第45話 : 鉄喰い蟻と、血なき嵐
『神様があたしたちを見捨てたわけじゃない。ただ、あの方は錆び付いちまっただけさ。だからあたしたちには針と糸が必要なんだ。火と油が必要なんだ。断ち切られた経絡を、もう一度縫い合わせるためにね』
——『縫魂手記』序章、針夫人著
繰り返されるカツ、カツ、カツという単調で退屈な衝撃音が、死寂の荒野に四時間も響き続けている。
李翰文は、自分がもはや人間ではなく、移住を続ける疲れ果てた荷獣(駄馬)になったかのような錯覚に陥っていた。
足に巻き付いた「防腐黒脂皮」は完全に硬化し、高温セラミックとタールを混ぜ合わせたような黒い硬殻へと変貌していた。それは廃土の焼けるような礫や強酸の水溜まりを完璧に遮断してくれたが、同時に大地を踏みしめる感覚をも彼から奪い去った。
一歩踏み出すたびに返ってくるのは、分厚い瘡蓋越しに受ける鈍い打撃感だけで、その振動が膝をじわじわと蝕んでいく。
隣を歩くエンジンの状況はさらに悲惨だった。この機械犬は背中にあの重厚なガラス水槽を背負わされ、厚い油汚れの帆布で覆われてはいるものの、歩調に合わせて中からグチュリ、グチュリと湿った液体の衝突音が漏れ聞こえてくる。数トンの負荷に耐えかねたエンジンの油圧関節は悲鳴のような軋み声を上げ、その一歩一歩が砂地に深い足跡を刻みつけていた。
蒼い生体脳は栄養液の中で静かに浮遊し、そこから放たれる幽かな光が、エンジンの周囲の砂礫を病的な青色に染め上げていた。
「……足を上げな。引きずって歩くんじゃないよ」
先頭を行く薇が振り返らずに言った。彼女の声は乾燥した風砂に混じり、二枚の粗いヤスリを擦り合わせたかのようにザラついて聞こえた。
「ここの砂には『微細晶刺』が混じってる。その大事な黒い蹄を途中で磨り減らしたくなかったら、猫みたいな歩き方を覚えな。膝を上げ、そっと下ろすんだ」
翰文は歯を食いしばり、歩幅を調整しようと試みた。だが、背後の砂地には依然として、手負いの野獣が這った跡のような二筋の深い溝が刻まれていた。
前方の薇に目を向ける。彼女はあの重厚な「送葬者」を背負いながら、足取りは驚くほど軽やかで、柔らかい砂の上に極めて浅い痕跡しか残していない。
翰文は無意識に隣の揺れる水槽に手を添えた。帆布越しに、中にある巨大な肉塊が微かに熱を帯びているのが伝わってくる――それは生きた臓器特有の、不安を掻き立てるような温度だった。まるでこの脳自体も、この灰色の荒野に対して焦燥を抱いているかのように。
ここは「灰律荒原」の辺境。
頭上を覆う絶望的な灰色の空は、カビの生えた湿った布のように大地を押し潰していた。
太陽の姿はなく、ただ磨りガラスの向こう側に張り付いた死魚の眼のような、ぼやけた惨白な光の斑点があるだけだ。星空もなければ、青い天頂も見当たらない。蒼穹のすべては重苦しい放射性塵霧に遮断されていた。雲の層は病的な鉛色を呈し、時折、世界の爛れた皮膚から漏れ出す膿のように、黄緑色の酸性煙がうねりながら湧き出している。
空気には酸化銅の苦味が漂い、遠くの地熱噴出孔から放たれる硫黄の気配が混ざり合っていた。
突如、重荷を背負ったエンジンが低周波のクーンという鳴き声を上げた。油圧の足がぴたりと止まり、不安げに地面を掻く。背中の水槽が大きく揺れ、バシャリと水音が響いた。
薇はほぼ同時に右手を上げ、拳を握った。
「止まれ」
翰文は即座に足を止め、緊張した面持ちで腰のナイフを握りしめた。もう片方の手は、水槽がこれ以上音を立てないよう帆布の上から強く押さえる。無小姐も異変を察知し、琥珀色の瞳で何もない周囲を警戒するように見渡した。
「……敵か?」翰文が声を潜めて問う。
「シッ」薇が振り返って彼を睨みつけ、油汚れにまみれた唇の前に人差し指を立てた。「……敵より厄介な連中だよ」
彼女は地面を指差した。
翰文がその指先を追う。
足元からわずか五十センチほど先の、灰褐色をしていたはずの砂地が「流動」していた。
砂が動いているのではない。親指ほどの大きさの、暗赤色をした無数の昆虫たちだ。
それらは金属光沢を放つ甲殻を持ち、巨大な顎はマイクロ油圧カッターのようだった。昆虫たちは密にひしめき合い、幅二メートルに及ぶ「川」を形成して、一行の進路を音もなく横切っていた。
エンジンの背負う青い光がその赤い蟲の河に投影され、無数の冷酷な金属光を反射させている。
「**食鉄蟻**だ」
薇が、気流にしか聞こえないほどの囁き声で言った。「動くな。音を出すな。特にお前が支えてるそのブツに熱を出させるんじゃないよ」
翰文はその赤い河を見つめ、総毛立つのを感じた。掌の下にある帆布が熱を帯び始めている。脳が何らかの脅威を感知し、演算速度を上げているのだ。彼は慌てて身体で水槽を隠し、漏れ出す律エネルギーの熱源を遮断しようと試みた。
はぐれた一匹の食鉄蟻が、捨てられた鉄の空き缶の上を這っていく。その堅牢なブリキは、蟻の顎の前では湿ったビスケット同然だった。パキッという乾いた音と共に大きく食い千切られる。蟻は黄色い煙を上げる酸液を分泌し、金属を一瞬で半液体状に溶かして貪欲に吸い込んでいった。
「あいつらはこの荒野の清掃員さ」薇が低く解説する。「血肉には興味がない。だが、一匹でも踏み潰してみな。放出されたフェロモンが巣全体を狂わせる。そうなれば、あんたの足の黒脂皮も、エンジンの骨も、あんたの宝物の金属台座も、全部あいつらのティータイムの菓子になる」
隊列は石像のようにその場に固まっていた。音なき対峙。エンジンは一歩も動けず、数匹の蟻が自分の油圧爪を這い上がるのをじっと耐えていた。
赤い河が流れ去るまで、まる五分。
最後の一匹のワーカーが爪先ほどの銅片を引きずって砂丘の向こうへ消えるのを待って、薇はようやく手を下ろした。
「……行くよ」薇は手を振り、蟻が残したまだ酸っぱい煙を上げている軌跡を避けて歩き出した。「廃土へようこそ、考古学者。ここでは、銃を持ってる奴だけが敵じゃないんだ」
午後三時。
空の色が突如として一変した。
惨白だった陽光は、病的な紫紅色へと塗り替えられた。
遠方から地響きのような、重低音のブーンという振動が伝わってくる。あたかも巨大な歯車が噛み合い、世界を磨り潰しているかのような音だ。
同時に、エンジンの背中の脳も極めて不安定になり始めた。帆布の下で柔らかなはずの青い光が刺すように激しく明滅し、水槽内の栄養液は沸騰したかのように泡立ち、不気味な音を立てる。この古き生体脳は、空気中の狂った周波数に、苦痛に満ちた共鳴を起こしているようだった。
無小姐が突然、苦しげに耳を塞いだ。指の隙間から一筋の鮮血が滲み出す。
「……風が……」彼女は紙のように白い顔で、震えながら言った。「風の中の律が……乱れてる。風が悲鳴を上げ、脳が咆哮しているわ……」
薇が手首の、針が狂ったように回転する気圧計を一瞥し、顔色を変えた。
「チッ。**『律暴』**だ。あの脳みそが避雷針になっちまってる! どこかに隠れるよ!」
彼女は周囲を見渡し、数百メートル先にある巨大な残骸に狙いを定めた。
それは上古の巨人が遺した胸腔の骨組みだった。巨大な金属の肋骨がアーチ状に砂地へ突き刺さり、表面は分厚い錆と帆布のような菌糸の絨毯に覆われている。
「走れ!」
薇が大喝した。彼女はエンジンを引くのではなく、脳の水槽を固定している強化ベルトをひっ掴むと、強情な牛を引くように猛然と牽引した。
「エンジン、全速だ! その脳みそを爆発させたくなかったら走りな!」
「あの胸の中に入るよ! 急げ!」
翰文は躊躇せず、不格好な黒い蹄を引きずりながら、砂地を必死に駆けた。
風はもはや空気の流動ではなく、実体を持った静電気の鞭となって彼らを打ち据えた。空気には焦げた臭いが立ち込め、露出した皮膚が無数の細い針で刺されているような感覚に陥る。傍らの脳は今にもオーバーロードしそうな原子炉のごとく、帆布越しに灼熱の熱気を放っていた。
彼らが巨人の肋骨の影へと飛び込んだ瞬間、嵐が降臨した。
それは雨でもなければ、砂嵐でもない。光り輝く奇怪なオーロラだった。
五色に彩られた光の帯が、狂った蛇の群れとなって荒野を蹂躙する。光の帯に触れた岩石はパチパチと爆裂音を上げ、表面の物質構造が瞬時に崩壊・再構成され、歪んだガラス状の結晶へと変貌していった。
これこそが「灰律」の具現。世界が運行を誤った際に排出される廃気だ。
巨人の肋骨と菌糸のマットが天然のファラデーケージを形成し、致命的な乱律の嵐を外部に押し留めていた。
エンジンは地面に伏し、白い排熱蒸気を激しく吐き出している。背中の脳はようやく沈黙を取り戻し、青い光は沸騰を止めて再び柔らかな輝きに戻った。
三人は肋骨の深部、風下になる場所で身を寄せ合った。薇は手慣れた様子で、乾燥した菌の塊を燃料に、小さな無煙火を起こした。
紫色の火光が三人の顔を照らし出す。外側は極彩色の破滅、内側は死のような静寂。
薇は銃の点検を始めた。彼女はいつもそうだ。足を止めればすぐに銃を磨く。まるでそれが唯一の身内であるかのように。
翰文は冷たい金属の肋骨に背を預け、掌の血豆を確認していた。水槽を支えようとして帆布に擦れた跡だ。彼は掌に刺さった微細な結晶を抜き取った。チリッという音と共に、一筋の血が流れる。
無小姐は彼の向かいに座り、膝を抱えて、空虚な目で火を見つめていた。
「……ここの匂い、とても嫌だわ」無小姐が唐突に口を開いた。
翰文が顔を上げる。「何のことだ?」
「すべてよ」彼女は鼻をひくつかせた。その表情は、不当な扱いを受けた小猫のようだった。「空気は苦いし、砂は生臭い。この火でさえ……焼けた骨の匂いがするわ。この世界は……汚れすぎている」
彼女はあの閉鎖された黒い塔を懐かしんでいた。あそこは籠だったが、少なくとも空気は濾過され、このような窒息しそうな「間違い」に満ちてはいなかった。
翰文はしばらく沈黙し、バックパックから水筒を取り出して彼女に差し出した。
「これが、生きてる匂いだよ」翰文は静かに言った。
無小姐は虚を突かれたように水筒を受け取り、一気に飲み干した。
「……生きるって、こんな匂いなの?」彼女は翰文を見つめた。その瞳には困惑と拒絶が混じっていた。「鉄錆と、機械油と……痛みだけで満ちているの?」
「そうだ」翰文は頷き、カツ、カツと自分の硬い黒い蹄を叩いてみせた。「痛くないなら、俺たちはもうこの肋骨と同じ死体になってるってことだ」
彼は外で荒れ狂う極彩色の嵐を見た。
「地下にいた頃の俺たちは『標本』だった。だが、ここでは『細菌』だ。細菌は汚いが、細菌は生き残れるんだよ」
無小姐は分かったような分からないような顔で彼を見ていた。
長い沈黙の後、彼女は水筒の栓を開け、鉄錆の味がする水を一口だけ、そっと含んだ。彼女は眉をひそめたが、吐き出すことはせず、苦労してそれを飲み下した。
隣で薇が鼻で笑った。「……おセンチだね」
口ではそう言いながらも、彼女は無造作に温めた圧縮ビスケットを無小姐の膝へ放り投げた。
「食べな、小鳥ちゃん。鉄墳場に着けば、ここの空気さえ懐かしくなるよ。あそこの匂いは……本当の地獄だからね」
翰文は西を向いた。嵐の光影の中に、地平線の果てにある黒い金属の山脈が、浮き沈みしながら見え隠れしていた。
あそこが鉄墳場。
彼らに残された唯一の生路であり、この廃土における最大の墓標だ。




