第55話 : 第七号旧水站の生体腫瘍
『廃土の建築物に「空き家」なんて概念はない。もし自分の家を三日以上離れたなら、そこは別の何かの巣に変わる。それが三年だったら? もはやそこは家じゃない。巨大な消化器官だと思え』
——『廢土生態學』第四章:寄居と捕食について
夜の帳が下りた廃土において、気温は断崖絶壁を転げ落ちるように急降下する。日中、陽光を浴びて焦熱を放っていた砂礫は、今やドライアイスを敷き詰めたかのように冷え切っていた。
李翰文と無小姐は、発光する卵のような**「神經繭」**の内部に保護されていた。生物ゲルの膜が二人を包み込み、風砂と放射線を遮断し、一定の温度を維持する。外に広がる死の冷気も、これには手出しできない。
だが、深い「共感」状態にある翰文にとって、物理的な温度変化など、これから味わう恐怖に比べれば取るに足らないものだった。
遠方から、幽かに、しかし重く響いてくる鼓動。それは彼のものでも、小花のものでもない。前方にある巨大施設の放つ、病的な律動。
「第七号旧水站」。その獰猛な輪郭が、闇の中に浮き彫りになった。
地図上のそれは整然とした工業用の青いドットに過ぎなかったが、現実に横たわるその鋼鉄の屍骸は、鉄錆色の爛れた瘡蓋に覆い尽くされていた。無数の太い送水管が壊死した動脈のように地底深くへと突き刺さり、もつれ、歪み、ある箇所の壁面は内側から異様に膨らんでいる。もはや中を流れているのは水ではなく、どろりとした鬱血のようにさえ見えた。
中央の主ポンプ室は、さながら病変した巨大な機械の心臓だった。
ドクン、ドクン。重苦しく、粘りつくような拍動音。一度の震動ごとに周囲の薄い空気はジジジと不快な共鳴を起こす。それは機械の稼働音というより、巨大な軟体生物が粘液の中でのたうち回る音に近かった。
小花の足が、水站まで五百メートルの地点でぴたりと止まった。
その拒絶はあまりに強烈で、油圧関節からはキィィィという耳を刺すロック音が響き渡る。白磁の羽は、怯えた時のように逆立つのではなく、逆に身体にぴっちりと張り付いていた。自分を一個の硬い白磁の卵へと変え、対話も、感知も、一切を拒絶しようとしていた。
(……中に、何かいる……)
(……たくさん……口があるの……)
その恐怖は、翰文が握りしめる金色の神経束を通じて、一点の曇りもなく脳内へと逆流してきた。
翰文の総毛が立った。具体的な映像は見えないが、肌を這い回るような、吐き気を催すほどの「ざわつき」が伝わってくる。素手を蛆の湧いた腐肉の山に突っ込んだかのような、湿り気を帯び、生暖かく、蠢く感触。それが指先から神経を伝い、脊椎の深部で消えない悪寒となって凝固した。
「無小姐、笛を止めるな」
翰文は歯を食いしばった。舌を噛んだ鉄錆の味と、胃からせり上がる胆汁の苦味が混ざり合う。その声は砂紙を擦り合わせたように乾ききっていた。
「わ……私、頑張るわ」
後部座席の無小姐も余裕はなかった。長時間に及ぶ風律の使用で、白磁の笛を握る指先は死人のように白く強張っている。それでも彼女は途切れがちな、震えるピーーッという音を響かせ続け、崩壊しそうな巨獣の精神を、狂乱の波から辛うじて繋ぎ止めていた。
「行くぞ、小花。荷物を届ければ、すぐに帰れるからな」
翰文は脳の深部を焼けた鉄針で何度も突き刺されるような激痛に耐え、強引に小花の脚部筋肉を動かした。
それは、錆びついた操り人形を無理やり動かすような感覚。神経を一本引くごとに、莫大な精神力が削り取られていく。
抗う巨爪が、ようやく一歩を前へ踏み出した。
一行は慎重に水站の外壁へと近づいていく。周囲の地面は分厚く石灰化した菌糸の絨毯に覆われ、巨大な獣のフケのような灰白色の不気味な質感を呈していた。一歩踏むたびに、骨を砕くようなカシャリという音が死寂の荒野に響き渡る。
巨爪が倒れた鉄条網を越えた、その瞬間。
翰文の脳内の「残り火」が警報を鳴らした。
窒息するほどの濃密な硫黄の臭いと焦げた臭いが、翰文の嗅覚中枢をジャックする。
直後、悪意と嘲弄に満ちた鮮明な「イメージ」が網膜に焼き付けられた。
――収縮する巨大な蜘蛛の網。
その中心で粘液に巻かれ窒息しかけている一匹の蠅。そして周囲には、暗闇の中で輝く無数の貪欲な複眼。
これは「残り火」の親切心による生態学のレクチャーなどではない。この尊大な居候が放つ、最悪の嘲笑だった。
(……よく見ておけ、器よ。この水站そのものが開かれた「口」であり、貴様は自ら食卓へと這い上がっているのだ)
翰文がその致命的な意味を理解するより早く、小花の魂が神経連結を引き裂かんばかりの悲鳴を上げた。
(……来たッ!!……)
ドォォォォン!という巨響と共に、前方にある直径二メートルの送水管がパンパンに膨らんだ風船のように膨張した。錆びついた金属の外装が悲鳴を上げ、内側から猛然と爆ぜる。
だが、期待していた高圧の廃水など一滴も噴き出さなかった。
代わりに現れたのは、視界を埋め尽くす赤い霧。そして、圧力鍋が爆発したかのように吐き出された、拳ほどの大きさの鉄錆色の甲虫たち。
翰文は一瞬、それらを**食鉄蟻**だと思った。
だが、目の前のそれは以前見たものとは決定的に違っていた。
腹部は不気味な生物的赤光を放ち、翅の羽ばたきは地底ポンプの鼓動と完全に同調している。統制の取れたその律動は、独立した個体ではなく、巨大な意志の末端細胞であるかのように見えた。
彼らは侵入者ではない。この水站の「免疫システム」そのものだった。
そして今、最高級の白磁と黄金、高純度合金で組み上げられた小花の身体は、飢えた捕食者たちにとって、極上の香りを放つミシュラン三ツ星のディナーに他ならなかった。
蟻の群れが獲物を捕捉した。
数万羽の翅が一斉に共振し、荒野の風の音さえもかき消す轟音の壁を形成する。それは催眠的な低周波を伴い、小花の感官を激しく叩いた。
(……痛い! 痛い! 痛い!……)
(……噛まないで……嫌だ……)
密集した音波攻撃が神経連結を伝って翰文の脳を直撃する。耳の中に錆びた電動ドリルを突っ込まれ、同時に煮えたぎる鉄液を流し込まれたような衝撃。
「あ、あああああぁぁぁーーッ!」
翰文は凄惨な絶叫を上げ、鼻血を噴き出しながら操作台を赤く染めた。彼は生物ゲルの鞍座の上で身体を丸め、頭を抱えてのたうち回った。
これで小花は完全にパニックに陥った。
逃げることも、戦うこともできず、龍の感官を狙い撃ちにした恐怖に縛られ、その場に縫い止められてしまったのだ。いじめられた子供のように、ただ頭を抱えて泣きじゃくる。
紅い潮となった蟻の群れが押し寄せ、一瞬にして彼女の純白の磁器の脚を覆い尽くした。
鉄錆を噛み砕く巨大な顎が、白磁をガリガリ、バリバリと囓り始める。凄まじい咀嚼音。白磁の表面が酸液で腐食され、幾筋もの青い煙が立ち上る。
針夫人による硬化処理のおかげで、すぐには食い破られない。だが、「無数の口に喰われる」という極限の恐怖が、残り火の動揺を通じて、一点の漏れもなく翰文へと伝播していった。
皮膚の至る所で生々しい幻痛が走り、すべての神経が悲鳴を上げながら慈悲を乞うていた。
「翰文! 小花!」
無小姐の悲鳴が後部から聞こえる。
彼女は風律で蟲を吹き飛ばそうとしたが、あまりの数に、その微弱な気流は無視された。数匹の蟲が生物ゲルの装甲を叩き、ドクン、ドクンと不気味な衝撃音を立てる。
翰文の視界は真っ赤に染まっていた。
そこへ、脳内の「残り火」が冷え切った、古い塵のような臭いを伝えてきた。
視界に浮かぶのは「錆びたハサミ」のイメージ。その意味は明白で、反吐が出るほど冷酷だった。
(……連結を切れ。……)
(……この愚鈍な獣を囮にして、貴様一人で逃げろ。それが損失を最小限に抑える、最善の解だ。……)
(……断ち切れ。……)
翰文が念じるだけで、神経束は切れ、すべての苦痛は消え去る。
「……ふざけんな……黙れよ……ッ」
翰文は血の混じった唾を吐き出し、劇痛の中で血走った目を開いた。
針夫人の言葉が蘇る。――「乗りこなそうとするんじゃない。相談するのさ」。
相談だぁ? ふざけるな。
こんな状況で、腰を抜かした子供と何が相談できる。
危機に直面した保護者は、子供と相談などしない。保護者は、すべてを「引き受ける」のだ。
「小花……教え……てやる。……どうすればいいかを……!」
翰文は連結を断つどころか、震える両手で金色の触手を力一杯握りしめ、爪をゲルの中へ深く食い込ませた。
彼は自ら精神連結のバルブを全開にし、己の意志を沸騰した油のごとく強引に流し込んだ。恐怖を遮断するのをやめ、両腕を広げてそれを抱擁した。脳を突き抜ける幻痛を全身で受け止め、喰われる感覚さえも自分の一部とした。
「ウゥ……オォォォ……!」
翰文の喉から野獣のような咆哮が漏れた。
彼の意志は燃え盛る激流となり、小花の混乱した脳へと突っ込んだ。幾重にも重なる恐怖の霧を突き抜け、隅で震える幼い霊魂を見つけ出した。
彼は慰めを選ばなかった。代わりに、自らの「憤怒」を注ぎ込んだ。
「俺の脚だ……! 汚ねぇ蟲共が、俺の脚を喰ってんじゃねぇ……ッ!」
翰文が吼える。それは指令というより、彼自身の本能の爆発だった。
この瞬間、境界は消滅した。彼は、自分がこの白磁の巨獣そのものであると感じていた。
蟲たちが自分の肉を噛み、自分の血を啜っている感覚が、現実となって彼を貫く。
その侵犯に対する激しい怒りが、死への恐怖を焼き尽くした。
翰文の狂気じみた意志に突き動かされ、丸まっていた小花の面甲の下の感官核心が、猛然と収縮した。
彼女は翰文の怒りを感じ取ったのだ。
その怒火は恐怖の壁を焼き払い、血脈の中に眠っていた、捕食者の頂点としての矜持を呼び覚ました。
ジジジ……という音と共に、小花の腿関節にある金色の油圧管が、目も眩むような光を放った。それはエネルギー出力が臨界点に達した合図。
彼女はもう、怯えるダチョウではない。針夫人が造り上げた殺戮兵器。創造と権威を象徴する古龍の末裔。
かつてない、金属の摩擦と高圧気流、そして猛獣の咆哮を混ぜ合わせたような絶叫が、小花の喉の奥から爆発した。
それは人間に聞こえぬ超高頻度の龍の咆哮(陰性周波数)——「駭入咆哮」。
声を単なる音律ではなく、犀利な武器へと変える異能。
超高周波の音波が小花を中心に、肉眼で見える半透明の衝撃波となって周囲へ拡散した。
大気が一瞬で凍りつき、直後に粉々に砕け散ったかのような錯覚。
パンパンパン!という連続した爆裂音が響き渡る。脚に群がり、貪欲に貪っていた数百匹の食鉄蟻たちは、その恐怖の音波の直撃を受け、甲殻が一瞬で致命的な共振を起こした。
逃げる暇もなく、彼らの身体は空中で押し潰されて粉砕され、赤い酸っぱい臭いを放つ漿液となって辺りにぶち撒けられた。
だが、その力の代償もまた、迅速かつ凄惨なものだった。
パキィィン!という心臓を掴むような音が響き、小花の頸部の白磁装甲が、内部の共振熱に耐えかねてひび割れた。
煮え滾るような青い冷却液が血のごとく噴き出し、地面をジリジリと腐食させる。
翰文も同時に呻き声を上げた。喉に真っ赤に焼けた炭を丸呑みしたかのような感覚。声帯は瞬時に知覚を失い、鉄錆の味のする液体が口内に溢れ出した。
そして、これは完全な勝利にはまだ遠かった。
あほどの音波衝撃を受けてもなお、十数匹の巨大な個体が白磁装甲の隙間に深く食い込み、仲間の死など構わず狂犬のように囓り続けていたのだ。
小花の脚部装甲は、今や月面のように穴だらけで、鼻を刺す酸の煙を上げている。
(……走れ……ッ!)
翰文は声にならない叫びを脳内で轟かせた。口の周りは血に汚れ、その表情は鬼神の如く凄まじい。
(突っ込め! 踏み潰してやる……!)
小花が動いた。
頸部が煙を上げ、青い「血」を流しながらも、彼女はかつてない「反撃の快感」に震えていた。
赤い蟲の死骸を纏い、穴だらけになった白磁の長腿を踏み出し、不格好ながらも凶悪な勢いで、残存する蟲の群れを蹂躙しながら突き進んだ。
「……信じられない……」
後部座席の無小姐は翰文の背中にしがみつき、驚愕のあまり笛の音を外した。
目の前で巨獣を操り、狂乱の突撃を敢行する男。彼女は震える唇で、絞り出すように呟いた。
「この人……小花に悪い遊び(たたかい)を教えてる……」
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