第34話 : 胃酸と鉄錆、そして見えざる同居人
『もし何かが数百年死んでもなお腐りきっていないのなら、そいつを死体だと思うな。そいつは眠っているだけで、いつ目覚めてもおかしくない、ひどく寝起きの悪い老人だと思え』
——『灰塔エンジニア手帳・構造編:半生物遺跡の取り扱いについて』
死体の腹の中に隠れるという感覚は、想像以上に息が詰まるものだった。
空気中には「消化不良」の悪臭が充満している。年代物の工業用機械油に、何らかの強酸酵素が発酵した臭いが混ざり合い、鼻腔の粘膜をチリチリと刺激する。鉄錆の浮いた下水道に、期限切れの酢をバケツ一杯流し込んだような不快感だ。
無小姐が持つ「墓穴屍蛾」の腺体が幽緑色の冷光を放ち、曲がりくねりながら下へと伸びる食道をかろうじて照らしている。
李翰文は壁に背を預け、ずるずると座り込んだ。背中からは硬質プラスチックと風乾した皮革の中間のような、妙に生々しい感触が伝わってくる。金属特有の冷たさも硬さも、そこにはなかった。
仿生列車の内壁には気管軟骨に似た環状構造がびっしりと並び、その隙間には乾ききった黒い粘液の跡がこびりついている。
「……呼吸してる」
無小姐は座ろうとしなかった。彼女は警戒心の強い猫のように、反対側の壁に身体を密着させ、耳の産毛を微かな気流に合わせて震わせていた。
「……周波数がとても低いの。私たちが三十回呼吸して……ようやく一回、吐き出す程度」
「ただの風の音かもしれないだろ」
翰文は自分に言い聞かせようとしたが、脳内の「残り火」はジジジと細かな警報を発し、湿り気を帯びた生物的な信号を絶え間なく伝えてくる。
ここは空室ではない。この食道には、別の先客が住んでいる。
彼は足元に目を落とした。
緑の燐光の中に、いくつかの惨白な骨が散らばっていた。正体不明の荒野の野獣の腿骨。断面は不揃いに砕かれ、そこにはまだ消化しきれていない腐肉がへばりついている。
まだ、新しい。
「……どうやら、ここの住人はなかなかの大食漢らしいな」
翰文は刃こぼれした短刀を握りしめた。缶詰一つ開けられない代物だが、少なくとも掌に虚偽の温度だけは与えてくれる。
この、両手が……。
視線は、鶏の足のように強張った指先に落ちた。先ほどの逃走で塞がりかけていた傷が再び裂け、鮮血が滲み出して軟膏と混ざり、ねっとりと変色している。
「……翰文」
無小姐が突然声を潜め、前方の暗い曲がり角を指差した。
影の中に、ガラクタが乱雑に積み重なっている。崩落した座席、断裂したケーブル、そして通気管。
「……あのゴミの山……今……動いたわ」
……
同時刻。列車残骸の外。
陽光は厚い放射能雲に濾過され、病的なピンク色となって、サメの口のグラフィティが描かれた薇の防毒マスクを照らしていた。
彼女は中へ追わなかった。狩人の鉄則その一:見知らぬ穴には絶対に潜るな。排泄物になりたくなければ、だ。
彼女は悠然と岩に寄りかかり、異様な造形の長銃「送葬者」を弄んでいた。
その銃は彼女自身と同じく、矛盾に満ちた美しさを湛えていた。粗雑に溶接された銃身に、小さな頭蓋骨の飾りと色とりどりの布が巻かれた銃床。油圧装置が動作に合わせて時折プシューと排気音を漏らし、血を渇望しているようだった。
「……あの二匹のネズミ、意外と逃げ足が速いね」
薇は火を灯したばかりの巻き煙草をくわえ、濁った、甘ったるい腐敗臭を放つ液体の入った缶を手にしていた。死体から精製された高純度の油脂だ。
暗褐色の陽光に晒された彼女の左腕が、際立って刺々しく見える。そこは広範囲にわたる火傷の瘢痕に覆われ、まるで一度溶けて固まったピンク色の蝋のようだった。それが周囲の荒々しい黒の機械刺青と醜く絡み合っている。彼女はその傷だらけの手で死体油の缶を持ち上げていた。指先のないタクティカルグローブの縁は激しく磨耗し、露出した指の関節は乾いた黒い油泥で汚れている。
彼女は無造作にその油脂を、足元にうずくまる機械猟犬の「口」へと流し込んだ。
「エンジン」と名付けられたその猟犬は、グルグルと貪欲な嚥下音を立てる。荒野の巨狼の骨を繋ぎ合わせたその胸腔には、生物の心臓などは存在しない。代わりに、放熱フィンに覆われた錆びついた金属塊が鎮座している。
もし旧時代の整備士がここにいれば、それが標準的なV型ツインエンジンであることに驚愕しただろう。
ただ今では、黒い死体油がピストンを突き動かし、本来のエンジンオイルの代わりをしていた。伝動シャフトには、いまだにピクピクと震える生物の筋が幾重にも巻き付き、死んだ狼の四肢を強引に駆動させている。
エンジンは死体油を消化し、硫黄の臭いのする黒煙を吐き出すと、ガガッ、ガシュンという獣の唸り声に似た機械的な咆哮を上げた。飯が不味いと文句を言っているかのようだ。
「……食ってな、役立たず」
薇はそいつを軽く蹴飛ばしたが、その声には歪んだ愛着が混じっていた。
「……あの女の賞金が手に入ったら、オイル漏れしないキャブレターに変えてやるからさ」
彼女は立ち上がり、単眼鏡で真っ暗な列車の入り口を覗き込んだ。
中は静かすぎた。それが彼女を退屈させた。
「……なあエンジン、一番つまらないことって何だか分かるかい?」
彼女は腰から鉄缶を改造した円筒を外し、ビールのプルタブでも開けるかのような軽やかさでピンを抜いた。
「……ネズミが穴に引きこもって出てこない間、猫が外で日向ぼっこさせられることだよ」
彼女はニヤリと笑い、マスクの下で白い歯を覗かせた。
「……少し、BGMをつけてやろうじゃないか」
手首のスナップを利かせると、鉄缶は弧を描いて正確に列車の入り口へと転がり込んだ。
……
列車内部。
カラン、という軽い金属音が死寂を打ち破った。
鉄缶が傾斜した食道を転がり落ち、翰文と無小姐の前方十メートルの位置で止まった。
翰文がそれが何かを確認する暇もなかった。
缶が突然、ジィィイイイ――という超高周波の鋭いノイズを爆発させた。
黒板を爪で狂ったように掻きむしり、それを十倍に増幅したような音だ。音波は閉鎖された金属の管内で反響し、鼓膜を激痛が襲い、目眩を引き起こす。
「……あ、あああ!」
聴覚の鋭い無小姐が真っ先に犠牲になった。彼女は苦悶の表情で耳を覆い、地面にうずくまる。
だが、それは最悪の事態の始まりに過ぎなかった。
この忌々しいノイズは、まるで「朝食のベル」のように、この食道に潜む真の捕食者を呼び覚ましてしまった。
前方の、静止していたはずの「ゴミの座席」と「ケーブル」が、突如として脈動を始めたのだ。
カチャカチャという不快な金属摩擦音を立てながら、ガラクタの山が歪み、再構築され、立ち上がる。
擬態の解除。擬態捕食者。
外殻は列車から剥がれ落ちた金属板や座席の破片で構成されているが、その内部には蠢くタコのような軟体組織が詰まっている。環境に溶け込んで捕食するその怪物を、ノイズが激昂させた。
鋭い鉄片で構成された「四肢」を展開し、その中央には回転する鋸歯を備えた口器が剥き出しになる。目はないが、明らかに翰文の心拍を聞き取っていた。
「……走れ!」
翰文は大声で叫び、無小姐を立たせようとした。
だが、ミミックの速度は異常だった。巨大な金属のアシダカグモのごとき勢いで跳躍し、退路を断つ。
回転する鋸の口器が翰文の顔から五十センチも届かない距離に迫り、吐き出された呼気が強烈な鉄錆の臭いを撒き散らす。
終わった。死路だ。前には怪物、後ろにはノイズ缶。
翰文の手は震えていた。短刀を握ることさえ満足にできない。仮に握れたとしても、全身を装甲で固めたこの怪物には、鈍い刃など痒み止めにしかならない。
……死ぬのか?
絶体絶命の瞬間、翰文は思わず背後の管壁に身体をぶつけた。
掌の裂けた傷口が、鮮血を伴って「気管軟骨」に叩きつけられる。
その時、掌からヌチャリとした微かな感触が伝わった。
湿り気を帯びた感覚が掌から広がる。まるでこの巨獣の爛れた傷口に手を突っ込み、剥き出しの神経と無理やり癒着させられたかのような感覚。
脳内の「残り火」が瞬間的に沸騰した。真っ赤に焼けた鉄のフォークで脳を直接貫かれたような衝撃。
これはどちらが支配するかという問題ではない。双方が同時に翰文をリンチ(私刑)にかけている状態だった。
列車の残存意識が腕の神経を逆流してくる――それは三百年間飢え続けた、純粋な空虚。自分の腕の血管が、無数の目に見えない触手によって強引に押し広げられ、侵入してくるのを感じる。すぐに切り離さなければ、この列車は彼の魂を電池のように使い果たすだろう。
「……あああぁああ!」翰文は絶叫し、白目を剥き、口角から血の混じった唾液を垂らした。
彼の目には、この死んだ列車はもはや死体ではなかった。
管壁の内部に張り巡らされた、微弱だが確かに存在する生体電流が見えたのだ。
そこにあるのは、数百年飢え続けた「胃袋」。そして、数百年休眠していても、十分な刺激さえ与えれば反射を起こす「神経」。
……嚥下反射……準備完了……
「ハン……翰文?!」
背後から無小姐の悲鳴が聞こえる。彼女の目には、この男が自ら蠢く生肉の塊に手を突っ込み、狂ったように表情を歪めている姿しか映っていない。
「怖がるな」
翰文は歯を食いしばり、口元に狂気じみた笑みを浮かべた。
彼は無能な戦士だ。銃一丁まともに扱えない。だが、彼は考古学者だ。常人にはガラクタに見えても、彼にとってはこれは赤裸々な解剖図に過ぎない。構造さえ読み解けば、神経をジャックできる。
「……無小姐! 俺にしっかり掴まってろ!」
翰文は絶叫し、退くどころか前へ踏み込むと、血まみれの右手を管壁にある神経節のような凹みへと力任せに叩き込んだ。
「……老いぼれ、飯の時間だッ!!」
彼に電力はない。だが「残り火」がある。
脳内の荒ぶる律法エネルギーを、腕という完璧な導体を通して、死んだ列車の神経中枢へと暴力的に流し込んだ。
列車全体が、重苦しく長い「ウゥゥゥウウン――」という唸り声を上げた。
それは構造の深部から響き渡り、足元の床板さえも共鳴させる。
次の瞬間、恐怖の光景が展開した。
翰文の周囲の管壁が突如として激しく蠢き、収縮を始めた。生物の本能的な嚥下運動だ。
「……ギィ?!」
飛びかかろうとしたミミックは、足元の地面が流動する筋肉に変わったことに気づいた。
反応する暇もなかった。両脇の巨大な金属肋骨が油圧クランプのように、轟音と共に激しく合わさった。ギィィィ、ガリ、ボキッという凄まじい音が響く。
抗う余地などなかった。
次元の違う咀嚼力の前では、生物の抵抗など滑稽なほど無力だ。不快な破砕音と共に、怪物の鋭い歩脚と硬い金属外殻が瞬時に崩壊する。
中の軟体組織は逃げ場を失い、プチュッという音と共に歯磨き粉のように装甲の隙間から爆射され、黒い血が辺り一面に飛び散った。
数秒後、最後の重苦しい骨折音が止むと、巨大な管壁は完全に密着した。さっきまで牙を剥いていた捕食者は、今や金属肋骨の間に挟まった一層の肉片へと成り果てていた。
蠢動は止まらない。巨大な食道は、この「消化しやすい」栄養素を、さらに深い胃袋へと押し流そうとしている。
「……止まれ! 止まれッ!」
翰文は脂汗を流しながら、必死に出力を絞った。
幸い、列車は死んで久しい。神経反射は一過性のものだった。
数秒後、管壁の収縮が止まり、再び死寂の残骸へと戻った。
翰文は膝を突き、激しく喘いだ。賭けに勝った。より大きな死体を使って、小さな怪物を喰らわせたのだ。
……
入り口付近。
薇はいつの間にかそこに立っていた。
銃は構えず、声も出さない。
口には火のついたばかりの巻き煙草。足元の機械犬エンジンは、狂ったように死体油の涎を垂らし、クーンクーンと低く鳴いている――強大な同類に対する本能的な恐怖だ。
薇は防毒マスクを少しずらし、火傷の痕がありながらも野性的な魅力に満ちた素顔を半分覗かせた。
煙を吐き出し、緑色の瞳で、地面にへたり込む李翰文を凝視する。
その瞳から先ほどの嘲笑や殺意は消え失せ、稀世の宝物を見つけたかのような、毛跳ぼう立つような狂熱だけが残っていた。
彼女には聞こえた。
死んだはずの列車が上げた、あの重低音の咆哮が。
彼女は、廃土客たちが畏怖を込めて「死霊術」と呼ぶあらゆる手段を尽くしてきた。血の代わりに死体油を使い、筋で鋼鉄を縫い合わせる粗暴な工芸。そうして無数の廃鉄を繋ぎ合わせてきたが、それでもエンジンにさえ、これほど完璧な機械生命の産声を上げさせることはできなかった。
「……面白い」
薇の瞳孔が微かに収縮した。興奮が極限に達した際の生理反応だ。自分の心拍が速まる音さえ聞こえる。
彼女は十年探し続けた。無数の死体とガラクタの山をひっくり返し、死体油と電流で機械の魂を呼び覚まそうとしたが、手に入ったのはエンジンのような、壊れた拡声器みたいな声しか出せない半端者だけだった。
だが、この男は……。彼はただ片手一つで、この死肉の山に完璧な「賛美歌」を歌わせた。
「……完璧な導体だ」
彼女は舌を出し、乾いた唇を舐めた。その視線はもはや獲物を見るものではなく、神聖な供物、あるいは解体して研究を待つ高級な玩具を見るそれだった。
「……どうやらこのネズミ……食うためのもんじゃないね。使うためのもんだ」
煙草の火を足で踏み消すと、彼女は鉄鋲の打ち込まれたブーツを鳴らし、闇の中へと大股で踏み込んだ。
隣の無小姐には一瞥もくれない。まるで無価値な背景の一部であるかのように。
その露骨な無視と威圧感を前にしても、無小姐は退かなかった。
彼女は蒼白な唇を噛み、薇が接近する瞬間に、恐怖を押し殺して黙って左へ一歩踏み出し、翰文の傍らに立ち塞がった。
食い物を守る幼獣のように、侵入者に対して声もなく牙を剥く。
薇はそれを鼻で笑った。彼女の目には、その「職人」しか映っていない。
「……おい、そこの手の震えてる坊や」
傲慢な声が閉ざされたトンネルに反響し、拒絶を許さない。
「……さっきの芸、もう一度見せな。さもないと……その首を捻じ切って、あたしの犬に挿げ替えてやるよ」
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