第54話 : 十二キロの眩暈地獄
『地図上の直線距離なんてのは、死人のための数字さ。生きた人間が廃土を移動するなら、計算すべきはキロメートルじゃなく、胃袋の残量と理智(SAN値)の残高だよ』
——李翰文、『廢土行者日記』:第七号旧水站への短途の悪夢について
針夫人の言う「八響」。それは現代の尺度に直せば、およそ十二キロメートルほどの距離を指す。「一響」とは、凄惨な悲鳴が届く限界距離のことだ。
旧律時代なら、高速列車でわずか三分。針夫人の感覚では、金繕いの一周期を単位とした「三縫」に過ぎない。二本の足で歩いたとしても、せいぜい三、四時間の道のりだ。
翰文の故郷では、時間はグリニッジの振り子であり、画面の右下で跳ねる無機質な数字だった。だがここでは、時間に重みと臭いがある。針夫人は「一時間」とは言わず、「一鐘」と言う。地平線から響くあの低周波の鈍い音は、死神が「世界」という名の巨大な棺桶を叩いているかのようだった。
しかし、現在の李翰文にとって、この二つの要素の組み合わせは、精神を崩壊させるに十分な天文学的数字だった。
修道院の門を離れてから、すでに二十分が経過していた。
翰文が振り返ると、あの巨大な温室のドームが依然として鮮明に視界に留まっていた。ガラスが陽光を反射して嘲笑うように輝き、手を伸ばせば届きそうなほど近くに見える。
「……まだ五百メートルしか進んでないのか?」
翰文は、のろのろと歩を進める小花を感じながら、深い徒労感に包まれていた。
白いスポーツカーを手に入れたつもりだったが、現実は重度のパニック障害を抱えた巨大なダチョウに跨っているようなものだ。
小花の白磁の義体は強靭で、重戦車の装甲をも容易に引き裂く力を持っているが、義足に馴染もうとする翰文と同様に、「地面」に対して病的なまでの過敏さを抱えていた。
修道院からそれほど離れていないとはいえ、すでに旧水站の管路エリアに足を踏み入れている。地下には無数の巨大な送水管が埋設されており、その大半は干上がっているものの、残存する油圧システムがいまだ稼働し続けているため、地面は絶え間なく低周波の震動を放っていた。
ブゥゥン……というその微かな震動は、人間にはほとんど感知できないレベルだが、古龍の過剰な感官にとっては、震度十の巨大地震の前兆に等しかった。
(地面が動いてる……崩れる……)
(行きたくない……隠れたい……)
小花は一歩進むたびに立ち止まり、地面が裂けないかを確認しようとする。筋肉は岩のように強張り、各関節からは抗議のような油圧の軋み音が漏れる。
地面の震動を避けようと蛇行を繰り返すため、歩みは一向に進まない。時折、見たこともない生物を見つけては好奇心で足を止め、水溜まりがあれば嫌がらせのように踏みつけ、泥汚れが付着すれば嫌悪感を露わに巨爪を振り回してこすり落とそうとする。
その背に跨る翰文は、まさに地獄を味わっていた。
「共感触手」を握っているせいで、小花のあらゆる感情が十倍に増幅され、フィルターを通さず脳内へと注ぎ込まれてくる。
さらに、感情だけではない。前庭神経の錯乱が追い打ちをかける。
小花の視覚には水平線という概念がなく、その知覚は球状のレーダー波に近い。翰文は、自分が高速脱水中のドラム式洗濯機に放り込まれたような感覚に陥っていた。天地は逆転し、重力は混迷し、あらゆる方向感覚が嘔吐物と共に攪拌されていく。
「おえっ……」
翰文は顔面を蒼白にさせ、触手にしがみついた。胃が激しくひっくり返り、胆汁の苦味が喉元までせり上がってくる。
その時、焦げた羽の濃厚な臭いが翰文の鼻腔を襲った。
音もなく、言葉もない。
「残り火」は、ただ純粋な「嫌悪」の意念を、熱い鉄液を流し込むように翰文の意識へと注ぎ込んだ。
感覚は鮮明だった。翰文の脳裏に「腐ったクルミ」のイメージが浮かび、次いで「期待外れだ」という激しい憤怒が伝わってくる。
不満は容赦なく叩きつけられた。
(貴様の脳は粥でできているのか? この程度の低級な感官情報を処理できんとは……)
「う、あ……ッ!」
翰文は頭を抱えた。脳を真っ赤に焼けた針で突き刺されたような衝撃。
直後、冷徹で強硬な「操作認識」が、翰文の思考へと暴力的に植え付けられた。
視界に複雑な神経遮断図が浮かび上がる。――思考の認知上に堤防を築き、視覚信号を遮断し、触覚信号のみを維持する手法。
学ぶ必要などなかった。彼は瞬時にそれを「理解」した。だが、その代償として鼻孔から一筋の熱い鮮血が流れ落ち、全身がビクリと跳ねた。
「……クソったれが」
翰文は歯を食いしばり、「残り火」に植え付けられた方法に従って、脳内に重厚な鉛の扉を下ろすイメージを描いた。
カチリ、と神経が断裂するような音が脳内に響き、視覚的な共感が強引に切断された。
先ほどまでの吐き気を催す回転は消え去り、ただ尻の下から伝わる、現実的で荒々しい震動だけが残った。
続く二キロメートルは、退屈なまでの沈黙の行軍だった。
視覚共感を断ったことで、世界は単調な物理的属性へと回帰した。
翰文は手首に目を落とした。針夫人から旧式の手表と交換で手に入れた輻射計は、針が黄色い領域で微かに震えている。周囲の環境は許容範囲内にあることを示していたが、空気には乾燥した、金属の錆びた塵のような臭いが混じり始めていた。
路面状況もまた、色彩を欠いたものへと変わっていく。
小花の巨爪が風化した灰白色の廃墟を踏みしめ、規則的なカチャ、カチャという音を刻む。
周囲に壮麗な建築物はなく、ただ果てしない工業残骸が続いていた。ねじ曲がった錆びた鉄骨、腫瘍のように積み上がった**「煉金膠質」**、そして時折、砂の中から覗く白骨化した旧時代の標識。
「……水を」
後部座席から無小姐が軍用水筒を差し出した。
翰文はそれを受け取り、一口啜った。温まった浄化水が、取れないプラスチックの臭いと共に喉を滑り落ちる。水筒を振ると、重みはすでに心細いものになっていた。
このペースで消費すれば、水站に着く前に補給地点を見つけない限り、帰路には一滴の水も残らないだろう。
道中、怪物の姿はなく、襲撃の気配も皆無だった。
ただ頭上に浮かぶ曇った太陽と、足元に広がる、永遠に辿り着けないのではないかと思わせる荒野の道があるだけ。
地平線に鋼鉄の森が現れたのは、そんな時だった。
どうにか三キロ地点まで到達したのだ。
そこは**「鏽喉」**と呼ばれるエリア。地下から数百本の太い通気管が突き出し、不揃いに天を指す様は、立ち枯れた鋼鉄の森そのものだった。
小花の白磁の羽が一斉に逆立ち、ジャラジャラという密集した衝突音を立てた。
そいつは、足を止めた。
風が朽ち果てた管口を無理やり通り抜け、空気を揉み砕いて空虚で歪んだ哀鳴を奏でていた。
だが、真に恐ろしいのは風の音ではなかった。
(……声が……骨の中に……)
(……あいつが、中にいる……)
小花から伝わる恐怖が変質した。
音は外部から届くのではなく、地底深くから染み出していたのだ。それは足元の岩を伝い、小花の白釉の脚を這い上がり、磁器の骨格内部で直接共鳴を起こしていた。
エリア全体が調律の狂った巨大なパイプオルガンと化し、小花はそのパイプの中に放り込まれたネズミのように、逃げ場のない低周波の震動に骨髄を打ち据えられ、絶叫を上げていた。
二本の脚がガタガタと震え始め、巨軀は左右に激しく揺れ、潜り込める穴を探して彷徨う。
後部座席の無小姐は、突然の急停止と揺れにゲル壁へと叩きつけられ、苦しげな呻きを漏らした。
「無小姐! 大丈夫か?!」翰文が緊張して振り返る。
「だ……大丈夫。……この子、音が自分を『食べている』と感じてる。これは風じゃないわ……何かの周波数よ」
翰文は向き直り、前方に広がる、鬼哭啾啾たる管の森を見据えた。
それは距離の遠近など関係のない、心理的な「無限」の恐怖だった。
視覚共感を断った翰文は、もはや「速度」の判断力を失っていた。
終わりなきランニングマシンの上を走り続けているような感覚。一分が一つの時代ほどにも引き伸ばされる。
あとどれくらいだ? あとどれほど遠い?
未知に対する焦燥は、先ほどの眩暈よりも執拗に精神を削り取っていった。
地図上の依然として遠い光点を見つめる。心臓を見えない手に握りつぶされるような感覚。
これは単なる十二キロの旅ではない。果てしない流刑の地だ。
(……ダメ……嫌だ……)
小花は前進を拒絶した。ゆっくりと後退を始め、巨大な爪が地面を深く抉り、耳を劈く不快な摩擦音を響かせる。
「クソッ……頼む、やめてくれ……」
毒づく声は、生理的な痛みが肺を圧迫した際に漏れた排気音のようだった。
翰文の太陽穴は破裂しそうで、皮膚の下で血管が狂ったミミズのように脈打っている。
だが彼はすぐに気づいた。この苛立ちが、神経束を通じて小花に伝わってしまうことに。
この連結において、情緒は双方向だ。彼が崩壊すれば、彼女はさらに怯える。
「……ふぅ。……すまない」
翰文は唇を噛み切り、鉄錆の血の味と痛みで、湧き上がる苛立ちを強引に押さえつけた。脳内の激痛を堪えながら、震える、しかし限りなく優しい波長を送る。
「……怒ってるんじゃないんだ、小花。ちょっと頭が痛いだけさ」
「怖がるな。俺がここにいる。一緒にいてやるからな」
それでも、小花の恐怖は潮流のように、絶え間なく彼の神経を打ち据え続けた。
そこへ、再び脳内の焦げた臭いが強まった。
今度は「残り火」は感情を伝えてこなかった。届いたのは、鋼鉄よりも冷徹な「天秤」だった。
記号に因果の力が与えられ、翰文の脳内に無形の天秤が据えられる。一端には、小花の無価値で足枷にしかならない「恐怖」。もう一端には、翰文の崩壊寸前の精神臨界点。
天秤は瞬時に傾いた。
残酷で、しかし唯一の解決策が、真っ赤な焼きごてのように絶対的な正解を伴って意識に焼き付けられた。
――「永久静音」。
拒絶を許さぬ鉄律と共に、「残り火」は「静寂の幻覚」を翰文に授けた。
その瞬間、翰文は全世界が静まり返ったかのような錯覚に陥った。周波数をわずかに強めるだけで、神経束を伝ってこの野獣の恐怖中枢を焼き切ることができる。
そうなれば、こいつは最も扱いやすい操り人形に変わるだろう。肉体だけを残し、霊魂を殺すのだ。
(……そうすれば、我らも安らげよう……)
その思考は翰文自身のものではない。「残り火」が笑みを浮かべながら注ぎ込んできた――「切断」よりも過激で、慈悲のないプランだった。
翰文は手の中の発光する金色の触手を見つめた。
手を緩めるだけで。あるいは……ほんの少しだけ力を込め、「残り火」の導きに沿って、破滅の律を送り込めば済む。
指を一本、離してみた。
吐き気を催すほどの焦燥感が、ジジ……という音と共に瞬時に軽くなった。
だがその瞬間、小花が凄惨な悲鳴を上げた。――現実の空気中ではなく、霊魂の次元において。
翰文の「引き離し」、そしてその刹那の「殺意」によって、彼女は唯一の拠り所に捨てられたと感じたのだ。小花は完全に崩壊し、両脚の力が抜け、砕石の地面に直接膝を突いた。ドォォンという巨響。
白磁の面甲が地面に激突した。割れはしなかったが、そこに宿る深い無力感に、翰文の心臓が不意に締め付けられた。
「…………」
翰文は、地面で震え続ける小花を見つめた。
もしこれがただの車なら、とうに蹴り飛ばしていただろう。
だが違う。こいつは、翰文を信じたからこそ、あの籠を出たのだ。
「クソが……失せろ」
翰文は心の中で、誘惑に満ちたあの火を罵倒した。激しく首を振り、「絶対的な理性による屠殺」という「残り火」の意念を振り払った。
「管を抜いちまえば、こいつは本当に死んじまう」
翰文は深く息を吸い込んだ。その瞳にはかつてない決意と、ある種の狂気が宿っていた。
「そんな風に楽をして生き残ったところで……俺はもう、人間じゃなくなっちまうんだよ」
翰文は再び触手を握りしめ、十指を固く食い込ませた。
俺は「痛み」を選ぶ。自分が交わした「約束」を選ぶんだ。
先ほどよりも強烈な恐怖が、ジィィィという反噬となって襲いかかった。翰文は劇痛に身体を丸め、運転席でガタガタと震えながら冷や汗を流し、喉の奥から押し殺した呻きを漏らした。
不意に、氷のような冷たい手が彼の後頸部に触れた。
無小姐だ。彼女は翰文の苦痛を察し、後部座席から手を伸ばして、掌から涼やかな気流を送り、彼の沸騰する血管を鎮めようとしていた。
「無小姐……」翰文は嗄れた声で、感謝を込めて彼女を見た。「笛を……頼む」
彼女は多くを語らず、即座に胸元の「白瓷哨翎」を吹き鳴らした。ピーーーッ!という澄んだ音が、パイプオルガンの森が奏でる嗚咽を貫き、細く強靭な綱となって、崩壊寸前だった小花の精神を繋ぎ止めた。
「立ちな……小花。俺たちがここにいる。……あれはただの伴奏(BGM)だと思えばいい」
翰文は吐き気を堪え、脳内であの音の狂った子守唄を何度も、何度も口ずさんだ。
「遠くへは行かない。……俺と一緒に十メートルだけ進もう。……あの管が見えるか? あそこまで行けばいいんだ」
笛の音に導かれ、無小姐の冷気に癒され、翰文に宥められ、小花はようやく震えを止めた。
傷ついた老人のように、おぼつかない足取りで再び立ち上がった。
一歩。
二歩。
空が次第に暗くなっていく。廃土の黄昏は、鉄錆のような血の色に染まっていた。
背後の修道院の灯火は遠い星屑となり、前方のあの忌々しい水站は、依然として巨大な影のまま、辿り着けぬ距離に鎮座している。
翰文は時間を確認した。
三鐘。
まだ四キロも進めていない。
このペースでは、今日中に荷物を届けて戻るどころか、明日の夜明けまでに水站へ辿り着けるかさえ怪しいものだった。
「……焦らず行こう」
翰文は顔の汗を拭い、誘惑に失敗して不機嫌そうに硫黄の臭いを撒き散らしている脳内の「残り火」を感じながら、力なく笑った。
「少なくとも、俺たちは進んでる」
その言葉が終わるか終わらないかの瞬間。
針夫人によって脳内に刻み込まれた灰暗い地図に、異変が起きた。
「第七号旧水站」を示す黄色い光点が、突如として不自然に跳ねたのだ。
それは通信不良による瞬きなどではなかった。
まるで深海生物の瞳が暗闇で収縮したかのような。
――こちらへと這い寄ってくる獲物を、狂喜と共に凝視したかのような、そんな動きだった。
翰文の表情が凍りついた。
脳内の「残り火」が、低く唸るような共鳴を発した。
いつもなら警告として響くその音は、今回ばかりは不吉な嘲笑を帯びていた。
(……見ろ。言わんこっちゃない。この場所は……「不潔」だと言っただろう?)
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