第57話 : 血塗れの泡と、真鍮の猿轡
『三流の馭獣師だけが、鞭と飴を信じるのさ。真の支配ってのは、いつだって精密な刑具からもたらされる。野獣が自らの力で自壊するのを防ぎ、同時に、誰が手綱を握る主人なのかを刻み込むためのね』
——『新律禁忌技術目録』、第102条:「安全弁」に関する備忘録より
復路の十二キロメートルは、感官において無限に引き伸ばされ、往路よりも遥かに長く、苛烈な拷問となっていた。
鉄錆の臭いに満ちたあの戦場をとうに離れ、修道院外縁の平坦な硬化路面を歩いているというのに、李翰文の足裏からは「ガシャリ、バリッ」という不快な感触がどうしても消えなかった。
それは食鉄蟻の甲殻を粉砕した際の、残留記憶。
今の足元には乾燥した塵と碎石しかないはずなのに、翰文の神経末端は病的な回路のデッドロックを起こしていた。小花が一歩踏み出し、その鋭い爪が地面を叩くたび、彼の脳内では甲殻が爆ぜる澄んだ音と、高温の漿液がズボンの裾に飛び散るねっとりとした幻覚が自動再生されていた。
その感覚はあまりに真実味を帯びており、彼は何度も無意識に足元を確認せずにはいられなかった。
靴は乾いている。ただ汚れているだけだ。だが、無数の屍を踏みつけ続けたあの嘔吐感は、見えないアスファルトのように彼の霊魂の表層にべったりとこびりついていた。
「……クソ。気持ち悪りぃ……」
翰文は毒づき、痛みで意識を逸らそうと自分の腿を強く抓った。だが神経からの反応は鈍く、無感覚に近い。まるでこの身体が一時的に自分のものではなくなってしまったかのような、薄気味悪い乖離感だった。
感官の錯乱を味わっているのは翰文だけではなかった。
小花の状況はさらに悲惨だった。初めての殺戮を経験したばかりの幼き龍は、極度の神経過敏状態に陥っていた。その巨大な白磁の身体は、数歩ごとにビクリと不随意な痙攣を起こす。悪夢にうなされる子供が眠りの中で飛び起きるかのように。
夜風が荒野を吹き抜け、遠くの廃墟で外れかけた鉄板がガラン!と高い音を立てて地面に落ちた。
廃土ではありふれたその音が、小花の感官では敵襲の信号へと増幅された。
全身を猛烈な震えが襲い、金繕いの関節が瞬時にロックされ、悲鳴のような「ギギィィ、シュゥゥ」という異音を漏らす。本能のままにあの破滅的な「駭入咆哮」を放とうとするが、酷使されすぎて裂けた頸部の傷がそれを阻む。喉のユニットは物理的に損壊しており、漏れ出すふいごのような虚しい嘶きしか出せなかった。血圧の上昇に耐えかねた各部からは、沸騰する白煙と青い冷却液が「ジジッ」と噴き出していた。
「大丈夫だ……小花、落ち着け。何でもないからな」
翰文は必死に神経触手を通じて彼女を宥め、震える自分を棚に上げて平穏な精神波を送り続け、暴走しかけている攻撃衝動を力任せに押さえつけた。
「ただの風だ。……ただの風なんだよ」
翰文の声はひどく嗄れており、古びた麻布を乾いた板の上で引きずっているかのようだった。それが小花を宥めているのか、それとも崩壊の淵にいる自分に言い聞かせているのか、彼自身にも判別がつかなかった。
後部座席の隅では、無小姐が身を縮めていた。
彼女は自分を小さな球体のように丸め、両手で胸元の「白瓷哨翎」を死守していた。指の関節は白く浮き上がり、死人のように蒼白だ。
手を離すことも、目を閉じることもできなかった。この命綱を離した瞬間、あの羽音を立てる紅い悪鬼たちが闇から再び現れ、自分を細切れにするのではないかという強迫観念。彼女の瞳はゲルの外に広がる暗黒を空虚に見つめ、車体が揺れるたびにその肩が小さく震えていた。
三人一龍は、血と汚れ、疲弊、そして見えない亡霊を背負ったまま、沈黙の中で無様に修道院の重厚な防爆シャッターを潜り抜けた。
気密ゲートがゆっくりと閉じられ、廃土の寒風と咆哮が遮断されると、世界にはようやく静寂が戻った。
ガレージ内は煌々と明かりが灯っていた。暖かな黄色の光が一行を照らし出し、久しく忘れていた、どこか刺すような文明の気配を突きつけてくる。空気中には機械油と金属防錆剤、そしてそれらに全く不釣り合いな紅茶の香りが漂っていた。
針夫人は、すでに待ち構えていた。
彼女は依然として優雅で複雑な黒いレースのドレスを纏い、ハイバックのシルク扶手椅子に腰掛けて、湯気の立つボーンチャイナの茶器を手にしていた。
精緻で蒼白、貴族的な彼女の立ち姿は、蟲の漿液を浴び、強酸の腐敗臭を放ち、装甲をボコボコに損壊させた白磁の残骸と、あまりに残酷な視覚的対照を成していた。
彼女は任務の結果を問わず、翰文が必死の思いで持ち帰った「校準器」の空箱にさえ一瞥もくれなかった。
彼女にとって、任務の完遂は前提条件に過ぎない。彼女が関心を持つのは、ただ自らの「作品」のみ。
針夫人の赤く輝く黒い義眼は、立ち昇る茶の湯気の向こう側から、小花の頸部に刻まれた無残な亀裂と、床に滴り落ちる青い冷却液をじっと見据えていた。
「実に見事だね」
針夫人は一口茶を啜ると、カップを置いた。ソーサーと瓷器が触れ合うチリンという鋭い音が、静かなガレージに刺々しく響く。
彼女の口調は平穏だったが、その冷たさは液体窒素にも匹敵した。「第742号。あたしはあんたに旧律時代の『セイレーンの堅琴』を渡したつもりだったが。あんたはそれを、ただの錆びついた鉄槌として扱い、汚らわしいゴキブリどもを叩き潰すことにしか使わなかったようだね」
翰文は神経繭から這い出し、地面に降り立った瞬間に膝が砕けそうになった。小花の酸蝕だらけの腿甲を支えに、彼は激しく喘ぎながら肺を焼く熱を逃がそうとした。
「……少なくとも……俺たちは生きて戻った」
(……それに、ゴキブリ共も皆殺しにしたしな……)
脳内の「残り火」が血生臭い意念を付け加えた。どうやらこの寄生人は、翰文の泥臭い「生き残った者が勝ち」という論理に一定の理解を示しているようだった。
「生きている、だと?」
針夫人は冷笑し、優雅に立ち上がった。裾が床を滑り、サササという衣擦れの音を立てる。彼女が歩み寄ると、その強烈な威圧感に巨獣は本能的な恐怖を覚えた。
小花は怯えて身を縮め、後方の工具棚に身体をぶつけてガシャァン!と巨響を立てた。損壊した喉からは、低く苦しげな、意味をなさない「グルル……」という掠れた音が漏れる。声帯を失った者の悲鳴だ。
「黙りなさい」
針夫人は黒いベルベットの手袋の手を伸ばし、小花の喉元に直接置いた。
その動作に優しさはなく、外科医のような冷酷さが宿っていた。指先は装甲の裂け目へと深く潜り込み、煮え滾る青い冷却液に汚れながらも、彼女は決して手を引かなかった。
「この声を聞いてごらんよ。声帯ユニットはオーバーヒートで溶け、高音域の共振腔は粉々に砕けている。基礎的な音律の維持さえできていないじゃないか」
彼女は翰文に向き直った。その瞳は刃のように鋭く、稀少な至宝を台無しにした野蛮人を断罪していた。
「あんたは『龍吼』を何だと思っているんだい? ただの声量自慢だとでも? あれは精神と肉体の完璧な共鳴であり、旧律が古龍へ授けた高等権限だ。この子は今、重型の攻城機甲を操る赤ん坊に過ぎない。周波数の調整さえ知らないんだ。それを、第742号……あんたのやり方は、この子の脳と声帯をまとめて灰にする一歩手前だったんだよ」
翰文は沈黙した。言い返す言葉がなかった。
あの瞬間、選択の余地はなかった。だが、彼女の指摘が正しいことも、神経連結を通じて理解していた。あの刹那、小花の内部で、金属よりも脆い「何か」が、ぷつりと断裂したのを彼は確かに感じていたのだ。
「修復には三日かかる。あたしの在庫も少ない高階液体金属を使うことになるね。この費用はあんたの帳簿に付けておくよ。――もちろん、倍額でね」
針夫人は手を引き、指先の青い液体を忌々しげに振り払った。そしてワークテーブルから、真鍮と白磁、そして黒い皮革が編み込まれた重厚な「項圈」を手に取った。
その造形は精緻で、ヴィクトリア朝の拘束具を思わせる禍々しい美しさを持ち、表面には細かな旧律のルーンが刻まれていた。しかしその優美な外見に反して、内側には冷たい光を放つ抑制探針がびっしりと並び、その一本一本が脊椎神経の要所を狙っていた。
「それは何……?」無小姐が堪えきれず口を開いた。その刑具のような美しさに、生理的な不快感を隠せなかった。
「崩壊を防ぐためのヒューズ。あるいは……野獣の足を止めさせる『銜み』だよ」
針夫人は無表情にその項圈を下げて小花の前に立った。
小花はその物体から放たれる圧倒的な制圧の気配を察し、恐怖にのたうち、巨大な爪が床を激しく掻き毟って耳障りな音を立てた。
だが、針夫人が片手で面甲を抑えつけると、無形の圧力が小花を一瞬で金縛りにした。
「力の制御を覚えられないのなら、あたしが手伝ってあげるよ」
カチャリ、という冷たく精密な金属の噛み合い音。真鍮の項圈は小花の頸部に固く固定された。それは裂けた傷痕を覆い隠す、華麗で残酷な「封印」だった。
キィィィィンという長い唸り声と共に、項圈のルーンが一斉に赤い光を放ち、すぐさま金属の内部へと沈んでいった。
小花は声なき嗚咽を漏らし、身体をビクンと強張らせた。喉を異常に冷たく、重苦しい力で締め上げられた感覚。体内で渦巻いていた、いつでも爆発させられた「咆哮の衝動」は完全に断ち切られ、目に見えない口球を噛まされたかのように、霊魂までもが施錠されたのだ。
「これは彼女の神経中枢に直結している」
針夫人は硬直する小花の面甲をポンと叩いた。
「これから、この子は無害な小夜曲しか歌えない。破滅の戦歌など二度と口にしようと思わないことだね。もし彼女が――あるいはあんたが、再び自滅的な音波攻撃を強行しようとすれば、この探針が脊椎神経を直接貫き、強制的に意識連結をシャ断する」
「そんなの……不公平だ」翰文は奥歯を噛み締めた。苦悶する小花の姿に胸が締め付けられる。「荒野で危険に遭ったらどうする? 俺たちは何で身を守ればいいんだ?」
「力じゃなく、脳みそを使うことを覚えるんだね」
針夫人は背を向け、自室へと歩き出した。揺れる裾が冷たく突き放す。
「あんたたちが『身心合一』を成し遂げ、律法に呑まれるのではなく律法を乗りこなせるようになった時、そいつは自然と解けるはずだよ。……それまでは、一生その恥辱の刻印を首に下げて、去勢された家畜として生きるんだね」
針夫人が去り、ガレージには放置されたホースや清掃用具、そして三つの傷ついた魂だけが残された。
静寂が戻った空間に、換気扇の回る単調な音と、冷却パイプから滴る水音が響く。
「……ふぅ。……おいで」
翰文は、肺の中の澱みをすべて吐き出すかのような、長い溜息をついた。隅に置かれていた高圧洗浄ガンと硬毛ブラシを手に取ると、彼は小花の傍らへと歩み寄った。
休む気にもなれず、鼻血の跡を拭うことさえ忘れていた。
彼は小花を洗い始めた。
それは単なるメンテナンスの義務ではなく、声なき贖罪の儀式のようだった。
水栓を開くと、冷たい水柱が汚れにまみれた白磁の装甲を叩いた。専用の洗浄フォームを噴きかけると、白い泡は装甲の表面に触れた瞬間、乾ききった暗紅色の蟲の漿液に染まり、目を剥くようなピンク色へと変色した。
赤い汚水が磁器の羽を伝って流れ落ち、床の排水溝にいくつもの血の河を作って、暗い下水道の奥へと消えていく。
小花は地面に伏したまま、翰文のなすがままに洗われていた。首に新調された真鍮の項圈が、ライトを反射して冷酷な光を放つ。水流が腐食した傷口に触れるたび、彼女はビクリと身を竦ませ、筋肉を強張らせたが、最後まで一度も声を上げることはなかった。――もはや、上げる声さえ奪われていた。
翰文はブラシを握り、酸で抉られた脚の腐食孔を、力を込めてこすり落とした。
ブラシの毛がザラついた穴の縁を削り、シャリシャリという音を立てる。一回、また一回とブラシを動かすたび、脳に焼き付いていた「甲殻を砕く感官」の幻覚が、僅かずつ薄れていった。
現実の労働、筋肉の酸痛、そして徐々に露わになる本来の白磁の輝き。それが幻覚に対する何よりの薬だった。
「すまない、いい子だ」
翰文は洗いながら、自分でも驚くほど優しい声で囁いた。力を込めすぎた掌は小刻みに震え、指の関節にはまだ乾いた血がこびりついている。
「俺が焦りすぎたんだ。……その項圈は、見た目は最悪だが、少なくともお前の命を守ってくれる。俺たちが制御の仕方を覚えたら……一緒にそいつを外そう」
「あと、お前に二つのことを教えてやる。俺の故郷の有名な格言だ。一つ、『逃げるのは恥だが役に立つ』。そしてもう一つ、『人生には何度か、勝負しなきゃならない時がある』」
その言葉は小花に向けるというより、自分自身に言い聞かせているようだった。
無小姐はそれを聞き、呆れたように目を伏せて首を振った。
脳内の「残り火」はこの感傷的な芝居を鼻で笑っていた。翰文の脳裏に、一つのイメージが投射される。
――雨の中に捨てられ、泥まみれになった一匹の古いぬいぐるみ。
直後、微かな、酸っぱい「嫉妬」の気配が伝わってきた。
翰文の多感さを嘲笑いながらも、この愚鈍な龍には身体を洗ってくれる者がいる事実に、あるいは自分がかつて持っていた「温度を感じる過去」に、思いを馳せているようだった。
三十分後。
清掃は終わった。
小花は本来の白さを取り戻した。身体中には傷の凹凸が残り、首には囚われの象徴が嵌められたが、少なくとも彼女は清潔になり、あの吐き気を催す死の気配は消えていた。
翰文はブラシを投げ捨てると、背骨を抜かれたかのように小花の温かな腹にもたれかかり、完全に虚脱した。指一本動かす気力も残っていなかった。
ずっと黙ってホースを渡していた無小姐が、大きな乾いたタオルを持って近づいてきた。
彼女は黙々と小花の面甲に残る水滴を拭いてやった。その手つきは、壊れやすい自分自身を扱うように優しかった。
指先が冷たい真鍮の項圈に触れた瞬間、彼女の指が明確に震えた。彼女はしばらく手を止め、この冷たい金属を通じて、「束縛」と「運命」に関する何らかの共鳴を感じているようだった。
何かを言いかけたが、結局は溜息と共にそれを飲み込んだ。
「眠ったわ」無小姐が静かに言った。その声は広いガレージの中で驚くほど明瞭に響いた。
翰文は重い頭を上げ、地面に伏す巨獣を見た。
小花の呼吸は深く、穏やかだった。だが時折、四肢が激しく痙攣し、巨大な爪が床をガリッと引っ掻いた。
夢の中で、彼女はまだ戦いの中にいるのだ。永遠に殺し尽くせない蟲どもを、踏み潰し続けているのだ。
「……俺たちも、寝よう」
翰文は重い瞼を閉じ、ガレージの外で荒れ狂う廃土の夜風に耳を傾けた。
初めての出撃。満身創痍になり、枷さえ嵌められた。
だが少なくとも、彼らは第一の門を越え、生きて戻ってきた。
遥か遠くの風鳴りの中に、より凄惨な、遠き旧風塔群からの金切声が混ざっていた。その声は泣いているようでもあり、一行を招いているようでもあり――彼らの到来を、挑発的に待ち受けているかのようだった。
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