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第52話 : 硝子上の舞踏と、抑留された首飾り



『膝で這いずることに慣れちまったら、立ち上がるって行為は重力に対する傲慢な挑発に変わるのさ。新しい脚を信じるんじゃないよ。そいつらは美しいけれど、記憶を持っていないんだ。道を知っているのは、いつだって傷跡だけなんだからね』



  ——『義肢使用者リハビリテーション手帳』第一章:幻肢痛と地面への恐怖について



 李翰文(リー・ハンウェン)は廊下の冷たいタイル壁に手を突き、深く息を吸い込んだ。肺に流れ込むのはもはや鉄錆の臭いではなく、修道院特有の薬草の香りを孕んだ、刺すように冷涼な空気だった。



「左脚を……上げる。右脚……ついてこい」



 まるで幼稚園の律動遊びのような呟きだが、今の彼にとっては平衡感覚の限界に挑むエクストリーム・スポーツだった。



 足下の「精霊晶骨(クリスタル・ボーン)」はあまりに軽く、質量を失って雲の上を歩いているかのようだ。しかし、そこから返ってくる神経のフィードバックはあまりに重く、まるで真っ赤に焼けた無数の細い針の上を素足で踏み抜いているかのような錯覚を強いてくる。



 足裏が地面に着くたび、心臓を逆撫でするような「カチリ」という澄んだ音が響く。晶体と大理石が接触するその振動は、直接翰文の鼓膜を打ち鳴らす打撃音となって脳内を揺さぶった。



 これが「過度感知(ハイパー・センシング)」。



 半透明の生体皮膚越しに、彼は床下の熱水パイプを流れる液体の微かな震動すら感じ取っていた。それは血管の脈動のようであり、十メートル先の角を機械蜘蛛が這い去る際の、壁紙を削る節足のサササ……という周波数さえも逃さず捉えていた。



 彼は膝を曲げることさえ恐れ、棺から這い出したばかりのゾンビのように、ぎこちなく一歩を前へ進めた。



「……気をつけて」



 無小姐(ミス・ヌル)が後ろから、歩き始めたばかりの赤子を見守るように両手を差し出しながらついてくる。



「大丈夫だ、やれるさ」



 翰文(ハンウェン)は歯を食いしばり、額に冷や汗を滲ませた。



 一歩踏み出すたびに薄いガラスの上を歩いているような感覚に襲われ、わずかな不注意が深淵への転落に繋がるという強迫観念が、脳内で墜落警報を鳴らし続けている。



 自然に歩こうと意識した途端、力が入りすぎた。左脚の油壓筋束アクチュエーターがバネを仕込んだように跳ね上がり、彼は制御を失った起き上がり小法師のように、その場で不恰好にふらついた。



 無小姐(ミス・ヌル)は瞬きをし、幽青色の光を放つ芸術品のように美しい翰文の新しい脚と、その滑稽な姿勢を交互に見た。



 彼女は躊躇したが、堪えきれずに口を開いた。



「……あの……」



「ん?」翰文(ハンウェン)が蒼白な顔で振り返る。



「……あなたの脚、光ってて、本当に綺麗だわ」無小姐(ミス・ヌル)は小声で、瞳に稀に見る微かな笑みを浮かべて言った。「……でも、今のあなたは……ゼンマイの壊れたブリキのアヒルみたい」



 翰文(ハンウェン)は驚きに目を見開き、それから称賛するように頷いた。



「最高の褒め言葉だよ、無小姐(ミス・ヌル)。もしこの脚を返品できるなら、今すぐ針夫人(マダム・ニードル)に五つ星の評価を付けてやるんだがな」



「あなたは、これからも靴を履くの?」



 唐突な問いに、翰文(ハンウェン)は自分の「足」を見つめて絶句した。



 かつて実習のために、一ヶ月分のカップ麺代を削ってまで買った防水防滑のプロ仕様登山靴。あのゴアテックスの感触。今の自分の足首は、針夫人(マダム・ニードル)の病的な審美眼による「金繕い(きんつぎ)」が施された工芸品であり、靴下すら必要としない。



「……ああ、履くよ。せめて、まだ人間らしく見えるようにな」



 会話を交わしながら、二人の影は温室の外にあるガレージへと辿り着いた。



 扉を潜る前から、中から針夫人(マダム・ニードル)の罵声が響いてくる。



「粗雑! 原始的! あの死に損ないの審美眼は、いまだに石を叩き割る時代で止まっているのかい?」



 翰文(ハンウェン)が中を覗くと、その光景に言葉を失った。



 ガレージの中央にあったのは、彼が想像していた改造車や、鋼鉄の戦車などではなかった。



 宙に吊られた針夫人(マダム・ニードル)は、巨大なレースを編むかのような手つきで、精緻な白磁の破片を、優雅な骨組みへと一枚一枚嵌め込んでいた。



 それは死物ではない。目覚めを待つ神話の生物そのものだった。



 三メートル近い巨躯を持つ、二足歩行の鳥類型義体が磁気浮上台の上に鎮座していた。



 驚異的な剛性を誇る逆関節の後脚。全身を覆うのは、礼服のように幾重にも重なった「白磁の羽片」。流麗な首のラインが上方へと伸び、その先端には眼孔のない、ぎょくのように滑らかな「鳥喙ちょうかい面甲」が備わっていた。



 膝や爪の関節部には、針夫人(マダム・ニードル)特有の液状金繕いが流れ、磁場の変動に合わせて鈍い金光を放っている。



 傍らのワークテーブルでは、「暴食者(グラトニー)の脳」を収めた培養槽が微光を発し、無数の金色の神経束がその新しい器の頸部へと接続されていた。



「……鶏、か?」翰文(ハンウェン)が思わず呟いた。



 針夫人(マダム・ニードル)の手が止まり、湿った漆黒の電子眼が翰文を射抜いた。



「これは**『駭鳥(テラー・バード)』**だよ。……学のない野蛮人が」



 彼女は冷たく吐き捨て、銀針を磁器の羽の間に走らせた。「七界の古き分類学において、鳥類とは龍族が地上に遺した遠親とおしんに他ならない」



「龍の身体が滅び、この引き裂かれた空が巨龍の飛翔を許さないというのなら、あたしはその霊魂に『別の形』を与えてやるのさ」



 針夫人(マダム・ニードル)は滑らかな磁器の面甲をなぞり、造物主の傲慢さを滲ませた。「この『陸行亜龍りくこうありゅう』の身体は、元のそれよりも軽く、速い。その脚は廃墟の間を風のように駆け抜け、磁器の羽は放熱と防弾の役割を果たす」



「それに……」針夫人(マダム・ニードル)は自らの作品を見つめ、満足げに目を細めた。「元の醜いブリキの芋虫よりも、ずっと美しい。これこそがあたしの庭園にふさわしい生物だよ」



 ブゥゥンという低鳴と共に最後の面甲が閉じられると、白釉の駭鳥の背にある排気口から、白檀びゃくだんの香りを帯びた白い冷蒸気が噴き出した。鳥は身体を微かに揺らし、磁器の羽同士が触れ合って、風鈴のような涼やかな音色を奏でた。



 翰文(ハンウェン)はその美しくも致命的な白い巨獣を見つめ、寒気と畏敬を覚えた。



 彼女は整備士ではない。無から龍を捏ね上げる、神に背く芸術家だった。



「最終段階の『賦霊(ふれい)』に一晩かかる。あんたの脚も馴染ませなきゃならないしね」



 針夫人(マダム・ニードル)は動きを止め、二人を見下ろした。



「さて。ここらで『保証金(デポジット)』の話をしようじゃないか」



「保証金?」翰文(ハンウェン)が眉をひそめた。「取引の話は済んだはずだが……」



「あれは契約内容さ。あたしはあんたたちを信じちゃいない」



 針夫人(マダム・ニードル)の黒い眼が翰文(ハンウェン)を舐め、後ろの無小姐(ミス・ヌル)で止まった。



「あたしの新しい脚を使い、あたしの造った龍に乗って、外でくたばるか、荷物を持って逃げ出したらどうするんだい?」



(ヴィ)がここにいる!」翰文(ハンウェン)がガレージの奥を指差した。「彼女はあんたの手元にいるんだろ?」



「あの跳ねっ返りかい?」針夫人(マダム・ニードル)は蔑むように鼻で笑った。「あの子は心臓を直すための不良債権に過ぎないよ。あんたにとっちゃせいぜい債主とりたてにんだろう? 債主のために命を懸ける馬鹿がどこにいるんだい?」



 翰文(ハンウェン)は言葉に詰まった。確かに(ヴィ)との関係は一言では言い表せないが、この冷酷な商人のロジックにおいて、その絆は担保にするには「痛み」が足りなかった。



「あたしは、もっと価値のあるものが欲しいのさ」



 針夫人(マダム・ニードル)の機械脚が、稲妻のような速さで伸びた。パシッという乾いた音と共に、鋭い尖爪せんそう無小姐(ミス・ヌル)の胸元で止まり、あのボロい紐を正確に引っかけた。



 無小姐(ミス・ヌル)の顔から血の気が失せた。その瞬間、恐怖を風民(ウィンド・フォーク)の本能が凌駕した。



「……離してっ!」



 悲鳴と共に、空気中が鋭い音を立てて爆ぜた。



 掌に形成された無形の風刃が、翰文(ハンウェン)の袖さえも切り裂き、針夫人(マダム・ニードル)の機械腕へと一閃した。



 だが、その抵抗は首席構造師の前ではあまりに幼かった。



 針夫人(マダム・ニードル)は避けることさえせず、指を軽く弾いた。



 風刃は彼女の真鍮の指貫に当たり、キィンと高い音を立てて霧散した。



 直後、張力に耐えかねた紐が崩れるように断裂する音が響いた。



 青い微光を放つ、羽のようでもあり風のようでもある「晶体のペンダント」が、針夫人(マダム・ニードル)の掌へと落ちた。



「嫌ぁぁぁっ!!!」



 無小姐(ミス・ヌル)は凄惨な悲鳴を上げ、震える手でそれを奪い返そうと飛び出したが、翰文(ハンウェン)に力任せに抱き留められた。



「よせ! 彼女は本気だ!」



「やはり、良い代物だね」



 針夫人(マダム・ニードル)は掌の中のペンダントを、恋慕うように見つめた。そこにはとうに失われた風の律法が流動していた。



「これは王権級の遺物だよ。……小鳥ちゃん、あんたにとって、これはとても大切なものなんだろ?」



 翰文(ハンウェン)の腕の中で無小姐(ミス・ヌル)はガタガタと震え、力が抜け、涙が溢れ出した。それは彼女の出自を示す唯一の証であり、生きるための最後の拠り所だった。



「こいつを抵当に入れるよ」



 針夫人(マダム・ニードル)はペンダントを自らの胸元の隠し格子へと収め、冷酷に告げた。



「その小鳥を連れてあの駅へ行き、**『液態星光リキッド・スターライト』**をあたしの元へ持ち帰りな。……現物と引き換えに、この小細工を返してやるよ」



 翰文(ハンウェン)は腕の中で崩れ落ちる少女を見つめ、拳をギリギリと鳴らした。



 だが、彼に選択肢などなかった。



「……分かった」翰文(ハンウェン)は瞳に凶暴な光を宿して言った。「もし、そいつの輝きが少しでも曇っていたら、あんたのこの温室を粉々にしてやるからな」



「いつでもおいで」針夫人(マダム・ニードル)は平然と肩をすくめた。



 ガレージを去る前、翰文(ハンウェン)は高階メンテナンス・ポッドへ足を運んだ。



 分厚い色付きガラス越しに、彼は(ヴィ)を見た。



 泡立つ深緑色の修復液に浸かり、全身に真鍮の管を刺された彼女。機械犬エンジン(モーター)がその扉の前に伏し、機体を損耗させながらも、近づく者すべてを喉の奥の唸り声で威嚇し続けていた。



 (ヴィ)は眠ってはいなかった。



 彼女は意識を保ったまま、呼吸マスク越しに、緑の瞳で冷たく翰文(ハンウェン)を見据えていた。



 液体の中で揺れる彼女の髪は、深海に沈む戦闘の彫像のようだった。



 翰文(ハンウェン)は冷たいガラスに両手を当てた。



「……戻ってくるからな」彼は大きな声で言った。



 (ヴィ)はそれを見つめ返し、別れを惜しむ様子など微塵も見せなかった。



 彼女は液体の中でゆっくりと手を上げ、翰文(ハンウェン)を指し、次に自分のポケットの位置(帳簿のある場所)を指差した。



 音は聞こえないが、翰文(ハンウェン)は彼女の口の動きを読み取った。



 それは、紛れもない(ヴィ)らしい告別だった。



『く、た、ば、る、な。』



『か、ね、か、え、せ。』



 翰文(ハンウェン)は一瞬呆れ、それから後頭部を掻いて笑った。



 これこそが(ヴィ)だ。友人でも戦友でもない、債主。



 そしてそれこそが、この廃土において最も強固な絆なのかもしれない。



「安心しろ」



 翰文(ハンウェン)はガラスの中の債主へ手を振った。「利息をつけて、必ず返してやるよ」



 彼は向き直り、まだすすり泣く無小姐(ミス・ヌル)を支えてメンテナンス区を離れようとした。



 その時、規則正しいカチャカチャという足音が廊下の先から聞こえ、行く手を阻んだ。



 メイド服を纏った二体の瓷偶(ポーセリン・ドール)が立ち塞がり、ぎこちなくも礼儀正しく一礼した。



「第742号のお客様、無小姐(ミス・ヌル)様。夫人の造作オペレーションは最終の『賦霊段階』に入りましたため、ガレージエリアは一時封鎖されました」



 書き込まれた人形の笑顔が、薄暗い灯りの下でいっそう不気味に映る。



「お二方は客室にてお休みください。夫人より申し付かっております、旅程と物資の引き継ぎについては……」



 人形が手を上げ、促すポーズを取った。



「……明朝の朝食時に行います」



 翰文(ハンウェン)はガレージの奥で散る溶接の火花を見、腕の中で泣き疲れた無小姐(ミス・ヌル)を見た。



 これが嵐の前の静けさであることを、彼は知っていた。



 古龍はまだ完全には目覚めていない。そしてこの修道院の主人は、まだ最後の勘定チェックを食卓で彼に突きつけるつもりなのだ。



「案内してくれ」



 翰文(ハンウェン)は深く息を吸い、まだ慣れない高価な新脚を運び、人形の後に続いて暗い廊下へと消えていった。



 今夜は、あまりに長い夜になるだろう。




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