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第51話 : 天墜の日と、鉄肺の夢



『大人になるっていうのはね、空が落ちてきたという事実を認めることだよ。もしそれを拒むなら、あんたは永遠に殻の中にいられる。——たとえその卵の殻が、鋼鉄で溶接されたものだとしてもね』



  ——『旧律心理学:龍類ドラコニスのPTSDについて』、人族エリィ大長老の手記より



 すべての前奏は省略され、慈悲深き緩衝も失われていた。



 針夫人(マダム・ニードル)がスイッチを入れた瞬間、李翰文(リー・ハンウェン)は自分が図書室に入ったのではなく、高速回転する巨大な遠心分離機の中に生身で放り込まれたかのような衝撃を受けた。



 キィィィン——!という鋭いノイズ。



 それが感官センスへ無作法に乱入した時、翰文(ハンウェン)は戦慄と共に、自分が音を「視て」いることに気づいた。



 漆黒だった虚空から、猩紅色スカーレットの鋸歯状の稲妻が噴き出し、彼の網膜を狂ったように引き裂く。その稲妻は龍の金切声だったが、この空間では具現化した赤い刑具と化し、明滅のたびに焼けた鞭のように視神経を打ち据えていた。



 次いで、彼は色を「聴いた」。



 鉄錆の臭いを孕んだ震動の後、耳の底で黄金色の龍血が沸騰し、粘りつくような質感を持った轟鳴へと変わった。視界にあの眩い金色が現れるたび、鼓膜には数千万トンの銅鐘を叩きつけられたような雷鳴の劇痛が走った。



「……おえっ……」



 現実の翰文(ハンウェン)は空嘔吐を始めた。味蕾が強烈な苦味を感知したからだ。――それは、濃密な「恐怖」の味だった。



 古龍の脳内において、感官は錯乱していた。恐怖は苦く、悲しみは凍てつく青、そして死は……焼けたプラスチックの臭いがした。



「踏ん張りな、第742号!」



 針夫人(マダム・ニードル)の声が、遠い水面から届く歪んだエコーのように響いた。「雑音ノイズに流されるんじゃないよ! この脳のロジックは粉々だ。あの『周波数』を掴みな! あの歌を羅針盤にするんだよ!」



 翰文(ハンウェン)は歯を食いしばり、魂を細切れにする感官の奔流の中で、心の底にある『排灣族(パイワン)の古調』の旋律を死守した。



 その歌は、狂気の深淵の上に吊るされた一本の細い蜘蛛の糸のように、彼の砕け散った意識を繋ぎ止めていた。



 旋律に導かれるまま、周囲を埋め尽くしていた狂乱の赤黒い塊がようやく退いていく。



 翰文(ハンウェン)は、自分の身体が縮んでいくのを感じた。



 単に視点が低くなったのではない。心智マインドまでもが、単純で、恐怖に怯える幼獣のそれへと退行していた。彼はもはや李翰文(リー・ハンウェン)ではなく、卵の殻の破片に身を寄せる一匹の幼龍だった。



 彼は顔を上げた。



 視界に映ったのは戦争ではなく、「天が墜ちる」光景だった。



 あの頃の空はまだ紺碧で、放射性塵の影もなく、酸の雲もなかった。



 だが、その美しい天が、今、裂けようとしていた。



 巨大な、黒い幾何学体。——殲星艦スター・デストロイヤーほどもある物体か、あるいは実体化した攻撃そのものか。それらが隕石のように裂け目から降り注ぐ。



 天を揺るがすドォォォォン!という巨響と共に、黄金の巨龍が凄惨な悲鳴を上げた。彼女は崩れ落ちる金の壁となり、天を貫く漆黒の光矛を強引にその身で受け止めた。



 叙事詩のような反撃や死闘ではない。そこにあるのは、迷いのない、冷酷な「処刑」だけ。



 幼龍の瞳に映るそれは、単なる一方的な「屠殺」だった。



 翰文(ハンウェン)(幼龍)は口を開けたまま、豪雨のように降り注ぐ黄金の血を呆然と見つめていた。血は雲を燃える夕焼けに変え、大地に落ちるたびにジュウゥと焼けるような悲鳴を上げさせた。



 母親の巨大な身躯が、崩落する金の山となって、破滅的な気流を伴いながら自分へと叩きつけられてくる。



 幼龍の喉から声は出ず、ただ風の漏れるような嗄れた喘ぎだけが漏れた。



 それは世界の終わりだった。世界にとってではなく、一人の子供にとっての。



 ママが死んだ。天が、崩れ落ちたのだ。



 現実において、ワークテーブルに横たわる翰文(ハンウェン)は激しく痙攣し、涙と鼻血を噴き出させた。その絶望はあまりに真実味リアルを帯び、彼の脳内の「残り火(エンバー)」さえも沈黙させていた。



 画面が突如として暗転した。



 次いで現れたのは、刺すように惨白な手術灯。



 周囲はもはや戦場ではなく、蒸気と歯車の音が満ちる実験室だった。



 翰文(ハンウェン)は「自分」の全身に激痛を感じていた。殴られた痛みではない。中身をすべて「抜き取られる」痛みだ。



 彼は(幼龍の視界を通して)見下ろした。自分の胸腔が、抉じ開けられていた。



 かつて温かく脈打っていた心臓は、どこにもなかった。



 代わりにそこにあったのは、巨大で、冷たく、カチャカチャと音を立てる真鍮のボイラーだった。



「……すまない」



 老いた、悲しみに満ちた声が耳元で響いた。



 視点が合う。翰文(ハンウェン)は一人の顔を見た。



 白衣を纏い、額に刺青タトゥーのある、無精髭だらけの人間の老いぼれ。彼は疲れ果てた様子で、ゴーグルには黄金の龍血がべったりと付着していた。



 彼は溶接機とスパナを手に、分厚い装甲を幼龍の砕けた鱗の上から一枚ずつ焼き付けていた。



 だが、彼は泣いていた。涙が乱れた髭を伝い、開かれた胸腔の中へ、機械油に混じって滴り落ちていた。



「お前の肺は毒ガスで焼け爛れ、心臓も粉々だ」



 老人は泣きながら、ネジを締め上げた。その声は、自らの心を締め付けているかのようだった。



「……お前を鉄に変えなければ、この冬を越すことはできないんだ」



「我慢してくれ、我が子よ。これは刑具ではない。**『鉄肺(アイアン・ラング)』**だ。この殻の中でしか、お前は呼吸できないのだから」



 翰文(ハンウェン)はその光景に衝撃を受けた。



 後世に戦争兵器と恐れられたこのType-09(タイプ・ゼロナイン)暴食者(グラトニー)」……。



 こいつは兵器などではなかった。



 これは、重症監護室(ICU)だったのだ。



 瀕死の我が子を生かすために、自らの手で怪物に変えざるを得なかった父親の、残酷なまでの慈悲。



「見つけたよ! そこだ!」



 現実世界において、針夫人(マダム・ニードル)の金切声がその悲しみを切り裂いた。



 彼女に大長老の涙は見えず、「鉄肺」の告白も聞こえない。導管を通じて、彼女はただ己の望むもの――あの機械心臓の設計図だけを見ていた。



「あのバルブ構造! あれこそ失われた**『逆熵回路リバース・エントロピー・サーキット』**だね!」



 針夫人(マダム・ニードル)は興奮に身体を震わせ、八本の機械脚を床に狂ったように打ち付けた。耳障りなカチャカチャという音が響く。



「見てごらんよ! 龍の鼓動をどうやって機械の動能エネルギーに変換しているのかを! 天才だね! 狂ってるよ! ……早く! 第742号! もっとだ! 設計図の細部を拡大しな!」



 幻境の中、翰文(ハンウェン)は奥歯を噛み締めた。



 幼龍の記憶においてそれは父親の涙だったが、針夫人(マダム・ニードル)の瞳には冷たいパラメータとしてしか映っていない。



 その決定的な乖離が、彼に吐き気を催させた。



 翰文(ハンウェン)は彼女への嫌悪を押し殺し、記憶をさらに深く潜っていった。



 苦痛に満ちた手術室を抜け、彼は目立たない小さな扉の前に辿り着いた。



 扉は閉まりきっておらず、わずかな光を漏らしている。そこは脳の最深部。周囲は深い闇に包まれていた。



 翰文(ハンウェン)はそっと扉を押し開けた。



 壮大なコントロールパネルや、世界を滅ぼす兵器のボタンがあると思っていた。



 だが、翰文(ハンウェン)が驚きと共に目にしたのは、暖かな黄色の光に包まれた、不釣り合いなほど穏やかで小さな部屋だった。



 空気中には、古い木材とベビーパウダーのような、廃土からはとうに絶滅した「家庭」の乾燥した香りが漂っていた。



 床には廃棄された歯車で作られたアヒルの玩具が散らばり、壁にはチョークで歪な落書きが描かれていた。――青い空と、笑顔を浮かべた数両の火車。



「……これが……こいつの、夢か?」



 翰文(ハンウェン)は独り言ちた。ここは兵器庫ではない。この幼龍の「子供部屋」だ。



 我が子を怪物へと作り替えた大長老が、罪悪感を抱きながら遺してやった、最後の一片の子供時代。



 この鋼鉄に満ちた脳の中で、ここだけがまだ錆び付いていなかった。



 部屋の中央には、見覚えのある古い蓄音機が置かれていた。



 翰文(ハンウェン)は吸い寄せられるように歩み寄り、掌がレコード針に触れた。



 短くザラついた「ジジッ」という音の後、スプレーのペンキを撒き散らしたかのように、濃密な光影が彼の前で形を成した。



 あの白衣の、無精髭だらけの刺青の老人が再び現れた。



 だが今度は泣いていなかった。椅子にふんぞり返り、どこかで拾ってきたようなホーローのマグカップを手に、悪党のようなニヤケ顔を浮かべていた。



『コホン。テスト、テスト。……ええと、未来の不運な友人よ、こんにちは。もしあんたがたまたま同郷(台湾)の人間だったら、いっそう申し訳ないね。この世界はあんまり親切じゃないだろう? ええ?』



 老人は前方に向かって手を振った。



 現実で狂ったようにデータを記録していた針夫人(マダム・ニードル)の動きが、ぴたりと止まった。



『あんたがこの部屋に入り、この映像を見ているということは、すでに「古調」であの子を宥めてくれたということだ。よくやった。排灣族(パイワン)の声量はまだ絶滅していなかったようだな。ははは』



 老人はカップの中身を一口啜ると、一転して鋭い眼差しになり、レンズを――記憶を覗き見ている針夫人(マダム・ニードル)を直視した。



『同時に、これは……礼儀知らずの古い友人が、隣で探針を突き刺してこの子の脳漿を弄り回している、という証明でもあるわけだ』



 針夫人(マダム・ニードル)は息を呑み、手に持っていた記録板をパシャリと床に落とした。



『当ててみようか……。オフィーリアか? あんたのようなババアでなきゃ、他人の夢まで監視して測量しようなんていう変態的な支配欲は持ち合わせちゃいないだろうよ』



 老人は映像の中で溜息をつき、困ったような顔をした。



『探すのはやめな。あんたの欲しがっている「逆熵回路」の核心条律はここにはない。バラバラにして、道中にパンくずみたいに撒いておいたからね。宿題を丸写ししようなんて、そうは問屋が卸さないよ』



 針夫人(マダム・ニードル)は機械肢を震わせ、怒りに震える声で罵った。「……死に損ないのジジイが! 死んでからもあたしを弄ぶつもりかい!」



『だが、まあ……』



 映像の中の老人が、不意に媚びるような笑みを浮かべた。



『あんたが美しくて心優しいことも知っている。短気だけれどね。あんたが逆上してこの子をバラしちまったら困る。だから、特別にプレゼントを用意しておいたよ』



 彼はポケットからしわくちゃの紙切れを取り出し、ひらひらと振った。



『……「液態星光リキッド・スターライト」の精製座標だ。……「第四号廃棄駅:嘆きの回廊」の金庫の中にある』



 針夫人(マダム・ニードル)の赤い眼が、瞬時に極限まで輝いた。



 部屋の空気が凍りついた。



 それは彼女が三千年の間探し続けてきた、自身の磁器化した霊魂の亀裂を修復できる、唯一の神物だったからだ。



『欲しいかい? 欲しいなら、この子に優しくしてやりな』



 老人はレンズを指差し、口調を厳粛な、しかし温かみのあるものに変えた。



『この子は今、身体の不自由な身だ。手足が必要だ。嵐を越えられる翼が必要だ。……身体を造ってやってくれ、オフィーリア。私への最後の頼みだと思ってね』



『それから不運な友人よ……』老人の視線が翰文(ハンウェン)へと戻った。『この龍を連れてあの駅へ行け。プレゼントを受け取り、あのババアに渡して……生き延びるんだ』



『……ああ、そうだ』老人は取るに足らない小事を思い出したかのように、レンズに向かって意地悪なニヤリ笑いを見せた。『ついでにあのババアに伝えてくれ。あの機械油の香水はもうやめろ、鼻が曲がるほど臭いんだよ。ボイラーの中で焦げちまった薔薇みたいな臭いがするからな、ってね』



 ジジッという急なノイズの後、映像は消えた。



 蓄音機からはただ『排灣族(パイワン)の古調』が、未完の子守唄のように静かに流れ続けていた。



 現実世界では、すべての計器が同時に火花を散らし、パチパチという音を立てた。連結は急速に遮断された。



 翰文(ハンウェン)は猛然と目を開け、ワークテーブルから起き上がった。



 彼は降りようとして身をよじったが、同時に頭割れるような激痛と猛烈な嘔吐に襲われ、七竅しちきょうから血を流す無残な姿で崩れ落ちた。



 取り付けられたばかりの晶体の膝が大理石の床に当たり、砕けた陶器のような澄んだ音を立てる。過度感知ハイパー・センシングの足裏が、床下の温水パイプの脈動を一打ごとに捉え、自分が巨大な、蠢く心臓の上に這いつくばっているような感覚に陥らせた。



 その時、氷のような冷たい気流が、小さな手のように翰文(ハンウェン)の熱い額を優しく覆った。



 最初から、無小姐(ミス・ヌル)の注意は翰文(ハンウェン)の異変にだけ向けられていたのだ。



 翰文(ハンウェン)の頭は次第に冷えていったが、意識は異常なほどに冴え渡っていた。幼龍の涙も、あの老人の悪ふざけも、鮮明に覚えている。



 温室は、死のような静寂に支配されていた。



 針夫人(マダム・ニードル)が彼の前に立っていた。黒赤色の電子義眼が、彼を――正確には彼の脳が手に入れたあの座標を、射抜くように見つめていた。



 彼女はひどく怒っているようだった。千年前に死んだ老いぼれにいまだに弄ばれている事実に。



 だが、その手――微かに震えるその手が、彼女の渇望を裏切っていた。



「……液態星光リキッド・スターライト……」



 針夫人(マダム・ニードル)は奥歯を噛み締め、一文字ずつ絞り出すように言った。



「あの老いぼれのクズめ……本当に、作り上げていやがったのか……」



 翰文(ハンウェン)は鼻血を拭い、テーブルを支えに立ち上がった。



 脚はまだ震えていたが、自分にはついに手札が揃ったのだと確信していた。



 武器でも力でもない。大長老が遺してくれた「借用書」だ。



 これは協力ではない。二つの怪物が互いを利用し合う契約ディールなのだと、彼は理解していた。



 翰文(ハンウェン)は、隣で顔を強張らせ、今にも降り出しそうなほど険しい表情の(ヴィ)と、彼女の背後で震える無小姐(ミス・ヌル)を一度だけ見やり、そしてあの強大で傲慢な針夫人(マダム・ニードル)に向き直った。



 彼は弱々しいが、以前のような受動的なものではない笑みを浮かべた。



「どうやら……次の取引ディールの話をする必要がありそうだね、夫人」



 翰文(ハンウェン)は隣の水槽の中にある脳を指差した。



「あんたが俺たちの身体を造り、俺があんたのプレゼントを取りに行く。……公平な取引だろ?」



 針夫人(マダム・ニードル)は彼を凝視し続けた。長い沈黙の後、彼女の強張った磁器の顔に、殺意と諦めが入り混じった笑みの亀裂が走った。



「……成立ディールだよ」



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