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第27話 : ネオン下の汚泥と、値札の付いた呼吸




『ここでは、「生きる」とは日割りのサブスクリプション・サービスだ。今日の「空気濾過費」が払えなければ、明日はお前の肺がフィルター代わりになる。文句を言うな。外の荒野でタダの放射性塵(フォールアウト)を吸うよりは、幾分マシな取引だ』



  ——『下城區(ダウンタウン)闇市・入口の落書き』



 その穴に潜り込んだ瞬間、李翰文(リー・ハンウェン)は自分が巨大な獣の、生暖かく騒々しい胃袋に飲み込まれたように感じた。



 一秒前までは死寂に満ちた荒野の風音だけだった世界が、次の瞬間、津波のような喧騒によって聴覚神経ごと粉砕された。



 それは単一の騒音ではない。高密度空間に無理やり圧縮された、無数の「音」による聴覚への暴力だ。



 錆びついた歯車が噛み合う鋭い摩擦音、高圧蒸気が漏れ出す悲鳴、無数の人間が異なる訛りで怒鳴り合う売り声と罵声。そして、心拍に酷似(こくじ)した低周波のヘヴィメタルなリズムが、床板を微かに震わせている。



「……ゴホッ……」



 隣の黒髪の女が口を覆った。ここの空気は外よりも劣悪だ。外が「発癌性物質」なら、ここは「致死量のガス室」だ。



 熱波は、死臭をごまかすための強烈な安物の香料、劣悪なアルコールの酸味、そして機械油が不完全燃焼した焦げ臭さを伴って、強引に鼻腔へ侵入し、肺胞にねっとりと張り付く。呼吸のたびに、煮えたぎった油煙を吸い込んでいるかのようだ。



「地獄の……VIPルームへようこそ」



 翰文(ハンウェン)は目を細め、眼前に広がる光怪陸離こうかいりくりな光景に適応しようとした。



 そこは巨大な、地下へと伸びる逆円錐形の空間だった。



 廃金属、ビニールシート、正体不明の生物の骨で組み上げられた違法建築の群れが、(あたか)も腫れ物に生じた瘡蓋かさぶたのように、巨大な円形の坑壁にびっしりと寄生している。それらの建築物は、腸の結び目のような危うい吊り橋とケーブルで無数に繋がれていた。



 そして何より、翰文(ハンウェン)に目眩と不快感をもたらしたのは、光だった。



 陽光は届かない。だがここは、目が痛くなるほど明るかった。



 その光は単に眩しいだけでなく、放射熱を帯びている。光線に晒された皮膚がチリチリと痛む。まるでその紫や緑の光が実体を持つ触手となり、通りすがりの人間の生気を舐め取っているようだ。



 空間全体が毒々しい紫紅、惨緑、蛍光青の光に満たされ、この薄汚い地下世界を、安っぽいサイバーパンクの売春宿のように照らし出している。



「……遅れるなよ、新入り」



 先を行く老いた拾荒者(スカベンジャー)は、振り返りもせずに言った。彼はこの混雑した人波の中をドジョウのように滑り抜け、背中の機械腕を第三の手として使い、邪魔な酔っ払いや物乞いを乱暴に押しのけていく。



「……他人の義肢をジロジロ見るな。買いたいか、あるいは殴られたいのでなければな」



翰文(ハンウェン)は慌ててうつむいた。背中の軍用バックパックの重みを肩で確かめながら、無小姐(ミス・ヌル)の手をきつく握りしめた。



 ここの人間たちは……造形が「適当」だった。あるいは「継ぎ接ぎ(パッチワーク)」という表現がより正確かもしれない。



 串焼きを売る露天商の左手は錆びついた鉄のフックであり、路地裏で煙草をふかす女の顔半分は灰色の角質層に覆われている。賭博に興じる大男たちの筋肉には黒い液体が流れるチューブが直接挿し込まれ、それは力を増幅するための「違法なリベット打ち」に見えた。



 脳内の「残り火(エンバー)」が微かに熱を帯び、嫌悪と興奮が入り混じった複雑な情動を伝えてくる。



 不純。瑕疵かしと雑物に満ちた、誤った進化。だが同時に……強烈な生命力に満ちている。



「おい、爺さん、どこへ行くんだ?」翰文(ハンウェン)は、近くの鍛冶屋から響く金属音に負けじと大声で尋ねた。



「……お前の脳みその中にある無価値なゴミを……食えるパンに変えに行くのさ」



 老人は声もなく口を歪めて笑うと、さらに陰気な、水滴の垂れる帆布が幾重にも掛かった路地へと曲がった。



 路地の突き当たりに、「修理/回収」という看板を掲げた店があった。看板は壊れたネオン管で、「修理」の二文字だけが今にも切れそうに明滅し、耳障りな電流音を発している。



「……入れ」



 老人は、古代車両の中空装甲を継ぎ合わせたドアを力任せに押し開けた。



 店内は薄暗く、古い機械油と金属粉末の臭いが充満している。



 カウンターの奥の暗がりに、巨大な肉の山が蟄伏ちっぷくしていた。



 それは単に「人」とは呼べない代物だった。重工業用の台座に、生きた臓器の塊を無理やり溶接したかのようだ。



 下半身は消失しており、代わりに轟音を立てて稼働する油圧サスペンションが鎮座している。肉体と機械の境界線は曖昧に癒着し、増殖した紫紅色の瘢痕はんこん組織が貪欲に金属の縁を飲み込んでいる。錆びた溶接箇所からは黄濁した組織液が滲み出し、床に滴り落ちて粘着質な音を立てていた。



 数本の太い黒い蛇腹管ベローズが脊椎に無遠慮に挿入され、呼吸に合わせて何らかの濁った生命維持液を送り込み、重苦しいポンプ音を響かせている。



 皮膚は長期間日光を浴びていない病的な灰白色で、ホルマリンに漬けすぎた標本のように弛んで骨格に張り付いている。



 両目は抉り取られ、眼窩の奥は分厚い多レンズ式ゴーグルで埋め尽くされていた。レンズが回転するたび、微かなギアの噛み合う音がする。



「……老いぼれか」



 その『肉塊』が口を開いた。



 声帯は発声ユニットに置換されているらしく、油汚れのついたスピーカーを通して増幅された声は、電流の底雑音ノイズと痰が絡んだような破裂音を伴い、明らかな金属的エコーを帯びていた。



「一生直せねぇガラクタを売りに来たんなら、失せな」



「ヒヒッ、今回は違うぞ、鐵頭(アイアン・ヘッド)



 老人はあの黒い石――小麦の栽培技術を記録した無価の宝――を、無造作にカウンターへ放り投げた。石は二回転し、『肉塊』の油ぎった手のそばで止まった。



「……そいつはただの前菜だ」



 老人は親指で背後の翰文(ハンウェン)を指し示した。背中の機械腕のセンサーが、興奮したように伸縮を繰り返す。



「……メインディッシュはこっちだ。出土したての、脳みそに『旧律』をたっぷり詰め込んだ……無律者(ロウレス)だ」



 『肉塊』の多レンズ義眼が、ギョロリと音を立てて翰文(ハンウェン)に向いた。



 一連の油圧サーボモーターの唸りと共に、巨大な上半身がカウンターから乗り出し、翰文(ハンウェン)を見下ろす。



 その視線は、人間を見るものではない。カット前の原石、あるいは解剖学的価値の高い死体を検分する目だ。



「……無律者だと?」



 『肉塊』の声に、貪欲な震えが混じった。



「……つまり……『万能プラグ』として使える……人体導体ヒューマン・コンダクターか?」



 翰文(ハンウェン)は反射的に一歩下がった。背筋の毛が逆立つ。



 彼は突然理解した。この老人が言った「いい値で売れる」というのは、彼の脳内の知識のことではないかもしれない。



 彼という「人間そのもの」を売るつもりなのか。



「カカカッ……緊張するなよ、小僧」



 老人は彼の恐怖を見透かしたように背中を叩き、鍋を叩くような笑い声を上げた。



「……俺たちは文明人だ。人は食わん。取引をするだけさ」



「……さあ、鐵頭に教えてやれ。畑仕事以外に、お前の脳みその中の残り火は……『修理』について何を教えた?」



 翰文(ハンウェン)は背中に冷や汗をかきながら、唾を飲み込んだ。



 隣で衰弱している無小姐(ミス・ヌル)を見やり、いつでも自分をパーツ単位で解体できそうな半機械の巨人を見上げる。



 これは新たな賭けだ。チップは自分の頭と、その中にある素性不明の残り火。



「……たくさん、ある」



 翰文(ハンウェン)は自分を無理やり落ち着かせた。掌は汗で濡れている。



「例えば……これらをどうやって……」



 彼は周囲にある、古代遺跡から発掘され、間違った方法で継ぎ接ぎされた機械部品を指差した。



「……これらのゴミをどうやって再び動かすかについての知識なら。山ほど知ってる」



 『肉塊』は数秒沈黙し、やがて鳥肌が立つような機械的な笑い声を上げた。



「ハハハ……いいだろう。証明してみせろ」



 彼は机の上にあった、何かのコアモジュールらしき屑鉄を掴み、翰文(ハンウェン)に放り投げた。



「……直してみろ。できなけりゃ……借金の代わりにその両腕を置いていけ」



 翰文(ハンウェン)は投げられた冷たい金属塊を慎重に受け止めた。



 頭蓋の奥で鋭いノイズが走り、脳内の「残り火(エンバー)」が即座に反応した。



 これは……古代の空気清浄機のコアバルブだ。



 そしてその『病巣』は、すでに強引に翰文(ハンウェン)の意識に焼き付けられていた。



 彼は青写真ブループリントを見たのではない。「窒息」を感じたのだ。気管が異物で塞がれた生理的な恐怖――彼はこの金属塊の内部にあるバルブの一つが、壊死した扁桃腺のように腫れ上がり、固着しているのを鮮明に『触知』した。無数の歯車が脳内で互いをすり潰すような幻聴が響く。



 脳内の「窒息感」が、彼に本能的な反応をさせた。



 道具は使わなかった。彼は二本の指を伸ばし、バルブの側面にある目立たない錆びた小孔――この「心臓」の気門――を正確に押さえた。



 脳内の焦燥に駆られるまま、彼は一気に力を込め、手首を不気味な角度で半回転させた。



 カチリ。



 乾いた、何かが定位置に戻る音がした。



 死んでいた金属塊の内部から、シューッという微かだが明瞭な気流の解放音が漏れ出した。溺れた人間が、ようやく肺の水を吐き出した時のような音だ。



 完全に直ったわけではない。だが、先ほどの「閉塞による窒息感」は消滅した。



 鐵頭(アイアン・ヘッド)の多レンズ義眼が激しくズームし、驚きの駆動音を立てた。彼は専門家プロだ。今の「盲目的な操作ブラインド・タッチ」が何を意味するか理解している――それは機械構造に対する絶対的な、本能に近い洞察だ。



 翰文(ハンウェン)は息を吐き、顔を上げた。顔色は悪いが、そこには自信に満ちた笑みがあった。



「ふぅ……こんなのは小児科だ。だが、条件がある」



 彼は無小姐(ミス・ヌル)の首のあざを指差し、次に自分の見るも無残な足元――ゴムと袖を巻いた左足と、炭化したブーツの右足――を指差した。



「そうだな……薬と、清潔な水」



「……それから最高にいい靴を一足。あのクソ忌々しい灰律獵者グレイ・ロウ・ハンターよりも速く走れるやつをな」



 老人と鐵頭(アイアン・ヘッド)は、無言で視線を交わした。



 やがて、鐵頭(アイアン・ヘッド)の無表情な顔の下で、金属の顎が僅かに開き、轟音のような声を発した。



成立ディールだ」



「……だがヘマをしてみろ。俺の次のフィルターは、お前の肺だぞ」



 翰文(ハンウェン)は周囲を見渡し、一本のスパナを拾い上げた。その冷たい重量感。



 この腐りきった世界で、彼はついにアルバイトを見つけたのだ。



 雇用主は身体を椅子に溶接した狂人で、職場は崖っぷちのゴミ捨て場だが、少なくとも……



 この仕事は、賄い付きで、屋根もあるはずだ。







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