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第39話 : 強欲な囁きと、重すぎる「鍵」




『旧時代の機械と交渉しようなんて思うな。あいつらの演算ロジックに「値引き」なんて選択肢はない。全額支払うか、さもなくば命を置いていくかだ。もっとも、往々にしてその二つは同じ意味を指すがね』



  ——灰塔(グレータワー)学者、李翰文(リー・ハンウェン)のフィールド調査ノート(未公開手稿)より



「……まだ、足りない」



 その声は耳を通して聞こえたのではない。



 頭蓋骨の内側で、直接響いたのだ。



 まるで、冷たく錆びついたスプーンを李翰文(リー・ハンウェン)の、こめかみに強引に突き立て、「残り火(エンバー)」と呼ばれる青い神経叢しんけいそうの中を狂ったようにかき回し、脳漿をドロドロの粥状にしようとしているかのようだった。



 重苦しいドクン、ドクンという鼓動はもはや単なる聴覚情報ではなく、実体を持った重槌ハンマーと化し、あの強欲な囁きと共に、翰文の頭蓋を何度も何度も打ち据えていた。



 この声は単なる飢えではない。



 千年の間見捨てられてきた、怨念に近い訴えだ。「暴食者(グラトニー)」の名を冠するこの神代の造物は、数世紀に及ぶ眠りの後、ついに「同類」の匂いを嗅ぎつけたのだ。それは餌を与えられなかった狂犬のように、鉄格子の向こう側から翰文に執拗に食料を要求していた。



「……っ、ぐう!」



 翰文(ハンウェン)は苦悶に表情を歪め、鼻を押さえた。



 指の隙間から生暖かい液体が流れ落ちる。一滴二滴ではない。脳圧のオーバーロードによる熱を帯びた鼻血が、瞬く間に溢れ出した。



 凡人の肉体にとって、このレベルの「神経学的握手ニューラル・ハンドシェイク」は耐えられるものではない。



 握手とは聞こえがいいが、実態は「強姦」そのものだった。



「……そいつ、なんて言ってやがる?」(ヴィ)の声が突如として上方から降ってきた。金属的なエコーを伴う冷徹な響き。



 彼女はいつの間にか顔を上げていた。



 このエンジン礼拝堂は、古の手術劇場オペレーティング・シアターに似た、すり鉢状の構造になっている。翰文(ハンウェン)無小姐(ミス・ヌル)が最底層の「祭壇」の中心にいるのに対し、(ヴィ)はいつの間にか高所の環状メンテナンス通路まで退いていた。



 彼女は階下の二人と一機を見下ろしていた。顔には先ほどの信仰崩壊の蒼白さが残っていたが、彼女はある行動をとった――自らの唇を、思い切り噛み破ったのだ。



 血の鉄錆びた味が、崩壊しかけていた理性を強引に引き戻した。緑色の瞳から恐怖は消え、強引に押し殺された、残酷なまでの冷静さが宿っている。



 狩人の本能が告げていた。このまま折れてしまえば、自分もただの飼料に成り下がるだけだと。



 翰文(ハンウェン)は荒い息をつきながら、手の甲で顔の血汚れを拭った。半面が赤黒く染まり、その相貌は獰猛なほどに歪んでいた。



「……腹が……減ってるんだとさ」



 翰文(ハンウェン)は頭上の、幽青色の微光を放つ巨大な結晶エンジンを指差した。声はしゃがれている。



「……こいつは俺の『周波数』を嗅ぎ分けた。俺のことを旧時代の飼いオーナーだと思い込んでやがる。今、首輪を外せという許可と……餌を求めてきてる」



 (ヴィ)は無意識に無小姐(ミス・ヌル)へ視線を向けた。



 その眼差しは直截的で、隠し立てする気さえなかった。



 彼女は今、「予備の高等精製燃料」としての価値を査定していた。



 無小姐(ミス・ヌル)の細い指が瞬時に皮衣の内側へと滑り込んだ。そこには彼女の最後の切り札が隠されている。彼女は毛を逆立てた猫のように(ヴィ)を警戒し、いつでも刺し違える覚悟を決めていた。



「……見るな」



 翰文(ハンウェン)(ヴィ)の危険な思考を遮り、歯の隙間から声を絞り出した。



「……言ったはずだ。こいつの求める『当量』は都市一つ分だ。彼女を放り込んだところで、火花一つ散りゃしねぇよ」



「……それに、こいつを起動させる必要はない。ただ『道を空けさせる』だけでいいんだ」



 翰文(ハンウェン)は深く息を吸い、足裏から突き抜ける劇痛を堪えながら、無小姐(ミス・ヌル)に支えられてどうにか立ち上がった。



 今、この瞬間、賭けに出るしかないと理解していた。



 「餓鬼」との交渉だ。



 彼は目を閉じ、脳内の「残り火(エンバー)」に対する抑制を自ら解いた。



 刹那、蒼藍色の幽光が彼の瞳孔の奥で爆燃し、外側のエンジンが放つ青光と、ある種の危険な共鳴を果たした。



 彼はこの巨大な質量を支配しようとはしなかった。代わりに、自らの僅かな精神力を、精緻で、かつ欺瞞に満ちた命令へと変換した。



【下層命令:強制舒張(拡張) // バイパスバルブ・アンロック】



 凄惨なキーンという唸り声と共に、巨大な心臓が猛烈に痙攣した。



 壁に繋がれた無数のパイプが激しく震え、中を流れる魂の燃料が、胃酸が逆流するようなグチュグチュとした激動音を立てる。聴く者の総毛が立つような音だった。



 エンジンが激昂したかのように見えた。



 この矮小な同類が、自分を満足させる気などなく、単に道を通せと要求していることに気づいたのだ。



【……代償……を……】



 脳内の声が、黒板を爪で掻きむしるような鋭い音に変わる。



【……代償……を支払え……】



「……持っていけッ!」



 翰文(ハンウェン)は歯を食いしばり、低く咆哮した。



 彼は「残り火(エンバー)」のエネルギーの一部を猛然と切り離し、エンジンへと強引に注ぎ込んだ。



 それは凡人の脳から発せられる貧弱な火花などではない。旧律法の高純度な結晶だ。



 「不純な魂」を食らって稼働するこの機械にとって、この一口の「純粋な律法」は、分量こそ極小だが、その味は並の燃料より数万倍も鮮美だった。



 飢えた巨人に、最高級のダイヤモンド・キャンディを一つ与えたようなものだ。



 心臓の表面を覆う結晶の防護殻が、ジジジと鳴る律流の音と共に、眩い青光を放った。



 翰文(ハンウェン)の脳内で「ブチッ」と何かが弾ける感覚がした。ヒューズが焼き切れたかのような衝撃。激痛に視界が暗転し、膝の力が抜けてそのまま地面に崩れ落ちた。



 だが、賭けには勝った。



 金属が噛み合うガチンという硬質な音と、重苦しいゴゴゴという地響きを伴い、エンジンの下部にあった壁と一体化していた分厚い金属板が、ゆっくりとスライドして開いた。



 そこには、黒ずんだ粘液とパイプが剥き出しになった、漆黒の狭い通路が口を開けていた。



 開かれた闇は、外の世界へと通じているという淡い幻想を打ち砕いた。



 それは車両の「龍骨」に沿って蛇行し、高温の律流が脈打つ主動脈そのものだった。



 だが、少なくともそれは、この心臓の裏側へと通じている。



「扉が……開いたぞ……」



 翰文(ハンウェン)は床に這いつくばり、激しく喘いだ。鼻血が金属の床に滴り、微かだがはっきりとした「タ、タッ」という音を立てる。



 魂の皮を一枚剥ぎ取られたような虚脱感。それは先ほどの劇痛よりもなお絶望的なものだった。



「……行くぞ」



 彼は這い上がろうとしたが、足が言うことを聞かない。足裏に走るきりで刺すような激痛に、再び地面へと沈み込んだ。



 塗りたくられた軟膏、血水、そして強酸。彼の両足は今、滑りつく劇痛と無感覚が混ざり合った、制御不能な肉塊と化していた。



 終わった。動けない。



 強力な鎮痛剤も外科手術もないこの状況下で、この足はもはやただの腐肉だ。歩くどころか、立つことさえ拷問に等しい。



 空気は突如として静まり返った。



 無小姐(ミス・ヌル)が彼を助けようとしたが、彼女の細い体格で成人男性である翰文(ハンウェン)を引きずるのはあまりに荷が重い。襲撃に遭えば逃げることも叶わず、背後の怪物に追いつかれるのは時間の問題だった。



 その時、重苦しい足音が近づいてきた。



 無骨な改造タクティカルブーツが、翰文(ハンウェン)の鼻先で止まった。



 翰文(ハンウェン)は辛うじて顔を上げた。(ヴィ)が彼を見下ろしていた。



 投げ捨てられたはずの防毒マスクは、いつの間にか拾い上げられ、再び彼女の腰にぶら下がっていた――壊れていようとも、それは価値のあるパーツだからだ。



 (ヴィ)の蒼白な顔には、何の表情も浮かんでいなかった。



 彼女は緑色の軟膏と血水にまみれた翰文(ハンウェン)の爛れた足を見つめ、嫌悪感もあらわに眉をひそめた。



「……汚らしいね」



 彼女は短く評した。



「……悪かったな……目汚しでよ」



 翰文(ハンウェン)は力なく苦笑した。



「なあ……偉大なる狩人様。道を切り開いてくれないか? 俺とこのお嬢さんは、なんとか後ろをついていくからよ……」



 言い終わる前に、(ヴィ)が不意に腰を落とした。



 彼女は翰文(ハンウェン)の腕を支えるのではなく、ゴミ袋でも掴むような手つきで、彼の背負った戦術ストラップを直接掴み取った。



 そして、翰文(ハンウェン)無小姐(ミス・ヌル)が呆気に取られる中、彼女は片手に力を込めた。腕の古い油圧シリンダーがギチギチと悲鳴を上げ、翰文(ハンウェン)の全身を力任せに引き揚げた。



「……ついてくる? あんたが這い終わる頃には、あたしの骨は灰になってるよ」



 (ヴィ)は鼻で笑った。



 彼女は背を向け、僅かに屈むと、翰文(ハンウェン)を自分の背中へと乱暴に放り上げた。



「……しっかり掴まってな。あたしの皮衣に鼻血をつけたら、燃料タンクにブチ込んでやるからね」



 翰文(ハンウェン)は呆然としていた。彼は女猟人の背中にしがみついている。



 無小姐(ミス・ヌル)の柔らかな感触とは対照的に、(ヴィ)の背中は広く、硬く、筋肉が岩のように張り詰めていた。彼女からは濃厚な機械油の臭い、古い煙草の残り香、そして微かな、女性としての汗の匂いが漂ってくる。



 それは長年荒野で死線を潜り抜けてきた戦士の背中だった。圧倒的な力と、それゆえの危険。



「……どうしてだ?」



 翰文(ハンウェン)は無意識に問いかけた。



 ついさっきまで、彼女は無小姐(ミス・ヌル)をバッテリーにしようと計算し、おそらくは自分もその計算に入れていたはずだ。それが今、なぜ荷物を背負うような真似を?



 (ヴィ)は翰文の爛れた足が周囲に当たらないよう位置を調整した。



 彼女は首を巡らせ、その緑色の瞳に極致の功利主義を宿して言った。



「……勘違いするなよ」



 彼女は開かれたばかりの動脈通路へと歩み出し、冷たく突き放すような声で続けた。



「……さっきの芸当で、あんたが使えるってことが証明された。あんたはこのガラクタの山における唯一の『鍵』だ」



「……狩人にとっちゃ、価値のある装備なら、重かろうが背負っていくのが道理だろう?」



 彼女は一拍置き、付け加えた。



「……あの風民の小娘については、危険が迫ればあんたを優先して守る。分かったかい?」



 後ろを歩く無小姐(ミス・ヌル)は、皮衣に隠した手をぎゅっと握りしめた。



 彼女には分かっていた。これは仲間同士の助け合いではない。「資産査定」を経た「リソースの再編成」なのだ。



 翰文(ハンウェン)は「核心資産」へとアップグレードされ、そして自分は……依然としていつでも切り捨て可能な「燃料」か「おとり」のままだ。



「……行くよ、エンジン(モーター)



 (ヴィ)は、いまだに心臓に怯えて震えている機械犬を蹴り飛ばした。



「……この先は龍の腸みたいだね。消化不良の回虫でもいないことを祈るよ」



 三人一匹は、異様な陣形で「暴食者(グラトニー)」の深部へと消えていった。



 (ヴィ)翰文(ハンウェン)を背負い、ナビゲーション・レーダーを搭載した重戦車のように先頭を進む。



 無小姐(ミス・ヌル)が殿を務め、背後の闇を警戒する。



 そして彼らを見送った巨大な心臓は、再び静かな脈動へと戻っていった。



 ただ、その意味深なドクン、ドクンという音の中に、微かな嘲笑が混ざっているようだった。



 それは「律法」の味を知ってしまった。



 蟻たちが、いずれ戻ってくることを確信していた。



 荒野において、神への借金を返さずに済ませられる者など、一人もいないのだから。





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