第37話 : 歯車の聖歌と、血肉の禁忌
『機械に恋をする連中がいる。比喩ではない。彼らは恋人の太腿を撫でるように排気管を愛撫し、機油の臭いの中で絶頂に達する。そういった連中を、あたしたちは「技師」あるいは「狂人」と呼ぶ。そして荒野において、その二つの言葉は同義語だ』
——『下城區メンタルヘルス評価報告:フェティシズムと職業病の関連について』
賭けは成立した。
引き金にかかっていた薇の指は半秒ほど硬直し、次いで油圧装置が圧力を解放する際の細く、疲れ切ったような嘶きと共に、銃口がゆっくりと下がった。
強欲が、殺意に勝利したのだ。
ガラクタを宝物のように扱う死霊術師にとって、「生きている神代のエンジン」という誘惑は、一時的に空腹を忘れさせ、目の前の男に自分の技術を侮辱された屈辱さえも忘れさせるほどに巨大だった。
「……そいつが本物であることを祈るんだね」
薇の声がマスク越しに響く。金属が擦れ合うような、ザラついた質感。
彼女は銃を収め、黒い機械油の戦化粧で縁取られた瞳で翰文を凝視した。まるで視線で彼の頭蓋をこじ開け、真偽を確かめようとしているかのようだ。
「……もし扉の向こうが空っぽだったら、あんたの手を一本切り落としてエンジンの口に突っ込んでやる。そいつが噛み砕かれるのを、その目で見せてやるからさ」
翰文は答えなかった。答える体力がなく、答える気も起きなかった。
足元の酸液はすでにブーツの甲まで浸かっており、ラバーを腐食させるジリジリという音が耳障りに響く。無数の飢えた小口が、彼の靴底を狂ったように囓っている音だ。足の裏からは焼けるような刺痛が伝わり、皮膚の表層はすでに潰瘍を起こし始めているはずだ。
彼は向き直り、巨大な生体機械の扉と対峙した。
薬効はまだ続いている。
過度の昂揚で充血した彼の瞳には、厚さ半メートルに及ぶこの隔壁は静止した物体には見えなかった。
それは「流動」していた。
地球の解剖学で言えば、胃袋の末端にあるこの出口は「幽門弁」と呼ばれる。
だが目の前の構造は、それ以上に複雑だった。繁雑な歯車のロック、油圧ロッド、そしてそれらに絡みつく乾いた筋肉の束が、極めて緩慢ながらも数学的な韻律を帯びたリズムで呼吸を繰り返していた。
脳内の「残り火」が馴染み深い悸動を伝え、真の名を告げる。
「律法錠」。
薇には理解できない。死霊術師の目には、これは爆薬でブチ抜くべき障害物としか映らない。
だが職人の目には、これは一つの謎解きであり、演奏を待つ楽譜であった。
「……静かにしてろ」
翰文は低く囁いた。その優しい語気は、焦燥した野獣をなだめるには十分だった。
彼は血肉の判別のつかなくなった右手を上げた。強引なハッキングの代償である傷口からはまだ血が滲み、鮮紅色の液体が指先を伝って滴り落ち、足元の墨緑色の酸液へと混ざり合っていく。
彼は掌を、冷たい扉の中心――心臓の弁膜に似た凹みへと押し当てた。
暴力的な電撃を、温和な手法に置き換える。
粗暴な侵入を、繊細な技術へと代える。
翰文は目を閉じ、脳内の青い炎「残り火」を操作した。
ハッカーのような攻撃性を捨て、意識の周波数を純粋な共鳴へと調整していく。
自らを一本の鍵とし、この古き列車の波長と同調させる。
掌から極低周波の唸るような振動が伝わり、腕の骨を伝って脳を揺さぶる。鼻腔が熱くなり、一滴の鼻血が制御できずに金属のバルブへと滴り落ちた。
扉の上の「死物」たちが、それに応えて目覚めた。
固く閉ざされていた油圧ロックが、カチャカチャという精密な噛み合わせの音を立てて自動的に回転し、解錠される。乾ききっていた生体筋肉の束が「権限」を受け取った瞬間、不気味に充血して膨らみ、灰白色から暗紅色へと変色した。歯の浮くような湿ったグチュリという音を伴い、重厚な隔壁がゆっくりと引き開けられた。
「……そんな、ありえない」
背後から、薇の信じがたいといった呟きが聞こえた。
彼女の認識では、このレベルの旧時代の機械を動かすには、少なくとも数千ボルトの高圧電流を繋ぐか、あるいは数バケツ分の高純度な「巨獸脂膏」を捧げなければならないはずだ。
だが、この男は何もしていない。
ただ、そっと触れただけだ。その姿は、伝説に聞く「灰塔」の賢者が、指先で鋼鉄を点化したかのようだった。
気密扉がゆっくりと開くと、古びて乾燥し、濃厚な機械油と香香の入り混じった熱風が吹き抜けた。
その気圧差が、足元の酸液を一気に扉の外へと押し留めた。
「……入れッ!」
翰文は絶叫し、呆然としている無小姐の手を引いて扉の中へと転がり込んだ。
薇がそれに続き、機械犬エンジンまでもが尾を巻いて滑り込んできた。
背後の幽門弁がドォォオンという巨響と共に閉じられる。
あの致命的な酸蝕の海を、そして酸の中で叫び続ける清掃員どもを、すべて別の世界へと切り離して。
……
内部は、死寂の空間だった。
互いの血管を流れる血の音が聞こえるほどの静寂。
翰文は扉の裏にもたれかかり、肺が破れそうな勢いで激しい呼吸を繰り返した。
アドレナリンの減退と共に、劇痛が逆襲してくる。手も、足も、一寸ごとの神経が悲鳴を上げていた。
無小姐は彼の隣でへたり込み、蒼白だった顔を高熱で赤く染めながら、この蒸し暑い空気から酸素を奪おうと、必死に皮衣の襟を解いていた。
「……おい」
薇の声が沈黙を破った。
その口調は変わっていた。傲慢で、いつでも人を殺しそうな狩人のトーンは消え失せ、代わりに、敬虔ささえ感じさせる震えが混じっていた。
「……これが……あんたの言ってた、アレか?」
翰文は顔を上げた。
眼前の光景は、文明世界から来た考古学者の目から見ても、神跡――あるいは悪夢と呼ぶにふさわしいものだった。
そこはもはや「エンジンルーム」の範疇を超えていた。そこは、壮大な鋼鉄の礼拝堂だった。
巨大な球状の空間。無数の太い白い肋骨がドーム状の天井へと伸び、この壮麗な胸腔を支えている。
そしてその胸腔の正中央に、一つの心臓が吊り下げられていた。
それは、ビル二階分ほどもある巨大な機械構造体だった。
その基本構造は、薇が最も熟知し、エンジンの体内にもあるあのクラシックなV型ツインエンジン(V-Twin)であった。
だが目の前のそれは、拙劣な模倣などではない。すべてのパーツが何倍にも拡大され、絶望的なまでに完璧に仕上げられていた。シリンダーの壁は無骨な生鉄を捨て、何らかの半透明の結晶で鋳造され、クランクシャフトやコネクティングロッドには、呪文のような複雑な放熱の紋様が刻まれている。
さらに不気味なのは、その「配管」だった。
数千本の太さの異なるパイプが血管のように本体から伸び、周囲の壁へと繋がっている。あるパイプには黒い燃料が流れ、あるパイプには赤い生物質的な液体が脈打っていた。
信じがたいことに、それは「鼓動」していた。
極めて緩慢ではあったが、一度の脈動のたびに重厚な金属の摩擦音と、雷鳴のごときドクン……ドクン……という低周波の残響が、鋼鉄の胸腔全体を揺さぶっていた。
これが Type-09「暴食者」の核心――生物学と機械工学を強引に縫い合わせた、不浄なる奇跡。
「……美しい」
薇は夢遊病者のような足取りで歩み寄った。
気密バックルが外れるプシュッという小さな音と共に、彼女はサメの口の描かれた高価なマスクをひったくり、ゴミのように地面へ投げ捨てた。
フィルターの隔たりがなくなった、長い間日光を浴びていない、蒼白で油汚れにまみれた素顔がようやく露わになる。鼻翼を激しくひくつかせ、その表情はもはや狩人の凶暴さではなく、絶頂に近い陶酔に染まっていた。
彼女は眼前の巨大な心臓を仰ぎ見た。緑の瞳には、エンジンが稼働する際に放つ幽青色の微光が映り込んでいる。
火傷跡の残る左手を震わせながら伸ばし、シリンダーのラインを虚空でなぞる。その指先の動きは、恋人の肌を愛撫するかのようだった。
「……見ておくれよ、この構造。デュアルサイクルの油圧システム……適応型の生体弁……それにこの、痺れるような声……」
「……これこそが完璧なV型ツインだ。エンジンの腹にあるガラクタなんて、こいつに比べりゃ玩具にもなりゃしないよ」
彼女は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。空気中に漂う機械油、古い血の臭い、そしてオゾンが混ざり合った香りを貪欲に嗅ぐ。
「神……神代の工芸か! あたしが作ってきたゴミ溜めに比べりゃ……こいつはまさに聖歌だね」
足元のエンジンも、クーンと低い鳴き声を上げた。
狼の骨とボロエンジンを繋ぎ合わせたこの劣悪な模造品は、目の前の「真の神」たる心臓を前に、本能的に尾を巻き、地面に這いつくばって震えていた。轟鳴していたエンジンは恐怖で停止し、排気口(口)からは子犬が咽び泣くような微かな排気音が漏れるばかりだった。
それは機械生命の間にある、絶対的な階級による圧伏であった。
「……触るな」
翰文の声は弱々しかったが、切迫していた。
「そいつは……今、極めて不安定な休眠状態にある。無闇にパイプを抜いたり、強引に起動させようとすれば、ここは一瞬で高圧釜に変わって、俺たち全員を煮殺すことになるぞ」
薇の耳には届いていなかった。彼女はすでに懸垂通路の縁まで進み、その心臓まで二メートルとない距離にいた。
彼女は振り返り、翰文を見た。その顔には、歪んだ狂熱的な笑みが浮かんでいた。
その笑みに理性はなく、究極の造物に対する、職人の占有欲だけがあった。
「……抜きゃしないよ」
彼女は腰から太く、複雑な計器の付いた導管プラグを引き抜いた。
「……あたしが、こいつになるんだ」
「……これほど完璧な身体がありながら、指揮を執る頭脳がないなんて勿体ないだろ? あたしの神経をぶち込んで、こいつが何を考えてるのか、聞いてやりたいのさ……」
「……狂ってるわ」
無小姐が低く罵った。彼女は強打して立ち上がり、手にした「墓穴屍蛾」の腺体が、警告のように激しく明滅した。
「……翰文、この女はイカれてる。自分をパーツにして、中に入り込もうとしてるわ!」
翰文は力なく苦笑し、首を振った。
その眼差しを、彼はよく理解していた。失われた古城を見つけた考古学者の、完璧な名画を前にした芸術家の目だ。
薇は冗談を言っているのではない。彼女は本気で、この機械と「合一」しようとしている。
「……薇!」
翰文は深く息を吸い、声を張り上げて彼女の熱狂を貫こうとした。
「……繋ぐのは勝手だが、よく見ておけ。燃料タンク(油箱)の中身が何なのかをな」
薇は虚を突かれ、無意識に翰文の視線を追ってエンジンの底部を見た。
そこには巨大な透明の輸送管が繋がり、心臓の燃焼室へと直結していた。
薬物による迷離した視界の中で、翰文にははっきりと見えていた。
中を流れているものは、もはや「物質」とさえ呼べないものだった。
それは無数の歪んだ、苦悶に満ちた人間の顔が合流してできた川だった。
それらは高密度の「魂の燃料」として圧縮され、パイプの中で声なき叫びを上げながらシリンダーへと送り込まれ、焼却されていた。
空気中には、吐き気を催すほど甘ったるい焦がし砂糖の臭いが漂っていた――魂が高温で解裂する際に発せられる、特有の香気。
「律能」。旧時代の奇跡のエネルギー。
その本質は、人間の意識と生命力を、鋼鉄の神々を駆動させるための「薪」へと転換することにあったのだ。
薇の動きが止まった。彼女は、ゆっくりと唾を飲み込んだ。
荒野で最も残忍な死霊術師であっても、パイプの中を奔流となって流れる、数千、数万の液化された魂を目の当たりにして、脳天を貫くような悪寒を覚えた。
それは単に魂の戦慄によるものではない。彼女が支えとしてきた世界観と、職業的自負の崩壊だった。
彼女が誇りとしてきた、死体油で機械を動かす「死霊術」。だが、目の前の壮大で冷徹、かつ機能的な「魂の工業化ライン」を前にしては、彼女の技術など子供の遊びのような拙劣な真似事に過ぎなかった。
「……これが代償だ」
翰文は壁を支えにして立ち上がり、冷ややかな視線を向けた。
「……この列車は『人間』を食って走る。自分を繋げば、主人になれるなんて思うな」
「……あんたはただ、こいつの次の朝食になるだけだ」
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