第41話 : 鉄壁の内の夢うつつ
『あたしたちは機械を修理するんじゃない、治療するんだ。あるいはもっと正確に言えば——そいつが死ぬのを許さないのさ。忘れるな、痛覚神経が動いている限り、エンジンは止まらねぇ』
——『新律動力学講義:生体燃焼効率論』第三版序文より
【現実】
廊下が呼吸していた。それは決して誇張でも、文学的な比喩でもなかった。
薇は、前進するほどにブーツの裏に伝わる感触が薄気味悪くなっていくのを感じていた。まるで、ひどく爛れた口腔粘膜の上を歩いているような感触だ。
一歩踏み出すたびに、半透明の肉質な床が沈み込み、ヌチャリという冷や汗の出るような湿った音が響く。あたかも無数の見えない小口が彼女の足を吸い付け、ソールの機械油を貪欲に舐めとろうとしているかのようだった。
「チッ……こいつ、一体何を食わされてきたんだ?」
薇は低く毒づいた。防毒マスクを失った彼女は、襟元を引っ張り上げて口鼻を覆うしかなかった。だがその臭いはあらゆる隙間から侵入し、彼女の眉を歪ませ、刺激のあまり眼角には生理的な涙さえ浮かんでいた。
彼女が壁をなぞると、グローブは瞬時に透明な粘液でベタついた。この仿生列車の「体液」だ。壁面の金属外装は剥がれ落ち、下の鮮紅色の筋肉繊維が剥き出しになっている。その繊維は生きている蛆のようにピクリと震え、人知れぬ巨大な苦痛に耐えているかのようだった。
そこはまさに蒸し器だった。空気中にはフォルマリンで古い銅銭を煮出したような臭いが充満し、そこに死体油の焦げた甘ったるい刺激臭と、タンパク質が腐敗する酸っぱい臭いが混ざり合っている。
「……すぐ、そこよ……」
背後から無小姐の糸のように細い声が届いた。
風民の少女は自らの腕をきつく抱きしめ、顔面を紙のように白くさせていた。それは単なる恐怖ではなく、生理的な拒絶反応だった。
「気流」に敏感な種族である彼女に聞こえるのは、単なる風の音ではない。彼女はこの巨獣の「哀哭」を聴いていたのだ。
肉壁に埋め込まれた管線は、静脈瘤の浮き出た血管のように、遠くのエンジンの鼓動に合わせてドクン、ドクンと狂ったように脈打っている。その拍動の一つ一つが、吐きたくても吐き出せない嘔吐感を伴う、末期の喘ぎのように感じられた。
「……風が……悲鳴を上げている……」無小姐は耳を塞ぎ、瞳に涙を溜めていた。「……ここの空気のすべてが……痛がっているわ……」
「黙って後ろを見てな。この腐れ肉の一部になりたくなかったら、あたしに離れずについてきな」
薇は振り返らずに突き放したが、その額からは冷や汗が滲んでいた。
彼女は手にした「送葬者」の銃身で、天井から垂れ下がる神経束を払いのけた。
そのクラゲの触手のような半透明の物体が熱い銃身に触れた瞬間、ジリリと焼けるような音が響き、それは痛みを感じたかのように素早く縮み上がった。その先端からは、リンパ液に似た黄色い汁が滴り落ちた。
これは単なる冷たい運搬獣などではない。高熱に浮かされながら喘ぐ、巨大な死骸そのものだ。
薇は背中の男が動いたのを感じた。
「おい、考古学者」彼女は首を巡らせ、肩で彼を小突いた。「あたしの背中でくたばるんじゃないよ。今のあんたの命は、この死に損ないの龍よりも高価なんだからね」
返ってきたのは、翰文の熱い吐息だけだった。ヒュー、ヒューという呼吸が彼女の首筋に吹きかかる。その熱は異常で、皮衣越しであっても、彼の体内の血液が沸騰しているかのように感じられた。
【夢境】
寒い。
極限の寒さだ。
李翰文は、自分が万メートルの深海底に沈んでいるか、あるいは絶対零度の宇宙空間を漂っているかのような感覚の中にいた。
光もなく、重力もなく、ただ果てしない静寂がある。
だが、彼は「それ」を感じ取ることができた。火車の形をした、巨大な、囚われの霊魂を。
それは強引に鋼鉄の殻へと押し込められ、大地との繋がりを断たれ、汚らわしい燃料を注ぎ込まれ、とうに死に絶えた世界でなお運行と殺戮と捕食を強いられていた。
それは、泣いていた。
耳で聞くのではない。その声は直接、翰文の骨を震わせた。
クジラの断末魔のような低周波の唸り。そこには悲しみ、恐怖、そして千年に及ぶ孤独が凝縮されていた。
痛い……痛いよ……誰か……止めて……。
食べたくない……もう人間なんて食べたくない……。
その感情は潮流となって翰文を飲み込んだ。
彼は暗闇の中で身を縮め、耳を塞ごうとしたが、その泣き声はあらゆる隙間から侵入し、彼の魂に直接傷を刻み込んでいく。
「こいつは死んでいる」——薇はそう言った。街の技師たちも、そして翰文自身のこれまでの判断もそうだった。
だが「残り火」の視点から見れば——翰文の前頭葉を駆け抜ける熱い軽蔑と共に——それは滑稽な誤診であり、冒涜ですらあった。
あの野蛮な屠殺者どもには「律」の本質など理解できない。彼らは霊魂の自己封鎖を、単なる部品の故障と取り違えたのだ。
「全くなってないな」
翰文は冷たい海水の中で、唐突に真実を悟った。
「大間違いだ」
こいつは死んでいない。ただ自分を守るために、意識をこの終わりのない悪夢の中へと閉じ込めただけなのだ。
必要なのは修理ではなく、覚醒だ。こいつは壊れたんじゃない、ただ狂ってしまっただけなのだ。
不意に、その騒々しい悲しみの中で、他とは違う響きが聞こえてきた。
――ピー、ヒョロロ――。
鼻笛の音だ。
二管鼻笛特有の共鳴。蒼涼として、幽寂で、遠き古の山林の湿った気配を纏った音が、深海の重圧を貫き、翰文を、そして泣きじゃくる巨獣を優しく包み込んだ。
翰文は暗闇の中で心の目を開いた。
世界が変わった。
冷酷な深海ではなく、温かな黄昏。
彼は火の光を見た。戦火ではない、温かなキャンプファイヤーの火だ。
そこには頁岩で積み上げられた石板屋があった。屋根の黒い石片が夕陽を浴びて鱗のような光沢を放ち、あたかも一頭の百步蛇がうずくまっているかのようだった。
一人の老人が軒下に座っていた。その装いは、明らかにこの世界のものではない。
老人は粗い麻で織られた長袍を纏っていた。そこには祖霊の目を象徴する複雑な幾何学模様が刺繍されている。顔には歳月の溝が深く刻まれ、額にはかすかな刺青があった。
だが、その肩には聖職者の白いショールが掛けられている。その奇妙な混じり合いは、彼を部族の祭司のようにも、どこかの教派の預言者のようにも見せていた。
老人の背後、翰文は伝説に聞くあの建築物を見た。
今の禍々しい「黒塔」ではない。
それは銀灰色に輝き、柔らかな光を放つ高塔だった。遠き雲の端に聳え立ち、天地を支える神の針となって、足元に広がるまだ砂漠化していない、黄金色のアワ(小米)畑を見守っていた。
風がアワ畑をなで、ザワザワと音を立てる。
老人はゆっくりと手に持った二管鼻笛を置き、顔を上げた。そして翰文――正確には翰文の視界が位置する「この機械」を見た。
老人の瞳に機械への冷淡さはなく、ただ家族を想うような慈しみだけが満ちていた。
彼は荒れた手を伸ばし、怪我をした小犬を撫でるように触れた。
唇が動き、何かを口ずさんでいる。
歌詞は聞こえない。だが、その旋律の「重み」を翰文は感じ取ることができた。
それは千年前の誰か。かつての故郷の人間が、この世界を去る前に、この孤独な怪物へ残した最後の守唄だった。
この殺人機械は、過去千年の間、毎夜この記憶を繰り返し再生し続けてきたのだ。この虚幻のぬくもりだけを頼りに、果てしない暗夜を凌いできた。
翰文は旋律に合わせて歌おうと口を開いたが、喉は焼かれたように枯れ果て、ただそのメロディを魂に響かせることしかできなかった。
【現実】
空気が変わった。
ただ悲鳴を上げ震えていただけの熱風が、突如として密集した実体によって攪拌された。
察知した無小姐が足を止めた。彼女は猛然と振り返り、琥珀色の瞳を収縮させて、背後の漆黒の廊下を凝視した。
彼女は悲鳴を上げなかった。ただ、静かにそれを見た。
「……来たわ」
無小姐は声を押し殺し、早口で告げた。「……背後の風が切り裂かれた。十二の乱流……距離は五十歩。管壁を這ってきてる」
薇が虚を突かれた。「何だって?」
次の瞬間、風民の予知は証明された。
骨が擦れ合う密集したカサカサという音が、闇の中から溢れ出してきた。
それは無数の骸骨が地面を力任せに引きずられているような音に、湿った肉塊がぶつかる音が混ざっていた。
「エンジン! 食い止めな!」
薇が大喝した。
隊列の最後尾にいた機械犬エンジンが、金属の軋む咆哮を上げた。
廃エンジンと狼の骨を継ぎ合わせたその怪物は、この瞬間にその凶暴性を露わにした。後足で地面を蹴り、黒い砲弾となって闇へと突っ込む。
排気管から黒煙が噴き出し、高温の油が飛び散る。エンジンは鋼釘の植えられた顎を開き、天井から垂れ下がる影を噛み砕いた。
歯の浮くような金属の断裂音と共に、その影は無残に引きずり下ろされた。
薇は猛然と振り返り、愛犬に一瞥もくれなかった。エンジンが時間を稼げると信じていた。
彼女は巨大な重火銃「送葬者」を手に持ち、冷たい銃身に指を這わせた。それは旧時代の杭打ち機の油圧シリンダーを改造したもので、廃墟から掘り出した工業用鋼管を強引に束ねたような造形をしていた。銃床には風乾された小さな頭蓋骨が吊り下げられ、動きに合わせてカチャカチャと乾いた音を立てる。
彼女は銃身の側面を見た。そこには乾ききった「防腐黑脂皮」が巻かれている。銃身の熱によってその黒い肉膜は収縮し、硬化し、焦げた死皮となって金属に「生着」していた。隙間からは黒いタール状の油が滲み出している。
モニタに踊るモノクロのノイズを凝視し、薇は深く息を吸った。嫌悪感を催す臭いから意識を切り離し、モニタを埋め尽くす赤い斑点群にロックオンする。総毛立つような数だ。
彼女はこの怪物の噂を聞いたことがあった。――「白噬者」。侵入者の捕食を専門とする、変異した「脊椎百足」の群れだ。
一匹が二メートル近くあり、その身躯は人間の脊椎骨と廃棄された油圧ホースを強引に繋ぎ合わせたもの。頭はなく、先端にあるのは割れた骨盤。その中には回転する肉挽き刃がびっしりと詰まっている。
「クソが! 何なんだよ、この化け物は!」
薇は吠え、片手で背中の翰文を固定し、もう片方の手で重厚な「送葬者」を掲げた。
「風女! 耳を塞ぎな!」
無小姐は躊躇しなかった。両手を叩き合わせ、掌の間で空気を極限まで圧縮する。
「……風律・静黙屏障」
目に見える気流の渦が瞬時に一行の頭部を包み込んだ。
直後、鼓膜を粉砕しかねない低周波の爆轟が、狭い廊下を震撼させた。
もし彼女のバリアがなければ、跳ね返った衝撃音だけで耳を潰されていただろう。
「送葬者」は火を噴かなかった。代わりに放たれたのは、目に見える高圧空気の衝撃波だ。
衝撃波は狂暴に拡散し、先頭の数匹の脊椎百足を一瞬で粉塵へと変えた。骨の破片は散弾となって後方へ飛び散り、後続の同類たちを蜂の巣にした。
だが、その一撃は焼け石に水だった。「送葬者」のチャージ速度は遅すぎる。
後続の怪物は同胞の灰を踏み越え、ギチギチと音を立てながら、汚い肉のスープのように押し寄せてくる。
今、薇たちの行く手を阻んでいるのは、生体増殖組織によって完全に封鎖された円形の気密扉だった。それは巨大な、炎症を起こした瘡蓋に見えた。隙間からは黒い油脂が染み出し、ポタポタと地面に落ちては、酸っぱい臭いのする白い煙を上げていた。
「扉が癒着してやがる!」
既に眼球までもが生え、自分を凝視しているコンソールを見て、薇は吐き気を覚えた。「律法錠がありゃしねぇ! この腐れ肉め!」
「エンジン! 戻んな!」薇が鋭い口笛を吹いた。
機械油と肉片にまみれた機械犬が、闇の中から飛び戻ってきた。口にはまだピクピクと動く脊椎の半分をくわえている。そいつは薇の背後に立ち、押し寄せる怪物群へ威嚇の唸りを上げた。
「どきな!」
薇は無小姐を下がらせると、歯を食いしばり、「送葬者」の無骨な銃口を、その肉質の扉の隙間に直接押し当てた。
「……開けやがれ!!」
ゼロ距離の空気重槌が、湿った濁った爆音を轟かせた。
巨大な気圧が肉質の扉に大穴をブチ抜いた。黒い血漿と肉片がヒューヒューと噴き出し、薇を血まみれにした。
一瞬で焼けた髪の臭いと下水道のメタンガスが混ざり合い、空間を支配した。
薇は肺が破裂しそうだった。
彼女は肩を揺らして翰文を跳ね上げ、目の前のズタズタになった扉の残骸を力任せに蹴り飛ばした。
扉はガシャリと悲鳴を上げ、内側へと倒れ込んだ。
冷気が――清潔で、無機質なフォルマリンの臭いを帯びた冷気が、穴から猛烈に吹き出してきた。
【交匯:甦醒】
薇は翰文を背負い、前方の空間へとよろめきながら飛び込んだ。エンジンと無小姐がそれに続き、背後の穴を死に物狂いで塞いだ。
ほどなくして、穴は再びゆっくりと癒着していった。
薇が周囲を見渡すと、視界が開けた。そこは中枢。あるいは、この怪物の「脳腔」だった。
廊下の不潔さとは対照的に、そこは一瞬の適応が難しいほどに清潔だった。
巨大な円頂空間には無数の「光柵」が浮遊し、そこには薇には読めない古のルーンが踊っている。
そして前方、中央に浮遊する巨大な琥珀色のガラス水槽の中で。
伝説の「脳」が、死の微光を放ちながら静かに鎮座していた。
それは巨大な、灰白色のクルミの芯のように見えた。表面には皺が寄り、数万本の黒い神経管が接続されている。
それは本来、水晶のように透き通った神聖な生体ネットワークであるべきものだった。だが今、濁った栄養液に浸されたそれは腫れ上がり、炎症を起こし、無理やり管を挿入して生かされているだけの、醜悪な肉塊へと成り果てていた。
侵入者を感知したのか、水槽内の液体が突然激しく泡立った。薄暗かった微光は瞬時に刺すような猩紅色へと変わる。
キーン、キーンという鋭い警報音が針のように鼓膜を刺した。
天井からは数十本の機械触手が毒蛇のように垂れ下がり、赤いレーザーサイトが薇の全身を埋め尽くした。
「終わりだね……」
薇は反射的に「送葬者」を構えたが、油圧バルブからは過熱した白い蒸気が立ち上り、すぐには再装填できない。
多すぎる。
その絶望的な瞬間、彼女は背中の男が激しく痙攣したのを感じた。
一本の手――ひび割れた瘡蓋に覆われ、劇痛に神経質に震える手が、ゆっくりと伸ばされた。
皮膚が裂ける微かな、しかし心臓を掴むような音を伴って、その手は薇の肩に置かれ、強引にチャージしようとしていた彼女の指を力強く押し下げた。
李翰文がゆっくりと目を開いた。
その瞳に恐れはなく、ただ深海から水面に浮かび上がったばかりのような、茫然とした悲しみが湛えられていた。
夢の中でぼやけていた旋律が、今、彼の脳内で鮮明になっていく。
彼は水槽の中で苦痛に身をよじる脳を見つめ、胸に言いようのない悲愴を覚えた。
彼は知っていた。こいつが本来、どのような姿であるべきだったかを。高潔で、理性的で、完璧な存在。
それを、畏敬を知らぬ屠殺者どもが、こんな無残な姿に変えてしまった。
「……彼らは、お前を化け物にしてしまったんだな」
翰文は震える怒りを込めて、静かに呟いた。
「脳死してるって情報だったろ!?」
薇は狂ったようにのたうつ肉塊を見つめ、警報音の中で叫んだ。「これのどこが死んでるってんだ! 完全に狂い散らかしてやがる!」
翰文は薇に支えられながら、どうにか立ち上がった。彼は脳を見つめ、慈しむような眼差しで首を振った。
「こいつは怖がっているだけだ。隠れて、誰にも会いたくないのさ」
自分たちを粉々に砕こうとする殺人機械を前にして、彼はまるで怯える子供について語るかのように、優しく言った。
「専門用語じゃ『仮死』と呼ぶが……実際には、目覚めてもいいという『許し』を待っているだけなんだ」
彼は深く息を吸い、目の前の「送葬者」の銃口を押し下げると、降り注ぐ赤い光の矛と怒れる機械触手の前に独りで立った。
「……撃つな」
翰文の掠れた声は嘆息のように小さかったが、死寂に包まれた中枢の中で、はっきりと響き渡った。
「分かっているさ……。お前が、何を欲しがっているのか」
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