第24話 : 論理なき嵐と、咀嚼される理路
『律暴が来た時、目をつぶるな。耳を塞ぐな。お前には防げない。それはお前の歯の隙間から入り込み、歯神経を伝って脳へ這い上がり、七百年前の大火で焼かれた肉がどんな味がしたかを語りかけてくる』
——『拾荒者手記:発狂した友人たちについて』
あの「|鯨の骨組み《シロナガスクジラの骨格》」を離れて三十分もしないうちに、李翰文はあのノートの警告が、決して大袈裟な脅しなどではなかったと悟った。
始まりは、無小姐が風の音の変質に気づいたことだった。
直後、その音は数千台の旧式ラジオが同時にチューニングに失敗した時に発する雑音のごとき轟鳴へと変わった。空気中には鳥肌が立つような電流の嘶きと、宛も無数の乾いた指先が黒板を掻き毟るような不快な刮擦音が充満し始める。音は四方八方から物理的な圧力として押し寄せ、空気は急激に粘り気を帯び、吐き気を催すような鉄錆と、焦げた砂糖の臭いがこびりついた。
「……翰文……」
無小姐が足を止めた。彼女は胸を死ぬほど強く押さえ、顔色は紙のように蒼白だ。風律の血脈を持つ彼女にとって、気流の乱れは呪いにも等しい感度で神経を苛む。今の彼女は、高圧鍋に放り込まれた小鳥のように、全身の羽毛を戦慄させていた。
「……風が……狂った……」彼女の歯がガチガチと鳴る。「……ここにある律が……互いを喰らい合っている……」
翰文は強引に顔を上げ、狂乱する天幕を視界に捉えた。
灰色の空は、病的なまでの絢爛さに塗り替えられていた。天空を裂く巨大な極光。紫、緑、そして汚れた黄色。それらが雲の中で狂ったようにのたうち回り、まるでひっくり返された絵具箱だ。翰文には、それらが光を放っているのではなく、闇が赤黒い膿血を流しているように見えた。
頭蓋の深部で突如として高周波の耳鳴りが走る。
脳内の「残り火」が、凄まじい悲鳴を上げた。それは警告ではなく、純粹な恐怖。天敵、あるいは理解不能な巨大な「何か」に出会ってしまったかのような絶望。劇痛が錆びついたノコギリと化し、翰文の脳殻を狂ったように削り始めた。温熱な鼻血が瞬時に溢れ出し、ボロボロの皮衣を汚していく。
「くっ……伏せろ……!」
翰文は歯を食いしばり、狼狽する無小姐を弾痕の窪みへと押し込んだ。背負っていた軍用バックパックをひったくり、風上に置いて即席の土嚢にすると、二人はその小さな影に身を縮めた。
「……何を聞いても……無視するんだ……!」
直後、風暴が彼らを飲み込んだ。
それは単なる気流の咆哮ではない。この地に数千年にわたって蓄積された執念、絶叫、そして死――それらを攪拌して作られた混濁したスープを、生者の脳に強制的に流し込む精神の嵐だ。
翰文の視神経を、焼きごてが激しく掻き回す。現実の境界が瞬間的に溶け落ち、論理が乱暴に引き裂かれた。足元の黒い結晶粉末が唐突に炎を上げ、死の荒野と、崩壊しつつある燃える都市が残酷に重なり合う。皮膚が高温に焼かれる感覚がある一方で、肺には溺死するような氷の粒が流れ込む。彼は逆さまになった天の氷海で溺れていた。氷の下で烈火が咆哮し、深海魚が燃える雲の中を鳥のように舞う。狂笑と慟哭が編み上げられた実体のある音波が、鼓膜を震わせ、血を滲ませる。
『助けて……鍵が……開かない……』
『太陽を讃えよ! 新たな律を讃えよ!』
錯乱した知覚の中で、翰文は自分が人間であることを忘れかけた。指先からは粗末な樹皮が生え、骨は鋭い獣の爪へと異化していく。直後、固体の触感さえ消えた。自分という存在が、炉の中に放り込まれた蝋のように融解し、狂った記憶の中へと滴り落ちていく。
「がぁあああああ!」
彼は頭を抱えて泣き叫び、バックパックの帆布を爪が剥がれるほどに掴んだ。この精神的な凌遲は、肉体の苦痛よりも万倍恐ろしい。自分という意識が、他人の記憶の濁流に洗い流されていく。自分は李翰文か? それとも火の海で泣き叫ぶ名もなき死者か?
その時、氷のように冷たい手が、彼の腕を力強く掴んだ。爪が肉に食い込むほどの強さ。それは確かな「現実」の痛覚を連れてきた。
「……私を……見て……」
無小姐の声は風暴に千切られそうになりながらも、必死に彼を呼び続けていた。彼女は目をつぶっていない。琥珀色の瞳から血の涙を流しながら、彼女は翰文だけを死ぬ気で凝視している。混沌の中にある、唯一の座標。彼女の視線は苦痛を超え、翰文という真実の点にのみ、楔を打ち込んでいた。
「……あなたは……異郷の人……」
「……ここには……属さない……!」
「……この記憶は……あなたを傷つけられない……!」
その叫びが冷たい探針となり、沸騰する意識を貫いて、「翰文」という名の魂の深淵に、座標を再構築した。幻像に亀裂が入る。脳に流れ込んできたのは悲劇的な光景ではなく、故郷の、泣きたくなるほど俗っぽい現実だった。期限切れのクレジットカードの督促状、書きかけのゴミのような論文、そして分割払いが終わっていないのに報復した登山靴。これら卑小で、瑣末で、銅臭い記憶が最強の防火壁となり、異世界の宏大な悲劇を拒絶した。
彼らは彼を捕まえられない。狂った記憶は彼の脳溝で滑り、剥がれ落ちていく。
なぜなら、彼はこの奔流における唯一の**「不純物」であり、導電を拒む「絶縁体」**なのだから。
大口で喘ぎながら、彼は魂の深淵から唯一彼だけのラベル(標籤)を吐き出した(嘔出):
「……李翰文だ。」
翰文は目を見開き、大きく呼吸した。脳内の劇痛は続いているが、眼前の幻覚は霧散していった。燃える都市も凍る海も消え、そこにはただ荒涼とした黒い灰の荒野が戻ってきた。風暴は依然として大地上で猛威を振るい、空気中には極彩色の毒素が渦巻いている。無数の透明で歪んだ人影が、風に流されながら遊離していた。
翰文は、ノートの挿絵にあった言葉を思い出した。これらが「迷失の残響」だ。それらは風に引き伸ばされ、変形しながら、無声の悲鳴を上げている。古代の鎧を纏った兵士と巨大な虫が融合した残響が、虚空を見つめて呟く。
『……帰りたい……』
『……一緒に……帰ろう……』
「失せろ!」
翰文はそこらにあった石――あるいは骨――を投げつけた。石は虚像を容易く通り抜け、残響は突風に引き裂かれて光点へと変わった。
「……耐えろ……」
翰文は片手で無小姐の背を強く引き寄せた。彼女は彼の影に隠れ、土埃にまみれた彼の手肘に額を押し当てている。唯一の掩体に隠れるように。彼女の体温は恐ろしいほど低かった。風律の暴走によるダメージは、彼女の魂を削り取っていた。
「……私は……大丈夫……。この風が……去るまで……」
海嘯の下の二匹の蟻のように、枯葉の下に身を寄せ合い、世界の審判が終わるのを待った。時を刻むのは、もはやただ時間だけだった。発狂しそうなノイズが遠のき、極光が消え、死んだような灰紫色の空が戻ってきた。風が止み、世界に死寂が訪れる。ただ、地面の黒い結晶粉末が、文字のごとき不気味な模様に並び替えられていた。
翰文は硬直した身体を解き、関節が悲鳴を上げるのを無視して動き出した。全身の痛みは、筋肉が過度に緊張した結果だ。灰塵を払い、弾痕から顔を出す。
「……終わったのか?」
声は砂を飲み込んだように枯れていた。
無小姐も力なく起き上がった。満身創痍でありながら、その瞳にはなお強い光が宿っている。彼女がある方向を指差した。
「……見て……」
塵の晴れた地平線の先に、巨大な輪郭が現れていた。それは常識にある「都市」ではない。無数の廃墟、残骸、折れた塔、そして巨大な獣の骨が積み上げられた「山」。それは巨大な腫瘍のように、灰律荒原に突如として現れていた。無数の吊り橋とパイプがそれらを繋ぎ、頂上には病変した心臓のように脈動する緑色の火が燃えている。
翰文はノートを開き、ドクロのマークを確かめた。註解にはこう書かれている:【活人城】。
彼は悪意と狂気に満ちたその光景を見上げ、引き攣った笑みを浮かべた。
「生者、か」
風に乗って、焼ける肉、劣悪なアルコール、そして欲望の腐敗した臭いが漂ってくる。街の外縁からは、巨大な骨の風鈴が惨鳴を上げるような金属音が響いていた。
「死人よりも、生者らしくない場所だな」
翰文は女を支えて立ち上がった。
「行こう。たとえあそこが 閻羅殿 だったとしても、少なくとも 一口の熱いスープ くらいはあるはずだ」
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