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第68話 : 喉の内の黒油と、啜り泣く風壁




『恐怖ってのは、目の前に断崖があるから感じるもんじゃない。かつて一番大切なものを、その手で突き落としちまったから感じるのさ。それからというもの、あんたは平坦な地面に立っているだけで震えが止まらなくなるんだ』



  ——李翰文(リー・ハンウェン)の廃土日記、腐化ゴビの二日目に記す



 腐化戈壁(ふか・ゴビ)の早朝に日の出はなく、天地の間には酸っぱい臭いを帯びた灰色の霧霾むまいが立ち込めているだけだった。



 ここに道はない。だが、彼らは移動し続けなければならなかった。



 針夫人(マダム・ニードル)のあの忌々しい『操作マニュアル』の一頁目には、こう記されているからだ。——「律法の磨合(慣らし)には動能を要す。静止とは錆蝕せいしょくなり」



 小花(ムアカイ)は、絶えず走行距離という餌を喰らい続けなければならない錬金機械であり、立ち止まることはテストの失敗を意味していた。



「……口を空けな」



 翰文(ハンウェン)小花(ムアカイ)の前に立ち、(ヴィ)が遺していった汚れきった黒い鉄缶を手にしていた。



 小花(ムアカイ)は従順に頭を下げた。眼のない白磁の面甲が僅かに開き、巨大なくちばしが精密な油圧クランプのごとく、翰文の目の前で寸分違わず静止する。



 喉の奥、基座に嵌め込まれた三つの核心コア——悲しみ、暴怒、欺瞞——が微かに脈動し、乾燥した熱波を放っていた。



 翰文(ハンウェン)が蓋を回し開けると、タールと重金属が混ざり合った刺激的な工業臭が鼻を突いた。



 これはおよそ食べ物と呼べる代物ではない。死体安置所と修理工場を混ぜ合わせたような臭いだ。



 翰文の胃がキュッと収縮する。こんなものを本当に彼女の喉へ流し込んでいいのか?



 彼は缶を傾け、アスファルトのように粘りつく黒い冷却油(通称ガンオイル)を、小花(ムアカイ)の喉へと注ぎ込んだ。



 小花(ムアカイ)は微かに頭を仰向け、喉元の金継ぎ紋様を嚥下に合わせて柔和に上下させた。



 粘つく黒油が食道を滑り落ちる際、野卑な飲み込み音などは一切響かなかった。聞こえるのは、極限まで潤滑された管路が発する、微かな駆動音ハミングだけだ。



 それは野獣の食事というより、値千金の精密機器が音もなく燃料を摂取している光景だった。優雅で、効率的で、余計なノイズを一切排した。



 純白の磁器の歯茎に付着した黒い油汚れが、ひどく刺々しく目に映る。黒油は食道を伝い、すぐに熱を帯びた核心を包み込み、昂ぶっていたルーンを冷却していった。



 核心の温度が下がるにつれ、彼女は満足げな低周波の唸りを漏らし、金継ぎの亀裂を一瞬だけ輝かせた後、再び静かな待機状態へと戻った。



 翰文(ハンウェン)は手に付いた油を、無意識に指先で擦り合わせた。滑り、冷たく、取れない工業の悪臭。



 以前、彼女に安物の干し肉をあげた時は、いつもいたようなカチカチという音を立てていた。鋭い嘴で人間の手を傷つけまいと、不器用に、しかし慎重に掌から食べ取っていたものだ。



 あの頃の彼女は冷たかったが、その動作には「体温」があった。



 だが今は、自分は一台の精密機器をメンテナンスしているに過ぎない。



 その乖離感に、翰文は胃の中に冷たい鉄の塊を飲み込んだような、重苦しい鈍痛を感じていた。



「……行くぞ」



 油缶をバックパックに押し込み、ズボンで適当に手を拭くと、彼は子宮のように閉ざされた神経繭コクーンへと入った。



 正午。風向きが奇妙に変わった。



 荒れ狂っていた乱流が突如として消え、代わりに陰森とした、不気味な死寂が訪れた。



 小花(ムアカイ)が唐突に足を止めた。



 高速走行からの急制動。強大な慣性は強靭な後脚によって完璧に受け流され、砂地に二筋の深い溝を刻んだ。繭の内部で翰文(ハンウェン)は前方へ投げ出されそうになり、背後の無小姐(ミス・ヌル)が彼を抱きしめたため、脇腹に強い圧迫感と痛みが走った。



「どうしたの?」無小姐(ミス・ヌル)が緊張した面持ちで翰文の腕を掴む。



 翰文(ハンウェン)が神経連結を通じて外を「視る」。



 前方には何も見えない。ただ、空気が微かに歪んでいるだけだ。



 だが小花(ムアカイ)の感官において、前方には無形の、巨大な**「音律断層」**が横たわっていた。



 そこの大気は水面のように激しくうねり、風がそこを通るたび、咆哮ではなく「ウゥゥ……」という凄惨な金切声を上げていた。井戸の底で誰かが啜り泣いているかのような、高周波で偏執的な、狂気を孕んだ響き。



 翰文(ハンウェン)が念じると、小花(ムアカイ)の白磁の巨爪が僅かに動き、拳ほどのつぶてを正確に蹴り上げた。



 パシィィン!という乾いた音。



 石が歪んだ空気と接触した瞬間、見えない歯車に巻き込まれたかのように、一瞬で微細な粉末へと磨り潰された。



 (……愚か者め。ありゃ旧律時代に暴動防護用に使われた「震盪音壁ソニック・ウォール」だ。……)



 (……ひき肉の缶詰になりたくないなら、その汚ねぇ手を出すんじゃないよ。……)



 脳内の「残り火(エンバー)」が煙草臭い意念を送り、嘲弄混じりに告げてきた。



 小花(ムアカイ)の喉が動いた。彼女は瞬時に判断した。物理的な突破は不可能。



 針夫人(マダム・ニードル)の本によれば、この音律障壁を破る唯一の解法は、より強力な「逆位相の音律」で中和すること。



 すなわち——龍吼ドラゴン・ロア



 小花(ムアカイ)の面甲が跳ね上がり、頸部の金継ぎ紋様が励起されるジジ……という異音と共に、刺すような幽藍の光が灯った。見えない壁へと狙いを定める。喉の深部の「悲しみ」の核心が狂ったように回転を始め、莫大なエネルギーが声帯へと圧縮、凝集されていく。



 その光景は、あの悪夢の再演だった。**「駭入咆哮(データ・ロア)」**を発動する前兆。



 翰文(ハンウェン)の瞳が猛烈に収縮した。記憶が潮流となって押し寄せ、理性を飲み込む。



 あの時も、同じ光だった。あの時、憤怒に駆られた自分が、神経連結を介して小花(ムアカイ)の限界を強引に前借りし、肉体の負荷を超えた絶叫を彼女に強いたのだ。



 あの身を切られるような断裂音。彼女の喉から血飛沫が噴き出し、二度と声が出なくなったあの無残な姿。



 「咆哮=損壊」



 その等式が、焼けた鉄印のように翰文の脳に焼き付いていた。



 恐怖。敵への恐怖ではない。自らの手で、再び大切な者を壊してしまうことへの恐怖。



「ダメだぁぁぁッ!!」



 翰文(ハンウェン)が神経繭の中で叫んだ。彼は神経触手を猛然と引き絞り、連結を通じてこれ以上なく強硬な、拒絶を許さぬ「絶対禁止」を叩きつけた。



「黙れ! その声を使うな! 止めろぉぉッ!!」



 (……死にたいのか!? コンテナよ!!……)



 「残り火(エンバー)」が突如として激昂し、熱波となって翰文の脳を焼く。



 (……それこそが唯一の解だ! さもなくば「音波の亡霊」どもに脳を蒸し焼きにされるぞ! 早く制限リミッターを解け!!……)



 だが翰文の耳には届かない。劇痛に耐えながら、恐怖が彼の理性をロックしていた。その念は電流となって小花(ムアカイ)の脳へと衝突する。



 小花(ムアカイ)は、喉を力任せに締め上げられたかのような「ガッ……」という短い呻きを漏らした。



 放たれる寸前だったエネルギーは強引に遮断され、逆流した**「鳴律(レゾナント・ロウ)」**の衝撃が彼女の身体を激しく痙攣させた。喉の青光は瞬時に死滅し、幾筋かの青い煙となって霧散した。



 彼女は困惑したように首を振った。



 (……最適解、拒絶。同巣者が極度に恐れている。……)



 理由は分からなかったが、彼女は従った。彼女は口を閉じ、障壁をブチ抜くはずだった力を、無理やり腹の底へと飲み込んだのだ。



 だが、その躊躇は代償を求めた。



 中途半端なエネルギーの励起と中断が、不安定な音壁を刺激してしまったのだ。



 大気が激しく震動し、憤怒の唸りを上げる。音壁の中から、数体の半透明でねじ曲がった人型の輪郭が剥がれ落ちてきた。



 それらは実体を持たない、高周波震動の「残響」。耳を劈く金切声を上げながら、飢えたいなごの群れのごとく小花(ムアカイ)へと襲いかかった。



「クソッ!」



 翰文(ハンウェン)はナイフを抜き、透明な輪郭を迎え撃とうとした。だが失策だった。彼らは神経繭の中、生体膜に守られた内側にいる。そして何より、物理攻撃など彼らには通用しない。



 音波の亡霊たちがチチチ……と不快な音を立て、小花(ムアカイ)の白磁の羽を「透過」した。共振が装甲を通り抜け、半透明の生体膜さえも無視して侵入してきたのだ。



 高周波の音波攻撃が、直接二人の鼓膜と内臓を打ち据えた。



「う、あああぁぁっ!」



 無小姐(ミス・ヌル)が苦悶に耳を塞ぎ、身を丸めた。



 翰文(ハンウェン)は脳漿が沸騰する感覚に襲われ、鼻孔から熱い液体が滴り落ちた。視界は滲み、五臓六腑を挽き肉機でかき回されているかのような衝撃。叫ぼうとしても、喉が音を拒絶した。



 小花(ムアカイ)の意識の海に、巨大な高波が立った。神経連結を通じて、翰文の崩壊寸前の絶叫が絶え間なく流れ込んでくる。



 (……痛い……ハンウェンが、痛がってる……)



 (……内臓が壊れる……反撃しなきゃ……)



 本能が告げる。一度吼えれば、この亡霊どもを粉砕できると。



 小花(ムアカイ)の喉が再び輝き始める。本能的に、彼女はやはり口を開こうとした。



「だ……ダメだ……」



 翰文(ハンウェン)は顔を血で汚し、意識を朦朧とさせながらも、神経触手を死守していた。愚鈍なまでに固執した念を送り続ける。



 (小花(ムアカイ)、吼えるな。壊れちまう。……頼む、もう壊れないでくれ。)



 小花(ムアカイ)は、凍りついた。



 その強引な意志が、三つの核心の根本規律と激しく正面衝突した。



 (……脅威レベル、極大。同巣者の保護を最優先する。……)



 生死の刹那、針夫人(マダム・ニードル)によって「冗長な機能」と切り捨てられたはずのあの古龍の生体脳が、冷徹な核心規律を越え、『操作マニュアル』には記されていない決断を下した。



 彼女は口を閉じた。悲しみを飲み込むように。



 吼えられないのなら、防ぐまでだ。



 小花(ムアカイ)は突如として身を翻し、音波の亡霊たちに背を向けた。



 脚をたたみ、巨軀を極限まで丸める。金繕い(きんつぎ)によって強化され、最も密度の高い側面部の白磁羽鱗を、亡霊と神経繭の間に盾として割り込ませたのだ。



 その姿勢はあまりに無様だった。進攻の槍であることを捨て、彼女は自らを一枚の「死に盾」へと変えた。



 見えない音波の重槌が、小花(ムアカイ)の身を容赦なく打ち据えた。ドォォン!カァァン!と、古寺の鐘を叩くような巨大な衝撃音が連続する。岩石をも粉末にする一撃。



 パキパキという、泣き声のような断裂音。小花(ムアカイ)の美しかった白磁の羽が、崩れ始めた。



 接合されていた金継ぎの紋様が断たれ、巨大な衝撃が装甲を透過して体内へと伝わり、生体筋肉を震災のごとく傷つけていく。



 肋部から無数の微細な亀裂が走り、プシューッという排圧音と共に、発光する**「湛藍たんらんの霊血」**が噴き出した。霊血は大気に触れた瞬間、儚くも美しい青い霧となって蒸発していった。



 繭の内部から、魂を引き裂くようなあの震動が消えた。



 翰文(ハンウェン)は眩暈から正気を取り戻した。半透明の生体膜越しに、彼は外の光景を見た。



 小花(ムアカイ)が、死に物狂いで自分たちを守っていた。



 彼女の身体は激しく震え、音波が直撃するたびに低い呻きを漏らしていたが、一歩も退かなかった。鋼鉄を粉砕する攻撃をその身で受け止める苦痛を選んだのだ。翰文の放った「吼えるな」という意志に背かぬために。



 翰文(ハンウェン)の手が震えた。青い血の霧を見つめながら、心臓を直接引き裂かれるような痛みを覚えた。



 これは錬金術の産物でもなければ、血に飢えた兵器でもない。



 ただの馬鹿正直な「子供」だ。喉を壊されたのに、それでも身体を張って雨を凌いでくれる。そんな、馬鹿な奴だ。



 最後の波が小花(ムアカイ)の羽に衝突して砕け散ると、エネルギーは尽き、風の中に霧散した。音壁の力も枯渇したのか、金切声は次第に低まり、やがて消えていった。



 周囲は死寂に帰した。



 小花(ムアカイ)は丸まった姿勢のまま、しばらく動かなかった。震動が完全に止んだことを確認して初めて、彼女はゆっくりと身体を解いた。



 動作に合わせ、側面の砕けた羽がキリキリと不快な音を立てて擦れ合い、さらに多くの青い霊血が砂地へと滴り落ちた。それはまるで、青い涙のように見えた。



 (……全く、救いようのない馬鹿龍め。……)



 「残り火(エンバー)」の意念が再び響いた。だが、いつもの嘲弄は薄れ、そこには溜息にも似た複雑な響きが混じっていた。



 (……針夫人(マダム・ニードル)の作品に、これほど「不完全な不純物」が紛れ込んでいようとはな。……)



 翰文(ハンウェン)は生体膜が開くのを待つこともできず、手足を使って外へと這い出した。よろめきながら小花(ムアカイ)の傍らへ駆け寄る。



 無小姐(ミス・ヌル)も後を追って飛び降りた。



 彼女は何も言わず、静かに小花(ムアカイ)の頭部へと歩み寄った。強引なエネルギー中断でオーバーヒートした彼女の喉は、周囲の空気を歪ませるほどの高熱を放っていた。



 無小姐(ミス・ヌル)が両手を伸ばすと、指先に柔和な青い微光が灯った。この世で最も清純な、流れる冷風。



 彼女はその手を、小花(ムアカイ)の灼熱の白磁の頸部へ、そっと添えた。



 シュゥゥゥ……と肉眼で見えるほどの清涼な気流が小花(ムアカイ)の喉と頭を包み込んだ。高熱は優しく奪い去られ、赤く熱を帯びていた金継ぎの紋様は冷却され、安らぎの音を立てて沈静化した。



 小花(ムアカイ)の面甲。消えかかっていた幽藍の光が、再び安定した輝きを取り戻した。彼女は頭を下げると、冷やされたばかりの巨大な嘴で、無小姐(ミス・ヌル)の掌を優しく、いとおしそうに撫でた。



 白磁の羽は蜘蛛の巣のような亀裂に覆われ、黄金の修復痕は断裂し、無残な有様だった。



小花ムアカイ……」



 翰文(ハンウェン)は手を伸ばし、その傷に触れようとしたが、指が止まった。



 小花(ムアカイ)が顔を向けた。



 甘えることも、助けを求めて鳴くこともなかった。ただ、あの冷たい嘴で、そっと翰文の肩を突いた。一度、また一度と。



 まるで、あんたは壊れていないかと確認しているかのように。



 同巣者の無事を確認すると、彼女は再び前方を向き、傷ついた身体を引きずって、次の一歩を踏み出す準備を始めた。



 翰文(ハンウェン)は立ち尽くしていた。風砂が吹き抜け、顔には乾いた血と涙の跡がこびりついていた。



 眼前で沈黙するその背中を見つめ、彼はようやく悟ったのだ。



 恐怖に囚われていたのは小花(ムアカイ)ではない、自分自身だったのだ。自分のトラウマで、彼女の首にさらなる枷を嵌めていたのは。



「……すまない」



 翰文(ハンウェン)の声は風に消えた。



 彼は拳を握りしめた。



 次だ。次こそは、彼女を信じる。



 あの「声」を、彼女に返してやるんだ。



 たとえ、もう一度、バラバラに砕け散るとしても。



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