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第25話:燃える緑の腫瘍と、塵を拾う哲学者




『遠くから見て美しいものを信じるな。あの緑の炎は希望の灯台のように見えるが、近づけば分かる。それは死人のあぶらと産業廃棄物で燃え盛っているのだ。温もりなどない。ただ、すべてを焼き尽くせるという傲慢を誇示しているに過ぎない』



  ——『北陸流亡者日記ノース・ランド・エグザイル・ダイアリー・第一頁:幻滅について』



 いわゆる「生者の街(リヴィング・シティ)」の実態は、大地に根を張り、炎症を起こしてうみを垂れ流す巨大な腫瘍に過ぎなかった。



 目的地に近づけば近づくほど、李翰文(リー・ハンウェン)はあの死に絶えた黒き塔へと逃げ帰りたくなった。



 あちらは少なくとも冷たく、清潔だったからだ。だがここは……ここは、(あたか)も巨大な蒸しかごの中に閉じ込められたように熱く、空気は硫黄、機械油、排泄物、そして甘ったるく反吐へどの出るような焼けた肉の臭いに満ちている。



「ゴホッ……ゴホッ……肺の中で砂紙サンドペーパーをかけられている気分だ」



 翰文(ハンウェン)はボロボロの襟元で口鼻を死守するように覆った。呼吸するたび、喉の奥をスチールウールでこすり落とされるような粗い刺痛が走る。



 だが、無小姐(ミス・ヌル)の状況はさらに深刻だった。



 大気の流動に極めて敏感な風界(ウィンド・レルム)の住人である彼女は、今にも気絶しそうだった。顔色は青ざめ、翰文(ハンウェン)の腕を掴む指先は肉に食い込むほどに強張っている。



「……風が……汚れている……」彼女はこらえきれず、激しくえずいた。「……ここの(ロウ)は……吐き気がするほど歪んでいるわ……」



 二人は今、巨大なゴミの山のふもとに立っていた。



 眼前に積まれた膨大な廃棄物こそが、この街の「城壁」だった。



 押し潰された旧時代の鉄製車両の残骸が幾重にも重なり、捻じ曲がった金属の肋骨が灰白色の巨石を突き破り、高さ五十メートルに及ぶ黒き障壁を築き上げている。この工業製品の死体で組み上げられた墓標は、かつて猛烈な高熱によって強引に溶接されたらしく、黒い焦げ跡が傷跡のように壁面を這い回っていた。



 その障壁の頂上で、巨大な緑色の炎が猛り狂い、周囲の空を病的な惨緑色に染め上げている。



 翰文(ハンウェン)は炎を見上げた。まきで燃える火の類ではない。



 その緑の光は、不気味な放射線を振りまいているかのようだった。脳内で耳鳴りのような電流音が走り、「残り火(エンバー)」が覚醒した。



 鉄錆と炭酸が混ざり合ったような刺激が舌先に広がり――(なお)、期限切れの熱いソーダを無理やり飲まされたような不快感がこみ上げる。



 情報は、熱を帯びた「認知」として彼の意識に直接烙印らくいんを押した。



 あの緑の炎は「炉心」だ。



 これは巨大な焼却炉であり、貪欲に「律法(ロウ)」を咀嚼そしゃくしている。



 吠え猛る怪物、眠れる古物、そして……名前を奪われた異議申し立て者。すべてが燃料。



 この街は破滅と引き換えに熱量を得て、灰によって永らえているのだ。



「……実にエコな暖房システムだな」



 翰文(ハンウェン)は胃の腑が裏返るような感覚を覚えた。この街は世界を「呑み込み」「消化」することで、かろうじて心臓を動かしている。



 彼らはゴミの壁に沿って入り口を探した。



 足元の道は依然として鋭利な黒い結晶粉末だが、ここには生活ゴミが混じっていた。錆びついた缶詰、折れた歯車、そして正体不明の生物の白骨。



 ゴムパットを括り付けた翰文(ハンウェン)の左足はすでに完全に麻痺しており、一歩一歩が機械的な移動と化し、着地のたびに刃の山を踏みしめるような痛みが走った。



 突如、前から奇妙な動静が響いてきた。



 規則的な、しかし不快な金属音と砂礫が混じる音。



 それは酷似(こくじ)して、鉄槌で錆びた骨を叩き、砕けたガラスをふるいにかけるような乾いた音だった。



 翰文(ハンウェン)の敏感な神経が跳ねた。



 彼は無小姐(ミス・ヌル)を巨大なタイヤの残骸の影へと引き込み、ゴムが焦げた悪臭で二人の気配を隠した。



 慎重に視線を向ける。



 放射性塵の舞うピットの中で、一人の屈んだ影がうごめいていた。



 普通の老人ではない。歳月と放射線に漬け込まれた、奇妙な生物だ。



 無数の汚れた布を縫い合わせた百衲衣つぎはぎを纏い、背中には巨大な金属の籠を背負っている。その姿は活脱(かつだつ)として、殻を背負った人型の寄生蟹ヤドカリのようだ。



 露出した皮膚は病的な紫紅色を呈し、彷彿(ほうふつ)させて、風に晒され続けた十年物の干し肉のように乾ききっている。



 彼の左の眼窩は漆黒の空洞となり、右目には巨大な真鍮製の目鏡ゴーグルが嵌め込まれていた。そのレンズは絶えずズズッ、ズズッと音を立てて伸縮し、儼然(げんぜん)として昆虫の複眼のようにゴミの山をスキャンしている。



 手にした磁石付きの長い金属棒で、廃材の山から何かを吸い付けては拾い上げていた。



「……これではない……」



 老人は独り言を呟きながらゴミを漁る。その声は、二枚の砂紙サンドペーパーをこすり合わせたように枯れていた。



「……この律は……死んでいる……もろすぎる……」



 錆びたパーツを鼻先で嗅ぎ、忌々しげに放り投げる。



「……あれも駄目だ……ノイズが重すぎる……炉がぜるわ……」



 翰文(ハンウェン)は目を細めた。



 地上で出会った、敵意を持たない最初の「生きた人間」だ。



 老人に武装は見えないが、こんな不浄の地を悠然と歩いている時点で、ただ者ではない。



「……行くの?」無小姐(ミス・ヌル)が声を潜めて問う。



「水と薬、それにこの場所に精通した情報源が必要だ」



 翰文(ハンウェン)は、彼女の首筋にある紫黒色の痣を見た。名前を口にした代償。放置すれば悪化するだろう。



「賭けるしかない。現代社会学の第一講義だ――浮浪者は大抵、その街の最も深い秘密を握っている」



 翰文(ハンウェン)は意を決し、隠れ場所から姿を現した。



 空の手を上げ、敵意がないことを示す。



「ヘイ! そこの……拾い人の旦那?」



 老人の動きが止まった。



 振り返りはしない。だが、背中の金属籠からガチガチと駆動音が響き、サソリの尾を彷彿(ほうふつ)させる機械腕が突き出された。先端の紅いセンサーが、李翰文(リー・ハンウェン)を凝視する。



「……おや、生者か?」



 老人はゆっくりと振り返った。真鍮のゴーグルがズズッという音を立てて焦点を合わせる。



 彼は翰文(ハンウェン)を値踏みするように眺め、その赤裸で惨めな足元に視線を止めると、鼻で笑った。



「ふむ……靴も履けぬ足か……」老人は首を振り、侮蔑を込めて吐き捨てた。「……貧乏人め。それも、死人の山から這い出したばかりのな」



 翰文(ハンウェン)は苦い笑いを浮かべた。



「お見通しですね。確かに這い出してきたばかりで、文字通り一文無しです」



 彼は言葉を切り、不必要に威圧感を与えないよう、礼儀正しく尋ねた。



「伺いたいのですが……この街への入り口はどこに?」



「入り口だと?」老人はとんでもない冗談を聞いたかのように、まばらな黒い歯を剥き出しにして笑った。「この街に入り口などない。あるのは『喉』だけだ」



 彼は頭上の緑色の炎を指差した。



「あの中に入りたければ、燃料として飲み込まれるか。あるいは……」



 彼は鶏の爪のようなカサカサの手を差し出し、指をこすり合わせた。



「……門番どもが興味を持つような『骨』を持っているかだ」



「骨?」翰文(ハンウェン)が眉をひそめる。



「……とぼけるなよ、異邦人」



 老人の機械腕が突如として伸び、翰文(ハンウェン)の鼻先に迫った。紅いセンサーが熱を帯び、至近距離で彼をスキャンする。



「お前から……臭うぞ……」



「……旧時代の……焦げた臭いがな……」



 翰文(ハンウェン)の脳内にある「残り火(エンバー)」が突如として激しく脈動した。それは境界を侵す「越境者」に対する、深淵のごとき蔑みと、烈火のごとき憤怒の咆哮だった 。



 硫黄の火を擦り付けたような刺激臭が翰文(ハンウェン)の鼻腔を突く。



 直感が警報を鳴らす――この老いぼれは俺を「嗅いで」いる。



 あの目は目ではない。粗悪だが強力な「律能鑑定器」だ。こいつは俺の脳内にあるものを視ている。



 翰文(ハンウェン)は息を呑み、咄嗟に一歩下がり、無小姐(ミス・ヌル)を背後に庇った。



 老人は翰文(ハンウェン)の反応に満足したようだった。機械腕を引き込み、ヒッヒッと喉を鳴らす。



「嗅ぎ間違いではなかったか。貧乏人だが……面白い『容器』だ」



 彼は廃材の山から、一見何の変哲もない、黒い石のようなものを拾い上げ、翰文(ハンウェン)に放り投げた。



「……持っていけ」



 翰文(ハンウェン)は反射的に受け止めた。



 掌に伝わるのは、ひんやりとした重み。



 脳内の「残り火」が瞬時に呼応し、よろこびに震えた。



 今度は清涼な薄荷ハッカの香りと共に、封印されていた鮮烈な「経験」が彼の大脳皮質に強引に挿入された。



 一瞬、翰文(ハンウェン)の眼前からゴミの山が消え、一面の黄金の麦波が現れた。



 湿った土の匂い、鎌を振る腕の心地よい重み、そして収穫の瞬間の、腹を満たせるというずっしりとした満足感。



 この黒石は、亂律(ケイオス・ロウ)に汚染されていない「純淨回響(ピュア・エコー)」だった。



 そこには「耕作」にまつわる古き律法が封じられていた。土さえも死に絶えたこの飢餓の時代、生命を育むための記憶は、いかなる黄金よりも重い。



 翰文(ハンウェン)は呆然とした。この老人が寄越したのは、価値の付けようもない古代の知識だった。



「これは……入場券ですか?」翰文(ハンウェン)が問う。



「ただのテストだ」



 老人は再びゴミ漁りに戻り、背を向けたまま言った。



「……それが何であるか理解できたのなら、日が暮れる前に、それを持って『鐵肺公爵アイアン・ラング・デューク』の排気管の下へ来い」



「理解できぬのなら……食うなり、胡桃くるみでも割るなり好きにしろ」



「……なぜ、俺を助ける?」



 翰文(ハンウェン)が問う。石を握る掌が熱を帯びていた。



 老人は手を止め、灰色の空を仰ぎ見た。



「この街には……狂人が多すぎ、馬鹿も多すぎるからな……」



「だが『旧律』の嘆きを聞き取れる奴は……もう死に絶えようとしている」



 そう言い残すと、彼は巨大な金属籠を背負い、駝背(猫背)の甲虫のように、足を引きずりながらゴミの山の影へと消えていった。



 風に乗って、最後の呟きが届く。「……あの緑の火で灰になりたくないのであれば……正門は通るなよ……」



 翰文(ハンウェン)は立ち尽くし、黒い石を握りしめた。



 無小姐(ミス・ヌル)が近寄り、石を不思議そうに眺める。



「……ただの……黒曜石にしか……見えないわ……」



 彼女の知覚において、それはただの石に過ぎない。



 だが翰文(ハンウェン)は笑った。苦渋と疲労、そして微かな狂気を孕んだ笑み。



「いいや。俺たちにとっては石だが、あの老いぼれや、俺の脳内にいる偏屈な『居候』にとっては……」



 翰文(ハンウェン)はバックパックのジッパーを開けた。その音は静かなゴミ捨て場で鋭く響き渡る。彼は石を最下層、地圖のノートの隣に押し込んだ。



「……これは金だ。とんでもない額の金だよ」



 彼は緑の炎が燃え盛る街を見据えた。



 「律法(ロウ)」を燃やして稼働する街にとって、古代の知識に満ちた自分という存在は、最高の富豪か、あるいは最高の燃料か。そのどちらかだ。



「行こう」翰文(ハンウェン)は彼女の手を引き、その眼差しに強い意志を宿した。



「あの排気管の下へ。あの老いぼれが何を買い取るつもりなのか、確かめに行こうじゃないか」






────────────






クリスマスをお祝いする読者の皆様、メリークリスマス! 今夜はクリスマスイブということで、私から皆様へ、非公式の特別編をお贈りします。



【クリスマス特別編:廃土に灯る光】



無小姐(ミス・ヌル) 「どうしてそんな歪んだ銅線やガラスの破片を、その枯れ木にぶら下げているの?」



翰文(ハンウェン) 「これはいにしえの戦術迷彩だ。俺の故郷の人間は信じていたんだ。光るゴミで瀕死の木を飾り付ければ、脳を欺き、『歓喜ヨロコビ』という名の霊体を召喚できるとな」



無小姐(ミス・ヌル) 「……効果はあるの?」



翰文(ハンウェン) 「全くない。だがその光を見れば、およそ5秒間だけ、俺の胃袋は空腹を忘れることができる」



無小姐(ミス・ヌル) 「……」



翰文(ハンウェン) 「それと、そんなにその木を睨むな。たった今、シロップが褐色に変色した桃の缶詰をこじ開けたところだ。今夜は高カロリー摂取といこう。メリークリスマス」



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皆さんには少し早い挨拶かもしれません。ですが、終末世界では時間の流れ方が違いますから。 あなたがどこにいようと、良いクリスマスを!

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