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第46話 : 巨神の死装束と、錆び付いた通夜客




『もし、山脈が呼吸しているのを見ても驚くんじゃないよ。あの古の巨人たちは、まだ死にきっちゃいない。ただ疲れすぎて、一万年の微睡まどろみを選んだだけなんだ』



  ——『地層下の囁き』、李翰文(リー・ハンウェン) 著(未出版手稿)より



 西へ進むほどに、風の音は凄惨さを増していった。



 その風はもはや単なる気流の咆哮ではない。無数の巨大な金属の空洞、断裂したパイプ、そして錆びついた胸郭を通り抜ける際に絞り出される、地を這うような嗚咽だった。



 空は依然として絶望的な鉛色を呈し、カビの生えた裹屍布かしふのごとく大地を覆い尽くしている。だが、ここの空気は何かが違っていた。



 空気中を、紅褐色の綿状の物質が舞い落ち始めた。



 最初、翰文(ハンウェン)は何らかの菌類の胞子かと思ったが、一枚の「雪」が彼の手甲に落ちた時、その考えは霧散した。それは溶けることなく、逆に皮膚の上でザラリと硬い錆の擦り傷を刻み、微かな刺痛をもたらしたのだ。



「……**『鏽雪(しゅうせつ)』**だね」



 先を行く(ヴィ)が足を止め、衣類を高く引き上げて顔の半分を覆い隠した。厚い布越しに、篭った声が届く。



「……鼻と口をしっかり塞ぎな。空を仰いで口を開けるんじゃないよ。そいつは、上でくたばってる連中の剥がれ落ちた『フケ』だからね」



 (ヴィ)は雲の中に没した巨大な金属の残骸を指差した。その声は氷のように冷たい。「吸い込んでみな、あんたの肺も一緒に錆びつくよ。この場所じゃ、破傷風は最も慈悲深い死に方なんだから」



 翰文(ハンウェン)は言われるがまま布を顔に巻き付け、露出した肌がないかを確認すると、後ろの無小姐(ミス・ヌル)を振り返った。



 その光景に、彼の心臓はきゅっと締め付けられた。



 風民(ウィンド・フォーク)の少女は、布を一切使っていなかった。



 彼女は微かに口を開き、喉の奥から接近しなければ聞こえないほどの高周波な唸り声を発していた。肉眼では捉えきれない気流の渦が彼女の口鼻の前に形成され、致命的な赤い粉塵を暴力的に弾き飛ばしている。



 それは風民(ウィンド・フォーク)の本能――「律」によって死を濾過する行為。



 だが、それが決して容易なことではないのは明白だった。



 彼女の顔色は紙のように白く、額には細かな汗の玉が滲んでいる。その汗は流れるそばから空中の鏽雪と混ざり合い、暗紅色の「血水」となって彼女の精緻な頬を伝い落ちていた。あたかも、見る者の胸を抉る二筋の血の涙のように。



 胸は激しく上下し、一度の呼吸さえ見えない巨人と力比べをしているかのようだ。琥珀色の瞳には恐怖と疲弊が混濁し、体力の限界を超えた身体が、小刻みに震えていた。



 翰文(ハンウェン)は無意識に(ヴィ)から渡された予備のフィルター布を差し出そうとした。「これを使ってくれ、このままじゃ君が……」



「余計なことをするんじゃないよ」



 (ヴィ)の冷徹な声がそれを遮った。



 振り返った(ヴィ)無小姐(ミス・ヌル)を冷たく射貫いていた。その瞳に同情はなく、あるのはただ冷酷な「査定」のみ。



「ここは『鉄墳場(アイアン・グレイブ)』だよ。保育園じゃない。ここの毒ガスは地形に合わせて変化する。今、自分の『律』で環境に適応することを覚えなきゃ、修道院に入った瞬間、もっと凶悪な錬金廃液で肺が一秒で焼け爛れることになる。……そいつに練習させな」



 翰文(ハンウェン)の手が宙で止まった。彼は「血の涙」に濡れた無小姐(ミス・ヌル)の顔を見つめ、やがて奥歯を噛み締め、布をバッグへと押し戻した。



 無小姐(ミス・ヌル)は弱音を吐かず、助けも求めなかった。ただ唇を死ぬほど強く噛み、苦痛の嗚咽を腹の底へ飲み込むと、脆弱な気流の盾を維持したまま、一歩一歩よろめきながら隊列についていった。



 ついに、彼らは**「鉄墳場(アイアン・グレイブ)」**の縁へと足を踏み入れた。



 翰文(ハンウェン)の視界から、本来あるべき地平線が消失した。



 代わりに聳え立っていたのは、雲を突く黒い山脈。だがそれは岩石ではなかった。



 翰文(ハンウェン)が目を細め、舞い散る鏽雪の向こう側を凝視した時、考古学者(アーキオロジスト)としての衝撃が彼の心臓を貫いた。



 最も高い「山頂」に見えていたものは、天を指して硬直した、ひどく腐食した巨大な金属の「腕」だった。五本の指は天を突く五基の塔と化し、指先はとうに崩落し、剥き出しになった油圧管や歯車の関節が、地獄へと通じる深邃なトンネルのように口を開けていた。



 そしてその腕の下、数キロにわたって連なる山丘の正体は、土に半ば埋もれた**「泰坦巨人(タイタン)」**の脊椎と胸骨だった。



 ここは単なる墓地ではない。戦場の瞬間が定着フリーズした場所。神話時代の神々が死にゆく最後の瞬間を、時間がそのまま封じ込めた光景なのだ。



 一行は巨人の肋骨の間を歩んだ。



 その行軍は、果てしなく長い二時間に及んだ。



 この場所のスケール感は、絶望を覚えるほどに巨大だった。湾曲した金属の肋骨は一本で数十メートルもの幅があり、それが幾重にも連なって壮大な「錆のアーチ」を形作り、空を遮断している。惨白な陽光が肋骨の隙間から漏れ、機械油の混じった泥地に斑模様の影を投げかけていた。



 翰文(ハンウェン)は手を伸ばし、傍らにある巨大な「骨」に触れた。



 布越しに伝わる感触は冷たい鋼鉄ではなく、絨毯のように厚くザラついた「錆の衣」だった。無数の微小な菌類や鉄苔がその死体に寄生し、風に合わせて微かに揺れ、カサカサと乾いた摩擦音を立てていた。



「……大きすぎるわ」



 無小姐(ミス・ヌル)が数回喘ぎ、翰文(ハンウェン)の肩に手を置いた。その声は一筋の煙のように細かった。



 彼女は切り刻まれた断片のような空を仰ぎ見た。広大な気流の中に生きてきた風民(ウィンド・フォーク)にとって、巨大な物体に包囲されるこの圧迫感は、精神的な酷刑に等しかった。



「まるで、あの方の胃袋の中にいるみたい……。もし、あの方が目覚めたら……」



 彼女は自らの肩を抱き、爪を肉に食い込ませた。



「……もし、あの方が肋骨を閉じたら、私たちは肉片にされてしまう」



「目覚めやしないよ」



 前を行く(ヴィ)が振り返らずに言った。「誰かが百個の高階錬金炉心か、あるいはもっとヤバい龍火ボイラーでもその胸にブチ込みでもしない限り、こいつらはただの高価なスクラップさ」



 道中は窒息しそうなほどの静寂に包まれていた。



 翰文(ハンウェン)が硬化した「黒い蹄」を踏み出すたび、カツ、カツ、カツという乾いた硬質な音が響く。その音は広大な金属の胸腔内で無限に増幅され、幾重にも重なるエコーとなって、まるで見えない追跡者が自分の足音を模倣しているかのような錯覚を引き起こした。



 遠くの「金属の山丘」が、突如としてドォォォォォンという巨響を上げた。



 巨大なパーツが熱膨張か収縮によって構造崩壊を起こしたのだろう。直後、灼熱の蒸気柱がシュゥゥゥという排気音を伴って地割れから噴き出し、刺激的な硫黄の臭いと共に天へと突き抜けていった。



 (ヴィ)が「安心しな」と付け加える。「ありゃ巨人の『死体ガス』だ。あるいは、まだ冷めきってない炉心が圧を逃してるのさ」



 エンジン(モーター)の背負う脳の水槽も、この同類(旧律の造物)たちの悲鳴に感応したのか、青い光暈を微かに明滅させ、風の音と共鳴するような低周波の唸りを上げていた。



「静かにしな」(ヴィ)が発光する脳を睨みつける。「ここには大勢の『鏽蝕者(ラスト・ウォーカー)』が眠ってる。あのブリキのゾンビどもを起こしたくなかったら、そんな忌々しい周波数を出すんじゃないよ」



 巨大な、へし折れた伝動シャフトを回り込もうとしたその時、翰文(ハンウェン)は突如として異様な視線を感じ取った。



 それは明らかに生物の眼差しではなかった。より冷徹で、無機質で、あたかも冷たいレンズにロックオンされたような感覚。



「……左、あの断裂したシャフトの影の中」無小姐(ミス・ヌル)が不意に声を潜めた。彼女は翰文(ハンウェン)よりも早く、風の流れが遮断された微細な変化を察知していた。



 翰文(ハンウェン)は腰の短刀に手をかけた。脳内の「残り火(エンバー)」が授ける直感が、神経末端で狂ったように警鐘を鳴らす。



 (ヴィ)は顔を動かさなかったが、その銃口は微かにそちらへと向いていた。



「……見えたよ」



 巨大な伝動シャフトの影の中に、何かが逆さまに吊るされていた。



 それは人間でも、廃土によくいる変異獣でもなかった。――一体の「人形(ドール)」だった。



 大きさはわずか五十センチほど。竹の節のような継ぎ目を持つ、極めて細長い数本の真鍮管で構成された身体。捕食者というよりは、意思を持った「枯れ枝」か、あるいは適当に繋ぎ合わされた巨大な「縫い針」のように見えた。



 だが、その「枯れ枝」の先端には、唐突に、白く輝く磁器製の人間の頭部が備わっていた。



 その磁器の顔は極めて精緻に描かれていた。紅い唇、黒い眉、頬にはお多福のようなべにさえさしている。だがその両眼は、中身のない空洞の黒い穴であり、そこにはただ二点の幽かな赤い光点だけが明滅していた。



 そいつはシャフトに逆吊りになりながら、風に合わせて微かに揺れ、枝先の昆虫の擬態を模していた。だが、草一本生えないこの鋼鉄の墓場において、その模倣は滑稽であると同時に、毛跳ぼう立つほど不気味だった。



 美しくも奇怪なその磁器の頭が、一行の動きに合わせてゆっくりと回転し、カシャ、カシャという陶器が擦れ合う音を立てる。



 無小姐(ミス・ヌル)は息を呑み、翰文(ハンウェン)の裾を必死に掴んだ。



「……呼吸をしていないわ」



「動くんじゃないよ」(ヴィ)が低く命じると同時に、刀を抜こうとする翰文(ハンウェン)の手を押さえた。「あれは**『瓷偶(ポーセリン・ドール)』**だ。あのクソ婆あの目だよ」



 磁器の人形はしばらく一行を観察していた。視線は翰文(ハンウェン)の黒い蹄、無小姐(ミス・ヌル)の顔、そして最後にエンジン(モーター)の背で光る青い脳へと定まった。



 脳を見た瞬間、空洞の眼窩に宿る赤光が激しく二度明滅した。



 そいつは調律の狂ったオルゴールのような、チィィィィィン……という耳を刺す高い音を発した。



 そして、細く多関節の長足を離すと、白い幽霊となって深邃な影の中へと落ちていった。



 金属の衝突音も、着地の反響も聞こえなかった。



 そいつはただ、闇に一口で飲み込まれたかのように、忽然と姿を消したのだ。



 隊列はその場に数秒間、立ち尽くした。



 その死寂の数秒間は、先ほどの対峙よりもなお耐えがたいものだった。



 翰文(ハンウェン)は長く息を吐き出し、そこで初めて自分の背中が冷や汗でぐっしょりと濡れていることに気づいた。一瞬、呼吸を忘れていたのだ。



 隣のエンジン(モーター)はさらに極限の緊迫状態にあり、辺りをキョロキョロと見回し続けていた。背中の放熱フィンがすべて逆立ち、ジャラジャラと震える音を立て、喉の奥からは威嚇と恐怖の混じった唸りを漏らしている。野獣(たとえ機械獣であっても)にとって、あの「人でも鬼でもないもの」は、いかなる巨大な怪物よりも恐ろしい対象だった。



「……あれは……」翰文(ハンウェン)は生唾を飲み込み、嗄れた声で訊ねた。「……かつては、人間だったのか?」



 (ヴィ)はすぐには答えなかった。



 彼女は銃を収め、人形が消えた闇の深淵を複雑な眼差しで見つめていた。



「さあね。ただの継ぎ接ぎされた『パーツ』かもしれないよ」



「あの婆あは、いつまでも自分の森を忘れられないのさ。ここに『偽物の枝』や『偽物の花』を造り、そんなもんでこのガラクタ山が庭園に変わると信じてる。……全くいかれた女だよ」



 (ヴィ)の口角に冷笑が浮かぶ。そこにはこの土地特有の嘲弄が混じっていた。「人間かどうかなんて重要かい? ここじゃ、動くものはすべて『生きてる』んだよ」



 彼女はエンジン(モーター)の金属の尻を叩いた。その乾いた音が、張り詰めた空気を打ち破った。



「シャキッとしな、予備部品(スペア・パーツ)くん」



 (ヴィ)の声には、僅かな興奮が混じっていた。「あたしたちは招待されたのさ。これからの道は少しは歩きやすくなるだろうよ。……あんたが、数百の磁器の目玉に見つめられるのを気にしないタチならね」



 さらに奥へと進むにつれ、翰文(ハンウェン)は周囲の環境に微妙な変化が生じていることに気づいた。



 乱雑だった廃鉄の山に「秩序」が芽生え始めていた。



 断裂したパイプは金糸の網で固定され、



 錆びついた歯車には、腐臭を打ち消す薬草の香りのする油脂が塗布されていた。



 道端の廃墟には、廃棄されたスパークプラグと磁器の破片で築かれた、精緻で小さな祭壇さえ見受けられた。



 ここはもはや、主のいない墓場ではなかった。



 一人の管理者がいた。重度の強迫観念を抱え、かつ極めて歪んだ審美眼を持つ「死体の入念師エンバーマー」が。



 遠方、巨大な二本のタイタンの肋骨の間に吊り下げられた建築物が、おぼろげに姿を現した。



 それは巨大な、紡錘形のゴンドラのようであり、表面は真鍮とステンドグラスで覆われていた。灰色の廃土の中で、そこだけが温かな光を放つ、脈打つ「真鍮の心臓」のように見えた。



 あそこが**「鏽骨修道院ラストボーン・モナステリー」**。



 彼らの目的地。



 翰文(ハンウェン)は深く息を吸い込んだ。鉄錆と薬草、そして年代物の防腐剤が混ざり合った匂いが、見えない手となって彼の喉を強く締め付けた。



 彼は重々しい黒い蹄を踏み出し、カツ、カツという単調な音を響かせながら、その巨大で病的な真鍮の心臓の中へと、一歩ずつ足を踏み入れていった。




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