第35話 : 女王の沈黙と、食屍鬼の貪欲
『狂人と理屈をこねることはできる。野獣と条件を話すこともできる。だがな、狂人と野獣を一つに溶接したような女に出会っちまったら、黙り込むのが最高の生存戦略だ』
——『荒野生存ガイド・付録:賞金稼ぎ「薇」の目撃報告について』
巨大な嚥下音が、ようやく止まった。
仿生列車の食道は再び死寂へと戻り、ただ管壁の隙間から数筋の白い蒸気がプシューという排気音を伴って噴き出していた。それは消化を終えた後の、満足げな溜息のようだった。
地面に転がっていた「ミミック」だった残骸は、もはや形容しがたい二次元の平面へと成り果てていた。金属の外殻はアルミホイルのように薄く押し潰され、黒い体液が地形に沿って流れ出し、熱気を帯びた汚い水溜まりを作っている。時折、粘着質な気泡がプツプツと音を立てて弾けていた。
李翰文は右手が焼き切れるような感覚を覚えていた。
強引に神経をジャックした際のあの湿り気がまだ皮膚に残っている。神経末端からは絶え間なく幻肢痛が伝わり、無数の目に見えない蟻が指先をザラザラと囓っているかのようだ。
拳を握ろうとするが、指は言うことを聞かず、ただ痙攣を繰り返す。
「……これが代償かよ」
震える掌を見つめ、彼は自嘲気味に苦笑した。この力はタダではない。「残り火」を使うたび、身体という積み木から一つパーツを抜かれるような、魂の深部が軋む音が聞こえる。崩壊へのカウントダウンは確実に進んでいる。
遠くから、半生物的な軟骨を踏みしめる重いブーツの音が聞こえてきた。歯が浮くようなギュッギュッという圧搾音が、死寂を切り裂いてこちらへ近づいてくる。
その足音には、剥き出しの侵略性が宿っていた。一歩踏み出すたび、ソールの鋲が地面を深く刺し貫いているのが分かる。
無小姐がいち早く反応した。
彼女は悲鳴を上げず、後退もしなかった。顔色は紙のように白く、先ほどのノイズ攻撃で身体はまだ微かに震えていたが、それでも彼女は強靭な意思で立ち上がり、座り込んだままの翰文の前に立ち塞がった。
この瞬間、彼女から放浪者としての惨めな雰囲気は消え失せていた。
泥にまみれ、ボロを纏っていようとも、彼女の魂にある尊厳が、顔を上げて前を見据えることを強いたのだ。
流浪の日々でも磨り潰せなかった本能――彼女はかつて、命令を下す側の人間だった。
足音が影の境界で止まった。
最初に突き出されたのは、醜悪な犬の頭だった。いや、骨格の上に内燃機関を強引に載せた「ナニカ」だ。
「エンジン」と呼ばれるその機械生物は、赤く光るスパークプラグの瞳で地面の黒い血を凝視している。その胸腔――錆びついたV型ツインエンジン――はアイドリング状態で、ピストンの上下に合わせて剥き出しの生物筋がグチュグチュと湿った音を立てて収縮していた。
続いて、その主が姿を現した。金属工具や戦利品のプレート、骨がぶつかり合うジャラジャラという不快な騒音が、動くスクラップ山のごとき圧迫感を伴って迫る。
そのノイズの渦の中から、薇が踏み出してきた。
彼女は巨大な「送葬者」を片手で肩に担ぎ、自分の庭を散歩するかのような弛緩した態度を見せていた。灰白色のポニーテールが歩調に合わせてリズムよく揺れ、酸っぱい熱風の中で戦旗のように空気を叩いている。
彼女はマスクを外さなかった。呼吸するだけで肺が焼けるようなこの場所では、サメの口が描かれた防毒マスクこそが彼女の真の「顔」だった。
赤と白の安物ペンキで描かれたサメの口は、彼女が頭を動かすたびに、血の滴るような大口を開けて獲物を嘲笑っているように見えた。
際立って目を引くのは、その剥き出しの左腕だ。
滑らかな皮膚の代わりに、溶けたピンク色の蝋のような火傷跡がのたうつように広がり、周囲の粗野なタトゥーと醜く絡み合っている。その腕は、破壊と芸術の共生体であり、彼女が廃土で生き抜いてきた証でもあった。
マスクに隠されていない緑色の瞳には、剥き出しの攻撃性が宿っている。目元に無造作に塗られた黒いオイルは、照り返しを防ぐための「戦化粧」であり、それが彼女を闇の中から這い出した野獣のように見せていた。
彼女は無小姐を見なかった。
狩人にとって、行く手を阻む障害物は注視する対象ではない。ただ蹴り飛ばすだけのものだ。
緑の瞳は無小姐の肩越しに、飢えた狼が肉を捉えるように、地面の翰文を貪欲に見据えた。
「……もう一度だ」
薇が口を開いた。声は嗄れ、劣悪な煙草に焼かれたようなザラついた粒子感を帯びている。
彼女は顎で周囲の蠢く管壁を指した。
「……さっきの、トンネル丸ごとを胃袋に変えちまったあの芸当。もう一度見せな」
翰文は荒い息を吐きながら、辛うじて顔を上げた。
「……断ると言ったら?」
「そうかい。あたしは拒絶されるのが嫌いでね」
薇はニヤリと笑い、森閑とした白い歯を覗かせた。
カチャリ、という硬質な金属音。彼女は長銃を無造作に下げた。銃床の油圧装置が開き、鋭利な装甲貫通ピンが飛び出す。
「……協力しないってんなら、足を叩き折る。あたしが欲しいのはあんたの脳みそと手だ。足なんてのは余計なパーツだろ? 減量ついでに切り離してやってもいいんだぜ」
その脅しは直截的で、かつ確実だった。
この女の瞳にある冷淡さは、彼女が冗談を言っていないことを証明している。彼女は本気で人間を分解し、パーツごとに梱包する類の狂人だ。
「……あなたにはできないわ」
清冽な声が割り込んだ。沈黙を守っていた無小姐だ。
彼女は拾荒者が使うような卑屈な命乞いはしなかった。声は小さかったが、そこには絶対的な確信がこもっていた。
薇は眉を上げ、ようやくこの目の前の女を正面から見た。
「……あァ? 何だって?」
「……彼にもう一度同じことをさせるのは、あなたには無理だと言ったの」
無小姐は薇の殺気立つ緑の瞳を、逸らすことなく見返した。
彼女は痙攣し続ける翰文の右手を指差した。
「……彼の手を見て。神経回路がオーバーロードしているわ。今の彼には列車を操るどころか、その錆びた短刀を握ることさえ不可能なのよ」
「……私たちを殺すことも、彼の足を折ることも好きにすればいい。でも、そんなことをすれば、あなたはさっきの『芸当』を二度と見られなくなる。手に入るのはただの肉塊だけよ」
薇は目を細め、緑の瞳孔が針のように収縮した。
彼女は何も言わず、突如として一歩踏み込むと、毒蛇のような速さで翰文の震える右手を掴み取った。
「っ、つぅ……!」翰文が呻く。
薇はその悲鳴を無視し、鶏の足のように丸まった指を一本ずつ、バキバキと強引に抉じ開けた。彼女は顔を近づけ、鼻腔をひくつかせて深く息を吸い込んだ。翰文の指先から漂う、焼けた肉と壊死した神経の臭いを嗅ぐために。
「……焦げた臭い。それに、過剰分泌されたアセチルコリンの酸っぱい臭いだね」
彼女はあろうことか舌を伸ばし、翰文の震える手甲をペロリと舐めた。神経電流の残滓がもたらす痺れを味わうように。
「……ふむ。確かに焼き切れてる」彼女は翰文の手を、用済みの道具のように放り投げた。「……この女の言う通りだね」
翰文は内心で戦慄したが、すぐに無小姐が作ってくれた隙を突いて、平静を装って言った。
「こ……この技術には『冷却』が必要なんだ。今無理をさせれば、俺の脳みそはあんたの犬のキャブレターみたいに爆発するぞ」
薇は数秒、沈黙した。
翰文の手を見、そして毅然とした態度の無小姐を見た。
突然、彼女は天を仰いで大笑いし始めた。
「……ハハハハハ! 面白い! 実に面白いよ!」
笑い声が閉ざされた食道に響き、狂気を孕んで反響する。
彼女は唐突に笑いを止め、無小姐の目の前まで大股で歩み寄った。二人の顔の距離は十センチもない。薇の放つ機械油の臭いと、無小姐の纏う血の臭いが混ざり合う。
「……随分と話が分かるじゃないか、お嬢ちゃん」
薇は無小姐の顎を掴み上げ、粗い指先でその白い肌をザラザラと撫で回した。
「……普通の奴ならエンジンを見ただけで漏らすんだがね。あたしに条件を突きつけるとは」
薇の指が顎をなぞり、その口調には愉悦が混じる。
「ふうん……あんたにこれほどの高値がついてる理由が分かったよ。あんた、ただの拾荒者じゃないね……。その目が綺麗すぎる。綺麗すぎて、抉り取ってやりたくなるくらいにさ」
無小姐は抗わず、ただ冷徹に彼女を見つめていた。まるで分別のない使用人を見るかのような目。
その無言の蔑視が、薇に正体不明の苛立ちを感じさせた。
「……チッ」
薇は手を離し、忌々しげに手を振って翰文の方へ向き直った。
「……運が良かったね。あたしは今、気分がいいんだ。たかが二つのパーツのために、玩具を壊したくはないからね」
彼女はベルトから薄汚れたテープと、得体の知れないラベルが貼られた瓶を外し、翰文の懐へ放り投げた。
燐光の中で翰文が瓶を確かめると、中には不気味に分離した液体が入っていた。上層は機械油のような黒褐色、下層には腐ったケチャップのような暗赤色の澱が沈殿している。それは何らかの生物の凝固した組織液に見えた。
「……そいつを飲め。『狂暴蟻』の脳漿から精製したアドレナリンだ。軍用燃料を少し混ぜてある」
「……副作用で血尿が出るかもしれないが、少なくとも神経の悲鳴は一時的に黙らせられる」
翰文は瓶を受け取り、躊躇した。
「これ……死んだりしないか?」
「……エンジンがそいつを飲んで生きてるんだ。人間が死ぬわけないだろ?」
薇が隣の機械犬を蹴ると、そいつは不満げにクーンと鳴いた。
「……立て。芸ができないなら、せめて重労働くらいはこなしてもらわなきゃね」
彼女はトンネルの奥――燐光さえ届かない、さらに深い闇を指差した。
「……あたしの探知機によれば、この列車の『頭脳』はあっちだ。コアチップを掘り起こしに行く」
「……先にはさっきのミミックがまだいるはずだ。お前ら二人が先頭で道を切り拓け(カナリアになれ)」
探路? 聞こえはいいが、要は人間地雷探知機だ。
だが、今にも自分の頭を叩き割りそうな長銃を持つ薇を前に、拒否権はない。
「成立……だ」
翰文は苦笑しながら、黄色い結晶の固着した蓋をこじ開けた。プシュッという音と共に、鼻を刺す強烈な化学臭が立ち上る。
瓶を振り、意を決して煽った。
燃えるような液体が固形物を伴って喉を通り、胃袋に火をつけた。ガソリンを飲んでいるような味だったが、確かに指先の幻痛は和らいでいった。
よろめきながら立ち上がると、無小姐がすぐに支えてくれた。
手が触れた瞬間、翰文は彼女が微かに震えていることに気づいた。
さっきの「女王」のような強気な態度は、やはり演技だったのだ。彼女もまた人間であり、恐怖に震えているのだ。
翰文は彼女の掌を優しく握り、「大丈夫だ」と合図を送った。
「……行こう」
薇が口笛を吹くと、エンジンが興奮したように錆びた背骨を鳴らし、真っ先に闇へと駆け込んでいった。
「……逃げようなんて思うなよ。この腹の中で、出口を知っているのはあたしだけだ。あたしから離れれば、最後にはこの列車の排泄物になっちまうからね」
三人一匹。互いに腹の底を探り合いながら、仿生列車の深部へと進んでいく。
翰文が闇に足を踏み入れた瞬間、掌の止まったはずの傷口が不意にピクリと跳ねた。
誰かに覗かれているような悪寒が背筋を走る。
彼は振り返った。
さっきまで座っていた場所。ミミックが成り果てたあの黒い血が、ゆっくりと床に染み込んでいた。
あたかも、床板がゴクリとそれを「飲み込んだ」かのように。
管壁の奥深くに潜む巨大な意思が、甘みを知り、さらなる捕食を求めて微かな脈動を放っていた。
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