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第60話 : 啜り泣く喉管と、第一の共鳴核




『風は死なない。ただ閉じ込められているだけだ。封鎖された旧い風塔に足を踏み入れる時は、目覚めるのが単なる停滞した気流であることを祈るんだね。千年前、そこに閉じ込められた最後の——怨嗟に満ちた呼吸ではないことを』



  ——『氣象考古學導論メテオ・アーケオロジー』第三章:死寂区の音響異常について、第12節より



 無小姐(ミス・ヌル)の奏でる笛の音は、この灰色の混沌における唯一の灯台だった。



 正気を失わせるあの嵐の中で、か細くも強靭な旋律が、崩壊寸前の隊列を導いていく。針の穴に糸を通すような精密さで、骨を粉砕する乱流の渦を避けていった。



 やがて、鼓膜をヤスリで削るようなあの鋭い風音が変わった。



 気流の質感は重く、粘りつくようなものへと沈殿し、引き裂くような高周波の金切声は、巨人の肺から漏れる重低音の轟鳴へと変質した。



 一行は巨大な風塔の足元に辿り着いた。



 番号「04」を冠するその塔は、上半分がへし折れているものの、基部はいまだ健在だった。それは巨大な、立ち枯れた灰色の指のごとく、峡谷の深部で絶望を湛えて直立し、とうに応答を止めた灰色の空を指し示していた。



 周囲の、怒れる金切声を上げる破損塔とは違い、この塔が放っているのは「泣き声」だった。



 その声は極めて哀切で、ねっとりとした湿り気を帯びている。あたかも塔の内部に乾かぬ涙が溜まっているかのようだった。啜り泣くような共鳴の一打ごとに、翰文(ハンウェン)は胸腔の空気を奪い去られるような感覚に襲われ、心臓はその悲しみの拍節に合わせて、不規則な鼓動を強いられた。



「……中よ」



 無小姐(ミス・ヌル)が笛を離し、蒼白な顔で風塔の底部にある半開きの巨大な金属門を指差した。



「聞こえるわ……一つの『喉』がいまだに震えている。でも、とても痛がっているの……。その声は、れ果てているわ」



 翰文(ハンウェン)は頷き、沈黙で応えた。彼の声帯は依然として焼けるように痛み、飲み込むたびに熱い砂利を嚥下しているかのようだった。彼は神経触手を通じて、平穏な意念を、足元で躊躇する小花(ムアカイ)へと送った。



 (中へ入るぞ。ゆっくりとな)



 小花(ムアカイ)はたじろいだ。黒々と口を開けたその門は、あらゆるものを飲み込む巨口のようであり、そこから漂う陳腐な気配に本能的な拒絶を示した。



 だが、首元の真鍮の項圈カラーが伝える冷たい感触と、翰文(ハンウェン)の拒絶を許さぬ意志に、彼女は後退を断念した。



 逆立っていた白磁の羽を慎重に畳み、過ちを犯して暗室へ押し込められる猫のように頭を低くし、門の縁を擦るようにして中へと滑り込んだ。



 閉ざされた空間に、金属が擦れる重苦しい鈍音が反響し、門枠に千年間積もっていた塵を振り落とした。



 塔内部の光景に、翰文(ハンウェン)は息を呑んだ。



 そこは機械塔の内部というより、巨大生物の干からびた気管のようだった。



 円弧を描く壁面には、数万もの蜂の巣状の孔が開いている。旧律時代、気流を濾過し加圧するために使われた「人工肺胞」だ。



 今やその孔の大部分は詰まり、灰白色の綿状の物質が垂れ下がっていた。――千年の塵、カビ、そして昆虫の死骸が混ざり合ってできた「結石」だ。



 空気は死に絶え、フォルマリンと古い紙が混ざったような濃厚な腐臭に、金属酸化物の酸っぱい気気が混じり合っていた。



 そしてその巨大な円柱状の空間の中央に、一つの物体が浮遊していた。



 拳ほどの大きさの、半透明な琥珀色をした晶体球。それは静止することなく、緩慢に自転を続けている。一回転するごとに、周囲の空気には肉眼で見えるほどの歪んだ波紋が生じていた。



 あの哀しき泣き声は、この晶体から発せられていたのだ。周囲の死気を絶えず吸い込み、内部の圧搾と摩擦を経て、悲しみの周波数へと変換して解き放つ。



 これが**「共鳴核心(レゾナンス・コア)」**。



 正確に言えば、この風塔の「声帯」だ。血液を送り出す心臟ではなく、「歌う」ためのリード。この小さな晶体こそが、かつて荒れ狂う自然の風律を、人間が住まうにふさわしい穏やかな微風へと調律していたのだ。



「見つけたぞ……」



 翰文(ハンウェン)は胸を躍らせ、小花(ムアカイ)を操って手を伸ばそうとした。



 だが神経連結から、湿り気を帯びた、エコーの混じる恐怖のノイズが返ってきた。



 (……うぅ……暗い……怖い……)



 (……あいつが泣いてる……音が大きいよ……おうちに帰りたい……)



 強引に幽霊屋敷へ突き飛ばされた子供のように、彼女は翰文(ハンウェン)の服の端にしがみつき、一歩ごとにガタガタと震えていた。



 そこへ、脳内の「残り火(エンバー)」が猛然と発火した。焼けた髪の悪臭がメスのように意識を切り裂き、彼の動きを強引に止める。



 (――愚か者め! 止まれ!!)



 (――コンテナよ! スライス肉になりたいのか? 地面を見ろ!)



 翰文(ハンウェン)はハッとして、すぐに小花(ムアカイ)の動きを封じた。彼女の面甲から漏れる青い微光を頼りに、核心の周囲を凝視する。



 そこは平坦ではなかった。



 核心を中心とした半径十メートルの範囲。地面には無数の「見えない刃」が突き刺さっていたのだ。



 青光がなぞる場所で、空気中にガラスの粉塵が反射したような、緻密で鋭い紋様が一瞬だけ煌めく。



 それは**「聲波結晶ソニック・クリスタリゼーション」**。



 この声帯が千年以上も高強度の音波を放ち続けた結果、周囲の空気と塵が高圧の振動下で凝結し、極めて鋭利で、透明に近い結晶のクラスターを形成したのだ。それはガラスのように脆いが、メスよりも鋭い。



 もし小花(ムアカイ)が不用意に踏み込んでいれば、その足爪は高頻度振動する結晶に一瞬でズタズタに引き裂かれ、中の骨まで粉々に磨り潰されていただろう。



「……進めない」



 眼前に広がる結晶のジャングルに、翰文(ハンウェン)の額から冷や汗が流れた。小花(ムアカイ)の巨体では、入った瞬間に地雷を踏むも同然だ。そして彼自身も……結晶が密集しすぎていて、足を置く隙間さえない。



「……周波数を」



 無小姐(ミス・ヌル)が不意に口を開いた。彼女は神経繭から飛び降りると、致命的な結晶の縁までゆっくりと歩み寄った。瞳を閉じ、核心から発せられる悲鳴に耳を澄ます。



「この子は、人を殺したいわけじゃないわ……。ただ声が出なくて、誰かに調律してほしいだけなの」



 彼女は手にした白瓷哨翎はくじしょうれいを唇に当てた。今度は直接吹き鳴らすのではなく、まず深く息を吸い込み、核心と呼吸を同期させるかのような間を置いた。



 そして、一つの音を奏でた。



 その音は清らかな笛の音ではなく、極めて低く、嗄れ、震えを帯びた「嗚咽」だった。



 彼女は核心の泣き声を模倣し、千年の孤独を抱える声帯と「共鳴」しようとしていた。



 奇跡が起きた。



 笛の音が響き渡ると、先ほどまで刃のように鋭く光っていた声波結晶が、ジジジと共振の声を上げ始めた。エッジは軟化し、人を拒んでいた鋭さは失われ、ついには流動的な、固まった油脂のような半液状の物質へと姿を変えていったのだ。



「**音律同調ハーモニック・シンクロナイゼーション**か」



 脳内の「残り火(エンバー)」が冷淡に注釈を加えた。不遜な態度は相変わらずだが、そこにはさらに悪意に満ちた剖析アナライズが混じっていた。



 (――風民(ウィンド・フォーク)の小細工だ。音を使って音を「溶かして」いる。……)



 (――急げ、コンテナよ。あいつが歌っている間に、そいつをもぎ取ってこい。猶予は三十「震」――半分なから一分もないぞ。遅れれば周波数の反動で、結晶はさっきより鋭利に硬化する。……)



 (――まあ、それも一興か。近づけばあいつの『悲しみ』に飲み込まれることになるだろう。貴様は他人の痛みを背負い込むのが、何よりの好物なのだからな?)



 翰文(ハンウェン)はその嫌がらせを意識の隅へ追いやり、すぐに行動へ移った。



 小花(ムアカイ)の背から一躍。義足の「精霊晶骨(クリスタル・ボーン)」は驚くほど軽く、着地音はタッという微かな響きを残すのみだった。



 彼は無小姐(ミス_ヌル)を見た。彼女は全神経を集中させて悲しみの旋律を奏でており、額には汗が滴っていた。この同調を維持するのが、どれほど精神を摩耗させるかは明白だった。



 致命的な結晶は、今や柔らかな泥と化している。翰文(ハンウェン)は深く息を吸い、中へと駆け込んだ。



 最初の一歩を踏み出した瞬間、足裏に伝わったのは、総毛立つような不快感だった。地面を踏んでいるというより、無数のねっとりとした軟体動物の上を歩いているかのようだ。一歩ごとに、グチュリ、グチュリという音が響く。



 さらに最悪なことに、彼の義足はここでの高濃度な律法環境に、激しい「アレルギー反応」を起こし始めた。



 義足内部の神経接合点がジジジと音を立て、激しい放電スパークを繰り返す。翰文(ハンウェン)は、自分の脚が歩いているのではなく、無数の針で同時に刺し貫かれているような錯覚に陥った。



「……っ、ぐう……!」



 彼は奥歯を噛み締め、絶叫を腹の底に沈めると、劇痛を強引にねじ伏せて浮遊する核心の前へと辿り着いた。



 間近で見るその「声帯」は、美しくも奇怪だった。内部には微小な嵐が封印されており、無数の灰色の気流が琥珀色の殻の中で狂ったように荒れ狂い、壁を叩いてシュゥゥという細い音を立てていた。



 翰文(ハンウェン)は手を伸ばした。



 指先が核心の表面に触れた、その瞬間。



 巨大な、純粋極まる「悲しみ」の感情が、脳内で爆ぜた虚構の雷鳴と共に、指先を伝って彼の脳を直撃した。



 翰文(ハンウェン)の視界が暗転する。現実の光景が砕け散った鏡のように剥がれ落ち、代わりに千年前の、血生臭い記憶が流れ込んできた。



 視界は揺れ、ぼやけている。



 白衣を纏った一人の「調律師」が、この塔の中に立っていた。窓の外は燃える空。隕石がドォォォォンという轟音と共に、雨のように降り注いでいる。



 調律師は逃げなかった。代わりに、彼はこの核心を死に物狂いで抱きしめ、自分の肉体を使ってその周波数を安定させようとしていた。



『周波数を合わせろ! 早くしろ! 気流が乱れる! 街の連中が窒息死してしまうぞ!』



 彼は叫んでいた。声は嗄れ、絶望に満ちていた。だが、返ってくるのは虚しい摩擦音だけだった。



 嵐が来た。巨大な風圧が、金属を引き裂く凄まじい音と共に塔を破壊した。調律師は気流に巻き上げられ、壁に激しく叩きつけられた。



 死の間際、彼はなおも手を伸ばし、核心を掴もうとしていた。



 彼の血が核心に飛散し、ジッという小さな音を立てる。



 彼の執念は、吐き出せなかった最後の一息と共に、この晶体の中へと封印されたのだ。それが、この千年間止むことのなかった「泣き声」の正体。



「が……はっ……」



 翰文(ハンウェン)は呻き、鼻血が再び溢れ出して、琥珀色の晶体を赤く汚した。



 これは単なるパーツではない。「生きている化石」だ。いまだに震え続けている、死者の喉仏そのものなのだ。



 彼は奥歯を噛み締め、感情の逆流を強引に遮断した。脳内の「残り火(エンバー)」が絶妙なタイミングで冷たい冷気を送り込み、沸騰した大脳に氷水をぶっかけたような衝撃を与えて、彼を正気へと引き戻した。



「すまない……。あんたの当番は、ここで終わりだ」



 翰文(ハンウェン)は低く吼えると、両手で核心を掴み、力任せに引き抜いた。



 パキィィンという澄んだ断裂音と共に、核心は台座から離れた。



 千年に及んだあの嗚咽が、唐突に止まった。周囲の軟化した結晶は音波の支えを失い、瞬時に形を崩し、灰色の粉末となってサラサラと地面に降り積もった。



 無小姐(ミス・ヌル)の身体から力が抜け、手にした笛がカランと音を立てて落ちた。彼女は激しく喘ぎ、その場に力なく膝を突いた。



「手に入れたぞ!」



 翰文(ハンウェン)は核心を抱えて振り返り、笑みを浮かべようとした。



 だが直後、風塔全体がドォォォンという巨響と共に激しく震動し始めた。核心という「重石」を失ったことで、塔内に蓄積されていた千年の死気が暴走を始めたのだ。壁面の詰まっていた気孔が次々と爆ぜ、ブシュゥゥ!という重苦しい音と共に、黒い高圧気流が死血のごとく噴き出した。



 空間が崩落し始め、頭上からは背筋を凍らせる金属の歪み音が響いてくる。



「走れっ!!!!」



 翰文(ハンウェン)は絶叫し、核心を抱いて小花(ムアカイ)へと駆け寄った。



 小花(ムアカイ)は機転を利かせたのか、あるいは恐怖のあまり錯乱したのか。彼女は長い首を伸ばすと、虚脱した無小姐(ミス・ヌル)の襟元をガブリとくわえ込み、手負いの幼獣を運ぶような粗暴な動作で、背中の鞍座サドルへと放り投げた。



 翰文(ハンウェン)は義足の跳躍力を活かし、小花(ムアカイ)の身を蹴って鞍座へ滑り込むと、右手で神経触手を固く握りしめた。



小花(ムアカイ)! 出せッ!!」



 今度は、笛も宥めも必要なかった。生存本能がすべての恐怖を塗り潰していた。



 (……押し潰される!……)



 (……痛い痛い!……早く逃げて!!……)



 小花(ムアカイ)の意識の中で紅い閃光が爆発した。それは勇気ではなく、背後の轟音に追い詰められた「狂気」に近い求生本能だった。



 彼女は音の狂った嘶きを上げ、両足で地面を猛烈に蹴った。巨軀は一筋の白い稲妻となり、磁器の羽をチリン、チリンと鳴らしながら、背後で崩れゆく煙塵の中から、閉じかけようとしていた門を突き抜けた。



 風塔を脱出した瞬間、背後で天地を揺るがすような爆音。



 千年の時を耐え抜いた「04号塔」は、内部の気圧に耐えかねて中ほどからへし折れ、漫天の塵を巻き上げながら崩れ落ちた。



 塵が落ち着く。



 翰文(ハンウェン)は、腕の中でまだ熱を持ち、琥珀色の光を放つ核心を抱きしめたまま、激しく肩で息をしていた。後部座席でぐったりと横たわる無小姐(ミス・ヌル)を見る。彼女は白瓷哨翎はくじしょうれいを握りしめたまま、口元に微かな、疲れ切った微笑を浮かべていた。



「……もう、泣いていないわね」彼女は静かに言った。



 翰文(ハンウェン)は手の中の核心を見つめた。内部の嵐は静まり返り、代わりに平穏な、呼吸のような律動が宿っていた。



 これはもう、啜り泣く幽霊ではない。新しく歌う準備の整った、清廉な「声帯」だ。



 第一の核、入手。



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