第21話 : 眠れる鉄の神と、オイル香る聖堂
『律造守衛をただの機械だと思うな。機械は壊れれば停止するが、彼らは壊れると夢を見る。高周波ブレードを手にした鉄人形が、一体どんな悪夢を見ているのか――知りたくはないだろう?』
——『|灰の塔メンテナンス技師の心理評価レポート《グレイ・スパイア・メンテナンス・レポート》』
扉の向こうの空気は、過剰なほど清潔だった。
塵一つなく、カビの臭いもない。漂っているのは、薄荷を思わせる冷涼な金属の香りだけだ。
李翰文は、無に引きずられるようにして中へ入った。
彼の両手は惨憺たる有様だった。下水道で辛うじて形成された痂皮は、先ほどの狂気じみた「人体架橋」によって完全に炭化し、剥がれ落ちていた。痛みは神経の許容量を超え、今は吐き気を催すほどの麻痺と腫脹感だけがある。両腕は自分の肉体ではなく、肩にぶら下がった二本の枯れ木のようだ。
「……ここは……安全……」
女の声が空虚な部屋に反響する。彼女は翰文を壁際に座らせると、警戒心も露わに周囲を見渡した。
そこは円形の、まるで神聖な祭壇のような空間だった。
壁面は柔らかな白光を放ち、一点の曇りもない。部屋の中央には、巨大な銀色のプラットフォームが重力に逆らって浮遊している。
そしてその台座の上に、「人」が横たわっていた。
翰文は重たい瞼を持ち上げ、それを一瞥し――呼吸を忘れた。
それは断じて人間ではない。芸術品だった。
人型の輪郭を持ち、身長は約三メートル。全身は流線型の銀白の装甲に覆われ、すべてのプレートが一分の隙もなく噛み合っている。それは固体というより、液状金属の皮膚のようだ。
彼は静かにそこに横たわり、胸部装甲を展開させ、頭皮が痺れるほど精密な内部の歯車と発光するパイプを曝け出していた。
外を徘徊する錆びついた機械蜘蛛や、深青色の重装甲を纏った夜警とは違う。
この存在はあまりに完璧だった。眠れる神像のごとく、完璧すぎた。
脳内の「残り火」が、ジジッという微かな音と共に反応した。
今回は激痛ではない。同類を見つけた時の奇妙な静けさと、舌先に広がる冷たく高貴な銀食器の味。
唐突に、ここには存在しないはずの記憶の断片が視界をよぎる――この鋼鉄の躯がかつて生きた歳月。
黄金の殿堂。銀白の甲冑に反射する暁の光。
彼は皇室の番犬であり、最も優雅な屠殺人だった。
その細長い指が宴席で琴の弦を弾いたかと思えば……次の瞬間、同じ指が刺客の頭蓋骨を、熟しすぎた葡萄のように軽く握り潰す。
「……これは……古代の……王……?」
無はその銀白の巨人を見上げ、膝から崩れ落ちそうになっていた。跪拝したいという衝動。
その恐怖は遺伝子に刻まれたものであり、彼女の失われた記憶の深淵から来るものだ。彼女はこれを見たことがある。まだ幼く、名前を持っていた頃、似たような銀の巨人が祭壇に立ち、温度のない瞳で冷徹に採点していた。誰が残る資格を持ち、誰が排除されるべきかを。
あれは、審判者だ。
「いいや。あれは騎士だ。風暴騎士」
翰文は虚弱な声で訂正した。「残り火」がそう告げている。
彼の視線は、巨人の開かれた胸郭に釘付けになっていた。
そこには数本の透明なチューブが接続され、金色の液体が緩やかに注入されている。その液体は発光し、粘度が高く、純粋で、あの心地よい薄荷の香りを放っていた。
脳内の残り火が、ゴクリと喉を鳴らすような飢渇音を立てた。同時に、強烈で本能的な渇望を翰文に送信してくる。
『飲め』
『あれは「律」の精髄だ。機械の血液であり、神々の蜜酒だ』
『あれなら、お前の壊れた両手を修理できる。魂の回路さえも修復できるかもしれない』
「……無さん」翰文は肘で壁を小突いた。「……あの金色の水……少し分けてもらえないか……」
女は呆気にとられ、巨人の胸のチューブを見た。
「……あれは……彼のための……取ったら……彼が……起きない?」
「あいつはメンテナンス中だ」翰文は賭けに出た。「それに、俺たちに選択肢はない。俺の手はもう限界だ。あの特効薬を使わなきゃ、俺は本当にただの廃棄物になっちまう」
無は唇を噛み、翰文の焦げた両手を見た。
彼女は頷き、深呼吸し、忍び足で浮遊プラットフォームへと近づいた。足音一つ立てない。彼女自身が一陣の微風になったかのように。
彼女は台座に上り、巨人の傍らに立った。
至近距離で見ると、その銀白の仮面はいっそう威圧的だ。彼は目を閉じている(その二本の細いスリットを目と呼ぶならば)。その表情は、美しい夢を見ているかのように穏やかだった。
彼女は手を伸ばし、慎重に、輸液チューブの一本を引き抜いた。
プシュッという微かな排気音と共に、金色の雫が滴り落ちる。
彼女は慌てて周囲を見回し、台座の隅に転がっていた湾曲した金属シェル――交換されて廃棄されたパーツだろう――を拾い上げ、滴を受け止めた。
一滴、二滴……カップ半分ほど溜まっただろうか。
その時。
静寂を破る、低く重い駆動音が響いた。
巨人の指が、ピクリと動いたのだ。
無は恐怖で硬直し、呼吸さえ忘れた。
翰文は目を見開き、心臓が喉から飛び出しそうになるのを感じた。
巨人は起き上がらなかった。
だが、その胸郭内部の精密な歯車が回転を始め、微細なクリック音を奏でた。
機械的で、抑揚のない声が部屋に響く。口から発せられたものではない。共鳴腔を通じて空気を直接振動させている音だ。
「……検出……メンテナンス中断……」
「……律液……流失……」
「……疼痛……レベル……上昇……」
彼は痛みを訴えていた。
最も平坦な口調で、最も人間的な言葉を紡いでいる。
無の手が震え、金属シェルを取り落としそうになる。逃げ出したい衝動。
「走るな!」翰文が叫んだ。「動くな! あいつには見えてない! まだ夢の中にいるんだ!」
彼の直感が告げていた。こいつはまだ完全には覚醒していない。今動いて防衛本能を刺激すれば、二人とも壁の染みになる。
女はその場で凍りついたように静止した。
声は続く。僅かな困惑を滲ませて。
「……夢境……思考回路錯乱……」
「……私は見た……名前のない風を……」
「……そして……律法を持たぬ……灰を……」
首がゆっくりと回転した。銀白の仮面が黒髪の女を捉え、次いで壁際の翰文へと向く。
閉じていた二本の眼のスリットが、わずかに開いた。
そこから漏れ出したのは赤光でも青光でもない。黄金の光。
神聖で、威厳があり、そして絶対的に致命的な金色の光輝。
翰文は高出力のX線を浴びせられたように感じた。脳内の残り火が急に沈黙した。死んだふりをしているかのように。
「……お前か?」巨人が翰文に問う。「……お前も……壊れてしまったのか?」
翰文は呆然とした。
こいつは俺も機械だと思っているのか? 俺が「律」を持たないから? それとも、俺が損壊しているから?
彼は何かに憑かれたように口を開いた。
「……ああ。酷い壊れ方さ。ヒューズは飛んでるし、パーツもバラバラだ」
言い終えて、不意に可笑しさがこみ上げた。
この世界に来た初日なら、こんな状況では発狂していただろう。だが今、彼は三百年前の殺戮機械と世間話をしている。
俺はもう恐怖を感じない。麻痺しているんだ。
心の中で自嘲する。これが「残り火」がくれた唯一の慈悲か。俺の恐怖神経を焼き切ってくれたおかげだ。
巨人は数秒沈黙した。眼光が明滅し、その回答を処理しているようだ。
やがて、彼はため息のような排気音を漏らした。
「……哀れな……同類よ……」
「……持って行け……」
胸に繋がれていた他のチューブが自動的に外れた。大量の金色の液体が溢れ出し、プラットフォームの上に小さな水たまりを作る。
「……自分を直せ……そして……立ち去れ……」
「……私の悪夢を……起こさないでくれ……」
それだけ言い残し、眼のスリットは再び閉じた。
胸郭の歯車が回転を止める。彼は再び、冷たく完璧な死体へと戻った。
翰文はその場にへたり込み、冷や汗で全身を濡らした。「……み、見逃してくれたのか……?」
追殺されるよりも恐ろしかった。
この高度な知性、人間に近い憐憫。それは殺戮しか知らない獣よりも遥かに不気味で、おぞましい。
黒髪の女が、金色の液体を満たした金属シェルを捧げ持ち、震える手で戻ってきた。「……彼は……生きている……」
「たぶんな」翰文はその輝く液体を見つめた。「この狂った塔の中じゃ、機械の方が人間よりも人間らしいのかもしれない」
彼は焦げ付いた手を、液体の中へと沈めた。
ジジジジッ――!
鼓膜を裂くような音と共に、激痛が津波となって襲いかかった。
骨を削る痛み、次いで猛烈な痒み。細胞が狂った速度で再生している感覚だ。
接触の瞬間、脳裏にイメージが焼き付けられた。
燃え盛る空。空から降下する無数の銀白の騎士たち。
彼が見ている夢――剣を振り上げた時、鏡のように磨かれた装甲に映っていたのは、敵ではなく、涙を流す自分の仮面だった。
なぜ油が漏れるのか彼には分からない。だが、彼は痛みを感じていた。
手にした剣は鮮血にまみれ、仮面の下では機油の涙が流れている。
これが彼の悪夢か。虐殺者の懺悔。
肉眼で見える速度で、炭化した死皮が剥がれ落ち、新生したピンク色の肉芽が、肥え太った蛆虫のように蠢きながら傷を埋めていく。
「き……効くぞ」翰文は歯を食い縛り、この「治療」という名の拷問に耐えた。「過程は最悪にグロテスクだが、少なくとも……手は繋がった」
彼らはその眠れる「神像」の傍らで、長い時間を過ごした。翰文の手に皮膚が再生し、茹でた海老のように赤く腫れてはいるが、指が動くようになるまで。
「行こう」
翰文は立ち上がり、銀白の巨人に向かって深々と頭を下げた。これまでの人生で、最も誠実な一礼だった。
「オイルをありがとう、兄弟。いい夢を」
彼らは部屋を横切り、反対側の扉を押し開けた。
そこには上へと続く通気ダクトがあった。頭上から吹き下ろす風には、地表の冷気が混じっていた。
出口は、もうすぐだ。
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