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第3話 : 死神と競争する、役立たずの考古学者



『直線を走るな。律造守衛(オートマトン)の照準ロジックはベクトル予測に基づいている。泥酔した狂人のように、未来のないギャンブラーのように走れ――あるいは、風のように』



  ——無名の風界流亡者(ウィンド・エグザイル)荒原生存筆記ウェイストランド・サバイバル・ノート沾血版(ブラッド・ステイン)



「走れ!!!」



 その言葉が喉を突き破るより早く、李翰文(リー・ハンウェン)の肉体は脳の指令を追い越していた。



 地面の女をひったくり、アドレナリンが筋繊維を爆発させる。彼は荷物を引きずるようにして、巨岩の影へと転がり込んだ。



 直後、空気が爆ぜる音と共に、まばゆい青い閃光が頭皮を焼き焦がして通過した。



 髪の毛が炭化し、焼け焦げたタンパク質の悪臭が鼻腔を犯す。



 青い光束は、彼らの背後にあった大人が抱えるほどの太さの怪樹を、音もなく貫通していた。



 爆発もなければ、木屑が舞うこともない。



 光に触れた物質は、その刹那に原子レベルまで分解されたのだ。



 現実に巨大な消しゴムをかけられたかのように、樹木は一瞬で消滅し、鏡のように滑らかで青い煙を上げる半円形の断面だけが残された。



 その視覚的暴力は、翰文(ハンウェン)の世界観に再び亀裂を入れた。



 あれは魔法の火球などではない。SF映画に登場する高出力レーザー(ハイパワー・レーザー)、あるいは物質対消滅兵器だ。



「科学的じゃねえ……こんなの絶対におかしいだろ……ッ!」



 翰文(ハンウェン)は錯乱寸前で咆哮し、女を背負い直すと、歪んだ植生が広がる密林を狂奔した。



 これはルール違反だ。冷兵器時代の戦場でレーザーライフルを乱射するなど、どこのクソゲーだ。



 背後で、あの重苦しい金属の足音が変調した。



 緩慢な処刑のリズムは消え、鋼鉄が全力疾走する轟音へと変わる。



 それは歩行の範疇を超えていた。数トンの鉄塊が高速移動し、一歩踏み込むたびに地面が揺れ、その振動がハンマーとなって翰文(ハンウェン)の踵を打ち据える。肺に残った最後の一ミリの酸素まで搾り取られるようだ。



「……左……へ……」



 背中の女が虚弱に指差す。その指先は恐怖で痙攣していた。



「……あそこに……旧き律(オールド・ロウ)が……奴ら……入れない……」



「その言葉、信じるからな!」



 翰文(ハンウェン)は奥歯が砕けるほど噛み締め、人生最速のペースで左手の密林へ飛び込んだ。そこはより深く、より歪んだ闇が広がっている。



 もし神様が人生をやり直させてくれるなら、論文を書く時間をすべてジムのスクワットに費やすと誓う。



 喉の奥が鉄錆の味で満たされた。高血圧に耐えきれず、毛細血管が破裂したシグナルだ。



 肺胞は焼き焦げたビニール袋のように硬化し、呼吸をするたびに胸郭の中で骨を削るような摩擦音を立てる。



 空気を切り裂く鋭い音が響き、隣の地面に着弾した。



 泥土が一瞬で気化し、焦げ臭い煙を上げる溝が穿たれる。その縁は鏡面のように溶解していた。



「……木の根……跳べ……ッ」



 女が耳元で短い音節を絞り出す。



 大脳の処理を待たず、身体が反射的に跳躍した。



 尾を踏まれた未成年の蛙のように無様なフォームだったが、地面から突き出した黒い気根を間一髪で回避する。



 気根には逆棘さかっとげが密生し、月光を浴びて金属的な寒光を放っていた。あそこで転んでいれば、このそこそこ整った顔面はミンチになっていただろう。



「どこへ行くんだよ!? 行き止まりじゃねえか!」



 翰文(ハンウェン)は絶望の悲鳴を上げた。



 前方に、絶対的な境界線が横たわっていた。



 それは自然の霧ではない。流動する闇が積み上げられた「壁」だ。光さえも貪り食うほどの濃密さ。



 境界の向こう側からは異常な冷気が漏れ出し、足元の草葉は瞬時に白霜に覆われている。



「……入って……」



 女の手が肩に食い込む。



「……霧……奴らは……見えない……」



 霧に入れだと?



 外よりも中の方がよっぽど地獄に見えるが?



 だが、選択肢は焼却された。



 背後には、ロードローラーが全速力で迫ってくるような金属の圧迫感がある。



 翰文(ハンウェン)は覚悟を決め、目を閉じ、背中の荷物を抱きしめると、人間砲弾となってその冷たい黒霧の中へと突っ込んだ。



 霧に侵入した瞬間、世界が変質した。



 耳元で荒れ狂っていた風音、爆発音、足音が、見えないナイフで断ち切られたかのように消失する。



 代わりに訪れたのは、鼓膜を圧迫するような死の静寂だった。



 空気は糊のように粘つき、図書館の地下室でカビた古書を嗅いだ時のような、陳腐で埃っぽい臭いが充満している。



 気温が急落した。



 全身の汗が一瞬で氷の粒となり、裸で冷凍庫に放り込まれたような錯覚に陥る。



「……止まって……」



 女の囁きに従い、急ブレーキをかける。湿った苔に足を取られ、無様に滑走して止まる。



「どうした? 追いつかれたか?」



 恐る恐る振り返る。



 いない。あの三体の死神(デス)は、霧の中に踏み込んでこない。



 奴らは霧の境界線で停止していた。



 幾重にも重なる濃霧の向こうに、巨大な黒いシルエットが三つ、揺らめいて見える。



 頭部の白光が霧の外側で焦燥したように左右へ振られている。標的を見失った探照灯(サーチライト)のように。



 奴らは躊躇している。いや、畏怖しているのだ。



 翰文(ハンウェン)は白霜に覆われた枯れ木に背中を預け、破裂しそうな肺で酸素を貪った。



「ハァ……ハァ……どうやら……奴らは寒がりらしいな」



 恐怖を紛らわせるために軽口を叩くが、誰も笑わない。



 崩れ落ちそうな体を支えようと、右手で無造作に横の木を掴んだ。



 指先が霜の降りた樹皮に触れた瞬間。



 木の粗雑な感触はない。代わりに、ヌルリとした、冷たく微かに脈動する吐き気を催す感触(テクスチャ)が伝わってきた――



 頭蓋が割れるような激痛と、耳鳴りが襲来する。



 今回は過去のフラッシュバックとは比較にならない。電動ドリルをこめかみに直接ねじ込まれたような暴力的な痛みだ。



 脳裏に浮かぶ映像は断片ではない。決壊したダムの水のように、強制的に意識へ奔流する。



 ――これは木ではない。



 ――無数の白いローブを纏った人間が跪いている。皮膚は干からび、眼窩は落ち窪んでいる。



 ――彼らは祈っている。



『視るな……聴くな……呼吸するな……』



 黒い巨塔(ブラック・スパイア)が、天罰のごとく蒼穹から墜落し、大地を貫き、世界に風穴を開けた。



 すべての音が吸い込まれていく。



 最後に残ったのは、この霧だけ。



 霧に踏み込んだ瞬間、翰文(ハンウェン)は鼓膜を焼けた針で刺されたような鋭痛を感じた。



 耳鳴りがする。だがそれは音波ではない。周波数だ。嘔吐中枢を刺激するほど古臭い周波数。



 口の中の血の味が変質した。乾燥した古い埃の味――数千年間封印されていた墓室を、鼻先で開封されたような味だ。



 脳内の「寄生虫(パラサイト)」が絶叫している。警告というよりは、精神的な凌遅刑(りょうちけい)に近い。



 そいつは強引に、ノイズ混じりの混乱した思考を翰文(ハンウェン)にねじ込んだ。



『ここの規則ルールは「死んで」いる』



『現代の律法は、この霧を照らせない』



『見える……無数の手が空へ伸びている……彼らは神を引きずり下ろそうとして、自らこの霧の灰になったのだ』



「ぐぅッ! 痛ってぇ……」



 頭を抱え、苦悶の声を漏らす。



 鼻血が滴り落ち、霜の降りた地面に毒々しい紅い花を咲かせた。



 情報量が多すぎる。脳漿が沸騰しそうだ。



 ここは廃棄された場所なのか? あの殺人機械どもでさえ侵入を躊躇う場所に、俺たちは飛び込んだのか?



「……降ろして……」



 女の声が現実へ引き戻す。



 慌てて彼女を降ろす。



 樹幹に寄りかかる彼女の顔色は、先ほどにも増して蒼白だった。ひび割れる寸前の石膏像のようだ。



 だが、その琥珀色の瞳だけは、霧の深淵を死に物狂いで凝視している。



 そこには、巨大な影が霞んで見えた。



 塔のようでもあり、大地に突き刺さった黒い長槍のようでもある。



「あれは……何だ?」



 鼻血を拭いながら、震える声で問う。



 女は喘ぎながら、恐怖と巡礼者のような狂熱が入り混じった眼差しを向ける。



「……黒い塔(ザ・ダーク・スパイア)……」



「……旧き神(オールド・ワン)の……墓標……」



 翰文(ハンウェン)は膝が笑うのを感じた。



「墓標? 虎の口から逃げて、今度は墓穴に入ったって言うのか?」



「……違う……」



 女は辛そうに首を振る。初めて、彼を値踏みするような視線を向けた。



 解けない謎を見るような目で。



「……あそこにしか……道はない……」



「……(かい)の底へ続く……道が……」



 翰文(ハンウェン)は絶句した。界の底?



 さっき脳内で感じた、生き埋めにされるような窒息感を思い出す。



 あの寄生虫(パラサイト)が見せたのは文字ではない。絶望的な残像だ。神を引きずり下ろそうとして、灰になった無数の手。



 その時。霧の奥に佇む巨大な影が、前触れもなく収縮したように見えた。 それは光の加減ではない。空間そのものが痙攣し、周囲の濃霧を強引に引き千切ったのだ。



鼓膜の濾過を無視するほどの鈍重な巨音が、何の前触れもなく胸腔の内部で直接炸裂した。



 肋骨が共振し、軋むような痛みを訴える。



 地底深くに埋葬された太古の心臓が、分厚い地殻越しに怒りの鼓動を放ったかのようだ。



 振動は聴覚をスキップし、魂を揺さぶる。



 体内に巣食う見えない「ナニカ」――焼け焦げた記憶の集合体――が、磁石に出会った砂鉄のように狂ったように震え始めた。



 共鳴している。この塔が、脳内の忌々しい寄生虫(パラサイト)を呼んでいるのだ。



「……どうやら、本当に選択肢はないみたいだな」



 翰文(ハンウェン)は自嘲気味に笑い、女を抱え上げた。



「行こうぜ、鳥人(とりびと)の嬢ちゃん。その……神様の墓標とやらを観光しにな」



 彼が一歩踏み出した、その瞬間だった。



 霧の境界線で、執拗に追跡を続けていた三体の黒い死神(デス)が、不自然な動作ラグを起こして停止した。



 まるでその霧が鋼鉄を腐食する強酸であるかのように、整然と後退を始める。



 スリットの奥で冷徹に輝いていた白光が、心停止を誘発するような禍々しい真紅へと「充血」した。



 ジジジという電流音と不協和音が交錯する。



 規則正しかった金属の駆動音は変調し、拒絶を示す神経質な蜂の羽音のような高周波へと変わった。



 翰文(ハンウェン)の脳内の痛みも質を変えた。燃焼感ではない。門前払いを食らったような冷たい感覚だ。



 寄生虫(パラサイト)は機械たちが発する論理信号を傍受し、翰文(ハンウェン)が理解できるノイズ混じりの恐怖へと翻訳した。



『停止』



『前方は断崖』



『前方は律法の死角』



『追跡するな』



『奴らを閉じ込めろ』



『奴らを……中で腐らせろ』








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