第56話 : 鉄錆の心臓への鎮痛剤と、殺戮の余熱
『悲鳴を上げる機械を治療するためには、まずそいつに寄生している「聴眾」を皆殺しにしなければならない。だが、引き金を引く前に覚えておきな。機械の目から見れば、スパナを握ったあんたも電纜を囓る蟲も、本質的な違いなんてない。——どちらも「苦痛」という名の外来異物に過ぎないのさ』
——『重型機械維護手冊』第七版、生物災害処理条項:アヴァロン型周波数抑制錠の使用法について
恐怖の極致は麻痺ではない。狂気だ。
今の小花は、制御を失った白い挽き肉機と化していた。
李翰文の自暴自棄に近い意志に突き動かされ、数トンの質量を持つ白釉の駭鳥は、生物としての回避本能を完全に投げ捨てた。廃土の険路を往くために設計されたはずの逆関節の金繕いの双足は、今や最も残虐な破城槌へと変貌していた。
耳を削るようなバリバリという破砕音と共に、白磁の巨爪が地面で蠢く紅い蟲の潮を無慈悲に蹂躙する。食鉄蟻の堅牢な甲殻も、古龍の怪力の前では秋の枯葉も同然だった。それは一瞬にして爆ぜ、強酸の臭いを撒き散らす紅褐色の漿液へと成り果てていく。
翰文は生体ゲルの満ちた「神經繭」の中で、暴走する攻城兵器に跨る騎士のような心地でいた。視覚連結は断たれているが、神経触手を通じて凄まじい殺戮のフィードバックが伝わってくる。踏みしめるたびに響く甲殻の割れる感触、装甲にこびりつく蟲の返り血の熱、そして小花の体内から漏れる、昂揚に伴うジジジという異音。それらすべてが、彼の神経末端を容赦なく焼き尽くしていた。
「突っ込め! 止まるな!」
翰文は吠えた。鼻から溢れた鮮血が口内に逆流し、鉄錆の味と生体ゲルの化学的な甘みが混ざり合って、崩壊寸前の五感を刺激し続ける。
目的地である巨大な主控室は、もう目の前だった。
蟲の群れは紅い壁を築いてこの狂える獣を阻もうとしたが、数トンの白磁が持つ物理的動能の前では、すべてが虚しい血飛沫へと変わった。
天を衝くような轟音と共に、小花は頭部を低くして突進し、眼孔のない硬質な面甲を主控室の重厚な防爆門へと叩きつけた。錆びついた門番の蝶番が凄惨な悲鳴を上げ、ねじ切れて吹き飛ぶ。その奥に、脈打つ「心臟」が姿を現した。
主控室内部の光景は、正視に耐えないものだった。
そこはもはや機械室の範疇を逸脱し、金属と有機物が不気味に融合した巨大な「胃袋」の腔体と化していた。
腕の環境モニタが耳障りな電子音と共にレッドゾーンへと跳ね上がり、空気中の胞子濃度が致死量を超えたことを告げる。
中央に鎮座する巨大な自動圧力ポンプ。その上方からは、ミイラ化した人間の手首が突き出しており、その骸は呼吸を繰り返す分厚い紅い菌糸の絨毯に覆い尽くされていた。無数の半透明な菌糸が金属の外殻に深く根を張り、機械の稼働熱を貪欲に吸い上げている。
ポンプのピストンが動くたび、菌糸の絨毯は圧迫され、プシュッ、グチュリという湿った音と共に紅い胞子の霧を撒き散らしていた。
翰文がその吐き気を催す腫瘍を凝視した瞬間、脳内の「残り火」からジリジリというノイズが走った。鼻を突く濃厚なオゾンの臭い――クリーンルーム特有の清潔な気配――が、血生臭さを強引に塗りつぶしていく。
キーンという澄んだ共鳴と共に、現実の視界がバグのように揺らいだ。
翰文の眼前に広がる紅い菌糸と錆びた鉄壁は次第に透き通り、その上から千年前の潔白な映像が強引に重ね合わされた(オーバーレイ)。
神聖な幾何学美に満ちた殿堂。
そこには錆も蟲もなく、あの死体さえも存在しない。あるのは静謐に稼働する銀色のピストンと、虚空に浮かぶホログラムの光幕。
光幕の文字は「概念」として、直接翰文の認識に刻み込まれた。
——第七豐穰樞紐(セクター07・フェルティリティ・ハブ)
所属:ガイア循環システム / 職能:荒野地下水の浄化および灌漑分配。
その名はとうに失われた誇りと希望を宿しており、目の前の蛆が這い回る現実と、反吐が出るようなコントラストを成していた。
「残り火」から、冷徹で、かつ深い哀惜を帯びた怒りが伝わってくる。かつて千里の沃土を潤していた神聖な中枢が、今や蟲の巣窟へと成り下がっている。
豊饒は死に絶え、残されたのは爛れのみ。
その思考は錆びた釘のように、翰文の脳髄に深く突き刺さった。
室内へ踏み込んだ小花は、本能的にその醜悪な塊を破壊しようと動く。
「待て、小花! 止まれ!」
翰文は神経触手を猛然と引き絞り、彼女の破壊衝動を力任せに抑え込んだ。
「壊すな! こいつを壊せば、エリアごと爆発するぞ!」
小花は不満げな「グルル……」という唸り声を漏らし、粘液まみれの床に脚を滑らせながらも、ポンプの前で辛うじて踏みとどまった。
翰文は大きく息を吐き出し、向き直ると、喉の奥から嗄れた声を絞り出した。
「……箱を」
言葉にするまでもなかった。後部座席で顔面を蒼白にさせ、全身を震わせていた無小姐だったが、すでに固定ベルトを解いていた。彼女は氷のように冷たい手で、針夫人から託された重厚な金属箱――「圧力校準器」を、翰文の胸へと押し出した。
彼女は何も言わなかったが、その瞳には「早くすべてを終わらせて」という悲痛な訴えが書き込まれていた。
翰文は防毒マスクを装着すると、小花の背からよろめきながら飛び降りた。靴が菌糸の絨毯を踏むたびにヌチャリという嫌な音が響き、それはまるで熱を出して喘ぐ深淵の巨獣の、爛れた舌苔の上を歩いているかのような不快感だった。
彼はポンプの操作パネルへと駆け寄る。本来のソケットは硬化した蟲の蝋と死体から伸びる触手によって封鎖されていた。翰文は腰のナイフを抜き、その硬殻を力任せに抉じ開けた。
ガランと錆びた銘板が剥がれ落ち、中から赤く明滅するインターフェースが露わになる。
翰文は深く息を吸い、手にした金属装置をその穴へと向けた。
金属の縁に指が触れた瞬間、意識の中で「幻視」が再び爆発した。
今度は静止画ではない。動的な、ミクロの歴史回溯。
周囲の時間が、千年を遡る。
驚愕する翰文の傍らに、一人の半透明な幽霊が立っていた。
旧律時代の白い技師長袍を纏った男(恐らくはあのミイラの生前の姿)。顔は判然としないが、彼から発せられる理性を圧殺せんばかりの恐怖と絶望が伝わってくる。
幽霊の手にも、同じ装置が握られていた。彼は必死の形相で、同じソケットにそれを挿し込もうとしていた。翰文には、千年前の彼の咆哮が聞こえた。
『こいつが目覚めちまった! 連結を切れ! 早く! こいつは人間を食っているんだ!』
「残り火」の冷徹な意念が脳に焼き付けられ、手の中の物体に無音の注釈を下した。
(――これを修理部品だなどと思うな。そいつの名は「抑制錠」、あるいは「猿轡」だ)
旧律崩壊の初期、生態維持を司っていた無数の機械巨神たちは、律法の導きを失い、歪んだ「自意識」を芽生えさせ始めた。彼らはもはや人間に奉仕せず、人間を燃料として見なし始めたのだ。
この「校準器」は、針夫人が授けた毒薬。機械の魂を「殺す」ための道具。
彼女が翰文に強いたのは、千年前の技師と同じ過ちの再演――「生きよう」とする機械への、前頭葉切除手術だった。
翰文の手が、千年前の幽霊の手と重なり合う。
同じ動作。同じ恐怖。
「……悪く思うなよ、大層な御人さん」
眼前の苦痛に喘ぐ機械を見据え、そして絶望の中で事態を収束させようとした幽霊を見つめる。
「あんたが何者であれ……俺はあんたを黙らせなきゃならないんだ」
彼は奥歯を噛み締め、両手に力を込めた。カチャリという硬質な音と共に、重厚な装置をソケットへと力任せに叩き込んだ。
キィィィィィン!という鋭い高周波の唸り声が空間を貫く。
装置のインジケーターが赤から緑へと反転した。
同時に、傍らにいた幽霊は無数の光の塵となって砕け散り、空気の中へと消えていった。
現実が回帰する。直後、強力な旧律のパルスが回路を伝ってポンプ全体へと拡散した。
狂乱していたピストン運動が、唐突にその動きを止める。
機械に付着していた紅い菌糸は電流を浴びたように激しくのたうち、見る間に枯れ果て、黒ずみ、悪臭を放つ黒い水となって溶け落ちた。
上に吊るされていた死体も震えを止め、眼窩の赤光が消え、完全なる骸へと戻った。
ポンプの熱と震動という供給源を失った食鉄蟻たちも混乱に陥った。
翅の共振は止まり、彼らは雨のように地面へパチパチと落下し、苦痛に身体を丸めると、数秒後には動かなくなった。
わずか十秒。道中自分たちを苛み続けたあの低周波の轟鳴は完全に消失した。
代わりに訪れたのは、死のような静寂。そして、正常な運行を取り戻したポンプが奏でる、平穏で単調な、冷え切った機械音だけだった。
それはもはや「生きている」豊饒の中枢ではない。
番号「07」を与えられた、ただの聞き分けの良い鉄屑に戻ったのだ。
危機は去った。幻視も消え、翰文は冷たい制御台に背を預け、ずるずると地面に座り込んだ。
アドレナリンが引くと同時に、劇痛が再び押し寄せた。脳をスプーンで抉り取られたかのような、空虚で鋭い痛みが走る。
「……終わったの?」
無小姐が小花の背からおずおずと声をかけた。掌にはまだ白磁の笛が握られ、その瞳には怯えの色が残っている。
翰文は頷いたが、言葉を発する気力さえなかった。
彼は小花を見た。先ほどまで戦場で狂い咲いていた白磁の巨獣は、今や糸の切れた人形のようになっていた。
そいつは呆然と立ち尽くし、蟲の漿液と汚れにまみれた自分の脚を見つめていた。白磁の装甲にあった輝きは血汚れに覆われ、いっそう禍々しく、不潔に見えた。頸部の裂け目からはまだ熱気が立ち上り、青い冷却液が床へと滴り落ちる。
身体が激しく震え、ガシャガシャと絶え間ない硬質な音を立て始めた。
それは恐怖ではない。殺戮の後の「離脱症状(禁断症状)」だった。
翰文によって強引に注ぎ込まれた「憤怒」が消え去り、代わって訪れたのは、自らのしでかした事への戦慄。彼女は死体の山を見つめ、これが自分の仕業であることを信じられないといった様子だった。
彼女は力ない鳴き声を漏らし、ゆっくりと身を丸めた。記憶の中の清潔な卵の殻へ戻ろうとするかのように。だがどれほど身を縮めても、その美しい白磁の羽は、もう汚れてしまっていた。
二度と、洗っても落ちない汚れ。
翰文はその光景を見て、胸に鋭い痛みを覚えた。
これが「成長」なのだ。自分の身体についた血が、二度と落ちないことに気づく。それが大人になるということ。
彼は這うようにして立ち上がり、小花の傍らへ歩み寄った。粘つく不快な蟲の返り血など構わず、手を伸ばし、その冷たく震える面甲を優しく抱擁した。
「……もういいんだ。小花。よくやったよ」
翰文は神経連結を使わず、額を彼女の面甲に押し当てて、嗄れた声で囁いた。
「いいんだ……。汚れたら、帰って洗えばいい。……帰ろう、俺たちの家へ」
────────────




