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第62話 : 垂直の煉獄と、暴怒のアリア




『憤怒ってのは、死人を立ち上がらせておくための唯一の燃料さ。塔が金切声を上げ始めたなら、そいつは立ち去れという警告じゃない、跪けという命令なんだ。暴怒を前に慈悲は無力だよ。あんたにできるのは、そいつよりもっと激しく怒ることだけさ』



  ——『旧律声学研究』:高頻度情緒共鳴の危険性について、32ページより



 重力はここではその席を譲り、代わりに骨を圧し折らんばかりの**「声圧(音圧)」**が空間を支配していた。



 先ほどの潛沙艦が細切れにされた惨状を無視すれば、番号「09」を冠するこの風塔の内部は、巨大な陵墓のように静まり返っていた。04号塔のような陳腐なカビ臭さやちりは絶え、空気は乾燥し、ひどく熱を帯びている。それは金属をグラインダーで激しく削り取った後に残る、あの鼻を突く焦げた臭いそのものだった。



 螺旋状の塔の構造は上方へと伸び、数百メートル上の暗闇へと消えている。その果てしない暗黒の頂点に、充血した眼球のような深紅の光点が浮遊していた。



 それが、第二の核心。そいつは啜り泣きを捨て、咆哮することを選んでいた。



 風の目の中心にいるため、外側の引き裂くような風音は聞こえない。だが、高周波の震動は肉眼では捉えられない重苦しい「圧力」へと変換されていた。翰文(ハンウェン)は全身の歯が歯茎の中で浮き、ジリジリと震えるのを感じていた。眼球は見えない親指で奥へと力任せに押し込まれているようで、内臓はその不快な周波数に同調し、吐き気を催す共鳴レゾナンスを繰り返していた。



 呼吸をするたび、肺胞は煮え滾る鉄の粉を吸い込んでいるかのように焼け、脚を一歩踏み出すたびに、滝を遡るかのような抵抗を強いられた。



「……上がれないわ」



 無小姐(ミス・ヌル)鞍座サドルに跪き、顔面を紙のように白くさせていた。彼女は再び白磁の笛を吹こうとしたが、口を開いた瞬間、声を出すよりも早く、唇が高周波の音波に震わされてプツリと裂け、鮮血が滲んだ。漏れ出した「ピーッ……」という微かな音色は、無形の憤怒の力場によって瞬時にかき消された。



 ここは優しさを拒絶し、慈悲を拒んでいた。



 小花(ムアカイ)もまた、極限の焦燥に陥っていた。この塔が放つ「暴怒」の周波数は、彼女の内の屈辱と致命的なまでに共鳴していたのだ。鉄鉤フックに貫かれた腿を、無様に逃げ惑わされた惨めさを、そして何より首元でいつでも牙を剥くあの忌々しい項圈カラーを。



 吠え返したい。頭上の傲慢な赤い球体に、挑戦の咆哮を叩きつけてやりたい。彼女は大口を開けたが、喉の奥の癒えきらぬ傷が再び弾け、損壊した声帯からはふいご(ふいご)の漏れるような掠れた嘶きしか出せなかった。



 しかし、神経連結を通じて、翰文(ハンウェン)には聞こえていた。声帯を通さず、大気を震わせることもなく、それでいて魂を粉砕せんばかりの咆哮が。



 それは純粋な苦痛と殺意。肉体の枷を解き放たれた叫び。現実には存在しないはずのその大音響は、翰文の脳内で狂ったように反響し、脳髄を痺れさせた。小花(ムアカイ)のすべてを噛み砕こうとする破壊衝動が、自分のことのように伝わってくる。



 たとえ肉体が沈黙していても、真鍮の項圈は脳波レベルの攻撃意図を敏感に捉えていた。刻まれた赤いルーンが瞬時に発光し、警告のブザー音と共に、脊椎を麻痺させる冷酷な電撃を突き刺した。



 外からは声圧による圧殺、内からは枷による絞首。二重の酷刑。



 小花(ムアカイ)は苦悶し、塔の堅牢な金属壁を爪で掻き毟った。不快なギギィィィという音が響き、火花が飛び散り、壁には深い爪痕が刻まれた。



 (……動きたくない……苦しい……)



 (……首が熱い……怒ると……痛くなるの……)



 彼女は震えていた。前方の声圧は壁のように立ち塞がり、首の項圈は炎のように焼く。二つの恐怖の狭間で、彼女は「前進」という唯一の活路を選ばざるを得なかった。



 その時、翰文(ハンウェン)の脳の深淵から、煮え滾る熱波が届いた。黒胡椒と焼けた火薬の入り混じった、刺激的な臭い。



 前の塔で見せた嫌悪とは打って変わり、今の「残り火(エンバー)」は「狂熱」とも呼べる興奮状態にあった。翰文の視界に、一つのイメージが強引に割り込んでくる。



 ――燃え盛るコロシアムの中心に立つ指揮者。彼は炎を纏ったタクトを振り、絶叫と殺戮で紡がれる交響曲を悦に入って指揮していた。



 そいつは愉しんでいた。この純粋で破滅的な憤怒を、賛美していた。



 (……脆弱なコンテナよ。震えているのか?……)



 (……聴くがよい。これこそが「生」というものだ。これこそが旧律のあるべき姿。あの啜り泣く04号の屑など、比べるべくもない。……この塔は、殺したがっているぞ。……)



「黙れ……狂人め……」



 翰文(ハンウェン)は奥歯を噛み締め、義足から伝わる「焼けた針で骨を貫かれるような」幻痛に耐えた。痛みだけではない。自らの心の底からも、得体の知れない殺意が湧き上がってくるのを感じていた。傷ついた小花(ムアカイ)の身体を見、首の項圈を見ているうちに、その枷を力任せに引き千切り、この塔ごとすべてを爆破してしまいたいという衝動。



 この忌々しい周波数は、感染するのだ。



小花(ムアカイ)……あいつの言うことを聞くな。耐えるんだ」



 神経触手を通じ、彼は身下の荒ぶる巨獣を、そして制御を失いかけた自分自身の感情を必死に宥めた。



「俺たちは喧嘩しに来たんじゃない。……喉を取りに来たんだ」



 だが、それは困難を極めた。小花(ムアカイ)が一歩這い上がるごとに、赤い声圧は重みを増していく。頂上まで残り五十メートル。空気はもはや接着剤のように粘りついていた。小花(ムアカイ)の白磁の関節は悲鳴を上げ、流麗だった動作はぎこちなく滞る。



 登れない。核心から放たれる憤怒の意念は、見えない壁となって一行をその場に縫い付け、あらゆる「異物」の接近を拒絶していた。



「……言うことを聞かないわ。この音が……私の鼓膜に、呪いを刻んでいる……」



 無小姐(ミス・ヌル)が口元の血を拭い、瞳を鋭くさせた。だがその手は震えている。彼女にしか聞こえない声――それは単なる風の音ではなく、幾万もの悪毒な呪詛じゅそが重なり合ったものだった。音が鼓膜を伝って脳へ潜り込み、彼女の聴覚を汚染しようとしていた。



 彼女は気づいた。前の塔は「悲しみ」だったから宥めが必要だった。だが、この塔は「暴怒」だ。宥めれば宥めるほど、こいつは「憐れまれている」と感じて怒りを募らせる。憤怒は慰めを拒む。憤怒が求めるのは「同調シンクロ」、あるいはそれ以上の強硬な「対抗」のみ。



「翰文……しっかり捕まってて」



 無小姐(ミス・ヌル)は深く息を吸い込んだ。今度は目を閉じず、琥珀色の瞳をカッと見開き、頭上の赤い核心を射抜くように凝視した。血に濡れた唇に白磁の笛を強く押し当てる。彼女はもう、微風を模したりはしなかった。



 ――ピーーーーーッ!!!



 鋭く、短く、攻撃性に満ちた一音が爆発した。



 それは安魂曲レクイエムではない。戦歌だ。



 彼女は核心の周波数を模倣し、同じように荒々しく、殺意に満ちた音律を奏でた。優しさを拒むなら、共に狂ってやろうという決意。



 パキリ……と極めて微かな音が響き、彼女の持つ白瓷哨翎の表面に、髪の毛ほどのひび割れが走った。



 同時に、一筋の鮮血が彼女の左耳から伝い落ちる。代償だ。凡夫の身で暴怒する古龍の音を模したことで、彼女の聴覚は不可逆の損傷を受けていた。



 だが、奇跡は起きた。見えない声圧の壁に、亀裂が入ったのだ。



 核心はこの突如として現れた「挑発」か、あるいは「共鳴」に虚を突かれたようだった。同類の気配を感じたのだ。鉄板のごとく強固だった圧殺力場が、笛の音の衝撃によって、一筋の狭い通り道を露わにした。



「今だッ! 小花(ムアカイ)! 突っ込め!!」



 翰文(ハンウェン)が吠えた。声は掠れ、粉々に砕けていた。



 小花(ムアカイ)もその戦歌に鼓舞された。鋭い音律が焼けた針のように彼女の聴覚中枢を貫き、神経を強制的にジャックした。



 (……うるさい!……殺してやる!……)



 彼女の意識は混濁し、周波数と同化した狂暴さだけが残った。面甲の青光が爆発的に膨れ上がり、項圈は赤い警告灯を激しく明滅させる。狂気に突き動かされた彼女は、両足に全エネルギーを込めた。



 ドォォォン!という重い足音を響かせ、磁器の羽をチリンチリンと鳴らしながら、白磁の巨獣は螺旋の階段を駆け上がった。赤い嵐を真っ向から受け止め、一筋の白い稲妻となって塔頂を目指す。



 十メートル。五メートル。



 辿り着いた。



 翰文(ハンウェン)小花(ムアカイ)の背から一躍し、塔頂の中央に浮遊する、恐怖の高熱を放つ深紅の晶体へと飛びついた。晶体の周囲には肉眼で見える赤い波紋が幾重にも渦巻き、震動のたびに空間をジジジと震わせている。



 翰文(ハンウェン)が手を伸ばす。指先が触れた瞬間、冷気など微塵もなく、あるのはただ焦熱のみ。ジュウゥ……という嫌な音と共に、皮膚は瞬時に焼き爛れた。



 直後、血生臭い裏切りに満ちた記憶が、一発の弾丸となって翰文の眉間を撃ち抜いた。視界のすべてが血の色に染まる。



『開けろ! 中に入れてくれ、バルブを直すんだ!』



 ボロボロの旧律戦甲を纏った一人の「守門人」が、制御台でルーンに向かって絶叫していた。喉からは血の塊が溢れ出している。背後のゲートは固く閉ざされ、門の外では無数の黒い潮流が狂ったように扉を叩いていた。門の内側にあるのは、彼が死守すると誓った都市。



 ルーンの向こうから返ってきたのは、冷たい沈黙ではなかった。若く、震えながらも、どうしようもなく残酷な声だった。



『先生……ごめんなさい。』



 守門人は絶句した。自分の手で育て上げた教え子が答えるとは。かつて共に風塔を守ると誓い合った、愛すべき子供が。



『議会は……状況は制御不能だと判断しました。あなたの存在そのものがリスクなのです。……門を開けることはできません。』



『あなたは……私たちのために、そこで死んでください。』



 通信が途絶えた。残されたのは砂嵐のような雑音だけ。



 守門人は閉ざされた門を見つめた。自分が守ってきた人々が、冷酷に自分の生路を断った事実。その瞬間、恐怖は蒸発した。代わりに宿ったのは、死よりも冷たい憤怒。



 (――安全が欲しいのなら。……私がリスクだと言うのなら。……ならばそのリスクを、現実にしてやろうじゃないか。)



『皆、死に絶えろぉぉぉッ!!!』



「が、ああああぁぁぁーーッ!!」



 翰文(ハンウェン)は絶叫し、全身を震わせた。この憤怒はあまりに重く、あまりに不潔だ。最も信じていた者に裏切られ、純粋な殺意へと変貌した絶望。理性が焼き切られそうになる。殺したい。手にあるすべてを、破壊し尽くしたい。



「……休ませてなんて、やらないぞ」



 翰文(ハンウェン)は歯を食いしばり、掌が焼ける劇痛に耐えながら、赤い核心を固く握りしめた。「安らかに眠れ」などという空虚な言葉を吐くつもりはなかった。彼の瞳にも、同じ怒りの炎が燃えていた。それはこの不条理な世界に対する憤懣。



「あんたには怒る権利がある。すべてを地獄へ引きずり込む権利もある。……だが、俺はあんたの代わりに死んでやらないし、あんたの代わりに奴らを許してやったりもしない」



「喉を貸せ。――あんたをここから連れ出してやる。あんな屑共を守るための道具になんて、二度とさせない!」



 彼は右手を引き、短刀を抜くと、核心の基部へと力任せに突き立て、抉り出した。



 春のいかずちよりも遥かに大きなパキィィンという破砕音が響き、深紅の核心は強引に引き剥がされた。



 塔内を埋め尽くしていた赤光が瞬時に消失する。だが今回、塔は崩れなかった。あるいは、静かに死ぬことを拒んだと言うべきか。



 核心という重石を失ったことで、塔内に千年間蓄積されていた暴怒の気流が霧散することなく、恐怖の**「回音逆流エコー・リバース」**を引き起こしたのだ。



 凄惨なヒュゥゥゥー……という金切声が塔の底からせり上がってくる。それは舌を抜かれる直前の最後の絶叫のようだった。螺旋の壁面は真っ赤に焼けたゼンマイのごとき暗紅色の光を放ち、空気中には憤怒の年輪のような干渉縞(縞模様)が現れ、塔の内部を下から上へと狂ったように噴き上がった。



「まずいッ!」



 翰文(ハンウェン)の顔色が変わる。これは崩落ではない。内側から外側へと向けられた、強烈な噴發イラプションだ。



 彼は迷わず熱い核心を懐へねじ込むと、踵を返して下方へ跳んだ。



小花(ムアカイ)! 受け止めろ!!」



 小花(ムアカイ)は脊椎を襲う麻痺に耐え、猛然と頭を上げ、その身体で落下する翰文を受け止めた。翰文は鞍座へ滑り込むと同時に絶叫した。



無小姐(ミス・ヌル)! 掴まって!!」



 だが遅すぎた。衝撃波の速度が彼らを上回った。巨大な気圧の壁がドォォォンという轟音と共に、一階の巨人の手で叩くように小花(ムアカイ)を直撃した。



 風圧を凌ぐための半透明の生物ゲル膜は、このレベルの衝撃の前では石鹸の泡も同然だった。パチンという心臓に悪い音を立てて硬化し、直後に内側と外側の圧倒的な圧力差に耐えかねて、無数の粘つく破片となって霧散した。



 同時に、数トンの巨獣が枯れ葉のように宙へと跳ね上げられ、塔頂の出口へと叩きつけられた。



 混乱の中、体重の軽い無小姐(ミス・ヌル)が両手の力を失い、裂けたゲル膜の隙間から狂暴な気流に吸い出された。彼女は糸の切れた凧のように宙へ放り出され、鋼鉄をも粉砕するあの干渉縞の渦へと呑み込まれそうになる。干渉縞に触れた空中の屑鉄が、一瞬で赤い粉末へと磨り潰されていくのが見えた。



「掴まれぇぇぇーーッ!!」



 翰文(ハンウェン)は目を見開いた。義足の出力を全開にし、左手で神経触手を死守しながら、上半身を無理やり神経繭の外へと乗り出す。肩が脱臼するような劇痛を無視し、千載一遇のタイミングで、彼は宙を舞う無小姐(ミス・ヌル)の華奢な手首をガシッと掴み取った。



 三人はもつれ合いながら、あの恐怖の赤い気柱によって塔頂から「押し出された」。



 幸いにも、この「逆流」は爆発ではなく、高密度の強力な上昇気流だった。それは巨大なエアクッションの手のひらとなり、数百メートルの高さからの致命的な落下速度を打ち消し、彼らを遠方へと運び去った。



 颯爽とした着地など望むべくもなかった。



 気流が力尽きると、彼らは漫天の碎石や金属片と共に、遠くの柔らかい砂丘へと力任せに叩きつけられた。



 ボフン、という鈍い音と共に黄砂が舞い上がる。



 小花(ムアカイ)はその巨体を利用して着地寸前に一度回転し、衝撃を逃がしたが、それでも苦しげな、声なき呻きを漏らした。翰文(ハンウェン)は着地の瞬間に鞍座から放り出され、顔から砂に突っ込み、しばらく動かなかった。



 やがて、震える一本の手が砂の中から突き出された。その手には、あの核心が固く握りしめられている。



 翰文(ハンウェン)は身を翻して仰向けになり、血と砂にまみれた顔で荒い呼吸を繰り返した。



 隣の無小姐(ミス・ヌル)を見る。彼女は血の流れる左耳を押さえ、視線を泳がせていた。先ほどの衝撃で聴覚に深刻なダメージを受けたのは明白だったが、五体は満足なようだった。



「……いつか、俺にも翼が生えるかもな」



 翰文(ハンウェン)は自嘲気味に笑い、彼女に声をかけた。



 手の中にある核心は、台座を離れた今もなお微かに震動し、心臓を逆撫でするような熱を放ち続けていた。



 そいつは、まだ怒っている。



 脳内の深淵から、高級な葉巻の残り香が漂ってきた。



 今度は嘲弄も賛美もなかった。ただ、精神を病んだ者が新しい銃を手にした時のような、純粋で嗜虐的な悦びだけが意念となって響いた。



 (……悪くない。これならば……最高の玩具おもちゃになるだろうよ。……)




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