第67話 : 腐化ゴビの初夜と、沈黙の標本
『鏡に向かって話しかけても、鏡の中の像が答えない。その時になってようやく、あんたは理解するのさ。——孤独とは、周りに誰もいないことじゃない。隣にいる誰かが「モノ」に変わっちまったことなんだってね』
——李翰文の廃土日記、腐化ゴビでの最初の夜に記す
修道院の重厚な防爆ゲートが背後でドォォォンと閉じ、二つの世界を断絶する鈍い音が響いた。彼らは悟っていた、もう引き返す道はないのだと。
「……行くぞ」
翰文は襟元を正し、小花へと歩み寄った。
以前なら、こののろま鳥はまず自分から近づいてきて、その大きな顔を彼の胸に擦り寄せ、甘えるようにグルグルと鳴いたものだ。翰文がその首を撫でてやるまで、不承不承といった様子で腰を下ろそうとはしなかった。
だが今は違う。かつての甘えるようなやり取りは、跡形もなく消え去っていた。
翰文が三メートルの距離まで近づいた瞬間、小花のセンサーは「巣を共にする者」の気配を冷徹に捉えた。
金繕いの関節が精密に作動するプシュゥ……という微かな排気音と共に、彼女の巨躯は瞬時に沈み込んだ。脚は折り畳まれ、背は低められる。その動作はあまりに正確で、固定されたプログラムに従って動く昇降機のようだった。
彼女は砂の上に静かに伏し、背の磁器の羽がスライドして神経繭への入り口を露わにする。
翰文の手は宙で止まった。鼻先を撫でようとしたその仕草が、ひどく無意味で余計なものに思えたからだ。彼は自嘲気味に笑うと、鞍座へと跨った。そこにはかつての、生き生きとして、乱雑で、しかし無性に温かかったあの感触はもうなかった。
神経触手を握った手に伝わるのは、「お腹が空いた」「蟲が怖い」「抱っこして」といったあの混迷した情緒ではない。返ってきたのは、蒸留水のように冷え切り、透き通った思念。
(……核心——安定……)
直後、半透明の生体膜が無音で展開し、外界の狂暴な風砂を遮断した。世界は深海の底にいるかのように静まり返る。
一行は西北へと進路を取った。小花の今の脚力なら、飛砂の舞う茫漠たる**「腐化戈壁」**までは一日もあれば辿り着くだろう。あそこの風は強酸性の塵を含み、肌に当たれば細かなヤスリで削られるような痛みを伴う。
小花が足を踏み出した。その瞬間、彼女は針夫人の流儀を体現した恐るべき機動性を発揮した。白釉の外殻を纏った駭鳥が、優雅でありながら毛跳ぼう立つような速さで空間を掠めていく。
かつてのように転んだり、柔らかい砂に足を取られたりすることはない。全速力で駆ける彼女の金継ぎ強化された後脚は、杭打ち機のごとく力強い。一歩一歩が岩石の受力点を正確に捉え、荒野に風鈴のような涼やかな音色と共に、白金色の残像を刻んでいった。
複雑に風食された岩場であっても、彼女は平地を往くがごとく駆け抜け、尾を使って完璧な動態バランスを修正する。それは地形を無視する白磁の旋風そのものだった。
鞍座に座る翰文は、身体に揺れをほとんど感じなかった。
あまりに安定しすぎている。その安定が、かえって彼を不安にさせた。
後方へと飛び去る荒涼とした景色を眺めながら、脳内で絶えず響いていた「怖い、怖い」というあの声が消えたことを思い知る。目の前の小花はこれ以上なく「完璧」で、礼儀正しい。だが同時に、かつての温度を完全に失ってしまった。その事実に、翰文は言いようのない寂寥感を覚えていた。
夜の帳が下りた。
病的な二つの月が濁った空へとのぼり、月光はゴビを惨白な死の地へと染め上げた。気温は氷点下へと急降下する。一行は風を避けられる岩壁の下で野営することにした。
「……火を起こそう」
翰文が嗄れた声で言った。
無意識に小花を見たが、すぐに思い直した。――彼女は火を吹けない。昔からそうだった。たとえ三つの旧律核心を積んだ今でも、彼女は火を吐かぬ龍のままだ。
それに、もし吹けたとしても、翰文には試させる勇気などなかった。未知の出力下で彼女が吐き出すのは火ではなく、熔炉の光だろう。それは点火ではなく、「処刑」になってしまう。
無小姐が黙ってバックパックから黒い、石炭のような紋様の石――「凝律石」を取り出した。廃土で一般的な燃料だ。軽く叩くか、僅かな律を注いで摩擦を与えれば、長時間熱を放ち続ける。
シュッ、という微かな音と共に無小姐が指先を擦り合わせると、凝律石は暗紅色の光を宿し、安定した熱を放ち始めた。彼女が砕石で囲った穴の中に石を置くと、二人はその微かな光源を囲み、身を縮めて暖を取った。
小花は近寄ってこなかった。
彼女は独り、野営地の外縁の暗闇に立ち、一行に背を向けていた。捨て置かれた見張り塔のように。寒風が白い羽を叩き、カサカサという乾燥した摩擦音を立てているが、彼女は微動だにしない。
翰文はその背中を見つめたが、胸に溜まった想いの行き場が見つからなかった。湿った綿のように、重苦しく心臓を塞いでいる。彼は意念を送ってみようとした。宥めの言葉や、あるいは単に「こっちへ来て休め」という誘いを。
だが、あちらからは何の情緒的な応答も返ってこなかった。
彼女はただ微かに両脚の位置を調整し、身体の側面を風上へと向け、あらゆる悪意に対する防衛態勢を整えているだけだった。
さながら、角度を校正する精緻なレーダーのように。
「なあ。大きな女の子」
翰文が不意に口を開いた。声は小さく、大っぴらに話してはならない禁忌を語るかのように、この死寂の夜を刺激せぬよう配慮していた。
小花は背を向けたまま、反応しない。
「知ってるか? 俺の故郷はさ……空気が排気ガスでいっぱいで、いつも灰色に霞んでるような場所なんだけど。……俺、昔、すごく高い靴を持ってたんだ」
翰文は視線を落とし、今履いているボロ布のような靴を見た。無小姐が正体不明の獣の皮で適当に縫い合わせた代物。中にあるのは血肉ではなく、冷たく高価な晶骨の義足だ。
「その靴は……ゴアテックスっていうのでね。防水で、蒸れなくて、ソールはビブラムの黄金のやつだった。考古学の実習のために買ったんだけど、一ヶ月カップ麺で過ごす羽目になったよ。分割払いも終わってなかったのに……あの黒い塔の中で腐っちまった」
彼は二度、笑い声を漏らした。その笑いは死寂の荒野でひどく不釣り合いに響き、神経質な震えを含んでいた。
「あの時、俺は来月の請求書のことなんて考えてたんだ。……馬鹿だよな。内臓すら明日には無事か分からないようなこんなクソッタレな場所で、俺はいまだにあの靴を惜しんでるんだから」
小花の面甲の下の幽藍の光は、依然として前方の虚無の闇を射貫いたまま、微かな揺らぎさえ見せなかった。翰文に応えるのは、病的な双月が投じる冷たい光と、磁器の装甲を削る風砂の単調な響きだけ。
だが、無小姐だけは顔を上げ、真剣な眼差しで翰文を見つめていた。
「それとな……俺、昔犬を飼ってたんだ」
翰文は語り続けた。一度止めれば、この巨大な沈黙に押し潰されてしまいそうだったからだ。
「名前はラッキー。ありふれた名前だろ? そいつも馬鹿でさ。ある時、ボールを投げて取ってこさせる訓練をしようとしたんだけど、そいつ、一歩も動かないんだ。『自分で取ってこいよ』って顔で俺を見てるだけ」
「その時は、なんて不出来な犬だって思ったよ。ボール一つ取ってこれないなら、飼ってる意味がない、なんてな」
翰文の声が、嗚咽に詰まり始めた。彼は地面の砂をひと掴みし、力一杯握りしめた。
「その後、そいつは老衰で死んだ。俺が故郷の裏山の、枇杷の木の下に埋めてやったよ。あの晩は一晩中泣いた」
「次の日も今の俺みたいに、一日中ぼーっとして、何も手につかなかった。あの時、俺は思ったんだ。……もしそいつが土の中から這い出してきてくれるなら、ボールなんて取ってこなくていい、俺の博士論文をズタズタに噛みちぎったとしても、よくやったって褒めてやるのにな、って」
彼は顔を上げ、小花の完璧な背中を、赤く腫らした目で見つめた。
「不完璧なまま生きてる方が、完璧に死んでるよりずっといい。……そうだろう?」
翰文は手を伸ばし、虚空を隔てて、小花の頸部にある月光に輝く黄金の紋様に触れようとした。だが、指先が触れる直前で止まった。
あまりに遠い。そして、あまりに冷たかった。
「お前は、とても醜かったんだ」
翰文の声には、自嘲の苦味が混じっていた。心の底に溜まった膿をすべて絞り出すかのような。
「あの『暴食者』の脳室で……お前を初めて見た時、お前はただ水に浸かった大きな脳みそだった。青くて、シワシワで、痙攣してた」
「でも、俺はお前を連れ出した。薇はお前を『値打ちのあるパーツ』だって言った。だけど俺は……俺はただ、お前をあそこに置いていったら、お前が泣くんじゃないかって思ったんだよ」
「……結果はどうだ?」
翰文は顔を覆った。指の間から漏れる声は、自己嫌悪に満ちていた。
「結局、俺はお前をこんな風に変えちまった」
「針夫人の言う通りだ。俺は最低な奴だよ。自分の心を安らかにするために、お前をこんな血も涙もない姿に変えちまったんだ」
「これが何だって言うんだ。……こんなの、ただの別の形をした『標本作り』じゃないか」
傍らで黙って聞いていた無小姐の目から、涙が静かに滑り落ちた。彼女は翰文を慰めようとしたが、いかなる言葉も今の彼には空虚に響くことを悟っていた。
その悔恨が絶望に飲み込まれようとした、まさにその時。
極めて微かな、シィィ……という音が静寂を破った。
風の音に紛れ、聞き逃しそうなほどの微音。だが、小花は「聴いて」いた。
あるいは、察知していた。――風が、乱されたことを。
翰文の指令も、神経連結の確認も必要なかった。警戒状態にあった小花は、その刹那、静から動へと転じた。
シュッ!という空気を切り裂く鋭い音と共に、白金色の残像が暗闇を瞬時に引き裂いた。
「気をつけて!」無小姐が絶叫し、翰文も即座に腰の短刀を抜いた。
だが、二人が次の行動に移るより早く、一方的な「屠殺」は完了していた。
野営地の外縁の影から、狼犬ほどの大きさの晶化トカゲ三匹が、岩に擬態した皮膚を地面に擦りながら滑り寄っていた。
だが「龍視」を持つ小花の前では、その程度の偽裝はサーチライトの下で裸を晒すも同然。
小花の影が、先頭のトカゲの頭上に突如として現れた。
咆哮も、余計な威嚇もなかった。彼女はただ、金繕いによって修復され、暴怒の核心の力を宿した左脚を上げ、トカゲの目の前の砂地へと叩きつけた。
――震律・地難。
地面からズゥゥゥンという地響きのような鈍音が轟き、周囲一帯が瞬時に液状化したかのように波打った。肉眼で見える衝撃の輪が拡散する。
その晶化トカゲは悲鳴を上げることさえ叶わなかった。外側の岩石の殻は無傷だったが、内部の臓器、骨骼、大脳が、一瞬にして高周波の震動波によって「粥」へと磨り潰されたのだ。
プシュッという鈍い音と共に、トカゲは力なく地面に崩れ落ち、喉から黒泥のようなものを吐き出した。
残りの二匹は驚愕し、背を向けて逃げようとしたが。
空気を裂くシュゥゥ――パキィィン!という鋭い音が響いた。
小花の面甲が僅かに動き、巨大な磁器の嘴が白いギロチンとなって、空中に優雅な二筋の弧を描いた。
余計な型などない、純粋な「切断」。
二つの醜悪なトカゲの頭部が地面をごろりと転がった。切り口は鏡のように滑らかで、血が噴き出す暇さえ与えられなかった。
わずか三秒。
三匹の頂点捕食者は全滅した。彼女の身体は一点の曇りもなく、あの華麗な白磁の羽には血の一滴すら付着していなかった。
以前の小花なら、戦いを終えた後は必ず「悪いことをした」とでも言いたげな自責を見せるか、あるいは首を縮めて翰文に「大丈夫だよ」と宥めてもらうのを待っていたはずだ。
だが今、彼女はただ動作を収め、ゆっくりと背筋を伸ばして立った。
面甲の青光が流動し、脅威の排除を確認する。それから、彼女は向き直り、面甲の青光で翰文と無小姐をスキャンするように一瞥したが、視線が留まることはなかった。――保護すべき二つの「物件」をスキャンしたかのような、そんな無機質さ。
そして、トカゲの死骸を踏みつけながら、一歩ずつ野営地の外縁へと戻っていった。
彼女は再び持ち場に就くと、銃に弾丸を装填し直したかのように、静かに佇んだ。
翰文は短刀を握ったまま宙で凍りつき、額から冷や汗が滑り落ちた。地面の死骸を見、そしてあの完璧な背中を見た。
あまりに強く。あまりに、見知らぬ存在。
情緒を欠いた、この極限の効率による殺戮に、彼は底知れぬ恐怖を覚えていた。
傍らの無小姐が深く息を吸い、ゆっくりと歩み寄って、斬殺されたトカゲの死体のそばに屈んだ。風律を用いてトカゲの脊椎を割り開く。
そこには、幽かな蛍光を放つ一本の「晶化脊髄」があった。金になる物であり、同時に高価値な錬金素材だ。
無小姐は脊髄を抜き取り、翰文へと渡してバックパックに放り込ませた。残りの部位も使い道があるため、彼女は慎重に処理を施した後、小花の腿部にある隠しストレージへと収めていった。
翰文は黙ってその一連の作業を見届けていたが、いまだに眠気は訪れなかった。故郷での夜更かしの癖は、七界に来ても抜けないらしい。
彼は凝律石が放つ微かな赤光のそばに戻り、バックパックからあの重厚な**『|駭鳥機關操作與禁忌手冊《ハイトリ・メカニズム:操作と禁忌のマニュアル》』**を取り出した。
その本はレンガのように重く、各頁には複雑な七界ルーン、詳細な構造図、そして総毛立つような警告がびっしりと書き込まれていた。
翰文には、このお札のような文字は読めない。だが、突如として偏頭痛のような激しい痙攣が太陽穴を突き抜けた。同時に、プラスチックが高温で炭化したような鼻を突く悪臭。
(……小癪な細工を……。邪法よな……)
「クソ……誰もあんたに聞いてないんだよ」翰文は悶哼を漏らし、白目を剥いた。
「……無小姐」翰文は太陽穴を揉みながら、低く言った。「手伝ってくれ」
無小姐が火のそばへ寄り添い、古のルーンを識別し始めた。脳内の「残り火」の煙草臭い意念も同時に介入する。苛立ち混じりではあったが、知識の剖析においては雄弁だった。
(……ここには『記憶リセットの不可避なプロセス』と記されておる……)
(……この段は『情緒回路の徹底した遮断について』、か……)
翰文は彼らの翻訳を聞きながら、頁に描かれた冷え切った構造図を指でなぞった。
本に記された冷酷な「操作禁忌」。――感情を投入するべからず、消耗品と見なせ、定期的に記憶ノイズを消去せよ。その一文字一文字が彼に突きつけていた。――これは機械であり、生命ではないのだと。
彼は顔を上げ、月光の下で金光を放つ、遠くの見知らぬ強大な背中を見つめた。
あの大長老が慈しんだ小花。彼が壊し、他人がこのように直してしまった小花。そして無小姐と同じ痛みを持つ、あの小花。
「……クソ喰らえだ、禁忌なんて」
翰文は唐突に本を閉じた。バサリと重い音が響く。
彼の瞳が変わっていた。自虐的な退廃は消え去り、未解明の謎に直面した時の考古学者特有の、執拗で狂気じみた光が宿っていた。
「こう見えても考古学の博士課程だ。器物の構造を解体し、復元することに関しては、俺の十八番なんだよ。以前だって、脳みその中のこいつを頼りに、説明書もない旧律のフィルターを直したんだ……」
翰文は拳を握り、指の関節を白くさせた。
「俺自身の手で、小花を直せない道理なんてないはずだ」
「針夫人は完璧な兵器を求めた。……それは、あの女の定義だ」
「俺があの子を連れ出したんだ。なら、最後まで面倒を見る責任が俺にはある」
「本に何が書いてあろうが知ったことか。……俺は、あの泣いて、笑って、蟲を怖がってた頃の大きな女の子を、必ず取り戻してやる」
風はいまだ吹き荒れ、火光は弱々しい。
だが、この冷え切ったゴビの初夜、翰文は小花の凍てついた金継ぎの背中の中に、初めて、この廃土を進むべき一筋の光を見出したのだった。




