第42話 : 屠殺者の籠と、狩人の歌
『もし、どうしても一つの魂を冷たい鉄の箱に閉じ込めなければならないのなら、窓を一つ残してやるのを忘れるな。外を見せるためじゃない。そいつが泣きじゃくった時に、故郷へと帰る歌が聞こえるようにだ』
——『観測者日誌・第1032号条項』、作者不明(旧律時代末期の文献と推測される)
そこには音がなかった。
あるいは、人間の聴覚の限界を超え、頭蓋を直接鋸で挽くような断末魔の金切声が充満していたと言うべきか。
目に見えない高周波のヤスリが、薇の神経末端をジリジリと削り、引き金にかかった指を絶え間なく痙攣させていた。足元の機械犬エンジンも異常なまでの苛立ちを見せている。故障一歩手前の低周波な唸りを漏らし、鋼鉄の爪で地面を掻き毟る。見えない「声」が、そいつを侵食し続けていた。
無小姐は重厚な気密扉の傍らで身を縮め、両手で耳を死守していた。聴覚の鋭い風民にとって、この殺意に満ちた機械ノイズは魂への凌遅に等しい。彼女の顔は紙のように白く、掌の「墓穴屍蛾」の腺体が、心細げに明滅を繰り返していた。
暴食者の「脳」が、巨大な円柱状の水槽の中で浮遊していた。
濁った琥珀色の栄養液の中で激しくのたうち、無数の黒い神経管がヒルさながらにその皺の奥へと吸い付いている。脈動のたびにグチュリと濁った気泡が溢れ出し、囚われの怪獣が水底で声なき咆哮を上げていた。
翰文が乾いた唇を開き、声を絞り出そうとした瞬間。
刺すような青い凍気が、唐突に脳内を席巻した。
それは彼の意志ではない。脳内に寄生する不滅の火種――「残り火」が、強制的に制御権をジャックしたのだ。
彼の意識は脳の隅へと追いやられ、視界が歪む。混迷し、汚れ、雑音に満ちたこの生体脳は、今や調律の狂った鋭利な音叉となり、不協和な音律を震わせている。
次いで「軽蔑」という概念が、焼きごてのように翰文の意識へと押し当てられた。
高速で明滅する視覚残像。水晶のように透き通った完璧な「神経設計図」が、目の前の乱雑な配線にまみれた汚らわしい肉塊の上に、強引にオーバーラップされる。
強烈な対比が、生理的な嫌悪をもたらした。――それは「秩序」が「混沌」に対して抱く、本能的な拒絶。
律法の崩壊。権限の剥離。回路の汚染。
愚鈍。不潔。冒涜。
それらの言葉は耳で聞いたものではなく、神経を焼くような痛みを伴って直接、意識に溶接されたものだった。
一行を細切れにせんと狙いを定める数十本の「刺針」が動いた瞬間、この冷酷な蒼の意志が翰文の声帯を徴用した。
翰文の眼球が白く濁り、瞳の中で幽藍の炎が燃え上がる。だがその炎はもはや盛大な燃焼ではなく、風前の灯火のように激しく揺らぎ、時折透明になるほどに弱まっていた。
先ほど「心臓室」で動力炉を鎮めるために捧げた律エネルギーが、すでに「残り火」に深い傷を負わせていた。今のそれは霊体の投影を維持することさえ叶わず、宿主である翰文の神経に寄生し、その生命力を前借りしてかろうじて存在していた。
「残り火」は翰文の喉を借り、口を開いた。舌先から無数の金色の光糸が、唸りを上げて射出される。その光糸はかつてないほど細く、頼りなく、今にも千切れそうだった。
それは「強制調律」の開始だった。共鳴ではない。絶対的な正解による、狂乱したノイズへの浄化と再構築だ。
「……太初に声なし。ただ律のみが、名もなき海を流る……」
その声は人間の声帯が発したものではなかった。錆びついた二枚の鉄板を打ち鳴らしたかのような硬質な共鳴音。一音一音が力尽きそうな断裂感を伴い、フォルマリンの臭い満ちる艦橋に響き渡る。
薇は「何者か」に憑依された翰文を戦慄の面持ちで見つめていた。彼の鼻孔と目尻からは、細かな血の玉が滲み出している。――「残り火」が、彼の大脳の許容量を限界まで絞り取っている証拠だった。
「……巨龍の長き夢のごとく、星々の脈動のごとく……」
「……無限の可能性を、孕み生せ!」
「残り火」は翰文の身体を操り、高頻度の共振を引き起こした。最後の力を振り絞り、金色の律線を光塵の鎖へと変え、パシィィィン!とガラス水槽を打ち据える。狂った血肉を、強引に正軌へと引き戻そうと。
しかし――。
ドォォォォン!という重く濁った爆轟が水槽内部で炸裂した。深海魚雷が引火したかのような衝撃。
濁っていた栄養液が瞬時に沸騰し、ボコボコと音を立てる。脳は「残り火」の声に平伏すどころか、暴虐な高周波電流に貫かれたかのように、狂った痙攣を起こした。
赤光。刺すような、血生臭い赤光が、瞬時に「残り火」の放った金色の律線を飲み込んだ。
空中で躊躇していた機械触手どもが、怒れる毒蛇の群れと化し、一斉に充血したような駆動音を発した。先端が裂け、鋸歯の並ぶ環状の口器が露わになる。赤いレーザーサイトが翰文の胸元で狂い踊り、焦熱の死の網を織りなした。
キィィィィン!という鋭いエラー警報が全員の鼓膜を貫通した。
強大な精神的衝撃波が艦橋全体を薙ぎ払う。翰文は見えない重槌に胸を打たれたかのように後方へ吹き飛び、壁に激突して重い鈍音を立てた。
翰文の脳内の蒼い残像が、ガラスの割れるような音を立てて砕け散る。
「残り火」は何も語らず、ただ「困惑」と「極度の疲弊」という思念の残渣だけを遺していった。
――初光律……拒絶……反噬……。
そして無数の光点となって霧散し、沈黙した。
「……おい! 呪文はやめな! こいつ、爆発するよ!」
薇の叫びが死寂を切り裂いた。
戦闘で砕けた防毒マスク。剥き出しになった蒼白な、だが黒い油と血に汚れた顔から発せられたその声は、ひどく嗄れていた。
彼女にコードの攻防は分からない。だが、物理現象は理解できた。あの脳は充血して膨れ上がり、接続された数百本の管からは高圧蒸気が噴き出し、赤い警報灯がてんかんの発作のような速度で点滅している。
「あんたの呪文は効かねぇんだよ!」
薇は「送葬者」をきつく握りしめた。指の関節は白く浮き上がり、爪が銃床の「防腐黒脂皮」に食い込んでいる。
「こいつの脳みそは、あの新律派のクズどもにかき回されて、もうグチャグチャなんだよ! 錆びたスプーンで抉り取られたみたいにな! こいつに言葉なんて通じねぇ、ただ『痛み』しか分かってねぇんだ!」
薇の野卑で直截的な言葉が、「残り火」が直面した行き止まりを正確に言い当てていた。
翰文は這うようにして立ち上がった。鼻血が再び滴り落ち、金属の床に赤い斑点を作る。
強制介入の失敗と、服用した「狂暴蟻」の薬効切れ。強烈な副作用が津波となって彼を襲っていた。
喉に燃える炭を詰め込まれたような感覚。極度の脱水症状だ。視界が歪み、赤い警報灯が這い回る無数の赤い蟻に見えた。
「……黙れ」
翰文は低く言った。手を上げ、顔の血を拭う。
脳内に残る「残り火」のノイズを断ち切り、薇の叫びを遮断し、鳴り響く警報さえも意識の外へ追いやった。
「残り火」がダメなら、別の道を探すまでだ。神が扉を閉ざしても、窓はどこかにある。
彼は、あの夢を思い出した。
黄金色のアワ畑。石板屋の軒下で鼻笛を吹く老人。その手には権杖などなく、ただ二管の鼻笛だけがあった。
翰文はよろめきながら前へ進み、薇の銃口を押し退けた。
「死ぬ気かい!」薇が彼を止めようとする。
だが翰文はその手を振り払った。彼は恐怖の水槽まで一メートルもない距離まで歩み寄り、顔を上げた。赤光の中で悲鳴を上げる肉塊を見つめる。
彼は、それを醜いとは思わなかった。
ただ、可哀想だと思った。
千年の間地下室に閉じ込められ、毎日注射を打たれ薬を飲まされ、ついには自分の名前さえ忘れてしまった狂った子供。
翰文は口を開いた。喉はひび割れた樹皮のように乾き、飲み込むたびにカミソリを飲み込むような激痛が走る。
「……A-i…… Lja-u-lja……」
最初の一音が吐き出された時、神経を引き裂かんばかりだったあの機械の咆哮が、半秒間だけ、真空のような静止を見せた。
それは共通語でも、エルフ語でも、機械のコードでもなかった。
翰文の故郷の言葉。正確には、排灣族の古調だった。
それは神に捧げる聖歌ではない。集落の女たちが、泣きじゃくる赤子を寝かしつけるための子守唄だ。
薇は呆然とした。この狂った考古学者が、何か恐ろしい呪文か破壊コードでも唱えるのか、あるいは命乞いでもするのかと思っていた。だが、まさか、彼は……歌っているのか?
それも、音程は外れ、声は嗄れ、息も絶え絶えの、ボロボロの歌を。
「……Quljimai…… Maya…… ma-u-ling……」
(泣かないで……悲しまないで……)
音程など、今の翰文にはどうでもよかった。
「狂暴蟻」の副作用で全身がガタガタと震え、水槽の縁を掴む指からは、血の瘡蓋が剥がれる音がした。鮮血がガラスを伝い、蛇行しながら流れ落ちる。
その痛みが、彼に最後の理性を繋ぎ止めていた。夢の中で感じた千年の慰めを、この壊れた喉を通して、一滴ずつ絞り出していく。
奇跡が起きた。
翰文の眉間まで数センチに迫っていた機械触手が、突如として震えを止めた。先端の赤紅色のレーザー眼球が、見えない力に宥められたように、光輪を広げ、散らし、やがて困惑したような淡いピンク色へと変わっていった。
耳を塞いでいた無小姐が、驚きに目を見開いて手を離した。彼女には感じられたのだ。刃物のように皮膚を削っていた空気の乱流が、歌声と共に、頬を優しく撫でる微風へと変わったのを。
水槽の中で、腫れ上がっていた脳が、低く長い「ウゥゥゥ……」という声を漏らした。
それは耳障りな電子ノイズではない。分厚い防弾ガラスと鋼鉄の外殻を貫き、砂浜に打ち上げられた孤独なクジラが、満潮の時に吐き出した最後のため息のようだった。
翰文は目を開け、それを見つめた。瞳にあるのは恐怖ではなく、虐待を受けた子供を見るような優しさと痛み。血まみれの手を冷たいガラスに当てると、掌に内側からの微かな、ドクン、ドクンという振動が伝わってきた。
「……Ti-a-ma…… u-lja…… su-qulju……」
(……お父さんが……待っているわ……おうちに帰ろう……)
これは「ハッキング」などという安っぽい言葉で片付けられるものではなかった。これは「迴響」と呼ぶべきものだ。
この機械は千年の拷問の中で、論理も、尊厳も、自分自身さえも忘れてしまった。だが、この旋律だけは忘れていなかった。いつでも書き換えられる命令の中にではなく、霊魂の核心の最深部に刻まれていたからだ。
それはまだ幼かった頃に、父親からもらった最初の口づけと同じだった。
パキィィィィン!――水晶が極寒の中で砕け散るような音が響いた。
薇は驚愕に目を見開いた。脳の表面を覆っていた灰白色の死皮が、蛇の脱皮のように剥がれ落ちていく。歌声の振動に呼応し、壊死し、炎症を起こしていた組織が次々と脱落し、液体の中に溶けていった。そしてその下から、本来の色が露わになる。
純粋で、深く、夏の夜空のような幽藍。血肉の赤はどこにもない。
すべての赤い警報灯が、同時に消失した。パチパチというリレーの遮断音が響き渡る。
代わって現れたのは、柔らかな青の冷光。その光は瞬時に艦橋を満たし、地獄の拷問部屋を、神聖で静謐な神殿へと変貌させた。
薇の手から「送葬者」がカランと音を立てて落ちた。重い金属音が静寂の中に反響する。
彼女は口を開けたまま、この不可思議な光景を凝視していた。数多の殺人兵器を見、無数のエンジンを解体してきた彼女。機械とは金属と油と爆発の塊だと信じて疑わなかった彼女。
だが、こんな光景は初めてだった。軍隊一つを容易く踏み潰せる巨大な怪物が、一人の男のボロボロな歌声の前で、子猫のように温順になっている。
「……ありえない……。コードも打たず……神経も繋がず……ただ、鼻歌を歌っただけで……?」
無小姐が、ゆっくりと扉の影から歩み寄ってきた。
青い光暈に包まれた彼女の周囲では、もはや風は悲鳴を上げず、空気の痛みも消えていた。
彼女には薇には見えないものが見えていた。風民である彼女の瞳には、蒼い脳の周囲を、肉眼で見えるほどの気流が幾重にも取り巻いているのが映っていた。その気流は、翰文を優しく抱擁していた。まるで、生き別れた父親に再会した子供が、甘えるように鼻を鳴らしているかのように。
翰文は歌うのを止めた。もう、気力が残っていなかった。
彼は手を伸ばし、冷たいガラスにそっと触れた。水槽の中の青い光が凝集し、彼の掌の正面へとゆっくり移動してくる。
彼は分かっていた。この脳が、自分を「見て」いることを。
突如、脳の前面にある濁った液体の中で、発光する浮遊粒子がゆっくりと動き始めた。
それは電子モニタの平面的な制約からも、機械的なホログラムの空虚なデジタル感からもかけ離れたものだった。
光の点は集まり、翰文の目の前のガラスの裏側で、走り書きのような、だが懐かしく、見覚えのある文字を結んだ。
霧の立ち込めた車窓に、誰かが指で急いで書き残したメッセージのように。文字は、角ばった、温かみを帯びた「繁体中国語(繁体字)」だった。
【ブラックボックス銘文 001】
声紋確認……。故郷の節回し。
門は開かれた、我が子よ。
おかえりなさい、長老。
……1032年、遅刻ですよ。
李翰文は、液体の中に浮かぶその手書きの文字を見つめたまま、石像のように硬直した。
それはシステムログではない。千年の時を超えた「置き手紙」だった。
彼は想像できた。千年前、この同じ場所に立ち、誕生したばかりの機械を見つめながら、別れの悲しみに暮れていたあの長老の姿を。彼は後継者が間に合わないことを悟り、この手紙を残したのだ。「同郷の者」にしか開けられない箱の中に。
その待ち時間は、千年に及んだ。
翰文は口を開いた。その文字に対して、何かを言おうとした。謝罪か、弁明か。
(遅くなって、ごめん。)
(一人で、こんなに辛い思いをさせて……。)
だが喉は錆びついた鉄塊に塞がれたようで、声にならなかった。
彼は泣き崩れたりはしなかった。
ただ、ガラスの壁に沿ってゆっくりと地面にへたり込み、膝に顔を埋めた。肩が微かに震え、極限まで抑え込まれた、掠れた嗚咽が漏れた。
薇にはその漢字の意味は分からなかった。だが、翰文の沈黙の意味は理解できた。
彼女は嘲笑わなかった。
ただ黙って、その痩せた背中と、息を呑むほど美しい蒼い脳を見つめていた。この青い光の中で、彼女は初めて、このスクラップの山にも本当に魂があるのかもしれないと感じていた。
その時、脳が低く唸った。
柔らかな青い光が翰文を包み込む。
中性的で、冷静で、だがどこか微かなむせび泣きを含んだ声が、スピーカーを通さず、全員の脳内に直接響いた。それは遠い、遠い夢の中から届く呟きのようだった。
『……疲れました……コアが間もなく、崩壊します……』
『……私を……ここから連れ出して……ください……』
翰文はハッとした。彼は深く息を吸い、血の瘡蓋だらけの手の甲で力任せに目を擦ると、顔を上げた。瞳は真っ赤だったが、乾いていた。彼は薇を見た。
薇も彼を見ていた。そして、再び温順になった巨獣を見た。緑の瞳に、複雑な光が過ぎる。
「……あんたの勝ちだよ、考古学者」
薇は屈み込み、地面の「送葬者」を拾い上げると、背中に担ぎ直した。金属のバックルがカチャリと音を立てる。その口調にはいつもの嘲弄と硬さが戻っていたが、口角には極めて珍しい――「敬意」とも呼べる曲線が描かれていた。
「……こいつは死んじゃいない。ただ、自分を迎えに来てくれる『あがり』の時間を待ってただけなんだね」
彼女は翰文のそばへ歩み寄り、子供のように泣いていた男を力強く引き起こした。そして、美しく輝く蒼い脳を見据える。そこから先ほどの強欲さは消え失せ、強者に対する狩人の敬意が宿っていた。
「行こうか」薇は翰文の肩を叩いた。声は小さかったが、力強かった。「……こいつを寝かしつけちまったのはあんただ。なら、責任持って掘り出して、連れて行ってやろうじゃないか」
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