第40話 : 熱流動脈と、背上のチップ
『狩人は無駄な荷物を背負わない。もし狩人が何かを背負っているのを見かけたら、可能性は二つだ。仕留めた獲物か、あるいは自分の命より高価な装備か。その見分け方は単純だ。そいつを売るつもりか、そいつを使って人を殺すつもりか、見てれば分かる』
——『荒野生存ガイド・第五章:価値評価について』
大の男が、死に体で薇の背中にしがみついている。それは奇妙な体験であり、李翰文の人生において、女に背負われるのはこれが初めてのことだった。
だが、それは決して甘美でロマンチックなシチュエーションなどではない。
たとえるなら、大型バイクのリアシートに縛り付けられた戦術物資だ。少しの衝撃で振り落とされそうな危うさがそこにはあった。
薇の背筋は広く、硬かった。磨り減った皮衣越しであっても、彼女の背筋が力を込めるたびに収縮し、弛緩する様がはっきりと伝わってくる。女性特有の柔らかさなど微塵もなく、岩のような堅牢な質感。それは長年、銃の反動と戦い続けて鍛え上げられた鋼のラインだった。
薇の荒い呼吸が、死寂の通路に反響する。
驚異的な体力の持ち主とはいえ、この高温と酸素不足の環境下で成人男性一人を背負って行軍するのは、過酷な試練に違いなかった。
彼女の歩みに合わせ、タクティカルベルトに吊るされたスパナや予備のマガジン、戦利品の歯のコレクションが、翰文の耳元で単調かつ催眠的なリズムを奏でている。
突如、強烈な臭いが翰文の鼻腔を突いた。
古い血痕の鉄錆びた臭い、機械油の焦げた臭い、劣悪な煙草の辛味。そしてそれら工業的な悪臭の下に隠された、人間としての女性が放つ、熱で蒸騰した塩辛い汗の匂い。
それは決して芳しいものではなく、むしろ鼻を刺すような刺激臭だった。
だが、いつ消化されてもおかしくないこの「龍骨」の中において、それこそが唯一の「生存」を証明する匂いだった。
「……気色の悪い場所だね、ここは」
薇が不意に口を開いた。歯を食いしばって力を込めているせいか、声は少し篭っている。
彼女は肩をわずかにすくめ、背中でずり落ちそうになっていた翰文を上に跳ね上げた。まるでバックパックの重心を調整するような、無造作な動作だった。
「廊下を歩いてるっていうより……腸の中を這いずってる気分だよ」
彼女の言葉は正しかった。
彼らが今いる「主動脈」は、まともなメンテナンス通路などではなかった。
管壁は冷たい金属ではなく、半透明の、暗紅色をした生体ポリマーに覆われている。
それらはまるで意志を持つかのように、遠くのエンジンの鼓動に合わせて微かに波打っていた。壁面には太い黒のパイプが張り巡らされ、中を流れる高温の律流原漿が、狭い通路を蒸し器のように熱している。
薇の改造ブーツが一歩踏み出され、粘つく油脂に覆われた地面を踏むたび、ヌチャリという、聴く者の神経を逆撫でする湿った音が響く。
ソールの鋲が十分に鋭くなければ、彼女はとうの昔に滑り転んでいただろう。
「……これは『生体絶縁層』だ」
翰文は彼女の耳元で、弱々しい声で解説を加えた。
鼻血は止まったものの、脳の内側をスプーンでかき回されたような鈍痛は依然として消え去る気配がない。
「……この龍骨内部のエネルギー流動は強すぎる。この生体組織による絶縁層がなければ、普通の金属外装なんて一瞬で溶け落ちちまう」
「能書きを垂れるのはよしてくれ、学先生」
薇は苛立たしげに言葉を遮った。
「あたしが知りたいのは、あとどれくらい歩けばいいかってことだけだ。ブーツが熱で溶け始めてる。それに……」
彼女は言葉を切り、嫌悪感を滲ませた。
「あんたの血が首筋についた。ベタベタして不快なんだよ」
翰文は申し訳なさそうに苦笑した。
首から少しでも距離を置こうと顔を上げようとしたが、身体の虚脱感は凄まじく、力が入らない。
「……すまない。俺のことを、オイル漏れしたトランスミッションだと思ってくれれば、少しは気が楽になるかもしれない」
「フン。トランスミッションはここまで重くないし、もっと値打ちがある」
薇は鼻で笑った。口は毒々しいが、足取りが止まることはなかった。
「いいかい、考古学者。あたしがあんたを背負ってるのは慈悲じゃない。あんたの指した道が袋小路だったり、とんだ罠だったりしてみな……。あんたをここに叩き捨てて、この腸の潤滑油にしてやるからね」
「……安心しろ」
翰文は前方の薄暗く蛇行する赤い回廊を見つめた。瞳の奥で、青い「残り火」が幽かに明滅する。
「残り火」の視界において、この通路は暗黒ではない。
壁の内部を流れる無数の発光エネルギー回路が、複雑な神経ネットワークのように、「脳」のある方向へと彼らを導いている。
「……道は間違っていない。この動脈は艦橋――つまり、この巨獣の頭部へと続いている」
その頃、隊列の最後尾。
無小姐は五歩ほどの距離を保ち、付かず離れずついてきていた。
彼女は口を開かず、呼吸音さえも極限まで抑えていた。
風民である彼女にとって、この閉鎖的で湿っぽく、工業廃気で満ちた環境は極めて苦痛だった。停滞するような圧迫感が、見えない巨大な手に喉を絞められているかのように感じさせる。
だが、彼女を窒息させるのは環境だけではなかった。後方から突き刺さる視線だ。
彼女はたまらず、一度だけ後ろを振り返った。
そこには底知れぬ闇が広がっている。壁にへばりつく微かな緑の燐光が点在するだけだ。
しかし、その闇の奥深くで、何かが自分たちを追ってきている感覚が拭えない。
それは血肉を持つ実体ではなく、粘りつくような悪意の思念。――貪欲で、欠乏し、永遠に満たされることのない飢餓感。
巨大な「暴食者の心臓」は背後に残してきたはずだが、その意志は無形の触手と化し、この主動脈を這うように伸ばして、彼らの踵を舐め上げている。
粘液を伝わって届く、重く規則的な「ドクン、ドクン」という心音。
足元の粘液から伝導されるその振動のたびに、彼女の懐にある「墓穴屍蛾」の腺体が、警告の微光を放っていた。
「……あいつが、見てるわ」無小姐が唐突に低く呟いた。
前を歩く薇が足を止めた。
「何だって?」
薇が首を巡らせる。緑色の瞳は警戒に満ちていた。
エンジンも足を止め、喉を鳴らして闇へ向けて威嚇の声を上げた。背中の金属棘が逆立つ。
「……あの心臓よ」
無小姐の指は皮衣の裾をきつく握りしめ、関節が白く浮き上がっている。
「……眠ってなんていない。私たちを見てる。まるで……皿の上の肉が自らオーブンに入っていくのを見守っているみたいに」
薇が眉をひそめた。
「脅かすんじゃないよ。扉は閉まったんだ。あいつに足が生えて追いかけてこない限りはね」
言葉こそ強気だが、身体は正直に背中の翰文を抱え直し、空いた右手は無意識に腰の「送葬者」の引き金を探っていた。
「……彼女の言う通りだ」
翰文は薇の背に顔を伏せたまま、重々しく言った。
「……あいつは確かに起きている。神代の機械に『睡眠』なんて概念はない。あるのは『待機』だけだ」
「……あいつが俺たちを通したのは、さっきの燃料で満足したからじゃない。……俺たちを食わなかったのは、この命を生かしておいて、自分にある頼み事をさせたいからなんだ」
「……頼み事だと?」薇が問う。
翰文は重い瞼を持ち上げ、果てしなく続くような赤い肉壁を見据えた。
「……この列車は餓死したんだ。消化器官は生きているが、制御システム(脳)が死んでいる」
「……脳の指揮がない胃袋は、どれほど食べ物があっても飲み込めない」
「あいつは……俺たちを艦橋へ行かせて、脳を繋ぎ直させようとしてるのさ」
薇は一瞬呆気に取られ、それから滑稽だと言わんばかりの冷笑を漏らした。
「はっ! つまりあたしたちは、あいつの脳外科医になれってのかい? 何だいそりゃ? 医療ミスでも起こせってか?」
「爆破するよりも狂った話だね」
「だが……それしか道はない」
翰文の声はますます細くなっていった。意識が混濁し始めている。激痛の後の無感覚が、彼を飲み込もうとしていた。
「脳を再起動させなきゃ……ここからは永遠に出られない。この食道は一方通行だ……。先頭車両の艦橋まで行かなきゃ、出口はないんだ……」
彼の頭がゆっくりと垂れ下がり、顎が薇の肩に乗った。彼女の歩みに合わせて、こっくりこっくりと揺れる。
生暖かい吐息が薇の首筋にかかり、女猟人は言いようのない苛立ちを覚えた。
「おい! 寝るんじゃないよ!」
薇は激しく肩を揺らし、昏睡しかけている「装備」を揺り起こそうとした。
「……あたしに涎を垂らしてみな。その舌を引っこ抜いてやるからね!」
だが、翰文からの返答はなかった。
極限の神経連結と肉体的苦痛を経て、彼の身体は強制的な休眠保護メカニズムを起動させたのだ。
今の彼は、オーバーヒートしてシャットダウンしたコンピュータのように、完全に薇の背中で力尽きていた。
「ちっ。手のかかるガラクタだねぇ」
薇は毒づいたが、彼を振り落とすことはしなかった。
それどころか、逆手に持った翰文の太腿を、より強く、確実に抱え直した。
資産は資産だ。一時的にフリーズしていようとも、核心的な資産であることに変わりはない。
「フン……行くよ、小野猫ちゃん」
薇は振り返りもせず、後ろの無小姐へ声をかけた。
「遅れるんじゃないよ。あの心臓に捕まっておやつにされても、あたしは助けに戻らないからね」
無小姐は唇を噛み、最後にもう一度だけ背後の貪欲な闇を見つめた。
彼女の手は皮衣の内側深くへと伸び、そこにある冷たく、硬い物体を死に物狂いで握りしめた。
それは彼女の、最後の切り札。
指先から伝わる冷気が掌を刺した。それはこの高温のトンネルにおける唯一の冷静さであり、今の彼女にとって唯一の安全感だった。
彼女は分かっていた。これではあの怪物を殺すことはできない。
もしその時が来れば、この切り札の使い道はただ一つ。自分自身に捧げるためのものだ。
あのパイプの中を流れる「魂の燃料」になるくらいなら、彼女は死を選ぶ。
三人一匹の影が、壁の暗紅色の微光に引き伸ばされていく。
生物の腸のごとく蠢く「主動脈」の中で、彼らは飲み込まれた異物のように、緩慢に、だが着実に、この巨獣の最深部へと滑り落ちていった。
前方に待ち受けるのは、第七號龍塚の核心的な秘密。そして、死してなお、目覚めを待つ「暴食者の脳」。
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