊しかけていた空間が、その蛮勇によって強引に「縫い留め」られた。
彼を「削除」しようと殺到していた灰律狩人たちが、赤い光に触れた瞬間に絶叫した。
電流がショートする音の後、硬質な破砕音を立てて砕け散る。
テレビの砂嵐のようだった彼らの身体は、無理やり実体を与えられ、そして赤光の暴虐な奔流によって蒸発させられた。
その一撃は、現実に直径二十メートルの「絶対真空円」を穿つほどの威力だった。
灰色のノイズは悲鳴を上げる間もなく虚無へと還元され、焼け焦げた地面だけが震えている。
だが、その雷霆の如き破壊も、次の一秒で運命の嘲笑に晒された。
真空は瞬きする間もなく埋め尽くされた。
前方の空間が崩落したのだ。これは数の暴力ではない。規則による水没だ。
無数の灰色が狂気的に堆積し、圧縮され、数十メートルの高さを持つデジタルの津波となって、すべてを呑み込む飢餓感と共に押し寄せた。
刹那の空白は、あまりにあっけなく粉砕された。
それでも、戦士は退かなかった。彼は荒れ狂う津波の進路上に打ち込まれた、一本の頑固な釘のように踏み止まった。
「……あいつ……何をして……」
翰文は振り返り、瞳を震わせた。
戦士の鎧が、風化した岩のようにボロボロと剥がれ落ちていくのが見えた。灰色の怪物たちは彼を噛んでいない。ただ、通り抜けているだけだ。
透過するたびに、戦士の体は透明になっていく。
彼の「存在」が摩耗している。鋼鉄は鉱石へ、血肉は塵へと還元されていく。
だが彼は矛を振るい続ける。一撃ごとに、キャンバスを引き裂くような音が響く。
魂を燃料にして、灰色の波濤の中に強引に真空のトンネルを焼き開けているのだ。
「……行けェッ!!!」
戦士の声が変わった。低音の男声ではない。金属が悲鳴を上げるような、非人の咆哮。
砕け散った兜の下にあるのは、人間の顔ではない。燃え盛る、憤怒の赤い残り火の塊だ。
翰文は唇を噛み切り、鉄錆の味を噛み締めた。
戦いの素人である彼にも、理解できた。
この人は、とっくに死んでいる。
彼をそこに立たせているのは肉体ではない。数千年前に果たせなかった誓いだ。
今、彼はその最後の誓いを燃やし尽くして、見ず知らずの二人の「異数」の命を、数分だけ引き伸ばそうとしている。
「クソッ……これじゃあ一生かかっても返しきれねえだろ……!」
翰文は熱くなる眼窩を無視して猛然と振り返り、女を横抱きにした。
「掴まってろ! 後ろを見るな! 振り返ったら、あのおっさんへの侮辱だ!」
彼は発狂したように黒塔へ向かって駆け出した。
彼らが斜面に足をかけた、その直前。
背後で、鼓膜を劈くような破断音が響いた。
天をも貫くほど強靭に見えた黒い矛が、脆い玩具のように半ばからへし折れ、青い煙を上げて地に落ちた。
時間が凍結したような静寂。直後、灰色の津波が赤い人影を完全に飲み込んだ。
だが、最期の瞬間。
赤い残り火は消えなかった。
逆に、大輪の花のように咲き誇った。
爆弾のように拡散するのではなく、内側へと極限まで収縮し、そしてあらゆる物質を拒絶する斥力を爆発させた。
空気を圧縮したような重低音が横薙ぎに広がる。
その力は、空を埋め尽くす屍の波を、物理的に五メートル押し戻した。
生じた一瞬の絶対真空の中で、半身を失った戦士が、首を巡らせた。
燃え盛る残り火が、最後に一度だけ翰文を見た。
喉はすでに焼け落ち、嘆息さえも形にならない。ただ魂が燃え尽きるパチパチという爆ぜる音だけが響く。
哀悼の余地さえない。彼は最後の信管に火を点けた。
破滅の刹那、戦士に残されたのは、単純で、粗暴で、しかし力に満ちた一つの動作だけだった。
彼は残った片腕を翰文の方へ向け、虚空を力任せに押した。
柔らかく、しかし抗えない気流の塊が翰文の背中を打ち、彼と女を砲弾のように斜面の上へと弾き飛ばし、黒塔の影の中へと送り込んだ。
直後、強引にこじ開けられていた真空が崩壊した。
灰色のノイズの波が貪欲に合流する。無数の昆虫が一斉に食事をするような、おぞましい咀嚼音と共に、かつてその男が存在した空間を埋め尽くした。
最後の憤怒の赤光に、フェードアウトの猶予はなかった。
見えざる冷たい巨手に握りつぶされたかのように、最後の熱量と輝きごと、徹底的に、絶対的に、この領域から抹消された。
天地に残されたのは、単調で、冷たく、絶望を孕んだノイズのような電流音だけ。
あの死人は、もう一度死んだ。
今度は、誰かを守って。
朝日が、予定通りに昇る。
だがこの忌々しい黎明は、夜よりも深い絶望を連れてきた。




