第64話 : 箸と熱湯、そして黄金の裹屍布
『文明の証とは高層ビルなどではない。飢え死にする寸前であっても、一膳の箸を探し求めるその矜持のことだ。「体面」への無益なこだわりこそが、我らと野獣を分かつ境界線なのだから』
——李翰文の私的ノート、はじめて温かい飯を食った夜に記す
舊風塔群から戻った際の記憶は、すでにひどく混濁していた。
小花の身軀に寄りかかり、うわ言のように「まともな飯が食いたい」と溢した瞬間、彼を支えていた意志の糸がぷつりと断裂したことだけを覚えている。
その後の出来事は、高熱に浮かされた際に見る悪夢のようだった。
遠く地平線に舞い上がる塵煙。四本の巨大な節足で地面を叩き、黒煙を吐き散らす重型回収車「清道夫」が轟音と共に迫る。防護服に身を包んだ無口な機僕たちが飛び降り、屠殺場の肉塊でも運ぶかのように、動かなくなった小花をウインチで荷台へと引きずり上げ、半死半生の翰文と無小姐を消毒液の臭い充満する後部車室へと放り投げた。
揺れ続ける暗闇の中、語らう者はなく、ただ義足が発する断続的な電子ノイズと、無小姐の切迫した呼吸音だけが彼に寄り添っていた。針夫人は自ら姿を現さず、ただの回収隊を寄越しただけだ。彼女にとって核心さえ戻れば、運び屋の生死などどうでもいい小事に過ぎないのだ。
翰文が再び明晰な意識を取り戻した時、彼はすでに修道院のメンテナンス台の上にいた。そこには相変わらず、重機油と高級紅茶が混ざり合った、永遠に変わることのないあの香気が漂っている。
ただ今日ばかりは、その優雅な香りに不快な焦げ跡と塵の臭いが混じっていた。
「……不潔だね」
針夫人はベルベットの手袋越しに、バックパックから取り出したばかりの「欺詐之核」を真鍮の長ピンセットで忌々しげに摘み上げた。銀灰色の金属球の表面はあばた状に凹凸し、粗い石英砂や碎石がびっしりと食い込んでいる。泥の中から掘り出された腐った馬鈴薯のようだった。
「あたしは核心を持ってこいとは言ったが、泥を塗して油で揚げてこいとは言わなかったよ」
彼女は核心を、透明な溶剤が満たされた水晶の振動槽へと放り込んだ。
キィィィィン!という高周波の唸り。槽内の溶剤は激しく沸騰し、核心表面の砂粒が弾き飛ばされ、剥がれ落ちていく。一点の曇りもなかった液体は、瞬時に濁りきった泥水へと変わった。
「だが、止まっただろ?」
翰文は台の上で、蒼白な顔に脂汗を浮かべていた。手に持った熱いハーブティーのカップが、小刻みに震えている。
彼の脚はまだそこにあった。――正確には、まだ「生えて」いた。だが、それを脚と呼ぶのはもはや不適切だった。
音波によって損なわれた金繕いの回路を修復するため、針夫人は「精霊晶骨」の外層にある生体皮膚をすべて剥ぎ取っていたのだ。今の翰文の脛は、さながら活体解剖の展示見本のようであり、半透明の晶体筋肉と、自らの生身の肉へと樹根のごとく深く食い込んだ金色の神経束が露わになっていた。
十数本の太い黒い導管が筋肉の隙間に直接突き刺さり、重症患者の透析のように何かを循環させている。傍らの雲母製インジケーターでは、針がレッドゾーンで狂ったように跳ね、心拍計のような規則正しいクリック音を刻んでいた。
「小賢しい知恵を」
針夫人は冷たく鼻を鳴らし、反対側の解剖台へと向き直った。
そこには、深い休眠状態にある小花が横たわっていた。
無残にねじ曲がった左脚は解体され、位置のズレた晶体脈絡と断裂したフレームが露出している。首の項圈は外され、喉元の白磁装甲も開かれていた。そこには植え込みを待つ三つの空虚なソケットが口を開けている。
「……けれど」針夫人の動きがふと止まり、指先の真鍮製指貫に幽青色の霊光が灯った。「あんたのような律法感知を持たぬ**無律者**が、不純物を利用して流体共鳴を破壊するという発想に至ったのは、まあ、愚鈍ではないと言っておこうかね。蛮力で壁を叩くだけの風民共よりは、いくらかマシだ」
それが、この高慢な構造師が与えうる最大級の評価だった。
彼女が手を振ると、数体の瓷偶が小花を修道院の奥へと押し運んでいった。引きずられる彼女の尾羽が、床に細長い擦過痕を刻む。まるで龍ではなく、まだ熱を帯びた「機材」を片付けているかのような光景だった。
「我慢しな。まずはあんたの脚の神経回路を処置する。その後で……この馬鹿龍の喉を装填してやるからね」
針夫人は振り返らずに告げ、指先で空中に幾つかのルーンを描いた。
刹那、翰文の脛の剥き出しになった晶体筋肉が、耳を刺すような共鳴音を上げた。シュウゥゥ!という鋭い排気音と共に、肉眼で見えるほどの蒼いエネルギーが導管から注入され、義足と生身の神経接合部を直撃した。
それは魂を直接引き摺り出すような酷刑だった。真っ赤に焼けた鉄鉤で、ただでさえ過敏な神経末端を力任せにかき回されるような衝撃。
「が、はぁぁッ!!」
翰文は猛然とのけぞり、喉から掠れた呻きを漏らした。台の縁を指が食い込むほどきつく握りしめ、全身が感電したように激しく痙攣した。
この義足は、彼にとって脱ぐことの叶わぬ「束縛」そのものだった。メンテナンスの一度一光が、麻酔なき活体手術と同義なのだ。
一鐘の後。
導管が抜かれ、皮膚が再閉鎖された。脚の深部には神経を焼かれたような幻痛が残っていたが、翰文はようやく動けるようになった。同時に、空気の中に食べ物の香りが漂っていることに気づいた。
入り口の隅にある休憩エリア。そこには食卓などなく、廃棄された弾薬箱が積み重ねられているだけだ。
無小姐がその箱に腰掛けていた。左耳の包帯は新しく取り替えられている。顔色は依然として蒼白で、瞳には幻覚の残滓とも言える恍惚とした色が残っていたが、その手の動きは確かだった。
彼女の目の前にはポータブルのアルコールコンロが置かれ、軍用アルミ鍋の中で何かがグツグツと煮えていた。針夫人から渡された、製造時期も中身も定かではない「肉スープの缶詰」に、脱水野菜の残りと、彼女がどこからか見つけてきた干し肉を混ぜたものだ。
地獄から這い上がってきたばかりの二人にとって、湯気と共に安っぽい香料の臭いを放つこの鍋は、まさに神の供物だった。
「……できたわ」
無小姐が湯気を立てるスープを器に盛り、翰文へ差し出した。翰文は重く無感覚なままの両脚を引きずるようにして歩み寄り、器を受け取った。熱気が顔を包み、その温かさに視界が少し潤んだ。
彼は器の中で浮き沈みする肉片のような具材を見つめ、深く息を吸った。
すると、無小姐が包帯の巻かれた手で、ポケットから二本の細長い金属の棒を取り出した。翰文がかつて話していた「箸」という道具を、道中で拾った端材を使い、長い時間をかけて少しずつ磨き上げたものだ。
「……箸、だ」
翰文は絶句し、信じられないというように低く呟いた。その声には、ある種神聖な儀式に臨むような震えがあった。
今の状況なら、スプーンを使うか、あるいは手掴みで食らう方が遥かに合理的で早い。だが、彼は言ったのだ。「箸を使える飯が食いたい」と。
この瞬間、喉の奥が熱い塊で塞がれた。彼は腹が減って食いたいのではない。自分が人間であることを忘れてしまうのが、何よりも恐ろしかったのだ。
スプーンの方が早い。手の方が確実だ。だが、彼はあえてこの「面倒な作法」を選んだ。この手間のかかる行為を続けていられる限り、自分はまだ廃土に磨り潰された「野獣」でもなければ、針夫人に分解された「パーツ」でもないと言い聞かせられるからだ。
彼は震える手で箸を操り、肉の一片を口へと運んだ。
熱い。塩辛い。そして金属の箸特有の鉄錆の味と、保存食特有の防腐剤の臭い。
だがこの瞬間、それは世界で最も美味な逸品だった。
「……生き返るな」
肉を咀嚼しながら、翰文は胃の中の凍てつくような虚空がようやく満たされていくのを感じていた。
隣を見ると、無小姐は静かにスープを啜り、時折顔を上げて彼を見ていた。その瞳には、死線を越えた者だけが共有できる平穏が宿っていた。
脳内の深淵から、蔑むような波動が届いた。
「残り火」だ。
そいつは沈黙を保ちながらも、翰文の意識の中に「カビの生えたベルベット」と「年代物の葉巻」が混ざり合った気配を投影してきた。
それは「おセンチ」な人間への声なき嘲弄。熱量を摂取するだけの行為に、これほど煩雑で無意味な儀式を執り行う人間の滑稽さを笑っていた。
(……まあよい。……今日、精密機器に砂をぶち込んだあの度胸に免じて……好きにするがよい。……)
一時の安寧に浸っていたその時、修道院の反対側から、パイプオルガンの共鳴のような重苦しいブゥゥン……という唸り声が響いた。
翰文と無小姐は同時に器を置き、顔を向けた。
「起きな、飯食い共」針夫人の声が、拡音用の真鍮管を通じて届いた。「あんたたちが命懸けで持ち帰った代物、拝ませてあげるよ」
翰文は脚の痺れを堪えて立ち上がると、無小姐と共に声の主の元へと向かった。
「鏽骨修道院」。二体のタイタン級廃棄機甲の残腕に吊るされた、真鍮と琉璃の巨大な繭。内部に満ちる冷涼で純粋な空気と、外界の惨白な陽光を禍々しい蛍光グリーンへと濾過する変異蔦。そこには防腐剤と高級煙草の香気が満ちていたが、それでもなお、窯から出たばかりの磁器が放つような、熱の引ききらない乾燥した「火気」を隠しきれてはいなかった。
冷徹な大理石のホールを抜け、タイタンの残骸に寄生したこの修道院の、臟器とも呼ぶべき核心部へ。
そこは、最初に目にしたあの冷涼なエデンの園ではなかった。大理石の回廊と花叢を模した冷却管を抜けた先に、人形たちが導いたのは修道院の真の「子宮」。そこにはシャンデリアの優雅さなどなく、代わりに黒曜石で刻まれた巨大な「紡績機」が、圧倒的な重量感で鎮座していた。
針夫人はその黒い**「祭壇織機」**の前に立っていた。彼女の目の前には、洗浄され輝きを取り戻した三つの核心が浮遊していた。
琥珀色の「悲しみ」。深紅色の「暴怒」。銀灰色の「欺瞞」。
「あたしがこの旧律時代の高位遺物を、そのままあの幼龍の喉に詰め込むとでも思っていたのかい?」
針夫人は三つの光を見つめ、口角に冷笑を浮かべた。
「おめでたい子供だね。そんなことをすれば、あの子は一瞬で肉片に弾け飛ぶよ。分かっておきな、今は昔とは違うんだ。あんたたちが持ってきたエネルギーは強大すぎる。肉体の位階が低いあの子には、到底扱いきれる代物じゃないのさ」
彼女が左指を空中でなぞると、キィィィン!という鋭い高周波の駆動音が響いた。祭壇織機の表面には律法の流れを導く深邃な凹溝が走り、真鍮の糸を繋いだ三本の銀針が、それぞれの核心へと猛然と突き刺さった。
突き刺さる瞬間に凄まじい震動が走り、核心の中に蓄積されていた、息を呑むほど膨大な律法エネルギーが急速に吸い出され始めた。それは導管を伝い、修道院地下の貯蔵庫へと送り込まれていく。
「これはあたしの報酬だよ」針夫人は当然のように言い放った。「それと、あんたたちが積み上げた巨額の医療費、メンテナンス代、清掃費、諸々の雑費、それにこれから使う『金繕い』の材料費として差し引かせてもらうよ」
数分後、あほど眩かった三つの核心は、輝きを失い、大きさも元の十分の一ほどに萎んでしまった。計り知れないエネルギーを剥ぎ取られ、三つの弱々しい、乾いた「残響」へと成り果てたのだ。
「これこそが、あの雛鳥のおもちゃに相応しい規格だ」
針夫人は残った「カス」を満足げに見つめ、手を振った。
「準備はいいかい、第742号」
針夫人が唐突に翰文へと向き直った。その瞳には、不気味な色が宿っていた。
「パシリは終わりだ。だがこの手術には……少しばかりの『共鳴』が必要でね」




