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第49話 : 霊枢の刺繍と、昂ぶる火




『痛覚とは、魂が自らを肉体という箱に閉じ込められていると確認するための証明だ。痛みを感じなくなったなら、おめでとう、あんたはもう死人だよ。——あるいはもっと最悪なことに、完璧な複製品レプリカになっちまったのさ』



  ——『縫魂手記』巻五:神経の調律について、針夫人(マダム・ニードル)



 翰文(ハンウェン)は覚悟を決めたつもりだった。



 だが、最初の一本の銀針が膝に刺し込まれた瞬間、彼は「覚悟」という言葉の理解がいかに浅はかなものであったかを思い知らされた。



 ここには無影灯もなければ、心電計の規則的な電子音もない。



 ただ、天井から吊り下がった針夫人(マダム・ニードル)が、巨大な機械蜘蛛のごとく降りてきて、十本の指を翰文(ハンウェン)の脚の上で優雅に舞わせているだけだ。



 歯の浮くようなシュウゥ……という音が響く。予期していたメスの刃が皮膚を割る感覚はなく、代わりに届いたのは、強大な張力によって布地が崩壊していくような、生々しい断裂感だった。



 針夫人(マダム・ニードル)は脚を切り離してはいなかった。彼女は髪の毛ほどの銀針を使い、翰文(ハンウェン)の腿の付け根にある神経束を一本ずつすくい上げ、軽く弾いたのだ。



「あ、あああぁぁぁぁぁーーッ!!!」



 翰文(ハンウェン)は猛然とのけぞり、喉の奥から凄惨な絶叫をほとばしらせた。その声は死寂に包まれていた手術室を一瞬で埋め尽くした。



 身体が手術台の上で激しく跳ね、拘束バンドが肉に深く食い込む。それはあたかも、自分の神経をヴァイオリンの弦に見立てて、狂った調律師が音の狂ったレクイエムを奏でているかのような感覚。神経が筋肉組織から引きずり出されるたび、白い閃光が脳天を直撃し、理性を粉々に粉砕していった。



「動くんじゃないよ」



 針夫人(マダム・ニードル)の声は依然として倦怠を帯びていた。まるで生身の血肉ではなく、高価な刺繍を修繕しているかのような口ぶりだ。



「あんたの鳴き声は耳障りだね。あたしの磁器の蝶たちが怯えてしまうよ」



 パキィィンという乾いた音が響く。彼女が指先で無造作に何かをなぞると、翰文(ハンウェン)は大腿骨を万力で強引に叩き割られたような衝撃を受けた。



「腱は石灰化し、神経束はもつれた糸屑のようだ。……ふん、(ヴィ)のあの跳ねっ返り、あんたに工業用の油圧オイルを潤滑剤代わりに使いやがったね? 全く、宝の持ち腐れだよ」



 翰文(ハンウェン)はもはや声も出せなかった。口を大きく開けたまま、唾液と涙が混ざり合って顔中を濡らしている。劇痛に視界は暗転し、生理的な痙攣を繰り返すその姿は、皮を剥がれた蛙のようだった。



 黒く硬化した死肉の塊が金属トレーへと放り投げられ、パチャリ、パチャリと鈍い音を立てる。



 それは翰文(ハンウェン)がここまで歩き続けてきた「黒い蹄」だった。今、それらは完全に廃棄された。



 代わりに現れたのは、幽かな青い光を放つ一対の**「晶骨(クリスタル・ボーン)」**。



 半透明で、水晶のように透き通った骨格。それは息を呑むほどに美しく、同時に人間界のものとは思えぬほどに冷たかった。



 針夫人(マダム・ニードル)は晶骨をゆっくりと傷口へ押し込み、剥き出しの神経束を一本一本、その冷たい水晶へと巻き付けていった。



「さあ、ここから『接駁リンク』を始めるよ。少し……酸っぱい(しびれる)よ」



 その痛みは、もはや痺れの範疇を超えていた。――煮え滾るガラス液を骨髄へ直接注ぎ込まれ、同時に氷水で剥き出しの神経末端を凌遅りょうちにされているような感覚。



 翰文(ハンウェン)は白目を剥き、意識が朦朧とし始めた。



 自分が宙に浮いているような感覚。手術台の上で蛙のようにのたうつ男を見下ろし、可哀想な奴だ、大きな声で鳴くものだ、と他人事のように思っていた。



 肉体の苦痛が魂の許容量を超えた時、魂は一時的な逃避を選んだ。**「解離(ディソシエイション)」**と呼ばれる空白の空間へと。



 手術は、果てしなく長い三時間に及んだ。



 手術室の外では、壁に寄りかかった(ヴィ)の手の中の煙草が、絶え間なく震えていた。中から悲鳴が上がるたび、彼女の指先は無意識に跳ねる。その声は、彼女がかつて心臓を改造された時の、あの恐怖の記憶を呼び覚ましていた。



 針夫人(マダム・ニードル)は、ついに両脚の「縫合」を終えた。



 新しい脚は、芸術品のように完璧だった。彼女は人間本来の皮膚を使わず、半透明の「仿生バイオシリコン皮」でそれを覆った。蒼白な皮膜を通して、内部で幽青色の光を放つ骨格と、金色の神経回路が流動しているのが見て取れた。



 だが、彼女が手を止める気配はなかった。視線は翰文(ハンウェン)後頸部うなじへと向けられた。



 そこは脊椎の中枢に繋がり、全身の神経を制御するメインゲート。大脳へと至る避けては通れぬ道。



「脚は直したよ」



 翰文(ハンウェン)の上に滞空する彼女の漆黒のガラス眼の中で、赤い光輪が収縮し、彼の後頭部の領域をロックオンした。



「さて。次は老鬼(ラオグイ)の言っていたあの『厄介事』を処理しようじゃないか」



 彼女は分かっていた。それが何であるかを。



 翰文(ハンウェン)の脳の深淵で燃え続ける、不安定な高熱の正体を。



「……なんとも無作法な寄生だね」



 針夫人(マダム・ニードル)が指を伸ばすと、指貫の先から以前よりも長く、太い真鍮製の探針が飛び出した。



「こいつは時限爆弾のようなものだ。あたしが装填したばかりの晶骨を一瞬で焼き切ってしまう。……あたしの作品に、そんな瑕疵かしは許さないよ」



 彼女が求めているのは治療ではない。「規範コントロール」だ。



 彼女の「霊枢刺繡」を使い、狂暴な古の炎に「安全弁」を取り付けようというのだ。それは構造師アーキテクトとしての傲慢。万物は設計され、改良されるべきだという思想。



「……動くんじゃないよ、チビ助」



 針夫人(マダム・ニードル)は微笑んだ。その優しさは、毛跳ぼう立つほどの気味悪さを湛えていた。「あたしが綺麗に『縫って』あげる。もう少し、お利口にさせなきゃね……」



 探針がゆっくりと、翰文(ハンウェン)の耳の後ろへと刺し込まれた。



 冷たい金属が皮膚を貫き、血管を避け、脳へと繋がる中枢神経に迫る。



 真鍮の針がその「火」に触れた、まさにその瞬間。



 脳内の深淵で、凄まじい爆発が起きた!



 物理的な爆破など、精神的な衝撃の前では塵に等しい。それは意識の荒野を一瞬で焦土に変える核爆発だった。



 翰文(ハンウェン)の身体が見えない巨大な手に脊椎を掴まれたように、不気味な角度で反り返った。



 プシュッという鈍い音と共に、両の鼻孔から鼻血が噴き出し、次いで目尻、耳孔。七竅しちきょうからの出血。



 脆弱な「容器」である翰文(ハンウェン)の内で、二つの高位の存在が正面衝突を起こしていた。



 その刹那、脳の深部で「休眠」状態にあった死灰が、外部から差し込まれた傲慢な制御の針に、徹底的に激昂した。



 眠れる獅子が、最も忌まわしき羽虫に叩き起こされたかのような。それは生理的な、痙攣に近いほどの猛烈な嫌悪だった。



 「残り火(エンバー)」は、翰文(ハンウェン)が力を借りることを拒まない。翰文(ハンウェン)は容器であり、宿主だからだ。



 だが、そいつは断じて許さなかった。「自らを磁器へと成り下げた裏切り者」が、その低劣な針と糸で自分を「縫合」しようとすることを。



 恐怖を感じるほどの高熱が、翰文(ハンウェン)の神経を逆流していった。



 翰文(ハンウェン)は脳漿が沸騰する感覚に襲われ、皮膚の下の血管は禍々しい黒に変色し、直後にたぎるような金色の光を放った。



 そして、怒りに満ち、嗄れ、高音のノイズを孕んだ「思念」が。



 幻聴ではなく、翰文(ハンウェン)の血に濡れた声帯を直接震わせ、手術室に響き渡った。



『……不浄アンクリーンなり……』



『……不潔なる、もの……』



 針夫人(マダム・ニードル)が息を呑んだ。「なっ……?」



 彼女が反応するより早く、探針を伝わってきた力が彼女を襲った。



 それは電流などという生易しい現象ではない。この世界の根源たる「律」が、針夫人(マダム・ニードル)という「人工物」の力に対して行った、本能的な排斥。



 空気中で金属が急激に気化するキィィィィン!という耳障りな音が響き、翰文(ハンウェン)の体内に刺さっていた真鍮の探針は一瞬で真っ赤に焼け、次いで溶け落ちて液体と化した。



 高熱は針を伝い、針夫人(マダム・ニードル)の指先を直撃する。真鍮の指貫をはめた彼女の指――精緻にして不壊を誇るその手から、黒い煙が立ち上がった。



『……贋作カウンターフェイトめ……』



 あの声が再び響く。冷酷で、高慢で、目の前の「磁器の人間」に対する底知れぬさげすみを湛えた声。



 針夫人(マダム・ニードル)は焼かれたように猛然と手を引き込み、八本の機械肢を天井のレールに激突させながら後退した。ガシャァァン!という巨響。



 彼女は、戦慄の面持ちで自らの指先を見つめた。



 そこには、完璧な白磁の肌に、「金繕い(きんつぎ)」でも決して修復できない、醜く焦げ付いた焼き跡が刻まれていた。



「贋作……?」



 針夫人(マダム・ニードル)は震える声でその言葉を繰り返した。



 その二文字は鍵となり、彼女が千年の間封じ込めていた記憶のブラックボックスを強引にこじ開けた。



 二つの力の衝突が限界に達し、翰文(ハンウェン)の意識はついに崩壊した。



 だが、完全なる闇が訪れる直前。溢れ出した意識が、濁流となって彼の脳へ流れ込んだ。



 視界が重なり、ぼやける。



 目の前で恐怖に怯え後退する針夫人(マダム・ニードル)の姿が、記憶の中の別の影と重なった。



 それは雲を突く灰色の高塔。空はまだ、今よりずっと青かった。



 二つの美しい月が浮かぶ夜、巨大な掃き出し窓の前に一人の影が立っていた。



 半透明の肌を持ち、全身に月光のような血液を流す美しい精霊(アエローラ)。――それは、まだ改造される前のオフィーリアだった。



 彼女の背後には、一人の老いた精霊(アエローラ)の長老が立っていた。長老の瞳に怒りはなく、ただ果てしない悲しみだけがあった。



「オフィーリア、もうお止めなさい」長老は、自らの血管に煮え滾る磁器液を流し込もうとする彼女を見つめ、声を震わせた。「光が尽きれば霧散する。それが自然の摂理なのです。そのように無理やり光を閉じ込めるのは……生命への冒涜です」



「冒涜? 私は私たちの知識を救っているのです! 栄光を保存しているのです!」



 若きオフィーリアは叫んだ。透明だった自らの肌が、惨白な不透明の磁器へと変わっていく様を見つめながら。



「生き延びられるのであれば、化け物になったところで何だというのです!」



 長老は背を向けた。二度と彼女を見るに忍びなかった。



 去り際、彼は針夫人(マダム・ニードル)を数千年の間呪縛し続けることになる言葉を遺した。



「……それは生きているとは言えません、我が子よ」



「……いかに完璧な縫合を施そうとも、それはただの精巧な骨壺に過ぎないのですから」



 現実と回憶の声が重なり合い、一筋の金切声へと変わった。



「……黙れッ!!!!」



 針夫人(マダム・ニードル)は猛然と腕を振り回し、無数の銀針を豪雨のごとく周囲へ射出した。辺りの磁器の花鉢が次々と爆散し、粉々になって飛び散る。



「生きられるのであれば……この両手を残せるのであれば……!」



「……贋作になったところで、何だと言うんだ!!」



「……はあぁッ!」翰文(ハンウェン)は手術台から弾かれたように飛び起き、全身を冷や汗で濡らした。



 だが動いた途端、鼻と口から大量の黒い血を吐き出した。



 痛覚は消えていた。だが身体はマラソンを終えた直後のように虚脱しきっていた。



 彼は視線を落とし、自らの脚を見た。



 そこにはもう、血肉の判別がつかない惨状はなかった。半透明の生体皮膚越しに、幽青色の光を放つ骨格が幽かに透けて見える。



 手術は成功した。だが、手術室の空気は氷点下まで冷え切っていた。



 針夫人(マダム・ニードル)は影の中に身を潜め、最も遠い天井の隅にへばりついていた。



 彼女は翰文(ハンウェン)を――正確にはその脳を――呪わしげに凝視していた。



 焼かれた指先は小刻みに震え、床には溶けた探針がまだ青い煙を上げて転がっている。



 完璧な白磁の指に刻まれたあの黒い焼き跡は、あまりにも醜く、二度と消えない屈辱の刻印としてそこにあった。



「……失せろ」



 針夫人(マダム・ニードル)の声からは優雅さが消え失せ、手負いの獣のようなヒステリーと恐怖が混じっていた。あの言葉が、彼女の数千年の自尊心を深く抉ったのだ。



「……その脳みそにある化け物共々……今すぐ、あたしの前から消え失せなッ!」



 翰文(ハンウェン)は顔の血を拭い、自分の後頸部に触れた。



 そこには傷一つなかった。



 だが、脳内の「残り火(エンバー)」が寝返りを打ち、再び深い眠りについたのを感じた。



 眠りに落ちる直前、そいつは極めて鮮明な「感情」を遺していった。



 ――嫌悪。



 自然を補修し、改造し、歪めようとするあらゆる「技術」に対する、絶対的な嫌悪だった。



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