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第48話 : 解剖台上の博弈




『医者は傷口を縫い合わせることしかできないが、迷える羊を呼び戻せるのは羊飼いだけだ。鎖された霊魂をナイフで切り開こうとするんじゃないよ。手に入るのはただの鉄屑だけなんだからね』



  ——『灰塔修復日誌グレータワー・リペアログ』残頁404、著者不明



 針夫人(マダム・ニードル)は宙に浮いたまま、漆黒の釉薬を施したガラスの瞳で、李翰文(リー・ハンウェン)を傲慢に見下ろしていた。



 その眼差しは人間を見ているのではなく、泥の中から掘り出されたばかりの、質の悪い鉱石を品定めしているかのようだった。



無律者(ロウレス)



 彼女は瓷器しきが触れ合うような、清らかで冷たい嘲笑を漏らした。「また老鬼(ラオグイ)のあの死に損ないが送り込んできたのかい? あんたで何人目だろうねぇ。七百……そうさね、四十、四十一、四十二人目かい?」



 翰文(ハンウェン)は言葉を失った。その正確な数字に、背筋を凍るような感覚が走る。



「自分が『選ばれし者』だなんて顔で見ないでおくれよ、坊や」



 針夫人(マダム・ニードル)は指にはめた真鍮の指貫ゆびぬきを優雅に転がした。その先端が危険な寒光を放つ。



「あいつが図書室に引きこもって叙事詩を書いていた間、あたしのこの『手』は、この解剖台の上で七百四十一人もの馬鹿者を見送ってきたんだ。あいつらの脳内の『残り火(エンバー)』なんて、アルコールランプに火を灯すのも一苦労なほど弱々しい代物でね。結局は自分自身を焼き尽くして灰になり、あたしの素敵な花たちの肥料になったのさ」



 彼女は身を乗り出し、惨白な磁器の顔を翰文(ハンウェン)の鼻先まで近づけた。



「さて、教えておくれよ、第742号。あんたの何が特別だっていうんだい? その爛れきった黒い蹄かい? それとも、あんたが持ってきたこの……死肉かい?」



 針夫人(マダム・ニードル)は背を向け、八本の機械肢をカチャカチャと鳴らしながら、エンジン(モーター)の背負う脳の水槽の前へと移動した。



(ヴィ)は、これを伝説の『暴食者(グラトニー)』の核心だと言っていたけれど」



 針夫人(マダム・ニードル)が指を伸ばすと、指貫の先から銀の糸に繋がれた極細の長針が飛び出した。



 長針はプシュリと帆布を貫通し、躊躇なく水槽の中の脳へと突き刺さった。ねっとりとした何かが砕ける音が響く。



 エンジン(モーター)が威嚇の低唸を上げたが、(ヴィ)は複雑な表情を浮かべながらそいつを強く押さえつけた。



「神経束は炭化、律エネルギーの反応は微弱、海馬体の回路は封鎖されているね」



 針夫人(マダム・ニードル)は銀針から伝わる微かな振動を読み取りながら、冷酷に宣告した。「これは生体エンジンなんかじゃない。防腐液に浸かったただの標本だよ。『律』はとうに霧散している。この死肉のために、あたしの貴重な『白釉生体瓷びゃくゆう・バイオセラミック』を浪費してあんたの足を直せとでも?」



 彼女は銀針を引き戻し、忌々しげに手を拭った。



オフィーリア(オフィーリア)は死んだものを直したりしない。そいつを外へ放り出しな。老鬼(ラオグイ)の面に免じて命までは取らないけれど、あたしの温室をこのゴミで汚すのは許さないよ」



 影の中から巨大な竹節虫ナナフシ型の瓷偶(ポーセリン・ドール)たちが這い出し、赤い瞳を攻撃の色に輝かせながら、退去を促す準備を始めた。



「……死んでなんかいない」



 掠れた声が響いた。



 針夫人(マダム・ニードル)は動きを止め、首をわずかに傾げた。白目のない黒い瞳に危険な光が宿る。「何と言ったい?」



 李翰文(リー・ハンウェン)は足裏の肉が爛れる鈍痛に耐え、無小姐(ミス・ヌル)の支えを振りほどいて一歩踏み出した。



「死んでなんかいない。こいつはただ……あんたと話すのを拒んでいるだけだ」



 針夫人(マダム・ニードル)は笑った。とんでもない冗談を聞いたという顔だった。



「あたしを拒む? あたしはこの荒野で最高の構造師アーキテクトだよ。灰塔(グレータワー)で古龍エンジンの設計図をその手で描いたことさえある。石の呼吸を聞き、断ち切られた稲妻を縫い合わせることさえできるあたしを、この爛れた肉が拒んでいるというのかい?」



「あんたが『新律(ネオ・ロウ)』の言葉を使っているからだ。あるいは、構造師としての言葉をな」



 翰文(ハンウェン)はその漆黒のガラス球を直視した。心臓が激しく脈打つ。



 賭けだ。あの伝説の「人類の大長老」が本当にバックドアを残していたという可能性に、すべてを賭ける。



「電流で刺激し、銀針で探る。こいつにとって、それは対話じゃない。拷問による自供の強要と同じなんだよ」



 翰文(ハンウェン)は水槽のそばへ歩み寄った。「残り火(エンバー)」を使うつもりはなかった。あんな弱々しい火種など、五千年を生きる精霊(アエローラ)の前では無に等しいことを知っていたからだ。



 彼は深く息を吸い、冷たいガラス壁に掌をそっと当てた。



 そして、目を閉じ、ある旋律を口ずさんだ。



 それは呪文でも高遠な律法でもなかった。



 あの地下シェルターで、長老が何度も鼻歌で歌っていた、古き山林の調べ。



 「家路」を歌った、**排灣族(パイワン)の古調(Paiwan Melodies)**だった。



「……yi na pa su se……(お母さん、どうか止めて……)」



 最初は、小さく、広大な磁器の庭園の中でか細く響く程度の声だった。



 水槽の中の液体が、微かに震えた。



「フン、神経反射だね」



 針夫人(マダム・ニードル)は冷笑し、十指を猛然と広げた。数十本の極細の銀針が水槽の各ノードへと瞬時に突き刺さる。「そんな低級な音波共鳴で生命反応を偽装しようだなんて。天真爛漫にも程があるよ」



 銀針が指先の下でキーンという鋭い音を立て、高周波の抑制電流を狂ったように流し込んだ。微かな振動を強引に圧殺しようとしたのだ。これがただの肉の痙攣であり、霊魂の覚醒ではないことを、その耳で確かめるために。



 だが次の瞬間、彼女の表情は凍りついた。



 その振動は消えるどころか、逆に彼女の銀針を逆流してきたのだ。



 水槽の中の脳が猛烈に収縮し、強烈で狂暴な「拒絶」の拍動を爆発させた。パキィィン!という破砕音と共に、針夫人(マダム・ニードル)の銀針は一本残らず弾き飛ばされた。



「な……何だって……?!」



 針夫人(マダム・ニードル)の漆黒の瞳の中で、演算を続けていた赤い光輪が不規則に点滅し始めた。



 それは受動的な神経反応などではない。生者が放つ、最も強靭な「拒絶」の意思。



 彼女が死物と断じたその肉塊は、自ら彼女の接触を拒み、あの男の歌声に狂おしいほどに応えていたのだ。



 水槽の内部から、極めて低く、優しい「ウゥゥ……」という唸り声が沸き上がった。その形容しがたい振動はさざ波のように広がり、針夫人(マダム・ニードル)の機械肢が立てていた騒がしい駆動音を完全に飲み込んだ。



 濁っていた栄養液が渦を巻き始める。



 「炭化した」と断じられたはずの神経束に、柔らかな幽藍色の光が灯った。その光は翰文(ハンウェン)の鼻歌のリズムに合わせて明滅し、あたかも時空を超えた二重唱デュエットを奏でているかのようだった。



 光が最も強まった瞬間。温室の片隅に置かれた、埃を被った旧律波周波モニターに、一筋の猩紅色の警告灯が静かに灯った。闇そのものを除いて、その点滅に気づく者は誰もいなかった。



 光が灯った刹那、翰文(ハンウェン)の脳裏に断片的な映像が過った。



 燃え上がる緑の森。この歌を口ずさむ白衣の老人。そして、身体が水晶のように半透明で、全身から月光を滴らせる精霊(アエローラ)の背中……。



 ボコボコという音と共に巨大な気泡が湧き上がった。脳の皺がゆっくりと伸び、死灰色だった表面に流動的な輝きが戻っていく。



 それは目覚めたのだ。



 いや、ずっと生きていたのだ。この歌でしか開かない「部屋」の中に、自分自身を閉じ込めていただけなのだ。



 翰文(ハンウェン)は歌うのを止めた。



 彼は振り返り、呆然自失の態の針夫人(マダム・ニードル)を見つめた。



 脳が放つ青い光に照らされた翰文(ハンウェン)の顔には、奇妙な神聖さが宿っていた。



「こいつはあんたの針を認めないんだ、夫人」



 翰文(ハンウェン)は静かに言った。手はまだ温かなガラス壁に触れたままだ。「あんたを知らないからだ。こいつは『あの人』の子供だ。こいつが覚えているのは、故郷の歌だけなんだよ」



 温室全体が、死のような静寂に包まれた。



 隣の(ヴィ)は驚きのあまり煙草を落としたことにも気づかず、銃口を力なく下げていた。全知全能を自負するあのクソ婆あが、これほど無様に打ち負かされる姿を彼女は初めて見た。



 針夫人(マダム・ニードル)が猛然と降下してきた。



 八本の機械脚が重槌のように振り下ろされ、床を叩き割る寸前でガシャリとロックされ、大理石からわずか一ミリの地点で完全停止した。一分いちぶの震えさえない。



 その極限の制御は、彼女の内心の激動――怒り、屈辱、そして呼び覚まされた遠き日の記憶を物語っていた。



「……音律鍵メロディ・ロックじゃないね」



 針夫人(マダム・ニードル)は大脳を凝視し、奥歯を噛みしめるような悔しさを滲ませた。



「……**『脆弱性(グリッチ)』**だ。あの狡猾な老いぼれめ。あいつは最初からこのエンジンをロックする気なんてなかったんだ。意図的に感情の脆弱性を残したのさ……。愚かな『異郷の人間』にしか触れられない脆弱性をね」



 彼女は顔を上げ、再び翰文(ハンウェン)を吟味した。



 今度の瞳の赤い光輪は「照準」ではない。汚された尊厳を取り戻さんとする「独占欲」だ。



「あんたはこいつを直したわけじゃないよ、第742号。あんたは偶然、あの老いぼれが残した勝手口を踏み抜いて、こいつを叩き起こしただけさ」



 針夫人(マダム・ニードル)は指貫を回し、耳障りな摩擦音を立てた。



「だが目覚めてどうなる? こいつは依然として外殻を持たず、今にも崩れそうな柔肉に過ぎない。適切な『器』がなければ、今夜をも越せやしないだろうね」



 彼女は半透明の精霊の左手を伸ばし、背後の巨大な手術台を指した。



「上がりな」



「……助けてくれるのか?」翰文(ハンウェン)が問う。



「助ける? まさか」



 針夫人(マダム・ニードル)は冷笑した。慈悲など欠片もなく、そこにあるのは狂った競争心のみ。



「あの老いぼれが間違っていたことを証明してやるのさ。あいつは『心』だけが奇跡を動かすと信じていたのかい? ならあたしが、何が『完璧な構造』なのかをあんたに見せつけてやるよ」



「あたしが私蔵している『精霊晶骨(クリスタル・ボーン)』と『旧律油圧筋束』であんたの足を再構築してやる。これは治療じゃない。上書き(オーバーライド)さ」



 針夫人(マダム・ニードル)の瞳には、病的とも言える炎が燃えていた。



「あんたがあいつの伝承者だと言うのなら、あたしの『作品』に作り替えてやる。この足があの老いぼれの設計したどんな代物よりも完璧であることを、あいつが地獄にいたとしても認めさせてやる。あたしの腕があいつに勝ったことをね」



「取引成立だ」翰文(ハンウェン)に躊躇はなかった。



「安請け合いするんじゃないよ、坊や」



 針夫人(マダム・ニードル)は口角を吊り上げ、芸術家特有の狂気じみた笑みを浮かべた。



「あたしの手術は……ひどく痛むよ。最高の素材を使うんだ、それに見合う最高の苦痛を味わってもらわなきゃね。麻酔は一切禁ずるよ」



 翰文(ハンウェン)は一瞬、呆然とした。



「……何だって?」



「麻酔剤は神経の反応を鈍らせ、神経束と晶骨の接合精度を狂わせるんだよ」針夫人(マダム・ニードル)は当然のように言い放った。



「あんたは一生不自由な足で過ごしたいのかい? それともあたしの手術台の上で痛みと共に死にたいのかい?」



 翰文(ハンウェン)は冷たい手術台を見つめ、深く息を吸った。



「……死なせてくれ。痛みの中でな」



「いい心がけだ」



 針夫人(マダム・ニードル)は満足げに宙に浮いた機械肢を引き寄せ、手術台へと舞い戻った。



 だが、身を翻した瞬間、彼女はまるで些細な雑事を思い出したかのように、虚空から文字の浮かぶガラス板を手繰り寄せた。



「ああ、そうだ。もう一つ小事ついでがあったね」



 針夫人(マダム・ニードル)の口調は、天気の話題でも出すかのように軽やかだった。



 (ヴィ)の身体がビクリと強張り、予期していたかのように力なく目を閉じた。



「先ほどの『三級浄化』の代金だよ」針夫人(マダム・ニードル)は振り返りもせず、ガラス板の上で優雅に指を滑らせた。ジジジと刻み込まれる音。



「高純度『銀霧溶剤』が十二リットル、硬毛ブラシヘッドを三組交換、それにボイラーの燃料費……」



 彼女は顔を向け、呆然とする翰文(ハンウェン)に微笑みかけた。



「あんたには今払えるわけがない。このツケは(ヴィ)の頭に乗せておくよ」



「おい! クソ婆あ!」(ヴィ)がついに叫び声を上げた。「あんなのあんたが強制的に洗わせたんだろ! あたしは頼んでなんか――」



「黙りな、お転婆娘」



 針夫人(マダム・ニードル)の声が瞬時に冷え込み、年長者特有の威圧を放った。「あたしがいつ食い逃げなんて教えただい? ここじゃ、空気一つ吸うのにもコストがかかるんだよ。不潔でいるのはあんたの勝手。けれど清潔にするのはあたしの『サービス』さ。サービスを享受したなら、対価を支払うのが道理だろ?」



 彼女は翰文(ハンウェン)に向き直り、からかうような、教育的な眼差しを向けた。



「覚えておきな、坊や。この廃土において、値札の付いているものは概ね最も安い。逆に『タダ』に見える施しこそ……往々にしてお前の命を奪いに来るものだよ」



 針夫人(マダム・ニードル)が手を振ると、ガラス板の数字が跳ね上がった。恐るべき金額であることは明白だった。



「さて、(ヴィ)。あんたの借金がまた増えたね。さあ、その犬を連れて休憩エリアで待ってな。あたしの『創作』の邪魔をしないでおくれ」



 (ヴィ)は奥歯を噛み締めて針夫人(マダム・ニードル)の背中を睨みつけたが、結局は諦めたように肩を落とした。彼女は翰文(ハンウェン)を見て、複雑な――「見ての通りだ、あいつは吸血鬼だよ」と言いたげな視線を送った。



 翰文(ハンウェン)はその光景を見て、すべてを理解した。



 なぜ(ヴィ)はいつも最初に毒を吐くのか? なぜ「契約」と「対価」に執着するのか?



 彼女は、この狂った女に育てられたのだ。



 この精緻な磁器の地獄において、一呼吸一呼吸が値踏みされている。(ヴィ)は冷酷なのではない。ただ、こうして生き抜いてきただけなのだ。



「……行くよ」(ヴィ)は呆然とする無小姐(ミス・ヌル)の腕を荒っぽく引いた。その口調には債務者としての苛立ちが溢れていた。



「あっちで座ってな。余計なもんには触るんじゃないよ。壊しでもしたら、あんたを売り飛ばしても弁償できやしないんだからね」



 翰文(ハンウェン)は二人を見送り、そして向き直った。冷たく、巨大な、自らの運命を再構築する手術台へと。



 彼が支払うべき代償は、まだ始まったばかりだった。



 冷徹なカチリという音が死寂を切り裂き、手術室のライトが一斉に点灯した。



 空間は、惨白な骨の色に染め上げられた。



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