第32話 : 桃色の痛覚と、存在しない篝火
『荒野では、絶対に火を灯すな。炎は野獣を追い払うが、「狩人」を招き寄せる。ここでは闇がお前の敵ではない、光こそが敵だ』
——『拾荒者手記・7ページ:隠匿について』
アドレナリンとは、気前は良いが極めて強欲な借金のようなものだ。逃げている最中は、未来の体力を前借リさせてくれるが、安全な場所に止まった瞬間、そいつは「劇痛」という名の高額な利息を付けて取り立てにやってくる。
李翰文は今、その負債を返済している最中だった。
硫黄と死体の腐臭が漂う強酸の湖畔から二キロほど離れた場所で、ようやく彼の身体は自分が傷ついていることを自覚した。
一歩歩くたびに胸腔の肋骨が抗議の鈍音を上げ、まるで胸の中に錆びついたふいごを詰め込まれたかのようだ。
だが、何より最悪なのは手だった。赤ん坊のようにピンク色で瑞々しく再生したばかりの両手は、今や見るも無傷な血肉の塊と化していた。
這い上がり、戦う過程で、掌の柔肌は粗い岩や金属によって徹底的に削り取られ、鮮紅色の真皮層と神経末端が剥き出しになっている。指の隙間には黒い泥と凝固した血の瘡蓋が詰まっていた。
風が吹くだけで、露出した神経に直接作用するその刺痛は、恰も両手をコンセントに突っ込んだかのような衝撃となって、彼の身体を絶え間なく震わせた。
「……ここで……いい」
翰文は、先史時代の巨獣の牙のような形をした巨大な岩の影で足を止めた。
ここは風下だ。岩の上部には幽かな青い光を放つ苔が群生しており、完全な暗闇に陥るのを防ぐ程度の、心細い照明となってくれている。
「座れ……座るんだ」
彼は手の甲を使って――掌は痛すぎて使えなかった――平らな石を指し、無小姐に座るよう促した。
無小姐は岩の下で、雨に濡れたウズラのように身を縮めていた。
ただでさえ不釣り合いだった皮衣は水を吸って重くのしかかり、裾からは酸っぱい緑色の水が滴り落ちている。紫に変色した唇を震わせ、膝を抱えてガタガタと震える彼女。風民の体質は元来寒さに弱く、この高濃度の湿冷は彼女にとって緩慢な毒に等しかった。
翰文は湿った服を脱がせて絞ってやりたかったが、手を伸ばそうとして、自分の血まみれの「鉤爪」が視界に入った。
服を絞るどころか、拳を握ることさえ今の彼には不可能だった。
「……薬を」
翰文は歯を食いしばり、バックパックを顎で示した。「……サイドポケットだ。緑の缶を」
無小姐が顔を上げ、翰文の血の滴る手を見つめた。その瞳が揺れ、あまりの惨状に気圧されたようだった。
彼女は蒼白く強張った手を伸ばし、バックパックからひしゃげた緑色の薬缶を探り出した。
「俺が……自分でやる」
翰文は肘で缶を挟み、歯で蓋をこじ開けようとした。だが、彼は自分の身体の制御能力を過信し、痛みの干渉を過小評価していた。
力を込めた瞬間、腕の筋肉の収縮が掌の傷を激しく牽引し、あまりの激痛に息を呑んで缶を地面に落としてしまった。カラン、と虚しい音が響く。
冷たい手が、その缶を拾い上げた。
無小姐は何も言わなかった。黙って薬を拾い、変形した蓋を器用に回して開けた。
鼻を突くミントの臭いと、劣悪な機械油の臭いが混ざり合って漂い出す。
「……痛いわよ」
彼女は翰文を見つめた。その声は客観的な事実を述べているようでもあり、事前に謝罪しているようでもあった。
「安心しろ……死にゃしない」
翰文は、無理やり引きつった笑みを浮かべ、深く息を吸い込んだ。「やれ……半焼けのステーキに塩を振りかけてると思えばいい」
無小姐は翰文の短刀を抜き、慎重に緑色の軟膏を掬い取った。
彼女の指先は冷たく、翰文の熱を持った掌に触れた瞬間、脳天まで突き抜ける戦慄が走った。
そして、その強烈な刺激性を帯びた薬が剥き出しの神経叢を覆った瞬間、翰文は自分の手を氷水のバケツに突っ込み、その直後に沸騰した油の中へ放り込まれたような錯覚に陥った。
極限の冷気と灼熱感が同時に脳内で爆発する。痛みは皮膚表面に留まらず、神経束を逆流して、無数の焼き針が脳に直接突き刺さったかのようだった。
「……っ、ぐああぁあ――!」
翰文はのけぞり、後頭部を岩に叩きつけるようにして、喉の奥から押し殺した咆哮を絞り出した。
額からは一気に冷や汗が噴き出し、顔の油汚れと混ざって目に入り、焼けるように沁みた。
無小姐の手が止まった。中断しようとしたのかもしれない。
「続……けろ」翰文は目を閉じ、歯の隙間から声を絞り出した。腕はガタガタと震え続けている。「止まるな……一気に……終わらせろ」
無小姐は唇を噛み、動作を速めたが、それは同時に以前よりも繊細なものになった。
彼女は俯き、一つ一つの傷を治療することに集中していた。幽かな青い光が蒼白な横顔を照らし、その非人間的な冷たさに、奇妙な神々しさを添えていた。
薬を塗っているというより、破損した磁器を修復しているようだった。
十分後。
翰文の両手は緑の軟膏で塗り固められ、見た目こそカビの生えた豚足のようだったが、刺すような激痛はようやく痺れるような鈍痛へと変わっていった。
薬効がようやく現れ始めたのだ。
「ありが……とうな」
翰文は脱力して岩に寄りかかった。魂まで吸い取られたような疲弊感だ。
これが「新生」の代価か。この手は器用で、鋭敏で、空気中の塵の粒さえ感じ取れるほどだが、この荒々しく暴力的な廃土の世界においては、あまりにも贅沢で、あまりにも脆すぎた。
「……本を」
無小姐がバックパックを指し、まだ重要な仕事が残っていることを思い出させた。
翰文は溜息をつき、腕の間に湿ったノートを挟んで取り出した。
あのアナクロな倒霉鬼の遺産は、今や漬物よりもシワシワになっていた。
彼は岩の上の苔が放つ微光を頼りに、張り付いたページを慎重にめくった。
紙が湿り気を帯びた脆弱な断裂音を立てる。最初の数ページの「日記」は完全に黒いインクの塊となって溶け、何の内容も読み取れなかった。
翰文は息を止め、中ほどの――手書きの地図があるページをめくった。
「クソッ」覚悟はしていたが、実物を見て毒づかずにはいられなかった。
かつて鮮明だった地図は、今や抽象画へと変貌していた。「安全ルート」を示す点線は、死んだミミズのように無数の断片にちぎれている。
そして最も重要な、「補給地点」を示す赤丸は、淡い赤色の染みとなって広がり、本来の座標があったはずの場所を塗り潰していた。
「……見えないの?」
無小姐が覗き込み、尋ねた。
「完全にじゃない」
翰文は目を細めて思考を巡らせ、染みの端にある、かろうじて判別できる記号を指差した。
「ここを見ろ。このマークは生きている」
それは歪に描かれた三角形で、横にはぼやけた「骨」という文字が添えられていた。
「……骨?」
「巨獣の埋骨地か、あるいは骨を標識にしている廃墟だ」
翰文はノートを閉じ、懐に差し込んだ。体温で乾かすのが、今できる唯一の方法だった。
「少なくとも、大まかな方向は間違っていないことが分かった。巨大な骨がある場所を目指すぞ」
夜が更けた。だが荒野の夜は静寂ではない。
遠くからはガラスを金属で引っ掻くような鋭い虫鳴きと、大型生物の重苦しい足音が聞こえてくる。足音のたびに地面が微かに震える。
空は黒ではなく、病的な紫紅色を呈していた。千年の時を経て拡散した巨大な「痣」のようだ。
星は見えない。厚い放射能の雲が汚れた包帯のように空を覆い、伝説にある双月を無残な姿に歪ませている。
死を象徴する「白月」は、輪郭のぼやけた惨白な光輪として、磨りガラス越しに覗く死んだ眼球のように廃土を監視している。
変化を司る「紫月」は、この鬱血した夜の色に完全に溶け込み、どこが月で、どこが空の爛れた傷口なのかさえ判別できない。
時折、細長い流星が天を裂くのが見えた。あれは星ではない。**「執法者級巡天船」**が墜落する際に引きずる残骸の軌跡だ。数百年前の戦争のゴミが、いまだに成層圏で燃え続けているのだ。
それは化学燃料の炎ではなく、エンジンコアが崩壊する直前に上げる最後の「断末魔」だった。あの忌々しいゾンビ戦艦どもは、重力と反重力の律令が作り出す死のループに囚われ、墜ちることも消えることも拒絶している。それはこの廃土で永遠に終わることのない、災厄の花火だった。
この窒息しそうな蒼穹の下、遠くの地平線ではあの聳え立つ都市が、冷淡な人工の光を放ち続けていた。
この距離から見れば、それは巨大な、緑の火を燃やす工業的な墓標のように、孤独で傲慢に世界の果てに立ち尽くし、逃げ出したアリのような人間たちを見下ろしている。
翰文は身を縮め、乾いたバックパックを胸に抱えて暖をとった。
足のブーツこそ絶対的な安全感を与えてくれるが、薄い衣類では荒野の夜を包む化学的な冷気を防ぐことはできない。
無小姐はさらに深刻だった。彼女には厚い脂肪も、まともな服もない。全身を丸め、カタカタと震えている。
翰文は躊躇したが、身体を寄せていった。
「……こっちへ来い」
彼は不器用に、掌を避けて腕だけで彼女を抱き寄せた。
「互いに……暖め合うんだ。変な下心は……ないからな」
無小姐は拒まなかった。寒すぎたのか、あるいは共に死線を潜り抜け、薬を塗るという行為を経て、種族間の垣根が少しずつ溶けていったのか。
彼女は本能的に熱源を求め、凍えた小動物のように翰文の胸へと潜り込んできた。彼女の身体は、冷やされた玉のように冷たかった。
「……翰文」
「ん?」
「……私たちは……死ぬの?」
「ああ」
翰文はぶっきらぼうに答えた。
「人間は誰だって死ぬ。あの街のクズどもも死ぬし、俺たちも死ぬ」
彼は燃える都市を見上げ、疲弊した笑みを口元に浮かべた。
「だが……今日じゃない」
「今日じゃないなら、負けじゃねぇんだよ」
二人は口を閉ざした。
放射能と怪獣、そして強酸に満ちた死の夜。世界に見捨てられた二人の異類は、互いの僅かな体温を頼りに、浅い眠りへと落ちていった。
……
彼らから五百メートル離れた高台の上。
闇の中で、真鍮の外装を纏った単眼鏡がゆっくりと収められた。
「……見つけた」
夜風の中に、嘲笑と倦怠の混じった女の声が響いた。
その声は酷く嗄れていた。強い酒と煙草に焼かれたような、それでいて危険な磁気を帯びた声だ。
暗闇に小さな火花が散った。続いて、劣悪な巻き煙草に火が灯る。
火光は、半面式の防毒マスクに覆われた顔と、闇の中で捕食者のように輝く緑の瞳を照らし出した。
彼女の背には、異様な造形の「重型ツギハギ長銃」が背負われていた。
あまりに長すぎる銃身は、異なる口径の金属管を溶接して繋ぎ合わせたもので、銃身にはギアやバルブが剥き出しになっている。銃床には色とりどりの布が巻かれているだけでなく、風乾された小さな頭蓋骨――類人生物の幼体か、あるいは変異した猿か――が数珠繋ぎにされており、荒野の風に吹かれてカチャカチャと、歯が打ち鳴らされるような音を立てていた。それは彼女専用の狩猟の鈴音だった。
薇は、風に流れてきた灰白色の乱れ髪を苛立たしげに払いのけた。強烈な放射能で漂白されたその髪は、稲藁のようにパサついており、防毒マスクの吸収缶と擦れてカサカサと微かな音を立てる。彼女は巻き煙草を深く吸い込んだ。劣悪な葉の辛味と、身体から決して消えることのない銃油の臭いが肺の中で混ざり合い、鉄錆の気配を纏った白煙となって吐き出された。
「ふぅ……男一人に、女一人か。男の方はただのクズに見えるが……あるいは、自分が何者なのかまだ分かっていない手合いか。女の方は……お目にかかれない逸品だね」
彼女は紫色の夜に煙を吐き出し、それが霧散するのを見つめた。
「鐵頭の言ってた凄腕の『技師』が、あんなザマかい? 銃の一丁もまともに持てそうにないじゃないか」
彼女は傍らにうずくまる一頭の機械猟犬を軽く叩いた。それは廃棄されたエンジンと野獣の骨を繋ぎ合わせた怪物で、グルグルと低周波の駆動音を漏らしている。
「ふふ……焦るなよ、ベイビー。もう少し遠くまで行かせてやりな」
女猟人は軽やかに笑い、銃身を指でリズミカルに叩いた。
「希望が最高潮に達したところで、足を撃ち抜いてやるのさ。その方が……肉が締まって旨くなるからね」
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読者の皆様、こんにちは。
いつも……ありがとうございます。
いよいよ2025年も最後の日ですね。皆さま、大晦日をいかがお過ごしでしょうか? 私は今日も変わらず、『灰燼の書』の世界に没頭し、執筆を続けています。
本日公開の最新話を読んでくださった勘の鋭い読者様なら、もうお気づきかもしれません。 新年明け早々、**とある「新キャラクター」**が本格的に登場します。 この新キャラ、間違いなく皆さまの目を釘付けにするはずです(かなり強烈です)。
彼の登場とともに、物語は第二章のクライマックスへと一気に加速していきます。 ちなみに、執筆ストックは1月中旬分までガッツリ溜めてありますので、更新は止まりません! 1月中旬からは、いよいよ怒涛の「第三章」へ突入する予定です。
最後になりますが、今年出会ってくれた読者の皆様、本当にありがとうございました。 もし「続きが楽しみ!」と思っていただけたら、お年玉代わりに「★」評価やフォローをいただけると、作者にとって最高的新年祝いになります!
それでは、良いお年を。 また来年(明日ですが!)お会いしましょう。




