第5話 : 削除された空気と、墓に突き立つ矛
『断律区における「管理者」を理解しようとするな。蟻が靴底の構造を理解する必要がないのと同じだ。お前が知るべきことはただ一つ。空気が凝固した脂肪のように粘つき始めたら、お前はすでに靴底の下にいるということだ』
——『禁忌境界観測記録・残巻』
あの黒い塔の影に向かって十歩目を踏み出した瞬間、風が強制的に停止させられた。
世界が、見えざる巨人の手によって喉仏を万力で締め上げられたかのように。
これは文学的な修辞ではない。肺の痙攣を伴う、極めて具体的で生理的な窒息感だ。
気圧が急降下する。内耳と外気の圧力差で鼓膜が外側へと膨張し、不快な破裂音を脳内に響かせる。
流動していたはずの白霧は、物理慣性を無視して空中で凍結し、凝固した豚脂の塊へと変貌した。
遠くで蠢いていた影樹の軋みも、足元の泥が跳ねる音も、すべての周波数が世界から削除された。
この感覚は、満員の映画館で唐突に電源ケーブルを引き抜かれた時のそれに酷似している。残されたのは、耳鳴りがするほどの死寂と、絶対的な闇だけ。
直後、その「音」は到来した。
それは空気の振動ではない。絶対零度の探針となって頭蓋骨を貫通し、李翰文の大脳皮質に直接突き刺さり、脳漿をかき回す。
『――異郷人……』
うなじの産毛が高圧静電気に吸い寄せられたかのように逆立つ。
その声音に敵意はない。
いや、感情という不純物が一切混入していない。
あるのは学術的な冷徹さと、「底札はすべて見えている」という圧倒的な傲慢さだけ。
シャーレの中のゾウリムシを見下ろし、「これはラベルが間違った検体だ」と淡々と指摘する研究者の眼差しそのものだ。
背中の女が、激しく痙攣した。
見えない氷柱を心臓に打ち込まれたかのように、昏睡の底で苦悶のうめき声を漏らす。
だらりと垂れ下がっていた彼女の指先が、突然翰文の服に食い込んだ。崖縁で命綱にしがみつくような必死さで、指の関節が白く変色するほどに。
彼女の生物的本能が絶叫している。逃げろ、と。
「……誰だ?」
翰文は奥歯を噛み締め、ガチガチと鳴る下顎を意思の力でねじ伏せる。
声は霧の中で拡散することなく、粘着質な灰色の泥にそのまま飲み込まれた。反響音すら返ってこない。
死寂は二秒と続かなかった。
正面の濃霧に、流体力学を冒涜するような奇妙な隆起が生じた。見えない巨獣が、内側から白い幕をゆっくりと押し広げているかのような圧迫感。
霧が、ある形状を成して膨れ上がる。
それはヒトの形ではない。先ほどの長手足の猟犬とも違う。
高すぎる。優に三メートルはある。
そして細すぎる。引き延ばされた素麺か、あるいは直立歩行する枯れた竹竿のようだ。
翰文の瞳孔が極限まで収縮し、理性を粉砕する光景を**眼裏**に焼き付ける。
霧の中から、一本の「手」が伸びてきた。
炭素生命体にあってはならない造形。
指は六本。
それぞれが異様に細長く、関節が数珠のように連なり、白く浮き出ている。
皮膚は半透明のパラフィン蝋の質感で、血管の代わりに灰色の霧がその下を緩慢に循環しているのが見て取れる。
指先に爪はない。骨そのものが鋭利な棘となって突き出していた。
爆裂する電流ノイズと共に、脳内の「見えない寄生虫」が発狂した。
消毒液と髪の毛の焦げた臭いが混ざり合った激臭が、鼻腔内で炸裂する。
激痛は閃光弾となって視界を黒く塗り潰し、無数の赤いノイズを散りばめる。
寄生虫は、ある窒息しそうな**「認識」**を翰文の意識に無理やりねじ込んだ。
『こいつは白血球だ。お前はウイルスだ』
『戦いに来たんじゃない。「汚れ」を洗浄しに来たんだ……』
『お前の存在は許可されていない。移植に失敗した臓器を拒絶するように、この世界がお前を吐き出そうとしている』
その手は攻撃してこない。
ただ霧の境界に停滞し、六本の指を微かに開閉させ、空気中で翰文から漂う「異界の臭気」をテイスティングしている。
やがて、それは空中で軽く指を弾いた。
衣服についた埃を払うかのような、あまりに無造作な動作。
パチンという軽快な音ではない。
深海で巨大な気泡が圧壊したような、あるいは頭蓋内で琴線を引きちぎられたような、湿った不快な破裂音。
その異音と共に、凝固していた濃霧が崩壊した。
見えざる巨手に撫でられたシルクのように、重力法則を無視した透明な波紋が同心円状に広がる。
『この……器は……汝のものではない』
脳内で再び声が炸裂する。絶対的な権威を帯びて。
翰文の膝から力が抜け、危うく崩れ落ちそうになる。
恐怖の正体は、怪物への畏怖ではない。「現行犯で捕まった」という根源的な焦燥感だ。
空き巣に入った泥棒が家主と鉢合わせしたような、あるいはカンニングをした学生が試験官に手首を掴まれたような。
俺はこの体を盗んだ。俺は不法侵入者だ。
そしてコイツは、この世界のアンチウイルスソフトだというのか?
霧の中の長い指が、虚空に向かって軽く叩く動作をした。
指先が虚空を叩く音は明瞭だが、鼓膜を凍りつかせる響きを持っていた。誰かが爪で、見えない高硬度のガラス壁を弾いたかのような。
指先の着弾点から空気が波打ち、物理法則が軽蔑的な手つきで書き換えられていく。
『汝は……「光の畔」の外より来たりしモノ』
問いかけではない。
それは絶対的な判決文だ。
「太陽は熱い」「水は溺れる」といった宇宙の公理を淡々と述べるかのような口調は、翰文の喉元まで出かかった反論を無慈悲に窒息死させた。
それはゆっくりと手を持ち上げ、指先を翰文の眉間に向けた。
スローモーションのように緩慢だが、回避不能な宿命の重み。
直感が警鐘を鳴らす。あの指に触れられれば、魂ごとトイレの汚物のように流され、存在そのものが消滅する。
「……触る……な……ッ!」
背中の少女が、断裂した音節を吐き出した。
覚醒してはいない。だがその言葉は、遺伝子レベルに刻まれた恐怖と嫌悪によって、骨髄から絞り出されたものだった。
霧の中の手が、空中で停止した。
翰文の額まで、わずか十センチ。
数秒の静止が、数世紀の長さに感じられる。
あの声に、初めて「感情」の色が混じった。
それは高所から蟻を見下ろす巨人が、羽音に邪魔された時に抱く微かな苛立ち。
『……汝らが族……未だ我を阻むか』
次の一瞬、指先が微かに収縮した。
周囲の空間が圧搾され、微細な破裂音を立てる。
髪の毛よりも細い「灰色の光線」が、指先から射出された。
その光に「飛行」という過程は存在しない。
端的に言えば、時間を剪定したのだ。
映画のフィルムを一コマ切り取られたかのように、現実は致命的なフレームスキップを起こした。
一瞬前には遠くにあった指先が、次の瞬間には破滅として眼前に到達している。
翰文の動体視力は軌跡を捉えることすらできず、思考はフリーズし、身体は錆びついたゼンマイ人形のように、ただ結果を待つことしか許されない。
これは「削除」だ。
光が眉間に触れる、その直前――
鼓膜を破壊せんばかりの金属音が、林の深部で炸裂した。
想像を絶する質量の超兵器が、成層圏から墜落して地面を粉砕したかのような轟音。
衝撃波が暴れる。
濃霧が暴力的に引き裂かれ、吹き飛ばされる。
その野蛮なエネルギーの奔流が、死神の軌道を強引に歪めた。
眉心を捉えていたはずの灰色の光線は、空中でへし折られ、翰文の耳介を掠めて飛び去った――火傷よりも深刻な凍傷の痛みを残して。
逸れた光線は後方の影樹に直撃した。
炎上も爆発もしない。
不快な物質解構音と共に、大人が二人で抱えるほどの太さの巨木は、「死」という過程をスキップし、強制的に原子レベルの塵へと還元された。
一秒前まで獰猛な生命体だったものが、次の瞬間には無意味な灰色の砂となって、サラサラと崩れ落ちる。
「ごふっ……げほっ、げほっ……」
翰文は衝撃波で吹き飛ばされ、泥の中に転がった。ダンプカーに撥ねられたかのように、五臓六腑が位置ズレを起こして悲鳴を上げている。
咳き込みながら顔を上げる。
引き裂かれた霧の裂け目から、異様な物体が視界に飛び込んできた。
人の背丈よりも巨大な「黒い矛」が、大地に突き刺さっている。
隕鉄を叩き潰して粗雑に鍛造したかのような荒々しい刀身には、血管のように脈動する暗赤色のルーン文字が刻まれている。
矛の周囲で空間自体が陽炎のように揺らぎ、柄尻には黒い火花がパチパチと跳ねている。
『此度の事象……汝には関わりなきこと!』
霧の中の「粛清者」が咆哮した。
その声から冷徹さは消え失せている。あるのは明確な忌避、そして一抹の畏怖。
黒い矛の隣で、空気が歪んだ。
影が凝縮し、巨大な人型を形成していく。
彼(あるいはそれ?)は、古びた重装甲の鎧を纏っていた。
肩当ては半分砕け、その下には歴戦の傷跡が刻まれた皮膚が覗く。マントはボロ布のように背中で風に揺れている。
千年前の古戦場から這い出し、幾千もの死を経験しながらも、倒れることを拒絶し続ける亡霊のような佇まい。
鉄の手甲に覆われた巨大な手が伸び、黒い矛の柄を掴む。
空気が震え、矛が低く唸った。それは主人の帰還を喜ぶ猛獣の喉鳴りだ。
霧の中の「細長い存在」が、弾かれたように後退した。その気迫に圧倒され、接近を禁じられたかのように。
黒い矛の騎士が口を開く。
その声は、二つの粗い岩石を擦り合わせて砂礫を零したような、低く、嗄れた響きだった。
「その男は、貴様の獲物ではない」
霧の中の声が、氷の刃となって返答する。
『その個体は……この世界に属さぬ。あれはバグ(異数)だ』
騎士が、鼻で笑った気がした。
短く、乾いた、世の理をすべて見透かしたような蒼涼たる嘲笑。
「だからこそ、手出しはさせん」
霧が爆発的に膨張し、激しくのたうち回る。あの存在が憤激に金切り声を上げているようだ。
だが、追撃はなかった。
見えざる天秤で、リスクとリターンを計算しているかのように。
やがて、陰湿な圧迫感は引き潮のように退いていった。より深い影の底へと沈み込み、気配が完全に消滅する。
それが去った瞬間、世界は回転を取り戻した。
葉が揺れ、風が吹き抜ける。まるで何事もなかったかのように。
喉元を締め上げていた窒息感も霧散した。
ただ、大地に突き刺さった黒い矛だけが、沈黙の宣告としてそこに在り続けている。
騎士がゆっくりと振り返り、翰文の方を向いた。
微弱な月光の下、その表情は兜の陰に隠れて判然としない。見えるのは、深い眼窩の奥で燻る二点の光だけ。
それは夜巡る者のような冷たい白光ではない。
死灰に覆われた、暗赤色の残り火。
その光は渾濁し、明滅するたびに、金属疲労で今にも千切れそうな悲鳴を上げているように見えた。
その視線が翰文を射抜いた瞬間、膝が崩れ落ちそうになった。
千年分の重みを持つ墓石を、肩に叩きつけられたかのような重圧。
瞳には、世界そのものを背負ったかのような、底なしの疲労と沈痛が満ちていた。
「ここから離れろ、異郷人」
地の底から響くような低音が、林を震わせる。
翰文は喉が張り付き、声が出ない。ただ機械的に頷くことしかできなかった。手には錆びたナイフを握りしめたままだが、戦車の前で爪楊枝を構える道化のように滑稽だった。
騎士は腕を上げ、ある方向を指し示した。
「その娘を連れて……北東へ行け」
「三里先に、廃棄された監視塔がある」
「あそこなら……少なくとも、今夜は生き延びられる」
翰文は拳を握りしめ、全身の力を振り絞って問いを投げかけた。
「……アンタは、誰だ?」
騎士は一瞬、沈黙した。
霧の光が傷だらけの甲冑を照らし、無数の歴史を浮かび上がらせる。
彼は低く、吐息のように囁いた。
「死人だ」
次の瞬間、彼は霧の中へと後退した。
巨大な黒い矛と共に、空気の中に溶けるようにして姿を消す。
まるで今の出来事すべて――あの蒼白の手も、致命的な光線も、この対峙も――すべてが翰文の瀕死の脳が見せた幻覚だったかのように。
だが、矛が穿った地面の深坑と、その周囲で青い煙を上げて焦げ付いた痕跡だけは残っている。
それらが李翰文に冷酷な現実を突きつけていた。
夢ではない。
俺は確実に、地獄の門をくぐって戻ってきたのだ。
深く、長く息を吸い込む。鉄錆と泥の混じった空気が肺を満たす。
翰文は無様に這い上がり、背中の名もなき女を背負い直した。
中空の鳥の骨格のように軽い彼女だが、肋骨がひび割れ、肺が焼けるように痛む今の彼にとって、その温かくリアルな「負荷」は、呼吸を阻害するほどの重みだった。
だが、その痛みが警告してくれる。立ち止まるな、と。
北東。廃棄された監視塔。
翰文は足を引きずり、よろめきながら歩き出した。
胸部の激痛が意識を蝕むが、休息は許されない。
彼は理解していた。これが、李翰文が初めて触れた七界の「深淵」なのだと。
最初に目撃したのは、神話の英雄でも史詩の栄光でもない。
「生きた未知」だ。
そして霧の奥底には、すでに彼を標的として捉えた、数多の恐怖の視線が潜んでいることを。




