第63話 : 無声の嘘と、囁きの迷宮
『風が語るのを止めたからといって、そいつが止まったわけじゃない。ただ嘘を覚えただけさ。絶対的な静寂の中で、あんたは自分が一番聴きたい声を聴くことになる。——たいていの場合、そいつは罠が閉じる前の「餌」なんだよ』
——『荒原生存手冊』:聴覚幻覚に関する章、103ページより
09号風塔の屍骸が背後で黒煙を上げ、天を突く墓標のように佇んでいた。
だが李翰文には、その壮観な廃墟を振り返る余裕などなかった。一行は挽き肉機から這い出したばかりの端肉のごとき有様で、満身創痍の身体を引きずり、砂丘を難儀に踏みしめていた。墜落の衝撃で鞍座が完全に大破したため、騎乗は叶わない。徒歩で行くしかないのだ。
柔らかい砂に足が沈むたび、全身の酸痛に火がつき、奥歯を噛み締めなければ意識が飛びそうな劇痛が襲う。それでも、彼らは第三の共鳴核心へと向かわねばならなかった。
小花が先頭を、足を引きずりながら進んでいた。
かつての誇り高き白瓷の羽は無残に砕け散り、左脚の金繕いの関節は歯車の狂ったゼンマイのように時折ビクンと跳ね、その歩調を強引に遅らせていた。針夫人の予備品である「微律金織液」でかろうじて傷口を塞いではいるが、一歩踏み出すたびに微かに震えるその肢体は、幼児のように砕け、怯えきった魂の囁きを漏らしているようだった。
(……痛い……脚が壊れちゃった……)
(……ハンウェン……見えないよ……怪物が隠れてる……)
それは強靭な忍耐ではなく、恐怖に押し潰された末の救助要請だった。彼女は損壊した面甲を絶えず左右に振り、次の瞬間、静かな砂の中から何かが飛び出して自分を噛むのではないかと怯えきっていた。
このエリアは、喉を塞がれたような死寂に包まれていた。
風塔群の深部にいるはずであり、周囲には狂風の咆哮が満ちているべき場所だ。しかしここでは、風の音さえも何らかの見えない力に呑み込まれていた。
砂を踏む音さえしない。小花の足跡は一本の線となって引きずられ、翰文自身の荒い喘ぎ声でさえ、分厚い布団を被せられたかのように重苦しく、遠く響いた。
「……翰文」
背後の無小姐が、不意に彼の服の裾を掴んだ。振り返ると、彼女の顔は蒼白で、柔らかな長い黒髪が乱れて頬に張り付いていた。負傷した左耳は包帯で覆われていたが、彼女は右手を完治したはずの右耳に強く押し当て、瞳に恐怖を湛えていた。
「……どうした? 傷が痛むのか?」
翰文が口を開くが、声は蚊の鳴くような微かな音しか出ない。
「違う……痛みじゃないわ」無小姐は首を振り、震える声で言った。「……うるさすぎるの」
「うるさい?」翰文は絶句した。周囲には自分たちの存在感以外、何の音もないというのに。
「誰かが喋ってる……大勢の人。……お母様が私を呼んでいるわ。それに、針夫人も……。あそこにいる」
翰文の心臓が冷えた。――幻聴だ。
(……羽音が聞こえる……蟲さんが来た……)
小花の意識の中にも、突如として鋭い恐慌が爆発した。彼女もまた「聴いて」いたのだ。
(……たくさん口がある……噛まないで! ……いい子にするから……電気を流さないで……)
彼女はその場で足踏みを始め、巨躯を激しく震わせた。彼女の感官において、周囲は砂丘などではなく、視界を埋め尽くす食鉄蟻の群れだった。恐怖から本能的に吼え、逃げ出そうとするが、首の冷たい真鍮の項圈が真っ赤に焼けた鉄の輪のように彼女の動きを封じ込めていた。進むことも退くこともできぬ酷刑。彼女は声なき悲鳴を上げていた。
「聴くな!」
翰文は無小姐の肩を掴んだが、その身体は驚くほど熱を持っていた。「それは偽物だ、無小姐。俺を見ろ……全部、偽物なんだ」
「でも……あの方が、あそこが出口だって。……ついていけば、おうちに帰れるって」
彼女の瞳は焦点を失い、翰文の手を振り払って、ふらふらと前方の砂丘へと歩き出した。
「戻れ!!」
追いかけようとした翰文だったが、義足から走った強烈な神経の刺痛に膝を突いた。
忌々しいことに、この塔は幻覚を見せるだけでなく、神経回路の同期まで阻害してくるらしい。
その時、脳内の深淵から、冷え切った、古い塵と硫黃の臭いが漂ってきた。
今度は嘲弄ではなく、絶対的な冷静と嫌悪がそこにあった。
「残り火」が震え、狂おしいまでの焦熱を放つ。発光する線条が縦横に交差し、藤蔓のように翰文の意識へと根を張り、編み上げられていった。それは翰文の意識の海に、焼けた巻物のような『餘溫刻印』を展開した。
空中を舞う破片やフケのようなものが、独特の韻律を持って上下に浮遊し、視界を妨げる。
空間は透明な磨りガラスの鏡となり、過去の音と現在の言葉を砕けた残響へと屈折させ、その摩擦が熱となって、拭い去れぬ幻聴を生み出していた。
それは極地の冷気と炉の火が空気中で交差して織りなす、見えない薄衣のようだった。感官が、北極の凍てつきから盛夏の焦燥へと一気に跳躍する。
その白黒の世界において、音はすべて砕け散った残像に過ぎない。――「温度」だけが嘘をつかなかった。
無小姐が向かう先に出口などない。あるのは、底の見えない流砂の渦。――その中心には、巨大な冷血軟体生物が息を潜めていた。
翰文の脳裏に、一つの概念が閃いた。獲物を待って大口を開けるハエトリグサのイメージ。
「残り火」の意念が、氷水を浴びせるように翰文の脳を叩く。
(……愚か者め。あれは『舌』だ。あやつは胃袋へと歩んでおるぞ。……)
(……耳を使うな。ここでは耳が裏切り者だ。……)
(……我が『眼』を使え。……)
翰文は自分の頬を激しく叩き、痛みで理性を呼び戻した。瞳を閉じ、すべての聴覚と視覚を遮断し、脳内に形成されたあの「刻印」に全幅の信頼を託した。
その世界に嘘はなく、あるのは熱量のみ。無小姐の姿は一団の弱々しい青い火。それが今、死を意味する漆黒の深淵へとふらふらと歩み寄っている。
「戻れッ!!」
踏み出した翰文の脚――精霊晶骨が、キィィィンと耳障りな共鳴を上げた。
塔内の干渉信号がそこを突破口とし、過敏な義足に誤った指令を読み込ませたのだ。神経回路が瞬時にロックされ、高価な義肢は鉄の棒のように強張って巨大な足枷と化した。翰文は無様に砂地へ叩きつけられ、鈍い音を立てた。
「が……クソッ!」
遠ざかる無小姐の背中。距離がありすぎて這って届くはずもない。唯一の希望は、隣で首を縮めて硬直しているこの白い巨獣だけだ。
「小花! あいつを噛んで止めろ!!」
翰文は絶叫したが、声は死寂に呑まれた。彼女は反応しない。ただ幻影を見つめて震えている。
翰文は脚の劇痛を堪え、手足を使って砂を這い、小花の傍らへと肉薄した。
鞍座には届かない。だが、砕けた装甲の隙間から垂れ下がる、数本の断裂した金色の神経触手が見えた。それは手負いの生物の血管のように剥き出しになり、先端で微かな光を放っていた。
迷いはなかった。
翰文は震える手を伸ばし、その剥き出しの神経線を鷲掴みにした。刹那、緩衝のない生の神経脈動が、迅雷のごとく二人の意識を貫通した。
翰文は小花の視界を強引に「視た」。――それは砂丘ではない。彼女を喰らい尽くさんと口を開け、埋め尽くす紅い食鉄蟻の群れ。
(……助けて……蟲がいっぱい……)
(……噛まないで……痛いよ……)
彼女の恐怖はあまりに真実味を帯びており、翰文の皮膚の上にも、幻覚の蟲たちが這い回る感覚が走った。
「よく見ろ! それは偽物だ!!」
脳内で吼えるが、言葉は恐怖に届かない。
彼は賭けに出た。脳内の「残り火」が提示したあの『餘溫刻印』――嘘も蟲もなく、ただ冷たい温度だけが存在する白黒の世界を、握りしめた神経触手を介して、一点の漏れもなく小花の脳へと「流し込んだ」のだ。
それは強制的、かつ暴力的な感官の上書き(オーバーライド)。
「俺の眼で見ろ! 小花! ここに蟲なんていない! いるのは無小姐だけだ!!」
刹那。
小花の脳裏で荒れ狂っていた紅い蟲の群れに亀裂が走り、焼けた古い写真のように剥がれ、粉砕された。
代わって現れたのは、翰文が見ている真実の世界。――冷たく、清潔で、静かな白黒の虚空。吐き気を催す甲殻も、蠢く無数の脚もそこにはない。
あるのは、前方の深淵へと沈みゆく、今にも消えそうな一団の青い火。
(……蟲さん……いない……?)
恐怖の霧が「真実」によって切り裂かれた。
代わって沸き上がったのは、同伴者の死を目前にした本能的な焦燥。
(……あれは……ミス・ヌル……)
(……消えちゃう……!)
項圈の威圧も、翰文の命令も必要なかった。
恐怖が消え去れば、「群れ」を守るという本能が強大な肉体を再び掌握する。彼女は怯えていたが、仲間を失うことはそれ以上に耐えられなかった。
小花は泣き声の混じった不快な嘶きを上げると、猛然と長い首を伸ばした。
幻覚の再発を恐れて面甲の青光は消えたままであったが、神経連結を伝う翰文の熱源座標を頼りに、その巨大な鳥の嘴が稲妻のごとく閃いた。穴まで数歩という距離で、無小姐の襟元を正確に捉え、彼女を流砂の縁から強引に引き戻したのだ。
「離して! お母様があそこに!!」
無小姐は絶叫し、手足をバタつかせたが、小花の怪力の前には赤子同然だった。
「あれは偽物だ!!」
翰文はよろめきながら駆け寄り、彼女を抱き寄せると、その頭を自分の胸に押し当てた。
「俺の鼓動を聴け! 無小姐! これが本物だ! 他は全部デタラメだ!!」
翰文の心臓は重槌のように胸腔を叩き、死寂の中で最も原始的で、無骨なリズムを奏でた。
無小姐は次第に静まり返った。彼女は翰文の服を固く掴み、涙でその胸元を濡らした。「……嘘つき……みんな、嘘つきだわ……」彼女はそう自嘲するように呟いた。
三人一龍。彼らは砂の上に無様に座り込んだ。
正気を保っているのは翰文一人だったが、脳内の「残り火」が塔のノイズと「吼え合い」を続けているせいで、彼の鼻からは血が止まらなかった。
「クソ……行くぞ」翰文は鼻血を拭うと、その瞳を氷のように冷たく、硬くさせた。
前方に隠れる巨大な陰影。――番号「13」を冠する風塔。
「残り火」が「欺詐之塔」と呼ぶ場所。
前の二基のように高く聳えるのではなく、巨大な、平たい耳蝸のように砂地に盤踞していた。入り口はブラックホールの如く、周囲の光を音もなく吸い込んでいた。
「……あの嘘つきの舌を引き抜いてやる」
塔内への侵入は、意志力の限界を試す凌遅だった。
構造は複雑怪奇を極め、無数の回廊が織りなす迷宮と化していた。数分間前進したはずが、振り返れば同じ骨柱の前に立っている。――この塔は、距離感と方向感を改竄していた。
壁はもはや金属ではなく、半生物質の吸音材で覆われ、その感触は湿った鼓膜をなぞっているかのようで、不快な熱量と弾力を持っていた。
そして、ここは「個人的な亡霊」で満ちていた。
翰文は「無律者」だ。
彼はこの廃土で極めて稀な、律に対して完全な耐性を持つ「絶縁体」。本来、この塔の律法は彼に通用しないはずだった。彼の耳に嘘は届かず、あるのは絶対的で剥き出しの死寂。彼はこの狂乱のパーティにおける、唯一の、そして最も孤独な傍観者であったはずなのだ。
だが塔に入った瞬間、翰文は「聴いて」しまった。
鋭い劇痛が、自らの両脚から走ったのだ。
彼の義足。――針夫人が造り上げた、旧律の造物である「精霊晶骨」。それが今、この塔の「受信アンテナ」と化していた。
塔の「音律汚染」は、翰文の脳を直接汚すことはできなくとも、距離の近い義足を媒介に、骨伝導を介して彼の聴覚中枢へと直接轟鳴を叩き込んだのだ。
針夫人の優しげな声が、慈母のように響く。
『第742号、戻っておいで。あんたの義足は壊れている。あたしが直してあげる……タダでいいよ』
薇の声が、嘲弄を含んで届く。
『おい、腰抜け。あたしへの借金は返さなくていいよ。どうせあんたは死ぬんだからさ』
さらには、黒い塔の中に埋もれた、とうに死に絶えた「自分自身」の声さえも反響していた。
『李翰文、これ以上何を足掻くんだ? 横になりなよ……ここはとても心地がいいぞ』
音は鼓膜を通るのではなく、聴覚神経を越えて、直接脳内で再生された。彼は「聴いた」のではない。強制的に「思い出させられた」のだ。
小花もまた、自らの悪夢を強制想起させられていた。
(……ジジジ……脚を切り落とされる……)
(……悪い子……泣くんじゃない……猿轡を嵌めろ……)
それらの声は針夫人のものであり、手術台の電鋸(電動のこぎり)の音だった。彼女は全身を震わせ、数歩ごとに立ち止まって周囲を確認した。それは探索ではなく、逃走。背後から無数のメスが追いかけてくるという恐怖に、彼女は支配されていた。
翰文が神経触手を引き、死に体となった彼女を力任せに引きずっていなければ、とうに蹲って動かなくなっていただろう。
「偽物だ……全部、デタラメだ……」
翰文は義足から伝わり続ける激痛に耐え、額に青筋を浮かべた。瞳を固く閉じ、脳内の「残り火」が提示する『餘溫刻印』だけを頼りに進む。
白黒の世界において、これらの声の出所はすべて空虚な寒色に過ぎない。前方の、絶えず水銀色の光を放つ核心だけが、唯一の熱源だった。
(……右だ。……)
「残り火」の意念が冷酷に植え付けられる。
(……あの女の声に惑わされるな。左にいるのは幻覚だ。……)
(……愚か者、それは壁だ。ぶつかれば消化されるぞ。……)
そいつは今の翰文にとって、唯一の眼であり、唯一の真実だった。普段は嘘を愛し、嘲弄を好む居候。だがこの瞬間、そいつは誰よりも欺瞞を嫌うがゆえに、最も誠実な導き手となっていた。
ついに、彼らは中心部へと到達した。
そこには台座などなく、ただ巨大な円形の水銀池があった。
池の中央。そこには長さ二メートルに及ぶ、液態金属の質感を持った一本の「舌」が浮遊していた。
そいつは絶えず形を変え、震動していた。一打ごとに、大気中には肉眼では捉えられぬ波紋が広がっていく。――それこそが、あらゆる嘘の源泉。
無小姐と小花はそれを見た瞬間、再び瞳を濁らせた。
あの「舌」は、彼女たちが最も渇望する声を模倣していたのだ。
だが、翰文の目に映るのは、単なる物理現象に過ぎなかった。彼にとって、それは魔法ではない。故郷の高校の教科書で読んだ、音響構造を利用して共振を繰り返す液態金属の塊に過ぎない。
振動によって干涉波を作り出しているだけなのだ。
「……面白いおもちゃだな」
翰文は両脚からの激しいノイズに耐え、口角に冷笑を浮かべた。
彼は故郷の授業で見せられた「クラドニ図形」の実験を思い出していた。周波数が合えば、震える金属板の上で砂は幾何学模様を描く。そして、液体がこのような完璧な「定常波」を維持するには、極めて過酷な条件が必要となる。
安定したエネルギー源、特定の共鳴腔構造、そして――絶対的な純度と一定の粘度を持つ「媒体」。
翰文は無律者だ。あの舌に込められた魔法も嘘も、彼には感知できない。
彼の眼に映るそれは、精密な流体力学によって稼働する一つの「システム」。
そして考古学者は、一つの真実を誰よりもよく知っていた。――精密な器械ほど、「汚れ」に弱いということを。
「下がってろ。自分を守れ」
翰文は深く息を吸い、「残り火」の火に脳を包ませ、最後の干渉を遮断した。自分と無小姐に防毒マスクを装着させると、彼は水銀池へと大股で歩み寄った。小花の呼吸孔は面甲の内側で自動閉鎖し、潜航モードのように出力を最小限に下げていた。
彼は蛮勇を振るって飛び込んだりはしなかった。代わりに小花の元へ戻り、彼女の身体に触れると、剥がれ落ちそうになっていた一枚の白瓷の羽を指差した。
「これ、借りるぞ」
小花が首を傾げるより早く、翰文は短刀を抜き、連結部を力任せに抉じ開けて、白瓷の羽を一枚もぎ取った。――壊れた装甲から骨片を剥ぎ取るような、生々しい手応え。
あの「舌」が脅威を察知し、激しく震動して耳を劈く金切声を上げた。
それは翰文の精霊晶骨――金繕いの神経回路を伝い、骨伝導を介して翰文の聴覚中枢へとさらなる幻覚の猛攻を仕掛けてきた。
世界が一瞬にして、逆さまに伏せられた巨大な鐘の内側へと変わった。翰文は視界を奪われ、鼓膜は細い針で同時に突き刺されたような衝撃を受け、耳道から温かな液体が滲み出すのを感じた。鼻腔も熱くなり、マスクの裏側を血が伝い落ちる。
「……うるせぇんだよ!!」
翰文は歯を食いしばり、脚の劇痛を無視した。
彼には、一度の試行錯誤の時間しかないことを分かっていたからだ。最初の一打でこいつを崩壊させなければ、次の反撃で無小姐と小花が完全に壊れてしまう。自分が耐えられても、彼女たちは耐えられない。
彼は身を翻して屈み込むと、白瓷の羽をシャベル代わりにして、地面の砂を力任せに掻き集めた。ここには、砂だけは捨てるほどある。粗く、不純物に満ち、乾燥した石英砂。正体不明の生物の風化した骨の破片。
「精密な楽器ってのはな、塵が大嫌いなんだよ」
翰文は水銀池の縁に立ち、遺物を破壊する暴徒のような眼光で、しかし語り口は講義を行う学者のように。
「そんなに気持ちよく歌ってんなら……今度は砂を口に含んで歌ってみろよ。故郷の魔法を食らわせてやる」
彼はシャベルを振り上げ、その不潔な砂の塊を、一点の曇りもない完璧な、銀色に輝く水銀池の中へと、容赦なく「ザラザラッ」とぶちまけた。
ただの水銀なら、砂はそのまま沈むだけだったかもしれない。だが、ここの「水銀」は律法によって特定の粘度と表面張力を与えられた共鳴媒体。媒体の純度が失われれば、周波数は即座にロックを失う。――楽器の中に、一粒の砂利が入り込んだ時のように。
砂が落ちた瞬間、完璧だった銀の面に、醜い「あばた」が浮き出た。
舌の震動が、喉元を締め上げられたかのように滞った。――無秩序な塵が、旧律の精密を殺そうとしていた。
流麗にのたうち、完璧な周波数を演じていた「舌」は、突如として口いっぱいに乾いた小麦粉を詰め込まれた歌手のように、「ガガッ……ジジ……カチャ……」と異音を吐き出した。
――だが、すぐには死ななかった。
喉を詰まらせた歌手のように一瞬だけ間を置くと、次の瞬間、震動はさらに狂おしいほどに高まった。嘘はもはや囁きではなく、怒号へと変わった。
キィィィィィン!!という凄まじい絶叫が、翰文の晶骨を伝って逆流する。誰かが脳内に真っ赤に焼けた鉄の棒を突っ込み、かき回しているような衝撃。
彼の耳にはもはや何も聞こえず、ただホワイトノイズが支配した。耳道からはさらに鮮血が流れ、鼻血も止まらずマスク内を汚していく。
さらに最悪なことに、無小姐の瞳は再び濁り始め、小花の喉はビクンと跳ね、彼女のものではない「別の何か」の声を無理やり絞り出そうとしていた。
翰文の両手は震えていたが、決して退かなかった。これが対価であることを彼は知っていた。不潔な手で精密を殺す。精密は死の間際、最後に叫ぶものだ。
「旨いかよ?」
彼は再び白瓷の羽を掲げ、今度は砕石さえも混じった砂をさらにもう一回、掬い上げた。
「おかわりはたっぷりあるぞ」
翰文は冷笑し、再びそれを池へと投じた。
それは「無秩序」が「秩序」を蹂躙する屠殺だった。
廃土の混沌たる塵が、旧律の精密な魔法を謀殺していく。
第二の投擲が落ちた瞬間、池全体にヤスリがけをされたかのような激変が起きた。粗い不純物が流体の循環を阻害し、表面張力は引き裂かれ、摩擦が震動エネルギーを無秩序な熱とノイズへと変換した。銀色に輝いていた舌の面は醜い痙攣を繰り返し、定常波のラインは節ごとに崩壊していった。
ついに、完璧だった周波数が崩壊した。
歯車が噛み込んだような、耳障りな「ガガガガッ」という音と共に、水銀の舌は完全に震動を停止した。
もはや液体の形を維持することも、いかなる声を出すことも叶わなかった。
支えを失ったそれは急速に冷却され、凝固していく。
カチリ、という微かな音。
すべての音が消失した。幻聴も、亡霊も、嘘も、震動の停止と共にすべてが湮滅した。
世界は本来の姿へと回帰した。――死寂。しかし、確かな真実。
翰文は激しく喘ぎ、耳の奥に響く鈍い鼓動だけを感じていた。彼はマスクの内側で、冷たく粘つく血を拭った。
池の中央を見る。
そこにはもう、不思議な液体の舌など存在しなかった。あるのは、表面に砂がびっしりとこびりつき、無様に歪んだ銀灰色の金属の塊。
それは遊び倒された粘土のように、不潔な池の底に転がっていた。
「……仕留めたぞ」
翰文は歩み寄ると、磁器の羽を使い、その核心を慎重に掬い上げた。
まだ熱を帯びてはいたが、十分に許容範囲内だ。彼はマスク越しに、低く自嘲の声を漏らした。
「どこの世界の精密機器も……砂(不純物)には勝てないらしい」
背後からは、夢から覚めたばかりのような無小姐と小花の呼吸音が聞こえてきた。
三つの核心――悲しみ、暴怒、そして欺瞞。ついに、すべてが揃った。
「……終わったの?」
背後から、無小姐の消え入りそうな声がした。振り返ると、彼女は小花の足元でぐったりと座り込んでいた。顔色は依然として蒼白だったが、その瞳には理智の光が戻っていた。
小花も震えを止め、翰文の手の中にある奇妙な球体を不思議そうに嗅いでいた。
(……痛くない……?)
(……蟲さん、いなくなった……?)
彼女はおずおずと翰文の頭に鼻先を擦り寄せた。目の前の男が、また幻覚ではないかと確認しているようだった。
「ああ」
翰文は頷き、小花の面甲をなでると、その水銀の球を彼女の尾部にあるラックのバックパックへと押し込んだ。そこには、他の二つの核心――琥珀色の「悲しみ」と、深紅色の「暴怒」が静かに眠っていた。
三つの核心はバックパックの中で互いの周波数を探し合い、微かな共鳴音を奏で始めた。別々の身体から来た三つの器官が、一つの見知らぬ喉の中で、音合わせをしているかのように。
その時だった。翰文の隣で静かに伏せていた小花が、突如として全身を強張らせた。
彼女の首に嵌められた、恥辱と束縛の象徴である真鍮の項圈。それが何の前触れもなく、低く、高速回転するようなジジジ……という唸りを上げたのだ。
罰や圧制を意味するあの赤いルーンは灯らなかった。代わりに現れたのは、冷たく、刺すような幽藍色の霊光。項圈の繁雑な透かし彫りから、その光が溢れ出した。
「小花?!」翰文は驚き、また項圈の罰が始まるのかと身構えた。
だが、今度は痛覚の逆流はなかった。
小花は強引に頭を上げさせられ、口を開かされた。あたかも何らかの見えない力に操られているかのようで、その巨軀は意思を持たぬ投影のスタンド(支柱)へと変貌していた。
キィィィン!という鋭い音と共に、粒子感を帯びた錐状の光線が、項圈中央の「律法核心」から射出され、夜空を貫いた。
光の中に浮かぶ塵が命を吹き込まれたかのように狂い舞い、積み重なり、再構築され。
ついには、虚空に光塵で編み上げられた巨大な半身像を結んだ。
――針夫人。
優雅で、しかしどこまでも冷徹な彼女の虚影が、小花の頭上に滞空し、無残な姿を晒す生存者たちを見下ろしていた。
それは単なる思念の投射ではなく、剥き出しの「権力」の誇示だった。――彼女には、翰文に通信機を持たせる必要などなかったのだ。自ら造り上げたこの龍そのものが、彼女の眼であり、口なのだから。
小花はただの乗り物ではない。針夫人が彼らの傍らに放った、生きた監視カメラでもあった。
『……生きて出られたようだね?』
光塵の針夫人が口を開いた。声は小花の損壊した声帯を無理やり共振させたものであり、金属の摩擦音を伴った重層的な響きを帯びていた。
満身創痍の二人一龍を見つめ、彼女の口角には楽しげな笑みが浮かんだ。
『ブツを持ち帰りな。……さて、あんたたちには、次のテストを受ける資格を与えてあげようじゃないか』
光影が霧散する。小花は糸の切れた人形のように崩れ落ち、霊魂を抜き取られたかのような疲弊した呻きを漏らした。
翰文は次第に輝きを失っていく彼女の項圈を見つめ、その瞳を複雑な色に染めた。冷たい真鍮に触れる指先に、戦慄が走る。
自分たちは最初から、彼女の視線から逃れてなどいなかったのだ。この項圈は小花の喉だけでなく、自分たち全員の自由を鎖し続けていた。
翰文は何も語らなかった。ただ疲労困憊のまま小花の身体に背を預け、ようやく星の光が覗いた空と、二つの醜い月を見上げた。
(……温かいものが食べたいな。……箸が使えるような、まともな飯を。)
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