第36話 : 酸蝕の海と、死霊のワルツ
『白衣を着た奴らの言うことを信じるな。機械に魂はない、だと? それはあいつらが、綺麗な電線で繋ぐことしか知らないからだ。燃料タンクに半ガロンの熱い血を注ぎ込み、神経を二、三本ブチ込んでみな……。ヒヒッ、機械の悲鳴が聞こえてくるぜ』
——薇が酔った際のたわ言。下城區「断たれた歯」酒場にて記録。
薬効が回ってきた。
世界が李翰文の瞳の中で溶け落ち、狂った幾何学的論理で再構成され始める。
薇が寄越した「狂暴蟻のアドレナリン」は、まさに液状の炎だった。その炎は胃袋を焼き尽くし、血管を咆哮しながら駆け抜けて脳へと突っ込み、脳内の隅で燻ぶっていた青い「残り火」を暴力的に点火した。薬物と律法の二重の刺激により、鮮明だった視界は病的な、彩度の高すぎるネオンカラーに染め上げられる。
恐怖は消失し、代わりに頭を壁に叩きつけたくなるような昂揚が支配した。心臓は胸腔の中で太鼓を打ち鳴らし、そのドクドクという轟音が鼓膜を震わせる。
翰文は、今の自分なら壁の向こう側さえ透かして見られると感じていた。
両脇にそびえる錆びついた金属の壁。迷離した彼の瞳には、鉄錆の表層が剥がれ落ち、本来の姿――地底深くへと続く、巨大極まりない「白い脊椎」が映し出されていた。
彼らは今、死した巨龍の体内を歩いているのだ。
「龍骨級」
忘れ去られた旧時代のコードネームが、記憶の沼の底から泡のように浮かんできた。
これのどこが列車だというのか。これは紛れもなく、Type-09「暴食者」重型運搬獣だ。
「地底の遊龍が第七号龍塚で餓死した」という伝説が、今、食道となって生々しく彼を包み込んでいる。
「……暑い……」
無小姐の声が、水底から響くように歪んで聞こえた。
彼女は絶えず襟元を引っ張っている。風を防ぐための厚い皮衣が、今や蒸し風呂と化していた。汗が蒼白な首筋を滑り落ち、地面に届く前に高熱で蒸発していく。
空気の湿度は限界を超え、呼吸のたびに煮えたぎる濃いスープを飲み込んでいるようだ。肺は硫黄と酸の腐敗臭で満たされていた。
「……当然だ。胃酸が発酵してやがる」
薇が先頭を歩き、手にした「送葬者」の銃口で、時折壁をコツコツと叩く。リズムの良い金属音。それはノックのようでもあり、挑発のようでもあった。
「……この老いぼれた龍が、腹を空かせて目覚めちまった。さっきのミミックなんざ前菜に過ぎねぇ。今、こいつの胃酸レベルは上昇中だ。あたしたちをまとめて消化する準備をしてるのさ」
翰文が足元に目を落とすと、感触が明らかに変わっていた。
堅牢だった軟骨の地面は、今や黒い絨毯のような「繊毛」に覆われている。
いや、絨毯ではない。胃壁の絨毛だ。
無数の湿った黒い触手が微かに蠢き、透明な粘液を分泌している。一滴の粘液が彼のブーツに飛ぶと、ラバーソールからジッという音と共に、杏仁の臭いのする白い煙が立ち上がった。
「酸蝕の海」。この食道は今、強酸の銭湯へと変貌しつつある。
一刻も早く出口を見つけなければ、コーラの中に放り込まれたステーキのごとく、骨すら残らず溶け去るだろう。
「……止まって」
無小姐が足を止め、警告を発した。
耳を激しく震わせ、瞳孔を針のように細めている。
液体の流れる音、エアバルブの排気音。その騒音の中で、彼女はさらに微細で密集した音を捉えていた。
何万もの錆びた鋼球がガラスの上を転がっているような、硬い甲殻がひしめき合う悪意に満ちた軋み。
「……上よ」
無小姐が弾かれたように顔を上げ、頭上の複雑に絡み合った通気管と錆びた支柱を指差した。
薇はニヤリと笑い、白い歯を見せた。
「はっ……やっとお出ましだ。あの**強酸清道夫**ども、絶滅したかと思ってたぜ」
その言葉が終わる前に、頭上の闇から凄惨な金切声が響き渡った。
次いで、無数の黒い影が豪雨のように降り注ぐ。
それは巨大なダニに似ていた。背中にはフジツボのような硬いカルシウム質の殻を背負い、腹部には緑色の強酸を湛えた半透明の嚢をぶら下げている。
本来「龍骨」内部の残渣を処理する益虫だったそれらは、長い飢餓の果ての進化により、動くものすべてに酸を撒き散らす狂犬と化していた。
「……伏せな!」
薇が大喝し、同時に「送葬者」を発射した。
銃床の油圧装置が作動し、鋼鉄の猛獣が怒りを解き放つような鋭い排気音を上げた。そのツギハギの長銃は、剥き出しの牙を露わにする――火を噴くのではない。恐怖の「物理的衝撃波」を爆発させたのだ。
轟音の中、薇の身体に吊るされたスパナ、ドライバー、戦利品の歯が激しく振動し、狂乱した金属音を奏でる。剥き出した左腕の筋肉が隆起し、のたうつ火傷跡は充血して病的な暗紅色に変色していた。
空中で飛びかかろうとした三匹の清道夫は、悲鳴を上げる暇もなく衝撃で粉塵へと変えられた。
エメラルド色の酸液と殻の破片が、一斉に咲いた花火のように舞い、空中を致命的で優美な翡翠の流光で彩る。
だが、敵の数が多すぎる。
通気管から溢れ出し、足元の繊毛から這い出し、視界を埋め尽くしていく。
一匹の清道夫が翰文の肩に飛び乗った。
薬物で過敏になった翰文の網膜の上で、それはすでに「虫」の範疇を超え、無数の口を持つ異形の肉塊と化していた。
背負ったフジツボのような殻は、一つ一つが瞬きをする悪意に満ちた眼球に見えた。
それは虫の音ではなく、人間の赤ん坊の泣き声に似た不気味な叫びを上げ、彼の肉の中に潜り込んで巣を作ろうと試みる。
二秒遅れて脳に届いた痛覚。そこでようやく、生きたまま引き裂かれる恐怖が彼を突き刺した。
「……失せろッ!」
彼は足元に落ちていた生鉄の板を掴み取り、肩の「名状しがたき肉塊」を力任せに叩き潰した。
プチュッという不快な音と共に腐食性の体液が鉄板の上で炸裂し、立ち昇った白い煙が彼の目を焼き、視界を真っ白に染め上げた。
「……エンジン!」
薇がブーツに噛みつこうとした怪物を蹴り飛ばし、腰から電纜の繋がった太い鋼釘を抜き取ると、機械犬の脊椎にある接続端子へ強引に突き刺した。
それは極めて粗暴な「強制給油」の動作だった。
「……挽き肉にしてきな!」
エンジンのコアから、限界寸前の高周波な唸り声が上がった。V型ツインの心臓が瞬間的に最高回転数に達する。そいつは牙の並んだ大口を開け、喉の奥から甘ったるい死体油の燃焼臭を伴う黒煙と火炎を吐き出した。
もはや「噛み付く」のではない。自らを回転する棘付きの鉄球と化し、怪物の群れの中で狂ったように荒れ狂う。
金属が殻を砕く音、肉が攪拌される音、強酸が高温で蒸発するジッという音。それらが混ざり合い、混沌とした工業の楽章を奏でた。
これが薇の戦闘スタイルだ。
優雅さも慈悲もない。ただ機械油の臭いとノイズにまみれた工業的暴力。
これこそが「機械死霊術」だ。
薬物で過敏になりすぎた翰文の「職人の瞳」から見れば、それは魔法などではなく、ただの汚らしい拷問だった。
薇は、死んだ金属を電撃で強姦し、悲鳴を上げさせて敵を殺しているに過ぎなかった。
「……まだ足りないね」
湧き出し続ける蟲の潮に、薇が眉をひそめた。
彼女は突然、無小姐に飛びかかろうとした一匹を空中で掴み取った。怪物は手の中で激しく暴れ、尾部の酸液嚢を破裂せんばかりに膨らませる。
「……お前の神経、ちょっと借りるよ」
薇は冷笑し、ポケットから乾いた血の付いた青い電解長釘を取り出した。
呪文も唱えず、魔法陣も描かない。
ただ正確に、熟練した外科医のように、その長釘を怪物の甲殻の下にある神経節へと突き刺した。
暴力的なハッキング。
長釘から高圧電流が放たれ、怪物の神経系をハイジャックし、体内の酸液嚢を不安定な爆弾へと変貌させる。
「……行ってきな!」
彼女は痙攣するその「生体手榴弾」を蟲の群れへ投げ込んだ。
ベチャッという湿った轟音と共に、怪物の身体が空中で膨れ上がり、猛烈に自爆した。
爆発は熱を持った炎ではなく、急速に膨張する惨緑色の強酸エアロゾルを撒き散らした。毒霧が瞬時に十数匹の同類を飲み込む。強酸同士が腐食し合い、蟲たちは悲鳴を上げ、甲殻は酸の中で瞬く間に軟化、溶解していった。
「……走れ! その煙を吸うなよ!」
薇は片手でマスクのエアバルブを強く押さえ、もう片方の手で二人を促し、酸霧の隙間を駆け抜けた。
戦闘の終息は早かった。
彼らが包囲を突破した時、背後の蟲たちは「死霊毒爆」によって足止めされていた。
奥へ進むほど地形は低くなり、気温は上昇していく。
ついに、行く手が阻まれた。
廊下の突き当たりに、巨大な円形の気密扉が立ちはだかっていた。
扉はビル三階分ほどの高さがあり、表面は筋肉の腱のような生体結合組織に覆われ、周囲は複雑な歯車と油圧ロックで固められている。扉の隙間からは緑の強酸が絶え間なく滲み出し、ジリジリと腐食音を立てていた。まるで扉自体が、近づくものを消化しようとしているかのようだ。
「……チッ、ロックされてやがる」
薇は毒づき、銃床で扉を力任せに殴りつけた。
鈍い衝撃音が反響したが、扉は微動だにせず、塗装一つ剥げなかった。
「……どきな、爆薬でブチ抜くよ」
薇は腰から油紙に包まれた手製爆薬を取り出し、凶悪な目を向けた。
「……待て」
翰文が彼女を制止した。
彼は顔を上げ、その扉を直視した。
残る薬物の幻覚の中で、扉の紋様が流動しているように見えた。無機質な機械ロックが、彼の瞳には脈打つ血管と信号を伝える神経に分解されて映る。
薇は爆薬と蛮力を使おうとしている。それは死霊術師の思考だ――扉を死物として扱っている。
だが、構造を見通せる翰文の瞳にとって、これは扉などではない。
「幽門弁」だ。
しかも、これはただの機械的な鍵ではない。
脳内の青い「残り火」が微かに跳ね、鋼鉄の裏側に隠された真実を映し出した。
これは「律法錠」だ。
「……爆破じゃ開かない」
翰文の声は嗄れていたが、異様なほど冷静だった。
「……こいつは生きてる。爆薬なんて使えば、驚いて俺たちをまとめて消化しちまうぞ」
「……じゃあ、開けねぇってのかい?」
翰文は顔の汗と酸液を拭い、突然、不気味に笑った。神経質そうな、薬の抜けていない笑いだ。
「開けない? ……なら、あんたをその酸の池に放り込んで、溶けて開くか試してみようか」
薇の指が引き金にかかった。冗談の欠片もない目だ。
「……やってみるがいいさ」
翰文は厚い大扉を指差し、狂気じみた確信を込めて言った。
「だが……あんたには、そいつを壊す度胸はないと賭けるね」
彼は目を閉じ、扉に耳を当てた。
数百トンの鋼鉄と酸液の向こう側から、微弱だが重厚なドクン、ドクンという音が聞こえてくる。
歯車の回転音や排気音の下に隠された、より深い脈動。
心音だ。
「暴食者」と名付けられたType-09龍骨運搬獣。そのコアエンジンは、まだ完全には停止していない。火種は、扉の奥でまだ眠っているのだ。
翰文は目を開けた。瞳の中で青い燐光が明滅する。
彼は唯一にして最大のチップを、薇に突きつけた。
「……この扉の先にあるのは、ただの出口じゃない」
「……新品同様で、オイルさえ乾いていない龍骨級の心臓――『暴食者の心臓』だ」
「薇……あんたのそのガラクタ犬なんて、そいつの足元にも及ばない。こいつは神代の工芸品だ。俺を殺せば、あんたは一生その腐った死体を弄んで終わるだけだぜ」
薇の瞳孔が瞬時に収縮した。
銃口は依然として翰文に向けられていたが、引き金にかかった指が、微かに震えていた。
それは、強欲が殺意を凌駕しようとしている合図だった。
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