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第50話 : 晶骨の枷と、慈母の請求書




『施し(ギフト)とは、往々にして別の形に包装された債務に過ぎない。もし神が翼を授けてくれたなら、その足首に見えない糸が繋がれていないか、忘れずに確認することだね』



  ——『荒野生存法則ウェイストランド・サバイバル』第十二条、無名氏 著



 意識が浮上した瞬間、李翰文(リー・ハンウェン)は本能的に身体を強張らせた。



 記憶の最後の断片は、恐怖に歪んだ針夫人(マダム・ニードル)の顔と、ヒステリックな追放命令で止まっている。



 目覚めた場所は修道院の外のゴミ捨て場で、食鉄蟻(ラスト・アント)にその身を囓られているか、さもなければ激昂した彼女にバラバラのパーツにされているだろうと覚悟していた。



 だが現実は、予想に反していた。



 背中に伝わるのは冷たい鉄屑ではなく、柔らかなシルクの感触。空気には血の臭いなど微塵もなく、あの高価で冷涼な薬草の香りが依然として漂っていた。



「……生きてるのか?」翰文(ハンウェン)は茫然と目を開けた。



 彼はシルクのクッションが敷かれたカウチに横たわり、あの精緻な温室庭園の中にいた。



 痛覚が消えていた。代わりにあったのは、不気味なほど、ほとんど非現実的なまでの「軽やかさ」だ。



 彼は足指を動かしてみた。筋肉が骨を動かす際のあの独特の微かな遅滞ラグが消失している。意思を抱いた瞬間、神経信号は潤滑油で満たされた超伝導回路を滑り落ちるかのように、刹那の間に末端へと到達した。



 空気の震えを通じて、ジジ……という極めて微細なモーターの駆動音が聞こえる。まるで精密機器が暖機運転を始めたかのような音だ。



「死んだふりはよしておくれ、第742号」



 あの聞き覚えのある、倦怠を帯びた声が庭園の影から届いた。先ほどの失態時の尖った響きはどこにもない。



「あんたを焼却炉に放り込んでやりたいのは山々だけれど、その命にはあたしの手術代という借金が乗っかってる。安っぽく死なせるわけにはいかないからね」



 翰文(ハンウェン)が顔を向けると、少し離れたハイバックチェアに腰掛け、緑色の湯気を立てる茶を啜る針夫人(マダム・ニードル)の姿があった。



 彼女は以前のような高慢な態度を取り戻しており、先ほどの崩壊劇などまるで幻覚だったかのように振る舞っていた。だが、翰文(ハンウェン)は一つの細かな変化を見逃さなかった。彼女の右手――「残り火(エンバー)」に焼かれたあの手には、今や黒いベルベットの長い手袋が嵌められ、厳重に隠されていたのだ。



 手袋は彼女の羞恥を隠す布であり、冷静さを取り戻した後の妥協の証でもあった。――利益(暴食者(グラトニー)の脳)を前に、彼女はその屈辱を飲み込むことを選んだのだ。



 翰文(ハンウェン)は唾を飲み込み、脚に掛けられていたブランケットを剥ぎ取った。



 一瞬、呼吸が止まった。人間の血肉は膝の下で唐突に途絶えていた。



 代わりにそこにあったのは、人形のように完璧で蒼白な質感を持つ「新しい脚」だった。



 針夫人(マダム・ニードル)は、彼の脚を半透明の「仿生(バイオ)シリコン皮」で覆っていた。その触感は玉石のように滑らかで冷たい。薄い皮膜越しには、本来の骨の代わりに幽青色の光を放つ**「晶骨(クリスタル・ボーン)」**が装填されているのがはっきりと見て取れた。



 血管のように張り巡らされた無数の「液状金線」が透明な水晶の骨に絡みつき、精緻な油圧筋束と連結され、呼吸に合わせて微かに脈動している。



 美しく、神聖。しかし同時に、非人間的な恐怖を放つ異物。



「降りて歩いてみな。水平器が狂ってないか確認させてもらうよ」



 庭園の影から再び倦怠な声が響く。



 翰文(ハンウェン)はカウチの肘掛けを支えに、足を床へ下ろそうとした。



 足裏が大理石の床に触れた、その瞬間。



 脳内でキィィィンという鋭い音が弾け、強烈すぎて変態的とさえ言える触覚信号が、一万ボルトの電流となって直接脳漿へと叩き込まれた。



 それは単なる痛覚を越えた、**「過度感知(ハイパー・センシング)」**という名の神経のストームだった。



 大理石の上に落ちた塵一粒一粒のエッジ、温度の微細な変化、さらには床の深層から伝わる建物の僅かな振動までもが、脳に直接焼き付けられる。



「う、あ……ッ!」翰文(ハンウェン)は膝の力が抜け、糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。



 膝が床を叩く衝撃が神経によって数万倍に増幅され、肉体が高速走行中の列車に正面衝突したかのような衝撃となって彼を打ちのめした。



「……あ……はぁ、はぁ……」



 翰文(ハンウェン)は床に這いつくばり、一瞬で背中を冷や汗で濡らした。全身の神経が悲鳴を上げ、痙攣している。



「あらあら」



 針夫人(マダム・ニードル)は優雅に茶の湯気を吹き飛ばし、口角に悪戯っぽい冷笑を浮かべた。



「言い忘れていたね。精霊(アエローラ)の晶骨のセンサー感度は、人間の神経の二百倍だよ。あんたは今、靴も履かずにやいばの上を歩く赤ん坊と同じなのさ」



 彼女が黒い手袋の手を虚空でそっと捻る動作をした。



 翰文(ハンウェン)の脚の神経に刺すような痛みが走り、異常な過敏さが僅かに和らいだ。それでもなお、通電した鉄板の上に立っているような感覚は消えない。



「これ……は……、仕返し、かよ……?」翰文(ハンウェン)は歯を食いしばり、顔を上げた。



「**『校準(キャリブレーション)』**と呼んでおくれ」



 針夫人(マダム・ニードル)は冷ややかに彼を見据えた。その瞳には「残り火(エンバー)」に対する忌避と憎悪が僅かに過ぎった。「あんたの身体はあまりに弱すぎる。これほど高階級の義肢を乗りこなす器じゃないのさ。それに……あんたの脳に聞き分けのない店借人が住み着いている以上、あたしはあんたの脚に、あたしが権限を持つ『首輪』を付けざるを得なかっただけだよ」



 彼女が再び指を動かすと、翰文(ハンウェン)の両脚は瞬時に感覚を失い、彼は死んだ魚のように床に転がった。



「あんたがあたしへの手術代を返し終えない限り、この脚の『管理者権限』はあたしの手の中にある。あたしが歩けと言えば歩き、止まれと言えばあんたは這うことさえできなくなるのさ」



「おもちゃ遊びはそれくらいにしなよ、クソ婆あ」



 (ヴィ)の声が届いた。そこには深い不満と疲労が混じっていた。



 翰文(ハンウェン)が顔を向けると、離れたワークテーブルに腰掛ける(ヴィ)の姿があった。



 彼女は上着を半分脱ぎ、背中の痛々しい機械脊椎のインターフェースを晒していた。



 針夫人(マダム・ニードル)は茶器を置くと、八本の機械肢をカチャカチャと鳴らし、(ヴィ)の背後へと舞い降りた。



 彼女は(ヴィ)の無作法に怒るどころか、自分の作品を点検する時だけに見せる、執拗で熱心な表情を浮かべた。



「黙りな、お転婆娘」



 針夫人(マダム・ニードル)は真鍮の指貫をはめた左手を伸ばすと、ガシャリと音を立て、(ヴィ)の背中のメンテナンスハッチを乱暴にこじ開けた。



「っ、つぅ……優しくしろよ!」(ヴィ)が肩をすくめる。



「優しく? 外であたしの作品をこれほど無残に使い倒しておいて、まだ優しさを期待するのかい?」



 針夫人(マダム・ニードル)は銀針で(ヴィ)の体内の管を掃除しながら、毒舌のエンジンを回し始めた。



「この心臓ポンプを見てごらん。石炭鉱山から掘り出してきたみたいにカーボンが溜まってる。あんた、泥水でも冷却液代わりに使ったのかい? それにこの脊椎のシャフト、0.5度も歪んでるじゃないか。誰かのサンドバッグにでもされたのかい?」



「……あの死に損ないの龍の腹の中で、野郎どもと取っ組み合いをしただけだよ」(ヴィ)は煙草を噛み締め、不機嫌そうに答えた。怪我の本当の理由が、重い「荷物(翰文)」を背負って逃げたせいだとは認めたくないらしい。「……四の五の言わずに、直しな」



 針夫人(マダム・ニードル)は冷笑したが、その手の動きは突如として繊細なものに変わった。彼女は袖口から金色の光を放つ油脂のチューブを取り出し、慎重に(ヴィ)の機械心臓へと塗り込んでいった。



「……次にあたしの前でこれほどオーバーロードさせてみな。あんたをバラバラにして門番の人形に作り替えてやるからね」



 (ヴィ)はしばらく沈黙し、言い返さなかった。



 呪いの言葉とは裏腹に、金色の油脂が浸透するにつれ、彼女の荒く雑音の混じっていた心音は次第に平穏で力強いものへと変わっていった。長年彼女を苛んでいた胸の圧迫感が、ようやく霧散していく。



「……サンキュ」(ヴィ)は聞き取れないほどの小声で呟いた。



「この修理費もツケだ」針夫人(マダム・ニードル)は容赦なくハッチを閉じ、(ヴィ)の後頭部をポンと叩いた。「延滞金込みで、あんたはここで五十年間は皿洗いをしてもらうことになるよ」



「わ……、私は?」



 震える声が隅から聞こえた。



 無小姐(ミス・ヌル)がハイチェアの上で膝を抱え、怯えたウズラのように縮こまっていた。



 翰文(ハンウェン)が生き地獄を味わわされ、(ヴィ)が「解体」されるのを目の当たりにし、彼女の恐怖は頂点に達していた。



 針夫人(マダム・ニードル)が向き直り、漆黒のガラス眼を彼女に固定した。赤い同心円が暗闇で微かに収縮する。



「ああ、そうだね。迷子の子鳥ちゃんがいたね」



 針夫人(マダム・ニードル)は浮遊しながら無小姐(ミス・ヌル)へ歩み寄った。巨大な影が覆い被さり、風民(ウィンド・フォーク)の少女は本能的に逃げようとしたが、腰が抜けたように動けなかった。



 針夫人(マダム・ニードル)は半透明の精霊(アエローラ)の左手を伸ばし、彼女の背中の破れた衣類をそっと捲り上げた。



 そこに現れたのは、無残に折れ、断面が半透明の結晶と化した翼の付け根だった。



「……なんと醜い傷痕だろうね」



 針夫人(マダム・ニードル)の声には、病的なまでの哀惜が混じっていた。「力任せに折られたのかい? ……人間という生き物は、自分より高く飛ぶものを壊さずにはいられないらしいね」



 彼女の指が断骨の縁をなぞる。冷たい感触に無小姐(ミス・ヌル)は総毛立った。



「あたしが直してあげようか、小鳥ちゃん。『星鉄』と『雲母瓷』で造った一対の翼がある。あんたの元々のものより軽く、硬い。そいつがありゃ、嵐の層だって飛び越えられるよ」



「……い……いらない……」



 無小姐(ミス・ヌル)は涙を溜め、必死に首を振った。「……それは、偽物だわ……。偽物なんて、欲しくない……」



「偽物?」



 針夫人(マダム・ニードル)の瞳が一瞬で冷え切った。その二文字は彼女の逆鱗(地雷)だった。



 だが直後、彼女の視線は少女の胸元にあるものに吸い寄せられた。



 ボロい紐に吊るされた、羽のようでもあり風のようでもある青い結晶のペンダント。無小姐(ミス・ヌル)の唯一の遺品だ。



 針夫人(マダム・ニードル)の動きが止まった。



 彼女は目を細め、電子義眼でそのペンダントの内部構造をスキャンしているようだった。



 数秒後、彼女は意味深な冷笑を漏らした。



「……ふん。なるほどね」



 彼女は手を引き、翼の話を打ち切ったが、その眼差しはさらに嗜虐的な愉悦を帯びていた。



「門の風律錠があんたを通したわけだ。……小鳥ちゃん、あんたはとんでもなく危険な秘密を抱えているね」



「何のこと……?」無小姐(ミス・ヌル)は無意識にペンダントを隠した。



「何でもないさ。このゴミ溜めじゃ、秘密なんてのは最も価値のない代物だよ」



 針夫人(マダム・ニードル)は背を向け、警告を込めて言った。「けれど、強欲な『新律(ネオ・ロウ)』の犬どもに捕まってスライス(切り刻)研究されたくなかったら、そいつは隠しておくことだ。……あるいは、あたしに預けるかい? 綺麗な磁器の箱をあつらえてあげてもいいけれど」



「お断りよ!」無小姐(ミス・ヌル)は胸元を死守した。



「好きにしな」針夫人(マダム・ニードル)は肩をすくめた。「どのみち、この修道院にいる限りあんたはあたしの『コレクション』の一部だ。あたしのコレクションに手を出せる奴なんていないよ……あたし以外にはね」



「さて、積もる話はこれくらいだ」



 針夫人(マダム・ニードル)が手を叩くと、一斉にカチャカチャという音が響き、温室の竹節虫型人形たちが命を宿した。



 彼女はまだ床に伏していた翰文(ハンウェン)に向き直った。



 指を一弾きする。



 脚の晶骨が低く唸りを上げ、翰文(ハンウェン)の知覚が正常に戻った――正確には、「辛うじて耐えられる」程度に調整された。彼は奥歯を噛み締め、震えながら立ち上がった。発光する晶骨が彼の体重を支える。まだふらつくものの、大地を踏みしめる確かな力がそこにはあった。



「立てたね? よろしい」



 針夫人(マダム・ニードル)は傍らのワークテーブルを指し示した。



 そこには無数の導線が繋がれた精緻なヘッドセットがあり、その先はエンジン(モーター)の背負う脳の水槽へと直結していた。



「仕事の時間だよ、翻訳官」



 針夫人(マダム・ニードル)が冷酷に言い放った。「あたしはこの脳にある『古龍戦争』に関する記憶をすべて抽出したいのさ。座標、条律、あの頑固者が遺した遺言のすべてをね」



「断ると言ったら?」翰文(ハンウェン)は机を支えに、喘ぎながら訊ねた。早々にカードを切るつもりはなかった。



 針夫人(マダム・ニードル)は笑った。



 彼女は傍らの(ヴィ)を、そして隅の無小姐(ミス・ヌル)を指差した。



(ヴィ)のメンテナンスは終わっていない。あたし特製の拒絶反応抑制剤がなけりゃ、あの子の心臓は三日以内に止まるよ」



 彼女はさらに少女を見つめた。「あの子はどうだい? あたしの肺フィルターを装着しなけりゃ、この金属微粉末の舞う廃土であの華奢な肺は三日もせずコンクリートのように硬質化して壊死するだろうね」



「この修道院において、あんたたちの命はあたしが与えたものだ」



 針夫人(マダム・ニードル)は指貫を回した。赤い義眼が暗闇で悪魔的な光を放つ。



「あたしは赤字の商売が一番嫌いでね。……特にお節介な間借人に指を焼かれた後は、ね」



 翰文(ハンウェン)(ヴィ)を見た。彼女は諦めたように肩をすくめ、煙草を吐き出すと「言っただろ」とでも言いたげなジェスチャーをした。



 無小姐(ミス・ヌル)を見ると、彼女は涙を浮かべた瞳で助けを求めるように彼を見つめていた。



 これが廃土だ。ヒロイックな救済など存在しない。あるのは「債務の再編」だけだ。



「……分かったよ」



 翰文(ハンウェン)は溜息をつき、まだ馴染まない、値千金の晶骨の脚を運んでワークテーブルの前へ立った。



 彼はコネクターを手に取り、頭に装着した。



「あんたの『霊魂記憶庫ソウル・ストレージ』の容量が足りることを祈るよ、夫人。この頭の中の夢は……とびきり重いからね」



 針夫人(マダム・ニードル)は満足げに口角を吊り上げた。



「心配はいらないよ。あたしの胃袋は……いつだって強欲なんだから」



 カチリという音と共に「回路パス」が閉じられ、連結が開始された。



 導管の中を、急流のようなグチュグチュという奔流の音が伝わる。それはもはや冷たい「コード」などではなく、青い光を放つ濃厚な記憶の体液。半透明の脈管を伝って狂ったように流れ込み、瞬時に薄暗い温室を惨白で神聖な輝きで満たしていった。



 その不気味な青光の中で、金繕い(きんつぎ)の施された針夫人(マダム・ニードル)の磁器の顔には、芸術家と捕食者が同居するような狂熱的な悦びが浮かんでいた。





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