第69話 : 強張る死皮と、砂下の残響
『この世界じゃ、「体面」なんてのは死人にしか必要のない代物さ。生きた人間に必要なのは、風を凌げる一枚の死皮と、飲み込めるだけの腐れ肉だよ』
——李翰文の廃土日記、腐化ゴビの第二夜に記す
腐化戈壁の第二夜は、第一夜よりもなお冷え込んだ。
真夜中になれば、決まって風は止む。
極端な気候下において、凪は往々にして急激な気圧の変化、あるいはもっと質の悪い何かが蓄積されている前兆を意味していた。
空には二つの月——惨白な白月と病的な紫月——が中天に掛かり、その冷光を死寂の砂海へと浴びせ、世界を露光過多のモノクロネガのように染め上げていた。
一行は今夜、巨大な三日月形の砂丘の背後で野営を張っていた。ここから五百メートルも離れていない場所に、昼間彼らの行く手を阻んだあの「無形の音壁」が横たわっている。
あちら側の空気は奇怪に歪み、時折鋭い気流の哨音を漏らす。見えない幽霊が壁際を巡回し、足止めを食らった旅人を嘲笑っているかのようだった。
キャンプ地内は、窒息しそうなほどの重苦しい空気に満ちていた。
翰文は小花の傍らに屈み、彼女の側腹部にある凄惨な傷跡を凝視して眉を顰めていた。
かつて幾重にも重なり精美を極めた白磁の羽鱗は、無残に砕け散っていた。
昨日の音波の重槌を防ぐため、芸術品のごときこの羽は、彼女の身代わりとなって破滅的な衝撃を引き受けたのだ。今や、断裂した磁器の破片の縁は刃のように鋭く、金繕いの紋様はそこで唐突に途絶え、下の蠢く生体筋肉と晶体の脈絡を剥き出しにしていた。
傷口の周りには乾いた湛藍の霊血がこびりつき、月光を浴びて幽かな蛍光を放つ。それは聖像を引き裂いた醜悪な傷痕のように、昼間の惨烈さを無言で物語っていた。
彼はその乾いた青い血を見つめ、喉に砂を一掴み放り込まれたような不快感を覚えた。
「……クソったれ」
翰文は無惨な断口を見やり、力なく手を垂らした。「残り火」を頼りに精密なフィルターを直すことはできても、今の彼にはこのような生々しい創傷の処置法が分からない。
「翰文、これを使って」
背後から無小姐の声が届いた。
彼女は小花のストレージから、灰黒色をした、濃厚な生臭さを放つ物体を難儀そうに抱えて歩み寄ってきた。昨夜剥ぎ取った、あの晶化トカゲの皮だ。
「そんなもんが使えるのか?」翰文は眉を寄せ、鉄板のように強張り、縁の丸まったその死皮を忌々しげに見た。「石みたいに硬いじゃないか。貼り付けたところで、あの子を傷つけるだけだ」
「ええ。あんたが使ってた『防腐黒脂皮』と似たようなものよ」
無小姐は首を振ると、手慣れた様子で風律を操り、トカゲの後脚の筋を一本切り出した。そしてあの硬い皮を火にかざした。
「見てて。まず、これを二度目に『殺す』の」
彼女は微弱な風律を使い、凝律石の火を精密に制御して、獣皮の内側を均一に舐めさせた。
脂が熱を帯びてジュウゥゥ……と滲み出す音。滴り落ちた残滓が熱い石に触れ、青い煙を上げる。濃厚な焦げ臭さが瞬時にキャンプ地を支配した。タンパク質の焼ける臭いと硫黄が混ざり合った、吐き気を催す悪臭。
だが不思議なことに、脂が抜けるにつれ、鉄のように堅牢だった死皮は軟化し始め、次第に皮革特有のしなやかな強靭さを取り戻していった。
「熱いうちに」無小姐は処理を終え、湯気を立てる柔らかな皮を翰文へ手渡した。その瞳には確かな光があった。「今なら、小花の形を覚えてくれるわ」
翰文は一瞬呆気に取られたが、すぐにその熱い獣皮を受け取った。感触は冷たい鋼鉄から、生暖かいタイヤのゴムのような質感へと変わっていた。
「……助かる」
彼は深く息を吐き、小花へと向き直った。
「こっちを向け、小花」
小花は従順に身を寄せ、負傷した側腹部を火光の下に晒した。
翰文は熱を失わぬうちに、軟化したトカゲの皮を傷口の上へと被せた。
「我慢しろよ。少し熱いぞ」
彼は力一杯皮を押し当て、小花の身体の曲線に密着させた。獣皮の内側にある粘りつく結合組織が高温で天然の接着剤となり、ヌチャリという湿った音を立てる。
続けて無小姐から手渡された、同じく熱せられたトカゲの筋腱を使い、彼は磁器の羽の隙間に糸を通すようにして、その醜い硬皮を力任せに締め上げた。
それは極めて奇怪で、廃土的な光景だった。
小花という、針夫人が最高級の白磁と古龍の技術で造り上げた芸術品。その身体に、焦げ臭い灰黒色の死獣の皮が貼り付けられている。それはまるで、泥臭く野蛮な「端肉」を、聖母像に無理やり縫い付けたかのようだった。
腱が冷却され、ギギィィ……と収縮して締め上げる音が響くと、その継ぎ接ぎ(パッチ)は強固に固定された。
翰文は余熱の残るその醜悪な補修跡を叩いた。手は脂と煤でベタベタに汚れている。
「よし」
彼はその「傑作」を見つめ、苦笑を漏らした。そこには諦めに似た愛おしさが混じっていた。
「これで、お前も『お姫様』の矜持を捨てて、喧嘩帰りの浮浪者の仲間入りだな」
小花は怒らなかった。彼女はただ頭を下げ、冷たい面甲で翰文の油まみれの手をそっと突いた。生臭い新たな装備を嫌う様子もない。
彼女はそこを動かず、負傷した側をより深く砂へと押し付けた。「同巣者」が与えてくれたものならば、それは保護なのだ。たとえそれが、死人の臭いに満ちたものであっても。
傷の処置が終われば、次はさらに困難な生存の問題が待っている。
無小姐が、半分ほど火の通った肉の串を差し出した。
「トカゲの後脚の肉よ」彼女の顔は火光に照らされてなお蒼白だった。この肉の処理が彼女にとっても苦行であったのは明白だ。「毒袋は切り落としたけれど、調味料がないから、味は……」
翰文はそれを受け取り、灰白色の、繊維の太い肉塊を一口齧った。直後、吐き気がこみ上げた。
強烈な硫黄の臭いと土臭さが口内に広がり、肉質は廃棄されたタイヤのゴムを噛んでいるかのように硬い。
恐らく、人生で食べた中で最も不味いものの一つだろう。以前の期限切れ軍用糧食よりも十倍は不快な代物だ。これはもはや食事ではない、味蕾への化学攻撃だ。
「……こいつ、生きてる間に一度も風呂に入ってねぇな」
翰文は空嘔吐を堪え、強引にそれを嚥下した。胃袋が抗議の痙攣を上げたが、力任せにねじ伏せる。次いで、無小姐も眉を顰め、目を閉じて、苦悶の表情で口の中の肉を飲み込んだ。
廃土において、好き嫌いは死人の特権だ。生きた人間は、タンパク質を胃に収められるなら、タイヤであろうと感謝して食らわねばならない。それが生き延びるための代価なのだから。
翰文は骨のついた大きな肉の一片を、小花へと差し出すのを忘れなかった。
彼女は現在、大気中の残律を捉えて稼働しているが、翰文は、彼女が損壊した筋肉を修復し、生命としての欲求を満たすためには生体組織の摂取が必要だと信じていた。
小花は巨大な嘴を開き、無小姐が目を背けたその骨付き肉を一息に呑み込んだ。
静かな夜に、骨が砕かれるバキバキという音が響き、聞いているこちらの奥歯が疼くような感覚に陥る。
彼女は不平一つ漏らさずに食べた。古龍にとって、エネルギーさえ補填できれば味など些細なことなのかもしれない。あるいは、翰文を罪悪感に苛ませたくなかっただけなのか。
「……明日、ここを出られると思う?」無小姐が膝を抱え、火を見つめたまま、小さな声で訊ねた。
「出られるさ」翰文は、何から逃げるように火を散らした。「針夫人が詰み(デッドエンド)を出すわけがない。これはただの……テストだ」
口ではそう言ったものの、心に確信はなかった。あの音壁の強度は、彼の知る範疇を超えている。明日、強行突破を図れば、小花は砕け、自分たちは死ぬだろう。
沈黙が三人の間に広がった。聞こえるのは火の爆ぜる音と、遠くの音壁から届く断続的な金切声だけ。
砂を噛むような夕食を終え、翰文は立ち上がると、口元の脂を拭った。
「こいつらを片付けてくる」
彼は地面に残ったトカゲの残骸と内臓を指差した。捕食者のひしめくこの荒野で、血生臭さを残して夜を越すのは自殺行為に等しい。
「気をつけてね」無小姐が告げる。
翰文は頷き、悪臭を放つ残渣を引きずって、キャンプ地から二十メートルほど離れた風下の砂地へと向かった。
ここには道具がない。追い出された時、まともなシャベル一つ持たせてもらえなかったのだ。
翰文は溜息をつくと、最も原始的な方法——「足」を使うことにした。
彼は精巧な晶骨の義足を上げ、周囲の砂を力任せに残骸へと蹴りかけ、鼻を突く血の臭いを覆い隠そうとした。
一回、二回。
動作は不恰好で、無様だった。野良猫が砂をかけるように、必死に臭いを隠そうとする。そして、三回目を踏み出した、その時。
義足の先端が、砂の下にある「異物」を捉えた。翰文が力任せに追い打ちをかけるように踏みつけると、硬い物体に衝突した義足が、キィィンという澄んだ共鳴を上げた。音は静まり返った夜の闇に遠くまで響き、翰文の義足の接合部に痺れるような衝撃を残した。
「……ッ、何だ、今の?」
翰文は眉を顰め、動きを止めた。
ここは流砂の砂丘だ。金属なんてあるはずがない。
彼は屈み込み、砂の冷たさも構わず、手で狂ったように表層の砂を掻き分けた。
双月の冷光を頼りに、彼は剥き出しになった一枚の、深い緑色の錆に覆われた金属板を見つけ出した。表面には霞んだシリアルナンバーと、閃光と盾が交差した、色褪せた紋章が刻まれていた。
見たこともない紋章。だが、その冷徹で硬質なラインのスタイルに、彼は言いようのない既視感を覚えた。民間品にはありえない、あまりに直線的で、容赦のないデザイン。――軍規格。特有の暴力性と秩序の気配。
翰文の指先がその紋章に触れた、まさにその瞬間。
脳内の深淵で、ドォォォォンという轟音が響き渡った。煮え滾る鉄水を頭から浴びせられたかのような衝撃。
「が、はぁッ!!」
翰文は苦悶の声と共に、後方へひっくり返った。猛烈な焦燥感が神経を伝って大脳皮質を埋め尽くす。脳の溝に真っ赤に焼けた石炭を強引に詰め込まれ、肉の焼ける幻覚を見せられているかのようだ。
鼻腔には瞬時に強烈な焦げ臭さが充満した。鉄錆と硫黄が混ざり合った、戦場と死の臭い。
直後、翰文の眼前で、現実世界が崩壊した。
見えているのはもはや静かな砂丘でも、双月でもなかった。
「幻視」が津波となって押し寄せる——。
砂漠は消え去った。代わりに現れたのは、山脈のごとく壮大な鋼鉄の要塞群。黒い排気管が天を覆い尽くすほどの濃煙を吐き出している。
重装動力甲を纏った無数の兵士たちが戦壕を駆け抜け、空には巨大な律法ルーンを刻んだ戦争飛行船が滞空している。
**「律法校準尖碑」**の稼働が、ドォォォォン……という地響きのような音を上げ、鼓膜を震わせる。大地は震え、大気は燃えていた。
一筋の温かな血が、翰文の鼻孔から流れ落ち、冷たい金属の紋章を赤く汚した。
(……はっ! ……器よ、ようやく本題を踏み抜いたな。……)
魂を直接揺さぶるような震え。脳内の「残り火」が、隠そうともしない嘲弄の意念を伝えてきた。
(……あの冷血なトカゲ共め、こんな場所を巣にしていたか。放射能まみれの暖炉代わりというわけだ。……)
耳元で突如として、狂乱と歓喜を孕んだ高周波の金切声が響いた。それは彼の表層意識を粗暴に引き裂き、記憶領域へと直接食い込んだ。翰文には、「残り火」が今、鋼鉄の要塞の頂上で咆哮しているかのように感じられた。
(……見ろ、この壮観な景色を! 器よ!……)
(……貴様が踏みしめているのは、『第四律法軍團』の防御陣地の残骸だ。……)
幻視が急激に収束し、半透明の緑色の透視図となって、翰文の網膜にオーバーラップされた。
それは、心臓を鷲掴みにされるような衝撃的な情景。
この何の変哲もない砂丘の下には、氷山のように巨大な鋼鉄の要塞が丸ごと埋まっていたのだ。巨大な金属構造が巨獣の骸のごとく地底深くに横たわり、そこから無数の管路と回路が四方八方へと伸びている。
そして、彼らを閉じ込めているあの「音律断層」は、自然災害などではなかった。この要塞が制御を失った後も稼働し続けている、防衛システムの一部。それは、とうに死に絶えたこの墓場を、いまだに守り続けているのだ。
(……錠前があるのなら、必ず鍵もあるはずだ。……)
翰文の沸騰しかけた脳漿の中で、危険な誘惑を孕んだ認識が反響する。
(……ゴミを埋めるのはやめろ、器よ。左に二歩分ほど掘ってみろ。……)
(……そこには一基の『律法校準尖碑』が眠っている。大半は砂の中だがな、その核心を引き抜けば……あの壁を粉砕する術が手に入る。……)
翰文は激しく喘ぎながら、幻覚から這い出した。鼻を拭うと、手は真っ赤な鮮血で汚れていた。
彼は足元の砂地を見つめた。疲弊は消えていなかったが、それはより深い場所へと押し込められていた。
代わりに湧き上がってきたのは、背筋を凍らせるほどの明晰さ。――それは考古學者が、年代、層位、そして用途がパズルのように噛み合った瞬間にだけ味わう、あの狂おしい興奮だった。
これは行き止まりではない。お宝だ。
だが、彼は自らの生身の手を見た。道具もないまま、これをいつまで掘り続ければいい?
翰文は猛然と顔を上げると、キャンプ地に向かって絶叫した。興奮と脳の劇痛で、その声はひどく裏返っていた。
「無小姐!! 小花を呼んでくれ!!」
「ここにとんでもない『大物』が埋まってる! あの子の爪が必要なんだ!!」
「……俺たちは、特大の当たり(ジャックポット)を引き当てたかもしれないぞ!!」
夜風が地表の砂塵を巻き上げ、トカゲの死骸を覆い隠していく。
そしてこの死寂の砂海の下で、何かが、鳴り響いていた。




