第22話 : 血と、機械油(オイル)と、焦げ付いた設計図(ブループリント)
『世界で最も悲しいことは、家が崩れることではない。崩れ落ちた家を前にして、脳裏には「どの柱がどこにあったか」が鮮明に焼き付いていることだ。その記憶は懐かしさではない。ただの残酷な拷問だ』
——『|灰の塔建築士の狂気の手記《グレイ・スパイア・アーキテクト・マッド・ノート》・最終頁』
通気ダクトの中を吹き抜ける風は強烈で、生鉄の臭いを孕み、無数の鈍ら刀となって顔面を削り取っていく。
李翰文は、自分の腕が肉ではなく、錆びついた二本のレバーになったように感じていた。這い上がるたび、肩関節がギシギシと乾燥した摩擦音を上げる。
「金色の神血」によって修復されたばかりの手は、痛みこそないものの、新生児のように皮膚が薄く過敏だ。粗いメンテナンス梯子を握るたび、掌が火傷したようにヒリついた。
「……あと……どれくらいだ……」
風音に負けないよう怒鳴るが、声は瞬時に千切れて飛んでいく。
「……光が……」
上を行く無が短く答えた。彼女は速い。風が彼女の背中を見えない手で押し上げているかのようだ。重力と泥仕合を演じている霊長類としては、その種族特権が妬ましくて仕方がない。
翰文が次の横桟を掴もうと手を伸ばした、その時だった。
彼の手のひらが、装甲板が剥離して露出していた「黒い結晶体」に触れてしまった。
それは、この塔の神経束だった。
鼓膜を破るような轟音と共に、翰文の脳天は、見えない大槌で背後から殴打されたような衝撃を受けた。
今回は焦げ臭さでも、ホルマリンの臭いでもない。
濃厚で、乾燥したインクの臭いと、羊皮紙がカビたような古臭い息吹。
視界が破砕した。通気ダクトの闇が消え失せる。
代わって現れたのは、無数の発光するライン。それらが狂った速度で成長し、交差し、編み上げられていく。
それは設計図。この塔の、真の姿。
彼はこの塔の骨格を「視た」――眼球ではなく、脳髄で直接。
エネルギーが壁の中をどう流れるか。どのパイプが排気用で、どれが「律」の輸送管か。巨大なギアに刻まれた塔の「本名」さえ視えたが、その名前は焼き消され、黒い焦げ跡しか残っていない。
「ぐ、あ、あああああっ!」
翰文は苦悶の咆哮を上げ、梯子から片手を離し、頭を抱えて宙吊りになった。鼻血が決壊したダムのように噴き出し、下の闇へと滴り落ちる。
痛い。痛すぎる。
脳を無数の針で刺され、カミソリで切り刻まれているようだ。呼吸するたびに、その切断面が広がる。
これは記憶のインストールなどという生易しいものではない。巨大な図書館を丸ごと一つ、マッチ箱の中に無理やりねじ込まれているような暴力的な圧迫感。大脳皮質が情報の過負荷で物理的に発熱している。顔の筋肉は痙攣し、眉間には深い皺が刻まれた。
「……翰文!」
頭上で無が悲鳴のような声を上げるが、聞こえない。彼はまだ、その壮大で戦慄すべき「全知の視点」に囚われていた。
脳内の「残り火」が狂ったように脈動している。
今回は明確に感じ取れた。それは乾燥した、層を成して剥がれ落ちる感覚。
脳の奥底から聞こえる、サワサワという微細な音。まるで何層にも重なった焦げた死皮が剥落し、舞い上がるような音。
剥がれ落ちる欠片の一枚一枚が建築図面であり、一枚一枚が忘却された歴史だった。
直後、ある巨大な「意志」が降臨し、彼の視点を強制的に高度一万メートルへと引き上げた。
最初に視えたのは、形状だった。
これは塔ではない。
残り火の視界において、天地を貫くこの黒い巨構は、細く、鋭利な一本の「針」だった。
雲を刺し貫き、地殻の深部へと深く縫い込まれている。
次に理解したのは、この針の目的。
縫合だ。
この針は、大地に刻まれた古く、未だ血を流し続ける傷口を縫い合わせるために存在している。無数の律法エネルギーが糸となって針穴を通り、砕け散ろうとする世界を強引に繋ぎ止めている。
最後に感じたのは、崩壊への悲嘆。
鋭いノイズと共に、完璧だった設計図に触目驚心の赤点が浮かび上がる。
針に亀裂が入っている。第304ノード断裂。第7セクター、エネルギー漏洩。
閉じたはずの傷口が再び引き裂かれ、膿のような灰律が浸潤している。
その悲しみはあまりに重く、翰文は呼吸することさえ忘れた。
自分自身がちっぽけな幽霊となり、傾きかけた巨塔の前に跪き、古代の建築家が流した絶望の涙を感じているようだった。
『直さなければ……直さなければ、縫い糸が切れる……』
『修復を……必須……』
「……翰文!」
無の叫び声が一本のロープとなり、彼を悲しみの海から強引に引きずり戻した。
翰文は溺れた人のように大きく息を吸い込んだ。肺が再拡張する刺痛で、ようやく現実感が戻ってくる。舌先を噛み切り、その激痛で「塔と共に泣きたい」という衝動を追い払い、幻覚から自身を引き剥がした。
激しく喘ぐ。視界には火花が散っている。
「透視」の幻覚は徐々に退き、光のラインは冷たく錆びついた金属壁へと戻っていく。
だが、彼は覚えた。
今の一瞬で、この塔の構造を記憶した。サンドボックスゲームを数千時間やり込んだ廃人のように、目を閉じても迷宮の地図を描けるほどに。
「……あなた……どうしたの?」
無が滑り降りてきて、彼の肩を掴み、落下を防いだ。彼女は血まみれになった翰文の顔を、恐怖に満ちた目で見つめている。
翰文は顔を拭い、血を袖になすりつけた。声は砂利を噛んだように低く、いつもの軽口は消え、不穏な重さが宿っていた。
「ただ……脳内の入居者が、悲劇映画を見せてきただけさ。ちょっと……感動しすぎちまった」
彼は頭上を見上げた。
未知だった闇が、今は手に取るように分かる。上に何があるのかを「知っている」。
あと二十メートル登れば、左側にメンテナンス用ゲートがある。そのゲートは外部の冷却プラットフォームに繋がっている。
開け方も知っている。物理的なレバーではない。壁に隠された圧力センサーだ。
これは推測ではない。知識だ。あの忌々しい残り火――頭蓋の中で燃える混濁した残渣――が施してくれた知識だ。
「無さん」翰文の声は異常なほど冷静で、自分でも他人の声のように感じられた。「二十メートル登ってくれ。左の壁に、色の違う鉄板がある。そこが出口だ」
「……どうして分かるの?」
「さっき、設計図を見たからな」翰文は自分の頭を指差し、蒼白な笑みを浮かべた。「代償は少し高くついたが、俺は今、世界で一番この『針』に詳しい人間だ」
彼らは登り続けた。二十メートル。
果たして、そこには錆びついた鉄板があった。注意深く見なければ、周囲の壁との区別などつかないだろう。
だが翰文は迷わず手を伸ばし、鉄板の左下、三寸の位置を正確に押し込んだ。
カチリ、と硬質なラッチ音が響く。
溶接されたように見えた鉄板が内側へと緩やかに窪み、スライドして人が一人通れるほどの開口部が現れた。
刺すような光が射し込んできた。
青い光でも、人工灯でもない。陽光だ。分厚い雲に濾過され、病的なまでに白っぽいが、紛れもない自然光。
「……夜が……明けた……」
黒髪の女は目を細め、泣き出しそうな顔をした。
翰文が先に這い出した。そこは空中に突き出した、金網状のキャットウォークだった。
風が強い。砂礫が混じり、頬を痛く叩く。
彼は顔を上げ、眼前に広がる世界を見た。
これが、彼が初めて直視する異世界の全貌。
青山も緑水もない。ファンタジー小説に出てくる魔法の森もない。
そこにあったのは、果てしなく続く灰燼荒原だった。
大地は焼き尽くされたような黒褐色を呈し、巨大な岩石が墓標のように聳え立っている。
遠くの空気は蜃気楼のように揺らめいているが、それは熱ではなく、高濃度の放射線――あるいは「乱律」――の流れだ。
そして荒野の果て、空は砕け散ったような紫紅色に染まり、巨大な内出血のように世界を覆っていた。
「……ようこそ、地表へ」
翰文は手すりを掴み、膝の力が抜けるのを感じた。目の前の光景は、地底よりもなお絶望的だった。
その時、脳内の残り火がまた動いた。痛みはない。ただ、吐息のような淡い哀傷だけがあった。
こいつもこの場所を知っているようだ。あるいは、この廃墟の「かつての姿」を知っているのか。
微弱なノイズと共に、一つの念が浮かび上がる。それは深い悔恨だった。
『……花園が……消えた』
翰文は拳を握りしめた。
脳内のこの混濁した意識体は何者なのか。痛覚があり、感情があり、記憶さえある。まるで生きた幽霊のように彼の大脳に寄生し、彼の目を借りて、この死に絶えた世界を弔っている。
「……私たち……どこへ行けばいいの?」
女が隣に立ち、茫然と荒野を見つめていた。彼女は風界の住人であり、雲海と浮遊島に慣れ親しんでいる。こうして地に足をつける(たとえそれが汚染された廃土であっても)という感覚自体が、彼女には恐怖なのだ。
翰文は深呼吸をした。塵と放射能の味がする空気が肺を満たす。
「あそこだ」
翰文は目を細め、灰色の塵の幕を透かして、地平線の彼方を指差した。
そこには、ある巨大な――巨獣の骨格を思わせる黒い影が、孤独に荒野に臥していた。
「あの黒槍のオッサンが言ってた前哨基地はもう駄目だ。戻る場所はない」
彼の脳裏に焼き付いた焦げた設計図には、その方角に微弱な光点が示されていた。まだ稼働しているノードか、あるいは完全に破壊されていない施設か。
「見ろよ。デカブツがいる」翰文は乾いた唇を舐めた。「運が悪けりゃ怪獣だが……運が良ければ、息抜きできる鉄屑の山かもしれない」
「行こうぜ。あの骨格の中に、食い残しの晩飯がないか探しに行くんだ」
彼は歩き出した。靴を失った左足が焼けた金網を踏みしめ、焼けるような現実の痛み(リアル)を伝えてくる。
背後には天を衝く黒い塔。それはまるで、砕けた空を指差す巨大な指のようだった。
そして彼らは、その指の隙間から零れ落ちた二粒の砂として、よろめきながら荒涼たる塵世へと転がり込んでいった。
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